今の時間12時半頃。〇〇のはなし号と同じ3番線にキハ40が入線。上り?と思い、時刻表を確認すると、14時50分 木与行き、その下は16時19分 益田行き。下りの下関行きは12時55分なので、ここで折り返すのかと思ったら・・・
仙崎行き12時33分。
今年の3月ダイヤ改正前までは下関発仙崎行きの直通がありましたが、長門市で打ち切って、別の車両が仙崎行きを設定。
快速〇〇のはなし号 下関10時20分発 長門市12時16分着
普通(各駅停車) 下関10時35分発 長門市12時31分着
快速は通過する駅がたくさんありましたが、幡生駅で長時間停車し、時間を調整。要所時間は結局同じ。
もっと細かく調べ、仙崎行きに接続できていれば、長門市のみどりの窓口で仙崎まで往復のきっぷを購入し、それに乗るつもりだったのに、見落としてしまった。かなり昔往復したことがあるので、これも久しぶりな路線に含まれています。
気を取り直して・・・・
駅舎撮影。ずーっと昔から変わらずの姿です。
駅の反対側に向かうのに市が設置した連絡橋を渡って・・・
活気がありませんねぇ・・・。
シャッターが閉まっている・・・。
家電量販店のヤマダ電気屋さんが入っていた痕跡が・・・。
な、な、な、な、なんと!2019(令和元)年9月30日をもちまして、閉店になりましたとのこと。
1991(平成3)年にオープン、いろんなジャンルの店舗があり、通路側では多くの買い物客で賑わっていたのに、過疎地の人口も減り、インターネットでぽちっとすれば自宅まで届けてくれる。店舗を構えていても、なかなか売れずにコストも嵩んでしまう。次々と店舗が撤退してしまい、複合施設としての機能を維持するのは難しくなったのではと推測。
「みどりの窓口」も然り。今の時代、自宅のパソコンやスマホなどで自分の好きな座席の位置の予約が可能になり、出発する前に券売機などで発券させることも可能になった。中小の駅では「みどりの券売機」が急速に進んでいる状況です。
長門市駅北側にある建物。手前にあるものはビジネスホテル、ちょっと奥は複合施設のウェーブ。レストランもあるはずなので、ランチはあそこにしよう。
階段を降りれば、改札口。
経由欄の最後のところに山陽・山陰・美祢線と表示されているので、長門市も経路に含まれていると理解し、途中下車印ゲット。
昔は2台ありましたが、現在は1台。2021(令和3)年2月1日から「みどりの券売機プラス」稼働開始になっているので、そのとなりに新しく設置されているかも知れません。
長門市発100キロ未満の運賃表。
昔ながらの有人改札。改札ラッチに駅員が立つことはなくなっているので、チェーンで閉鎖。
今はもう対面販売の「みどりの窓口」は無くなっています。MR52型のマルス端末も撤去。
現在はオペレーター対応のみどりの券売機プラス稼働時間は6時30分から19時45分までなので、営業時間は変わりません。
みどりの券売機プラスを使ったことはありませんが、経由欄が長くなるきっぷを買うのに難儀するかも。
例えば、新千歳空港 → 木更津
経由:千歳線・石勝・根室線・函館線・新函館・新幹線・新青森・新幹線・東京・総武・外房・浜野
入力手順 (かっこは線名)
新千歳空港ー(千歳線)ー南千歳
南千歳ー(石勝)ー新得
新得ー(根室線)ー滝川
滝川ー(函館線)ー新函館北斗
新函館北斗ー(北海道新幹線)ー新青森
新青森ー(東北新幹線)ー東京
東京ー(総武)ー千葉
千葉ー(外房)ー蘇我
蘇我ー(内房)ー木更津
音声で伝えるも、リモートのカメラでこのメモを見ながら操作したほうが時間も短縮するし、オペレータさんの負担もかからないかも。
JR西日本の「キヨスク」が撤退後は「セブンイレブン」に変わっているところが増えていますが、こちらは地元有志の売店。
今日は令和3年度の始まりです。結局、令和2年度と同じ業務のまま引き続きになります。机まわりにJRロゴマークが付いているマウスパッドや小幌駅(JR北海道承諾済商品)グッズばかりなので・・・今年度から鉄道だけではなくは私鉄や地域のバスも含めてきっぷの運賃に関する計算も。鉄道に詳しくなければ、正確な運賃をはじき出すのはかなり面倒だから、人間みどりの窓口の私に任せなさいっ!!
〇〇のはなし号から下車した客は、なんと私だけ。車内の乗客はほとんど観光地の東萩へ。1名の下車客および車内の乗客に向かって懸命に旗を振ってくれるなんて、ほっこりする雰囲気。
長門市の駅名票はゴールドのフレーム付き。
車掌さんが後ろにいる私に気づいて、一礼。それから出発確認。まあ、私のようなオタクに向かって一礼してくださるなんて・・・。ありがとうございます。鉄道関係者に迷惑をかける非常識なオタクが多く、車掌さんもいい気分がしないのは確かだけど、JR西日本広島支社は素晴らしい。
今度また乗れる日はいつになるのやら・・・?
小さくなる見えなくなるまでお見送り。
多くの観光のお客様が東萩から下関まで往来できますように・・・。是非、〇〇のはなし号および、校風明媚な風景が続く山陰本線沿線へご旅行をご検討くださいませ。
今に比べると非常に痩せ衰えていて、背が低かった時代。体重も標準よりも「激やせ」のレベルに値するのに、今はなんでデブになるんですかねぇ・・・??あまりにも激変っぷりに自分も驚愕。
あの頃は多くの大人達が行き交い、跨線橋の幅も広かったと記憶がするのに、久しぶりに見ると、「あれ?昔と変わらぬのサイズなのに、こんなに狭かったっけ??」
令和2年9月現在、最新型のMR52型マルス端末が置かれていて、国鉄時代からあった「みどりの窓口」へどうぞの看板、辻褄は合っていますが・・・2021(令和3)年1月31日をもちまして、長門市駅のみどりの窓口は営業終了。その代わり、リモートマルスの「みどりの券売機プラス」設置。遠く離れた場所にいるオペレータさんとの会話に音声が必要のようだけど、ろう者はその機能を使えないはず。常駐している駅員さんに依頼して、代読するシステムなのかどうか・・・。実際に使ったことはありませんが、あからさまに不便を感じるようなら苦言するかも知れません。今まで、みどりの窓口へ用事があるのに、リモートマルスの「みどりの券売機」に遭遇したことは皆無。さきほどの北海道旅行では運良く、きっぷの購入駅は対面販売の「みどりの窓口」でした。みどりの券売機プラスになった今もそのような看板はそのままになっているか気になるところ。
黄波戸駅を出てしばらく・・・
また線路が海岸沿いを走行。
台風もなく、ずーっと晴天が続いていたため、海の色がこんなに美しくなる。
ここは日本海。野球の中継は見ていませんが、センバツに出場した京都国際高校が勝利し、韓国語の校歌が歌われたときに「東海を 渡りし 大和の地は」という部分を「東の海」とテレビの字幕に出ていたため、これは誤訳だ!とSNSなどで話題になりました。
朝鮮半島の東なので、韓国から見れば固有名詞の「東海(とんへ)」と表記しますが、「東の海」だったら、形容詞になります。相手側を尊重し、そのまま素直に「東海(とんへ)を 渡りし 大和の地は」にしたほうがよかったかも。ここは日本なので、太平洋の反対側は「日本海」と呼ばせていただきます。
まもなく、長門市駅。
深川を渡ると、市街地に入ります。
9月の終わりなので、稲刈り直前かな。
ここは十字に交差しているところなので、両隣に2駅ずつ。長門市から仙崎まで1本のレールではみ出た盲腸線のようなものだけど、山陰本線の支線に属しています。ほとんど美祢線に直通。仙崎から厚狭までの切符を美祢線経由措定で発券させると、「山陰・美祢線」と印字。
まもなく、黄波戸。色の名前がついている駅名で1番多く見かけるのは、「赤」および「青」。黄色は・・・北海道の室蘭線に「黄金(こがね)」と黄波戸、2つしかないかな・・?たぶん。黄金駅はゴールドの駅だというのに、あまり知られていません。
ホームを通過中。
1枚目の写真から見ると、ここは海抜がちょっと高めのところにあります。
今までずーっと黄波戸に降り立ったことはありませんが・・・この近くに天然温泉の日帰り入浴施設の「黄波戸温泉」があります。ここでも海岸の高台にあり、温泉に浸かりながら湾内の絶景が見られます。ただ、駅から遠くタクシーで10分のところ。(3キロ、徒歩40分前後)
次は長門市です。
3月22日は1都3県における緊急事態宣言が解除されました。解除されたからといっても、まだまだ厳しい状況が続いています。引き続き、対策をしっかりしていきたいと思います。普段からの連絡手段はメールだけではなくLINEもやりとりをしていますが・・・また中国の技術者が個人情報を閲覧できるとか問題になるようなことをやらかしたな。はあ・・・LINEの大切なセキュリティやシステム管理を海外に委託せず、国内ですればこんなことにならなかったはず。
まもなく、長門古市駅。もともとは美禰線が長門市の前身である正明市(しょうみょういち)を経て阿川まで延伸し、下關からの線路が締結。阿川から正明市までは山陰本線に改名。
1929(昭和4)年建築の駅舎を昔の古い面影を残しながらリニューアル。無人駅になっても、建物は地域のコミュニティセンターとなっています。
新しそうに見えるので、LED装着?と思いましたが、よく見たらそうでないみたいです。
この光景・・・・
根室本線の道東区間、根室市内にある駅。山口県内の駅だというのに、まるで北海道!?
ドア扱いをしない運転停車なので、時刻表では通過扱い。窓を開けて、ぱちり。
小倉から長門粟野まではかつての行動範囲。長門粟野を過ぎると、たまに長門市に行ったり、美祢線回りで下関に向かうとかそういった用事だけで乗車していたので、あまり馴染みのない区間。無人駅の伊上駅通過。最初から無人駅ではなく、開業当時は有人駅。福江駅、梅ヶ峠駅、特牛駅、伊上駅、黄波戸駅の5駅が1971(昭和46)年に無人駅化。
元乃隅稲成神社はずっと昔からあったものなのに、最近になって、アメリカのテレビ局が発表した「日本で最も美しい場所31」のひとつに選出され、そこに訪ねた外国人がその風景をSNS投稿してからもう有名になりました。ちなみにアメリカの環境保護NGOが「死ぬまでに見るべき絶景」に日本国内から唯一選ばれた場所は青ヶ島の二重カルデラ、丸山。中国ウィルスが全世界に拡散する前までは、外国人観光客もちらほら訪ねてくる時期もありました。元乃隅稲成神社はあの丘の向こう側だな、と意識して撮影したものだけど、およそ1ケ月後の(11月1日)、ジローさんやふてにゃんを連れてあそこへ観光するとは思いもしなかった。
ここでも長門粟野駅と同じく、1930(昭和5)年建築の駅舎がまだ現役で頑張っています。
人丸駅。「ひと」の付く駅名は・・・・SL人吉号が発着している、肥薩線の人吉駅。2020(令和2)年7月の九州豪雨災害により、球磨川と並行する肥薩線の大部分が流され、復旧の目処が立っていません。SL人吉号に乗車したのは2018(平成30)年8月。その2年後の7月、肥薩線が被災。2018年乗車したときに動画は こちら。
数分停車なので、ホームに降りて気分転換。
やはり、ここは元乃隅稲成神社の最寄り駅なので、駅名票もこのデザインになっています。次は長門市。〇〇のはなし号は東萩までですが、美祢線に乗り換えるため、終点まで乗らず長門市下車。
阿川を出てしばらくすると、再び海岸沿いの風景が見られるようになります。
向こう側は島のように見えますが、実際は陸続きの向津具半島。読みは、むかつく。手話は「しゃくにさわる」に同じかな。
粟野川を渡ると、まもなく長門粟野駅。粟野川の名所は春先にシラウオの踊り食い、青のり。グーグルマップで踊り食いが食べられるレストランがあった場所を探してみましたが、今はもう廃業しているのか見当たらず・・・。
線路を敷設した鉄道省時代、今みたいに1両や2両編成ではなく、10両も連なった長い客車がすべてホームで乗り降りができるようにものすごく長いホームを設置。その名残なのか、山陰本線のホームはすごく長いです。
ん!?当時の長門粟野駅をよく知っている私から見れば、この風景はありえない。何だろう、違和感がする。
今、入線している線路は下り専用。クルマの左側通行と同じく、島式のホームであれば、左側の線路を通るはずです。
子どもの時から何度も使った駅舎(1930(昭和5)年建築)。今も全然変わらずです。懐かしい。長門粟野によく来ていた理由は喘息発作をよく起こし、駅から徒歩3分の真柴病院によく通院していた。学校の口話教育にかなりストレスを感じ、自家中毒症(※)をよく起こし、入院までも。
(※)自家中毒とは食中毒ではなく、1.5〜8歳位の比較的やせ型の繊細なタイプの子どもが、種々のストレス(風邪、遠足、遊びすぎなどの疲れ、親に叱られる(精神的ストレス))を受けた時や、夕食を食べずに寝た時などに一時的に陥る病態)
昔は細くて痩せ衰えていた体型だったのに、今はもう真逆。真柴病院の建物はまだ現存しており、現在は「豊北クリニック」という名称に変わりました。
線路の位置に違和感を感じ、その後、スマホで長門粟野駅のことを調べてみたら、昔は上下交換ができたのですが、現在は1線のみ。汽車の数をあまりにも減らしすぎたため、上下交換する必要性はなくなったかも知れません。豊北クリニックのとなりにあるのは後から新しくできた病床のある「豊北病院」なのですが、職員への未払い事件があり、多くの看護師さんが退職し、病院としての機能ができなくなり、2020年1月から休止中。「豊北病院」を検索すると、未払い事件の話が出ています。
まもなく、阿川に停まります。
駅から見えるところに阿川小学校や豊北第三中学校の建物がまだ残っています。旧豊北町内に4ケ所あった中学校は生徒が減少し、2006(平成18)年に滝部に新築の豊北中学校に統合。阿川は人口の多いところなので、小学校はまだあるはずだと調べてみたら、なんと旧豊北町内の8ヶ所あった小学校も令和2(2020)年4月から滝部小学校の建物を豊北小学校として統合し、開校。(今知ったばかりです)
阿川駅の旧駅舎を取り壊すという話は聞いていましたが・・・・
旧駅舎の跡形もなく、カフェのお店ができているのに驚愕。
旧駅舎の様子は こちら 。
風格のある旧駅舎のほうが木造のローカル駅として周囲にマッチしていたのに、もったいない。
屋根のない青空改札口。人が立っている場所の近くにきっぷを入れるポストのようなものが見えます。この区間は基本ワンマンなので、運転士さん横の運賃箱に入れてから下車するようになっていますが・・・。
阿川を出ると、次は人丸に停まります。
時代はさかのぼって大正14(1925)年。当時の鐵道省(国鉄の前身)が下關から海岸沿いで線路を敷設し、長門二見で「く」の字に曲がるように内陸部の瀧部まで。再び海岸に戻るように瀧部を出ると、再び「>」の字みたいに曲がるようなルート。
県道39号線を横切ります。自転車で何度も通ったことを懐かしく思い出します。
あれからもう30年以上の歳月が流れましたが、風景はあのときから全然変わらず。旧豊北町内の路線バスはサンデン交通およびサンデンの傘下、ブルーライン交通の2社が運行していましたが、現在はすべてブルーラインに移管。ついに、サンデン交通も福岡県の西日本鉄道(西鉄)の発行する「ニモカ」に加盟しているので、JRのIC交通系カードも乗れるようになりました。ブルーラインもICカードが使えたら、田舎でもJR東日本のスイカが使えるってことに?と思い、調べてみたところ、残念。ブルーラインは非対応。このあたりでIC系交通カードを持っている住民は皆無に近く、せっかく導入しても余計なモノなのかもしれない。
県道39号線をクロスし、今度は国道435号線と並行になります。国道435号線は山口市が起点で美祢市を経て終点は特牛。
特牛駅停車。
秘境駅のランキングに含まれている駅です。
1928(昭和3)年に建てられた駅舎は現役。
特牛と書いて、「こっとい」と読める方は鉄道に詳しい方だけで普通の方はなかなか読めないかも知れません・・・。
写真ではわかりづらいですが、特牛駅が出来た頃設置された木製のラッチ(改札口)がまだ残っています。1971(昭和46)年に無人駅になってから、もともとの駅事務室を商店に改造。切符売り場をそのまま残して、後ろはいろんな商品が並んでいる店舗。子どもの頃見たときは国鉄の制服ではなく、店主さん思しき私服の人間が集札をしていたので、国鉄から受託している認識はありました。
特牛を出まして、次は阿川に停まります。旧豊北町内で長門二見は通過、滝部、特牛、阿川に停まって、長門粟野は通過。
かつては「特急」「急行」もすべて停車していた旧豊北町の中心駅、滝部。駅舎は新しく見えるんですけど、実際は1985(昭和60)年に建て替え。その頃から自動券売機も設置。国鉄地紋の入っている切符のロールが全部使い切るのに民営化2年後の1989(平成元)年頃まで。
ここから路線バスで角島まで繋がっているので、角島大橋の看板も設置されています。
手前は切符回収箱。少し奥は入場印字器。たぶん、回数券に乗車日の日付を入れるものだけど、ここは有人駅なので改札をやってくれれば・・・。JR全線対応のPOS端末設置。裏面に磁気情報が入っているので、「[西] 札幌 → 新札幌 経由:函館線・千歳線 ¥340 滝部駅001発行」の乗車券でもJR北海道の自動改札機は通れます。
向かいのホーム(下関方面)は今乗っている、〇〇のはなし号のデザイン。
昔は駅名票の奥に3番線として使われていましたが、草丈が伸びているので、現在は使われていません。滝部駅舎の中に乗務員の当直室があって、翌日の早朝始発に備えていました。
下関方面の待合室。私が子どものときからずーっと変わらず。ただ、変わったのは窓ガラスや出入口の扉が無くなっています。
次は難読駅の特牛(こっとい)駅に停まります。
長門二見を出ると汽車も道路も上り坂。途中からやっと平坦になりますが、滝部まではやや上り坂が続きます。あこがれのトーキョーに行けたのはよかったものの、新しい環境に馴染むことは出来ずホームシック。およそ1ヶ月後の5月連休、【区】東京都区内→長門二見の往復ではなく、片道切符で田舎に帰ったあとは再びトーキョーへ戻ることを拒否。小学校を卒業していきなりトーキョーは年齢的に早かったかも知れません。わずか1ケ月で卒業した同じ学校に舞い戻るのは恥ずかしい気持ちもあったのか、今度は滝部へ転校し、最初の頃は真面目に自転車通学。
毎朝の坂道が大変・・・その頃から「楽」にすることはできないか、そんなことばかり考えていました。自転車を滝部駅の無料駐輪場に置いて、長門二見から滝部間は汽車通学。滝部駅に降りたら、自転車で学校。都会の駐輪場は1日でも有料または年間の定期利用者以外は停められないんだけど、田舎は無料。どなたでも停められる。このあたりは長門二見と滝部の真ん中あたり。何もない辺境の地だというのに、左側に新しい家が建っているのが見えます。大昔はここでも路線バスがありました。バス停は二見駅→寺畑→直子(のうし)→神田口→滝部駅。利用者が著しく減少し、昭和50年代の終わり頃に廃止。
バスがなくなっても自家用車さえ持っていれば移動に困らないかも知れません。
ここは昔、バス停があった神田口。道路を左折すれば国道191号線の「神田」地区に行けるので、このあたりは神田口。左側の建物は自動車整備工場、向かいは食堂。現在は廃業しており、建物だけ残っています。
滝部の電気屋さん。オキデンキ。録画用のVHSビデオテープやワープロ用のフロッピーディクス(今はどちらも死語になっている)、乾電池などそんなに高価ではない消耗品をちょくちょく買いに行っていたような記憶が・・・。
滝部駅に入線中。旧豊北町の中心駅で役場の最寄り駅。しかし、役場まで徒歩20分のところにあります。普通は駅ができると、その周辺に街を形成するはずなのに、当時は蒸気機関車の煙を避けるように、駅からかなり離れたところに街を形成。ここでも駅スタンプ配置されていますが、図案は廃業になっている滝部温泉なので、撤去されています。滝部温泉は新館と旧館があって、かなり大きな建物だったとは記憶していますが、利用者がかなり減少し、破綻したそうです。
〇〇のはなし号は「快速」なので、故郷の駅を通過してしまうのは残念だけど、また来月(10月)もここへ舞い戻る予定があります。
左から1軒目は、もともと日常雑貨や食料品を取り扱う商店、3軒目はときわ屋(二見饅頭店)、4軒目は駅前旅館、5軒目は酒屋。その中で営業中はただ1つだけ、二見饅頭の「ときわ屋」さん。昭和の初期から開業なので90年近く、伝統の味を守っています。
食べログは こちら。
「〇〇のはなし」号の前身は「みすゞ潮彩」号は1日2往復あり、快速扱いではなかったため、長門二見も停車。今から10年前の平成23年3月2日、千葉駅で購入し、9日後、東日本大震災発生。3月27日は羽田から宇部行き、空港連絡バスで下関駅に向かい、この列車にうまく接続できるはずだったのに節電を強いられているさなか、飛行機発着のやりくりなので、遅延。結局間に合わず・・・。
今度はさっきまで海を眺められた自分の座席に戻ります。海から一転し、山の景色。
二見で唯一、立派な建物は・・・・下関市立二見小学校。1875(明治8)年開校、児童の数はおよそ400名。1990(平成2)年頃、古い木造校舎を取り壊し、今の3階建ての新校舎に建て替え。
平成23(2011)年、開校135周年記念行事が行われましたが、児童数の減少にともない、平成24(2012)年度から休校。
現在は指定避難場所となっています。
しばらくすると、上り坂が続くので、昔のD51(蒸気機関車)はかなり黒煙を吐きながらピストンの力を動輪の連結棒に伝達。電気やディーゼルのエンジンを使わず、石炭の熱で動力。ディーゼル機関車のDD51も後ろの客車を引っ張りながら坂を登るので、滝部までの乗車時間は若干長め。今乗っているキハ47もノッチ(クルマで言うとアクセル)のハンドルをフルに回し、パワー全開。エンジンが唸りながらの走行。
オリジナルのキハ47は国鉄の経費削減のため、しょぼいエンジンを取り付けていましたが、馬力アップのエンジンに取り替えるなどの改造を施した車両もあります。
山口県のガードレールが黄色になっていれば、県道。国道は白といったように区別。黄色が採択されたのは、明るい色だし、萩名産の夏みかんを連想させるためだそうです。
今からおよそ100年前の1925(大正14)年。当時の鉄道省(国鉄の前身)が山陰本線を海岸沿いに敷設する計画がありましたが、滝部の権力者なのか地元の要望により、ここで線路を内陸に入るように「く」の字に折り曲げ。
折り曲げられたため、トンネルを貫通し・・・
まもなく長門二見駅に接近。手前の道路は、二見トンネルが出来る前の旧道。2台がやっとすれ違うほどの狭い道幅です。
駅前通りの集落。その画像の中に、生家がちらっと。今は伯母はあそこで暮らしていますが、会いに行けるのはおよそ1ケ月後。今回はかなりニアミス。
まもなく、ホームに接近します。
鉄道省の長門二見として設置されたところなので、ホームの長さは非常に長い。10両や12両編成の客車が停まっても客扱いは可能な長さ。
鉄道開業時の100年前は、大勢の人が行き交い、木造の駅舎に駅長室、当直室、きっぷ売り場、鉄道小包窓口、改札口、出発の合図を送る駅員、線路のポイントを切り替える駅員さんもいた。駅前通りもかなりにぎやかで商店、饅頭屋さん、駅前旅館や食堂もあった。
あれから100年後の今。駅はもうすっかり無人駅化され、二見饅頭は現存しているが、商店、駅前旅館、食堂なども廃業。残念ながら通過してしまいましたが、ちょうどお昼時だし、ここに停車し、シーフレンズふたみ謹製の新鮮な海鮮盛りだくさんの駅弁を出張販売してくれたら・・・。昔の時刻表を開いてみると、主要駅ならほとんど「弁」マーク付き。長門市駅もありました。昔は駅弁の需要があるほど、鉄道利用者がたくさんいたそうです。今回は通過してしまいましたが・・・1ケ月後・・・
舞い戻ってしまいました(笑)。
ここは二見トンネル出口の「新二見」交差点。旧道は狭い上にカーブも多い。衝突する事故も年に数回あったため、県道の改良工事が始まったのは1998(平成10)年。5年の歳月をかけ、2003(平成15)年におよそ500メートルのトンネルを開通。駅前通りエリアの自宅から海へ出られるショートカット路線。ジローさんもわざわざ遠回りせず、すぐ海に出られる喜びは開通した翌年の夏だけの1シーズンのみ。その年の冬、千葉へ転居。漁業権を持つ組合員なので、毎年7月20日頃から8月のお盆頃まで解禁時はサザエやアワビ、ウニを取り放題。千葉へ転居する前に組合員を離脱したので、久しぶりに帰っても海鮮物を取ることはできません。
何もない田舎はイヤだー!!と飛び出してからもうかなり経ちます。あれ!?もうこんな歳に・・・。なかなか故郷のことは捨てられず、今も時々帰ってくるところ。今回は素通りしてしまうけど、およそ1ケ月後また帰ります!!
海の色が小笠原のようできれい。
もともとは三菱石油。物心ついた頃、三菱って家電具の製品もあるし、鉛筆もマークがあるし、DD51機関車の銘板やクルマも。ジローさんはこの三菱石油にちょろまかされた思い出が永遠に忘れられず、今でも語ってくれる。「聞こえる姉(伯母)に電話で灯油の配達を頼んだんですよね。ドラム缶に満タンになるまで入れてもらい、納品書に示された金額とおり払ったんですよ。満タンなら蓋をあけたら、蓋の真下にすぐ灯油が見えるはずなのに、それが見えなかった。おかしいと思い、よく覗いて見たら半分しか入っていなかった。さてはちょろまかされたなー!!と電話で苦情を言ったら、店の責任者がかけつけて満タンにしてくれたんですけど、ドラム缶は見えないし、聞こえない人からの依頼だとかなりバカにしている。その配達員はすぐ解雇されたって聞いたのさ」(今ではなく、昭和時代の話。会社に提出するのはわずか数リットル分記載の納品書。ジローさんに手渡した納品書は満タンの金額なので、手書の昭和時代だからこそできたインチキ。今の時代はコンピュータのPOS(販売時点情報管理)で給油量、金額がレシートになって出るのでごまかせない)
三菱石油時代、日本テレビの進ぬ!電波少年というバラエティー番組に「箱男」シリーズがあり、今のシーフレンズふたみが建っている場所に「箱男」が置かれたときがありました。二見の人達が食事を持っていってお世話するシーンも放映。箱そのものをスナックバーの店内に置くシーンもありましたが、二見に洒落たスナックバーは無いです。ああ、これは「やらせ」だなって思いました。
左側はENEOSのガソリンスタンド。オレンジ色の屋根はシーフレンズふたみの厨房。そのとなりにある建物はレストラン。ちょうどあの位置は2000年にさかのぼれば「箱男」が置かれた場所。
リーズナブルで新鮮なお刺身や海鮮物が食べられるお店は遠くから来ていただくほどの大人気なお店です。その1ケ月後・・・
あそこに舞い戻った話は こちら。