腕を降りていくと手の平に来る。その先に細い指がある。いとしい指は五本ある。
それぞれに太さや丸さが違っている。更にその先に爪がある。白く光っている。
ここもわたしである。わたしを見ている。ああ、わたしだと思って見ている。
見えないいのちを、見える形にしていてくれているのだなと思って、見ている。
腕を降りていくと手の平に来る。その先に細い指がある。いとしい指は五本ある。
それぞれに太さや丸さが違っている。更にその先に爪がある。白く光っている。
ここもわたしである。わたしを見ている。ああ、わたしだと思って見ている。
見えないいのちを、見える形にしていてくれているのだなと思って、見ている。
至福の時間という時間を持つ。うっとりとする時間だ。文章にも隙というのがない。一字一句に酔い痴れる。詩ではない。散文である。それなのにそうだ。凛々しい。透き通っている。秋の空のように深い緑色をしている。
鎌田茂雄著「法華経を読む」に浸っている。長くいなくてもいい。意味なんかを拾わなくてもいい。浸っているだけでいい。了解が出来る。不遜かも知れない。了解ができるほどの才能は、こちらにはない。なくていい。安心が出来ると言った方がいいかもしれない。落ち着いていられる。それをそうだとすぐに頷ける。
法華経が好きだからそうなるのかもしれない。著者の魅力がそうさせてしまうのかもしれない。著者は禅の立場から説いている。足らないところがない、余るところもない。法華経を説く姿勢が、剣を握る姿勢のように、ぴたりぴたりと決まっている。
冷房なしでいられるようになった、やっとだ。夜中10時の室内は26℃。
ジジジジジジと鳴いている虫は何の虫なんだろう。名前を知らないと虫に悪い。せっかく我が耳の捉えるほどの近くに来て美しく鳴いていてくれるのに。不誠実に思われてくる。でも、知らない。
今日は留守の間に、友人が訪ねてきてくれたらしい。玄関脇の傘立てのところに、手提げ袋が置いてあった。中に北島のマルボウロが入れてあった。
その包み紙に走り書きがしてあった。悪い悪い。電話をして詫びた。すごすご帰らせてしまった。
帰宅してから、農作業着に着替えて、この怠け者の老爺は、仕事に掛かった。おお珍しい! 小雨が降っていたので、雨に濡れない玄関の屋根の下で、プランターを一個一個と運んで来て、土作りをした後で、ここに秋野菜の種を蒔いた。白菜、キャベツ、蕪大根、青首大根、ブロッコリー、カリフラワーの種を蒔いた。青首大根は深いプランターに蒔いた。殺虫剤オルトランの粒状をばらまいた。こうしておかないと、発芽を見てもたちどころに虫に食べられ尽くしてしまう。最後にたっぷり水撒きをして作業を終えた。外の気温は24度。わりかし、涼しかった。それでも汗が出た。シャワーを浴びたらすっきりした。野菜の種はまだたっぷり残っている。それは明日以降だ。といっても、この怠け者。やる気が持続しているかどうか。分からない。
しかし、今日はともかく体を動かした。怠け者にしては。ま、上等だったんじゃないかな。
久留米市美術館を訪れた。元の石橋美術館。名画が奏でる八つのフーガ展を見てきた。ブリジストン美術館コレクション展である。セザンヌ、モネ、ルノアール、マテイス、ゴーガン、ドガ,マイヨール、ロダン、ロートレック、藤島武二、浅井忠、青木繁、坂本繁二郎、黒田清輝、岸田劉生、小出楢重、梅原龍三郎、安井曾太郎,今村紫紅などの著名な画家達の絵を見てきた。ポール・セザンヌの「サントビクトワール山とシャトー・ノワール」の青い山、今村紫紅の「海の幸・山の幸 屏風」が特に印象に残った。訪れて来る美術ファンの多さに驚いた。お昼になってしまったので、美術館の外に広がる庭園を眺められる「落水庵」で食事をした。うどん定食790円を食べた。雨に煙る広い池とその向こうには築山が広がっていた。赤松の風情仁慰められた。帰りに「石橋正二郎記念館」に立ち寄ってみた。ブリジストンの創業者である。足袋屋さん・地下足袋屋さんから出発して、若くしてゴム製タイヤ工場を起こした人だ。美術に造形が深かったらしい。「世の人の楽しみと幸福のために」をモットーに現在の大企業「ブリジストン」を繁栄に導かれたようだ。感心することばかりだった。
気分が滅入ってしようがないので、ちょっと気分転換のつもりでドライブに出掛けた。美しい絵をたくさん見て心が和んだ。身心の不調を忘れていられたようだ。
オレの、地下深くにはマグマ溜まりがある。地下深くには。熱い熱い。高温の。高圧の。オレをそこから突き動かそうとして掛かる。
制御不能になる。厄介なことになる。無理矢理にでも割れ目裂け目を造って、地表に吹き上がって来る。
オレは病んで抵抗を試みる。様々に病む。これがねじ曲がったオレのねじ曲がった対処法なのだ。辛い辛いを口にして毒を吐き出す。毒にして吐き出す。イジケタ奴、オレは。
ま、しかし、マグマがまだ燃え盛っていたってことよ。オレにも。地下深くがあったってことよ。老いぼれのオレにも。ふ、老いぼれのオレにも。こいつどこからオレに侵入してきていたんだろうね。
これはね、かって、宇宙を造っていたその同じ創造のエネルギーの、端くれなんだよ。オレも星だってことの証明なんだ。宇宙を彷徨う星の一つだってことの。
非行にもエネルギーがいる。九月になれば青少年の非行が上向きになるそうな。顕在化してくるそうな。内に籠もるエネルギーの、燃え盛る火災を内だけで消火できなくなるんだろうねえ。どどどっと突っ走る。
なにしろ、熱血の青少年の魂は、いつでも暑い熱い熱風の吹き上がる太平洋上にいるんだからね。台風並みだものねえ。遣り過ごしても次々発生して来る。そして暴発する。椰子の木を薙ぎ倒す。
大人の悪行も相当なエネルギーがいる。少ないエネルギーでは悪行はできない。ともかくパワフルでないとできない。ガス抜きをチョコチョコこまめにしないから、抑制ができないほど膨れあがっている。
おいらみたいに萎えている老人からすれば、羨ましい限りだ。その高圧のエネルギー貯蔵量が。爆発暴発するほどのエネルギー貯蔵量が。
九月一日。今日から九月だよ。だね。室内の気温26℃。凌ぎやすい。
雨降り。ナマケモノの僕にはこれでいい。雨を眺めて過ごしていいから。怠けていられるから。
ほんとうは秋野菜作りに入らねばならない。畑を耕して種蒔きをしなくちゃならない。それが急がれる≡≡≡ヘ(*--)ノ
でもあいにくの雨。怠けていい理由がつく。働きたかったけどねえと、一応は、悔やんだような口ぶりをしてていい。ふふ、ふうだ。
雨が小降りになってきた。ううう、うーん。どうしよう。やっぱ。農作業着にして、用意しておくかなあ。
オレ様は、この頃、何にでも意欲減退。やる気なし。 鼻息荒いの反対。気力の衰え著しい。ご馳走がならんでも無反応。
クレオパトラがひょっこりウインクをして尋ねてきても、一瞥もくれないで、追い返してしまいそう。
死ぬんだからねえ。ジタバタしてても、しないでいても、同じなんだよ。でもジタバタしてるねえ。見苦しいねえ。すうすうすうと息を吸ってみる。お腹が膨れたり縮んだりする。
そっかあ、今日から九月なんだあ。さっきトイレに行ったら、りりりりりん、りりりりりんと虫の声が、網戸の向こうの闇の草藪から、聞こえてきた。すういと冷気も流れ込んでいたっけ。とうとう九月まで生きてたんだあおれはと思ったよ。気弱になってる自分というのをよく感じる。躰の免疫力低下といっしょに、心の免疫力低下も同時進行しているらしいなあ。なにくそっという粘りが起こらない。ああ、苦しまないである朝いきなりぱったりと終わってくれないかなあと思う。思うことが多くなった。不安神経症みたいなもんだろうかねえ。どうやって時間のやりくりをしていいか、分からなくなる。酒飲まなくなって苛ついているんだろうか。九月。九月ねえ。新しい季節になったのなら、自分も新しいフャイトのようなものを湧かすべきなんじないか。秋に進もう。ひんやりしようよ。颯爽としようよ。