仏陀を思うとそれだけでこころがあたたまります。仏教学者や専門職の僧侶の方がお読みになればわたしの仏教談話はただの主観の押しつけで、感情的で、理論面ではきっと嘘八百だろうと思います。だからこれは「唯仏与我」、仏さまとわたしとのひそひそ話、内緒話に過ぎません。
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善哉善哉大薩埵 善哉善哉大安楽 善哉善哉摩訶衍 善哉善哉大智慧 善能演説此法 金剛修多羅加持 真言宗「般若理趣経」より
ぜんざいぜんざい だいさった/ぜんざいぜんざい だいあんらく ぜんざいぜんざい だいちーけい/せんのうえんぜい しほう/きんこう しゅうたーらー かーちー/
よいかなよいかな大薩埵は/よいかなよいかな大安楽は/よいかなよいかな摩訶衍は/よいかなよいかな大智慧は/よくよく此の法は演説されたり/金剛の修多羅は加持されたり
ああいいなあいいなあ大いなる修行者は素晴らしいなあ/ああいいなあいいなあ仏法の悟りの楽しさは素晴らしいなあ/ああいいなあいいなあ此の大いなる理趣経の教えは素晴らしいなあ/ああいいなあいいなあ(理趣経を説かれた)仏陀の大いなる智慧は素晴らしいなあ/金剛のようなこの不変の経典はかくして尊く守られていて素晴らしいなあ/
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ここは「ああいいなあ」「いいなあ」「なんとも素晴らしいなあ」の繰り返しです。
この後、「得仏菩薩最勝位」と続きます。すなわち「(理趣経の行者である汝は)仏と菩薩のみが得られる最勝位(最高の境地 エクスタシー)を得ることになる。(ああいいなあ、なんともいいなあ。ああ、なんとも素晴らしいなあ)」と続いています。いいこと尽くめです。こんなふうにこの仏教の経典は、現実を肯定し現在でその肯定のすべてが完了していて、いいこと尽くめの経典です。
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これはさぶろうの受け取りです。仏法に遭った者、仏法を聞く者は「これこれこうなるであろう」の読み方ではなく、さぶろうは「これこれこうなって現在で完了している」という読みをしています。その方が間延びしないでいいのです。間延びしていればさぶろうは死んでしまいますから。