<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

現実のわたしを肯定し、現在でその肯定が完了している

2015年09月27日 14時35分01秒 | Weblog

仏陀を思うとそれだけでこころがあたたまります。仏教学者や専門職の僧侶の方がお読みになればわたしの仏教談話はただの主観の押しつけで、感情的で、理論面ではきっと嘘八百だろうと思います。だからこれは「唯仏与我」、仏さまとわたしとのひそひそ話、内緒話に過ぎません。

善哉善哉大薩埵 善哉善哉大安楽 善哉善哉摩訶衍 善哉善哉大智慧 善能演説此法 金剛修多羅加持    真言宗「般若理趣経」より

ぜんざいぜんざい だいさった/ぜんざいぜんざい だいあんらく ぜんざいぜんざい だいちーけい/せんのうえんぜい しほう/きんこう しゅうたーらー かーちー/

よいかなよいかな大薩埵は/よいかなよいかな大安楽は/よいかなよいかな摩訶衍は/よいかなよいかな大智慧は/よくよく此の法は演説されたり/金剛の修多羅は加持されたり

ああいいなあいいなあ大いなる修行者は素晴らしいなあ/ああいいなあいいなあ仏法の悟りの楽しさは素晴らしいなあ/ああいいなあいいなあ此の大いなる理趣経の教えは素晴らしいなあ/ああいいなあいいなあ(理趣経を説かれた)仏陀の大いなる智慧は素晴らしいなあ/金剛のようなこの不変の経典はかくして尊く守られていて素晴らしいなあ/

ここは「ああいいなあ」「いいなあ」「なんとも素晴らしいなあ」の繰り返しです。

この後、「得仏菩薩最勝位」と続きます。すなわち「(理趣経の行者である汝は)仏と菩薩のみが得られる最勝位(最高の境地 エクスタシー)を得ることになる。(ああいいなあ、なんともいいなあ。ああ、なんとも素晴らしいなあ)」と続いています。いいこと尽くめです。こんなふうにこの仏教の経典は、現実を肯定し現在でその肯定のすべてが完了していて、いいこと尽くめの経典です。

これはさぶろうの受け取りです。仏法に遭った者、仏法を聞く者は「これこれこうなるであろう」の読み方ではなく、さぶろうは「これこれこうなって現在で完了している」という読みをしています。その方が間延びしないでいいのです。間延びしていればさぶろうは死んでしまいますから。

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まずは弟に会いに行くことにした

2015年09月27日 14時10分38秒 | Weblog

しばらく弟に会っていなかった。会いに行くことにした。大根を間引きした。弟は間引き菜の一夜漬けが好きである。それから白菜を間引きした。これも味噌汁にしたらおいしいと言うだろう。それで間引きをして洗ってビニール袋に詰め、自転車の前篭にのせて持参することにした。城原川の川土手を一路南下した。市役所千代田支所で右折した。10kmを超えたところで弟の家に到着した。下着は汗でびしょ濡れになっていた。洗面所を借りて上半身裸になり冷水に浸したタオルで汗を拭き上げた。持ってきた替え着に着替えた。弟は二階の自室から下りてきた。電話で「昨日吐いて胃袋が空になっている」と聞いていた。それにしては元気な顔色だった。ほっとした。娘の娘(2才 弟からすると孫娘)が弟のそばに来てなついていた。これから重湯を炊いてもらって、今日の第1回目の食事をするらしい。小半時いて11時50分に辞去した。帰りは新ルートを走ることにした。まず西へ向かって漕いだ。それから北へ北へ向かった。向かい風が吹いていてペダルが重く、漕ぐ足の右脚膝が痛み出した。帰宅したのは13時20分。帰りだけで90分を要していた。往復で23km強を走り続けたことになる。日差しが強くて帰りもやはり汗でTシャツが濡れてしまった。昼食は素麺を茹でてもらった。しばらくは休憩だ。

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仏陀その人を生きておりました

2015年09月27日 09時29分34秒 | Weblog

深入経蔵 智慧如海      禅宗「三帰礼文」より

深く(仏法を納める)経蔵である(わがいのち)に入れば、(まことに此処は)(仏陀の)智慧に(満ち満ちて)(広くて深い)海(を為している)ではないか。おお、わたしはなんという感動の海を生きていることか。

わたしのいのちは仏法の経蔵でありました。此処には仏法の智慧が満ち満ちておりました。わたしはわたしを生きている風に装ってはいましたが、まことのわたしは仏陀の智慧を生きておりました。仏陀その人を生きておりました。唯我独尊の仏陀に等しいいのちを与えられて生きておるのでございました。 

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人生甘えん坊は甘い匂いがしている

2015年09月27日 09時19分10秒 | Weblog

わたしは半ズボン姿。これで早朝外へ出て歩き回った。すると蜜蜂が来てわたしの麻痺の細い細い脛に止まった。ここに傷跡がある。これがやや赤くて小さな花弁の形状をしているのである。笑ってしまった。わたしに甘い花蜜は出ていないよ。僕はこういってちょっと詫びを入れた。いや待て。もしかしたらもしかするぞ。わたしは思い直した。わたしはていたらくの甘ちゃんである。考えていることが非現実的である。多く幼児がよろこぶ作り話を食べている。それで、人生甘えん坊の甘い匂いがしているかも知れない。

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「わたしがわたしがわたしが・・・」を一生涯も通しているわたし

2015年09月27日 09時01分20秒 | Weblog

一生を通して「わたしがわたしがわたしが」でしか生きられないわたしが「わたし」を離れるときが来る。その時が来たらわたしは「わたし」を去って行き、やっとここで全体に合流することになる。合流をしない以前で悟りを開いて則天去私ができる達人もいるが、わずかだ。たいがいはわたしのことで一喜一憂している。思考のほぼ100%がわたしに終始しているし、行動のエネルギーもわたしを満足させるためだけに消費されている。恐がるのもわたしの存亡のそのためであり、嬉しがるのもわたしの栄華のそのためにである。わたしたちはわたし一人では生きていない。全体の調和と秩序に関わり合って生きている。貢献しながら、されながら、助けながら助けられながら。そんなことは分かりきったことなのに、自己優先をゆるがせにすることはない。やがて誰もがそのわたしの自己優先を離れて全体に合流合一する。そこでやっとはじめて「わたし」が実は大きな大きな「わたしたち」であったことを納得する。そして自己放下、自己解放の安堵が限りなく輝き出す。死はその納得の「とき」、輝きの「とき」である。

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秋野菜が頗る元気

2015年09月27日 08時47分14秒 | Weblog

三日留守をしただけなのに。間引き後のプランターの、白菜の図体が倍になって、風に戦(そよ)いでいた。畑の野菜の列の、発育も凄まじい。元気だ。虫に食べられて穴あきになっているものもあるが、負けていない。今日もまた秋を広げている大空がいい。渡ってくる風がいい。日が射して金木犀が影を造っている。日差しの表では百千の金色の花々の香気。僕はこれから外に出ていつもの土いじりをしよう。児戯に等しい土いじりをして一日の大部分を暮らそう。寡黙にして土と会話し、ときおり休息の空を仰いで。今日は地域の小学校の運動会だと聞いた。

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鶴竜は横綱相撲を取らなかった

2015年09月27日 08時36分05秒 | Weblog

鶴竜は横綱相撲を取らなかった。一瞬右へ変わった。相手は踊った。そこを突いて勝ちを拾った。優勝をしたいがための一心だったと弁解をした。横綱しかできないが堂々の横綱相撲を一方的に下りてしまった。これで難敵、苦手の稀勢の里戦を制した。2敗でトップに躍り出たが、称賛の拍手は少なかった。今日千秋楽で右脚怪我の照の富士と対戦する。相手は傷を負っている。もう変わり身の横綱と言われずにすむだろう。初優勝が目の前にある。

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白い桔梗の厳かな開花 今年2度目の

2015年09月27日 08時26分43秒 | Weblog

庭先に白い桔梗が花咲いた。今年2度目である。一度目は1mを超えて花の後に実をつけた。株元からばっさり切っておいたら、やがて新しく発芽して茎を伸ばしてきた。草丈は伸びないで20~30cm止まりながら、二回目の花を着けた。草花のいのちの力に敬服する。清楚な白が健気で、なんだかこちらを厳かにもしてくれる。摘んできて彼岸後の仏壇に供えた。

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快楽を出発した者は快楽に帰結して終わるであろう

2015年09月27日 07時26分28秒 | Weblog

わたしたちはわたしたちの父になる男性と母になる女性との交合の快楽から造られましたから、ここが物理的な出発点です。女性の快楽が男性の其れを超えた場合には男の子になり、男性の快楽が女性の其れを超えた場合には女の子が誕生する仕組みであれば、わたしは前者に当たります。ふたりはともかく渾身の力を込めていのちの創造の愉悦のときにいっときひたらねばことは成就して行かないのです。出発地点がそうでしたから、到達地点もきっとそうであるに違いない、これがさぶろうの抱いた結論です。父と母の悦楽の合一がわたしに引き継がれましたので、これが雲散霧消して空中に分離していくときには父と母との二人分に相当するほどの高い悦楽が発生するに違いない。それはこれまでに味わったことがないほどの凄まじいエネルギーですから、わたしの昇天は大空狭しと輝き渡るであろう。これがさぶろうの他愛ない想像の、帰するところのようです。これは城崎温泉のお風呂場での光景に端を発しました。若い父親が2才にならぬほどの男の子を胸に抱いて湯につかっていた光景がわたしを遠心分離機にでもかけたかのように回しに回したのです。わたしの父と赤ん坊のわたしへ、それからそのもっと先へ、わたしの誕生まで戻してしまったのです。

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刹那を美しくして

2015年09月27日 07時07分45秒 | Weblog

おはようございます。わたしはあのご婦人のことを思っています。だらしのないことでございます。髪は一つ結び。そう長く垂らしてあるわけではなく、短く清楚にしてありました。半袖の腕の白い肌。服の色は濃いめの橙色。わたしが見たのはやや離れた斜め後ろからで、しかもただ一瞬。それだけでございます。あとはみなわたしのたわわな雲のような想像をふくらませて美しい気品のご婦人に仕立て上げているばかりです。お顔を見ているわけではありません。どんなにお美しかったであろうかと思って勝手にその方の全身に気品をただよわせて捏ね上げた泥土製の彫刻でしかありません、そのご婦人は。もうすぐに、午後になる前にはこなごなに壊してしまいます。刹那を美しくして気品を立ち上げさせる、それだけで一切合切が終了をいたします。がちゃ~ん。乾いた高い音が空まで昇っていくに違いありません。

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