クラシック音楽を聞いている。作業をして外にいる間を除いて、今日は朝起きてからずっと聞いている。YouTubeを付けっぱなしにして。朝食後のデザートよりも甘味が強い。名曲のオンパレードだから、もう骨の髄まで快楽してとろとろになって、さぶろうの全身が液状にとけている。この不細工、老獪のさぶろうが、美しいクラシックのファンだなんてちょっとそぐわない。アンバランスぶりがおかしくなって、音楽という美女の傍にいる醜男の、このエクスタシーぶりがおかしくなって、笑いが噴き出る。
クラシック音楽を聞いている。作業をして外にいる間を除いて、今日は朝起きてからずっと聞いている。YouTubeを付けっぱなしにして。朝食後のデザートよりも甘味が強い。名曲のオンパレードだから、もう骨の髄まで快楽してとろとろになって、さぶろうの全身が液状にとけている。この不細工、老獪のさぶろうが、美しいクラシックのファンだなんてちょっとそぐわない。アンバランスぶりがおかしくなって、音楽という美女の傍にいる醜男の、このエクスタシーぶりがおかしくなって、笑いが噴き出る。
こういう被害者・加害者にはなりたくないものだ。そんな感想が漏れるニュースが流れて来る。いまのところ、そうならないですんでいる。だったら、それをよろこべばいいはずであるだが、それはその対象にはならないで、それとは別種の、直近の悲しみごとに埋没している。そういうことがよくある。被害加害という不幸事を免れているのなら、それを喜びごとの一つに加えてもよさそうではないか。
たとえば最近よく聞かれるドメステイックバイオレンス。家庭内暴力。夫婦間、親子間、ときには曾祖父曾祖母と孫との間でも起こっている。手を挙げて人間をぶつ、叩く、殴る。悲鳴を上げる弱者を追いかけて加害に及ぶ。片方が鬼になれば、そこはたちまち阿鼻叫喚の地獄の様子を呈することとなる。不幸だ。どちらも不幸だ。鬼になるのも、鬼に追いかけられるのも。
身に不幸を背負う。背負っているとそれは重たくのしかかる。では背負っていない不幸はどうか。軽いと感じているか。背負っていない不幸だって多いはずである。不幸は不可算かもしれないが、量的にも圧倒的に多いはずである。しかし、背負っていない不幸をよろこぶことはない。
身に幸福を抱く。抱いている幸福はあたたかくて軽くてふわふわしている。身に抱くことがない幸福はどうか。抱いていなければ感触が得られないので答えが出ないかも知れないが。
誰もが、人間が出会うすべての種類の不幸を我が身一身に受けているのではない。1億分の1くらいかもしれない。1兆分の1くらいかもしれない。でもその1が重く重くのしかかってきて苦しむことになる。悲しむことになる。では1億から1を差し引いた残りは引き受けないですんだことになる。それはよろこべることではないか。誰かが自分の代わりに引き受けた計算になるが、それを悲しむこと苦しむことがあるだろうか。
お昼からは雨になるらしい。晴れているうちにと思ってラジオ体操の後はすぐに外に出た。サイクリングに行こうと。でも、玄関を出たところでストップ。プランターに小松菜が生長して溢れていたからである。さっそく座り込んで間引きをした。平べったい竹篭いっぱいに収獲した。根を落として揃えて洗った。朝の味噌汁菜にしてもらった。外に出るとこうやってあれこれが目に付く。やらねばならないことが手を挙げてこっちですよと差し招くので、そこへ吸い寄せられていくことになる。とうとう7時半まで農作業をするはめになった。朝ご飯が食べられますよの声がかかる。もちろんさっき収穫して来た間引き菜と、里芋と、オクラの味噌汁が出来上がっていた。それから小蕪の一夜漬けがテーブルに提供されていた。鰹節をたっぷりかけた。雨にならないうちに。そうだったそうだった。しばらくしたらペダルを漕ごう。駅まで行ってみよう。往復10kmにはなるだろう。