はい。さぶろうはみちびかれております。手を引かれております。自力でここへ到達することはできないことでありました。
分け入っても分け入っても青い山 山頭火
自分の足で分け入ってきたように見えますが、この青い山を見ていますと、ここへわたしを導いてこられた方のお慈悲が思われてならなくなります。朴(ほお)の白い花がいっしんに咲いて深い深い山の青。
はい。さぶろうはみちびかれております。手を引かれております。自力でここへ到達することはできないことでありました。
分け入っても分け入っても青い山 山頭火
自分の足で分け入ってきたように見えますが、この青い山を見ていますと、ここへわたしを導いてこられた方のお慈悲が思われてならなくなります。朴(ほお)の白い花がいっしんに咲いて深い深い山の青。
いきなり叩き付けるような雨。屋根に飛沫が飛び上がって空が一瞬白くなる。斜め斜めに暴風雨するので、ベランダに置いている自転車もずぶ濡れになった。濡れ縁に置いたミヤコワスレの丸鉢すらにも降りかかる。そしてまもなく正午だ。朝ご飯を抜いたので空腹が来ている。
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世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国 浄土真宗「廻向偈」より
せそんがいっしん きみょうじんじっぽう むげこうにょらい がんしょうあんらくこく
世尊(釈迦牟尼仏)よ、我は一心に尽十方の無礙光如来(阿弥陀仏)に帰命するがゆえに願ってこの安楽国に生まれたり (さぶろうの自己流解釈)
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経典の中とは言え、こうしてお釈迦様に会えるというよろこび、お釈迦様の説法をこの身に受けるというよろこび。説法で説かれた阿弥陀仏を知るよろこび。全宇宙が阿弥陀仏の光で輝き渡っている事実に遭遇させられたよろこび。阿弥陀仏が放たれる無礙光をただちに身に浴びるよろこび。このよろこびのあふれる国は、まさしく安楽国である。すでに阿弥陀仏の安楽国である。帰命したということが願成就だったのだ。
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経典の中というのは? さぶろうはそれを今日は考えている。生きているのか死んでいるのかを考える。経典の中の仏陀世尊は、はたしてもはやミイラだろうか? もはや非実在であろうか? 経典を通してさぶろうに働きかけてこられたのだから、このはたらきは紛うことなく実在である。法華経では是を永遠の仏陀、永遠に働きかけている仏陀として説明してある。
さぶろうは、全宇宙に放っておられる阿弥陀仏の無礙光(何ものにも遮られることのない光明、智慧の光明、大慈悲の光明)というものを眼の裏にイメージしてみるのである。そしてそれを間近に見たような気持ちになってよろこびに浸るのである。
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怠け者のさぶろうの怠惰な一日だが、そこへこうやって無礙の光明が届いて来るのだ。怠け者をも否定せず、怠惰をも押し包んで溢れてくるのが無礙光なのだ。
降った降った。よく降った。一晩中降った。雨音がすごかった。空にはもう雨の川は流れなくなっているのではないかとすら思えて来る。けろりとしたもので、夜が明けたらその雨癇癪は止んで、いつものように夏蝉の鳴き声がこだましている。葡萄の房のようにたわわな房なりミニトマトの実には雫が一様に垂れてきらきら光っている。
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さぶろうはこのところずっと畑には下りて行かない。なぜだか分からないが興ざめをしている。草取りもしない。だから、庭も小径も見るからに草茫々だ。雨が続いていたせいもあるかもしれない。仕事はいっぱいあるはずだ。まずは施肥をしてあげねばならない。里芋の大きな葉が風に戦いで、ものを言っている風に見える。「さぶろう、どうしたんだい?」って。超のつくほどの怠け癖があるさぶろうであるから、実は元の姿に戻っただけなんだけど。
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今日は7月22日、夏の川の深みにある。さぶろうはことさら何をするでもない。これでいいはずはないのだけれど、何もしていない。しようという気が起こらない。しなきゃいけないことは、ずるずるずるずる先延ばしされていくばかりだ。老いて後先の短い者にはなおさらに、夜半に嵐の吹かぬものかは、なのに。