桃が大好物です。で、生産地道の駅で傷物を安く一箱買って来て、缶に詰めない桃の缶詰ふうを作ってもらいました。皮を剥いて砂糖と蜂蜜を加えて煮て、これを冷凍庫保存したものです。安い桃でもいいようです。三時のおやつにいただきました。つめたくて甘くてとろりとしていました。缶詰の桃よりも上品に出来上がっていました。
年中おいしく食べられるメロン、西瓜、葡萄、無花果などをこうやって我が家で長期保存ができないでしょうかね。乾燥果実などが出回っていますね。あれも一方法ですよね。
桃が大好物です。で、生産地道の駅で傷物を安く一箱買って来て、缶に詰めない桃の缶詰ふうを作ってもらいました。皮を剥いて砂糖と蜂蜜を加えて煮て、これを冷凍庫保存したものです。安い桃でもいいようです。三時のおやつにいただきました。つめたくて甘くてとろりとしていました。缶詰の桃よりも上品に出来上がっていました。
年中おいしく食べられるメロン、西瓜、葡萄、無花果などをこうやって我が家で長期保存ができないでしょうかね。乾燥果実などが出回っていますね。あれも一方法ですよね。
おっとうよと南瓜の花に告げてみる 釈 応帰
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齢七十にしてわがおっとうは身罷りました。さぶろうはいまその七十です。南瓜の大輪の花が今朝開きました。おっとうが死んで行ったその年の夏にも咲いていました。南瓜は甦りをします。復活をします。再生をします。いのちを次へ次へ伝えることで大生命を生き続けています。南瓜の花におっとうよと耳打ちしたらおっとうの懐かしい顔が浮かんできました。この頃しきりに父が懐かしいのです。小さい頃はこの南瓜が食卓によく上りました。贅沢ができなかった頃です。
仏教はどうしてこうも死後世界のことを説いているのでしょう。わたしたちはいのちの旅をしていること、よい方向へよい方向へ向かっていること、死のうと死ぬまいとこの道が一本道であること、ずっと前方には目標地点があること、ここへ至るとそこでどんな暮らしをすることになるのか、こういったスケジュールを明示してあるわけです。安心して今日を生きていいことが述べられています。何処へ向かっているのかを知っていれば、今日の行程スケジュールにも安心ができますよね。目標地点が明らかになれば、今日の歩みが着実になれます。だから、仏教は今日を安心するための教えでもあるわけです。ホテルが決まっていればあとは、歩いて歩いてそこに着いて、そこに靴を脱げばいいのですから。
光闡横超大誓願 こうせん おうちょう だいせいがん
(天親菩薩は)横超の大誓願を光闡す
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大誓願は阿弥陀仏の誓願。本願力。衆生の苦しみを解いて阿弥陀仏の浄土に迎え取らんとする約束。
光闡は光の明るさで以て明らかにすること。はっきりさせること。説き示すこと。
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天親菩薩は、阿弥陀仏の誓願が横超、つまり絶対他力であることを光の明るさで以てはっきりさせてくださいました。阿弥陀仏が大誓願が建てられているので、五悪趣の世界などは横さまにすらすらと超えて行って阿弥陀仏の浄土に辿り着くということです。
五悪趣とは悪道の五つの界。地獄界、餓鬼界、畜生界、人間界、天界。善悪の業因によって趣くところ。
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蓮華蔵世界(阿弥陀仏の浄土)に行く着く方法に4つの方法があります。
1,ゆっくり豎出(しゅしゅつ)する法 五悪趣を縦向きに上り詰めて出て行く。
2,たちまち豎超(しゅちょう)する法 五悪趣を縦向きに飛行して超えて行く。
3,ややゆっくり横出(おうしゅつ)する法 五悪趣を横向きに飛行して出て行く。
4,マジックのようにして横超(おうちょう)する法 五悪趣を横向きに楽々と超えて行く。
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豎(しゅ)は階段を上がっていくように一歩一歩縦向きに踏みしめながらということですから、とても地道です。誠実です。自力聖道門の聖なる修行者のやり方です。でも相当の修行者でないとつとまりません。超はあっという間にひとっ飛びすることです。横(おう)はこちらの意や判断によることなくということです。他力です。仏のマジック力です。神通力です。こちらの力は無力でもかまいません。他力浄土門は信頼の道です。
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阿弥陀仏の大誓願は横超の大誓願です。自力は無力でいいわけです。阿弥陀仏の名号と誓願を信じていればいいわけです。だから、どうしようか、どうすればいいのだろうかという心配はいらないということを明らかにしてくださったということです。
一から十までこちらの努力は棚上げになっています。護られて導かれて手を引かれて横超するだけで、五悪趣を超えて蓮華蔵世界に至り着くのです。自力も心配も手放しでいいわけです。
ふたたびみたびわが死後の「真如法性身」について検証してみます。これが約束されていますから。
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仏典には「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」とありました。仏典が誓ってくれているわけです。
蓮華蔵世界に至れば、即ち真如の法性身を証するを得たり
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阿弥陀如来のお浄土、蓮の花咲く極楽浄土(蓮華蔵世界)に至り着きますとたちまちにしてわたしは仏さま方の真如界で仏さま方がそうなさいますように法性(ほっしょう)の仏身となっておりました。
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法性身とは、物質的肉体を去ったあとの霊性的なからだのことで、仏さまのからだと同じ自由自在身のことです。
行った先のお浄土ではみながこの法性身をしています。これではじめてこころが命じるままの自利利他の活動ができるようになります。ですからわたしはそこでどんどん活動をします。肉体の死の死んだままでなんかいませんよ。ああ、嬉しいですね。待ち遠しいですね。
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娑婆の縁が尽きるまでは、しかし、娑婆世界特有の煩悩とこれに抵抗しながら離陸する上昇飛行の修行が続いていますけどね。
それももう少しです。もう少しの辛抱です。マイナスのイメージの強い辛抱というよりはプラスのイメージのする精進というべきでしょうけど。
日曜の午後はNHK囲碁の時間を見ています。下手なくせに見ています。下手だから誰と勝負しても負けます。負けるとがっかりします。身の程を知らされます。負けばっかりですからもう対戦をしないことにしています。挑戦意欲が起きるためには勉強をしなければ成りませんが、怠け者だからその勉強もしていません。弟はわたしよりうんと強いです。うんとうんと強いので打つ気持ちにもなれません
「蓮華蔵世界に至る」 浄土真宗経典「正信念仏偈」より
広由本願力回向(こうゆほんがんりきえこう) 広く本願力の回向に由りて
為度群生彰一心(いどぐんしょうしょういっしん) 群生を度せんが為に一心を彰(あきら)かにす
帰入功徳大宝海(きにゅうくどくだいほうかい) 功徳の大宝海に帰入して
必獲入大会衆数(ひつぎゃくにゅうだいえしゅうすう) 必ず大会(だいえ)の衆の数に入ることを獲(う)
得至蓮華蔵世界(とくしれんげぞうせかい) 蓮華蔵世界に至ることを得て
即証真如法性身(そくしょうしんにょほっしょうしん) 即ち真如の法性身を証せん
遊煩悩林現神通(ゆうぼんのうりんげんじんづう) 煩悩の林に遊んで神通を現じて
入生死園示応化(にゅうしょうじおんじおうげ) 生死の園に入りては応化を示すと言へり
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ちょっと長いですね。でもここを読んでいるとさぶろうはいい気持ちになります。どの句もすばらしいのです。こんな仏の世界があることを教えて貰うからです。
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阿弥陀如来がわれわれに差し向けられる本願力によって生ける者たち(群生)を救うわめに天親菩薩はただ一心の信心を明らかにされました。
南無阿弥陀仏の名号のいわれを信じて阿弥陀仏の功徳の満ちあふれる大宝海に帰っていけば必ず浄土の菩薩の仲間たちに加えてもらえるでしょう。
この世の命が終わって蓮華の花の咲き匂う極楽浄土(蓮華蔵世界)に生まれたらすぐそこで真理を体現した仏身になります。
仏と成れば人々を救うためにこの世に立ち戻り、煩悩の林に遊んで神通力を発揮し、輪廻の園に入って教化の活動をします。
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こんなふうに説き明かしてくださっています。行く道を示してくださっていますから、安心して阿弥陀仏におまかせをしたらいいのです。
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蓮華蔵世界のことを華蔵界(けぞうかい)ともいいます。薬王華蔵のペンネームをここで拝借しています。畏れ多いことなのですが。薬王は菩薩様の名です。法華経に多く登場されます。ファンです。
それでいい よくなくたってそれでいい 万年過ぎて行く夏嵐 薬王華蔵
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万年を吹き過ぎさせている夏嵐が吹いています。それがそうしているとは誰も気づいてはいないのですが。そうなのです。風はみんな、この世に出来するすべてのものを洗い流していくために吹いて吹いて吹き止まないのです。
真人間と非真人間の双方にあやまちがある これはやさしさ 薬王華蔵
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人に道に外れない正しい生き方をしているのが真人間、まじめな人間、まともな人間。それをまもれず外れてばかりいるのが非真人間。その双方にあやまちがある。誰もがあやまちをおこしてしまうことがあって、神様はやさしいのだと思う。いや、過ちを起こした後に人間にやさしさが浮かんでくるのだ、中空の満月のように。正しいことばかりしていたら、人はそうでない人を責めてしまうだろう。蔑んでしまうだろう。真人間にもあやまちがある。短所がある。欠点がある。落ち度がある。非真人間も異郷にいる真人間に親しみを感じられる。
下駄の緒を挟むわずかな穴のあく足指戯(ざ)れて乳首いざなふ 薬王華蔵
ちょっとエロな歌にしてみました。これも戯れ事です。戯れてみたい時ってありませんか。まじめに過ごしているときに限ってこんな吹っ切れが起こって来ます。しようがありませんねえ。現実には起こりえないことですから、他愛ないのですが。おんなのひとには男性にはない乳首が膨らみの先にあります。ものめずらしいのです。このふくらみは赤ちゃんにふくませるためだけにあるのではありません。それが証拠に赤ちゃんを産んでいないときにだって、りっぱに膨らんでいますから、これはそれ以外の用途に向けられているはずですよね。人間の戯れ事のためです。足の親指と中指の間にあいているわずかな穴もやはり戯れ事ができるためですよね。