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<知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト> 直木賞&芥川賞&菊池寛 その2.

2025-01-17 08:32:39 | 知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト

 「直木賞&芥川賞&菊池寛 その2.」

 「芥川賞」

 芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称芥川賞(あくたがわしょう)は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。

 概要
 大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。

 現在の選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一・川上未映子の9名(2024年上半期から)。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。

 成立
 1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている[2]。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。

 芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。

 選考過程
 上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。

 最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。

 選考基準
 「新人」の基準
 芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏、中村真一郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳 、三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作や田宮虎彦、金達寿、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにもかかわらず新人といえるかどうかが議論の的となった。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。

 作品の長さ
 芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している[7]。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞はおろか直木賞すら受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、英語ほかに翻訳されて読まれることを想定した世界文学に移行したことが理由の一つに挙げられる。現在、芥川賞受賞作品が他国民のために翻訳されて読まれることは、決して多くはない。

 なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる。

 直木賞との境界
 純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。

 芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代、島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。

 批判
 賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。

 文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している。

*Wikipedia より

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<社名の由来> 日清医療食品

2025-01-17 08:21:31 | 社名の由来

 「日清医療食品」

 日清医療食品株式会社(にっしんいりょうしょくひん)は、東京都千代田区に本社を置き、病院・医療施設および福祉施設などに対し、給食食事サービスを行うコントラクトフードサービス企業。

 商号の由来は、初代社長・村田清次の「清」と「日本一の企業を目指す」という気持ちを込めた「日」の字を合わせて「日清医療食品」としている。

 なお、日清食品グループとの資本関係はなく、ワタキューホールディングスの子会社である。また同様に「日清」の商号を用いる日清製粉グループや日清オイリオグループとも資本関係はない。

*Wikipedia より

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< 郷土料理 > 長野 のたもち

2025-01-17 08:16:51 | 郷土料理

 「のたもち」

 主な伝承地域 諏訪地域、上伊那地域

 主な使用食材 もち米、うるち米、枝豆

 歴史・由来・関連行事
 「のたもち」は、諏訪地域と上伊那地域で食べられている郷土料理。のた餅の「のた」とは、枝豆をゆでてすり鉢ですり、砂糖と塩をいれてつくったものをいう。宮城県の「ずんだ餅」にも似ているが、半殺し(半搗き)のごはんの上に「のた(枝豆の餡)」をぬりたくるようにかけた料理で、諏訪地域の盆や秋の供えの代表的な料理として各家庭でつくられてきた。上伊那地域では「じんだ餅」とも呼ばれている。諏訪地方では枝豆を「盆豆」とも言い、以前は田んぼのあぜで育てていた。盆になると枝豆をすりつぶしたあんやえごまをすりつぶしたあんでおはぎをつくって仏前に供えた。鮮やかなウグイス色が見た目によく、枝豆の甘い香りが口いっぱいに広がる。

 食習の機会や時季
 のたもちは、枝豆の収穫を迎える8月から9月中旬の盆、月見、彼岸など、夏の間の季節の節目に欠かせないもので、諏訪地域では、盆になると帰省する子供や親戚の人々のためにのたもちをつくる家庭も多い。

 飲食方法
 半つき位につぶしたご飯に、枝豆のあんをのせて食べる。あんは、砂糖を加える甘いもののほか、塩味のみの味付けのものもある。茶碗に盛り付けるほか、ご飯を丸くして上にあんをのせるなど、食べ方やつくり方は家庭によって異なる。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 現在も諏訪・上伊那地域では、盆になると各家庭でつくられており、親から子へ継承されている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/nota_mochi_nagano.html より

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<B級ご当地グルメ> 徳島 とくしま豆天玉焼き

2025-01-17 08:11:54 | B級ご当地グルメ

 「とくしま豆天玉焼き」

 これぞ徳島風お好み焼き!
 『豆玉・豆天玉』と出会う旅
 徳島ラーメンに始まり、うどん、そしてお好み焼き。実は徳島は大阪に負けず劣らずの粉モングルメの街です。
 ご当地ラーメンと言えば『徳島ラーメン』ですが、お好み焼きにも徳島だけのご当地メニューがあるのをご存知でしょうか?
 徳島県民以外の人からすると、見慣れない具材が入っていますね。これ、金時豆なんです。甘く煮た金時豆を生地に混ぜ込んで焼くお好み焼き。はるか昔から徳島で食べられてきた、ご当地お好み焼きです。その名も『豆玉』。
 徳島では、昔から甘党の人が多かったのか、地域によってはちらし寿司に金時豆を入れることも。同じようにお好み焼きにも金時豆を入れる文化が強く残っています。
 徳島市のお好み焼き屋さんには、多くのお店にこの豆玉がありますが、今回はその中でもおすすめの4店舗をご紹介します!

 お好み焼き いか十 徳島県徳島市東新町1-28-1

 はやしのお好み焼 徳島県徳島市南内町1-30

 ニュー白馬 徳島県徳島市一番町1-13

 鉄板料理・お好み焼 花の実 徳島県徳島市栄町1-71-2

*https://funfun-tokushima.jp/enjoy/special/mameten/ より

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<料理用語-和食> 前菜

2025-01-17 08:03:03 | 料理用語

 「前菜」

 料理の前に酒に添えて出す3品ほどの小さくまとめた少量の料理。

 冷めても美味しく、なおかつ食欲をそそり、見た目に美しくなければいけない。

 海のもの、山のもの、里のものを取り合わせて三種盛り、五種盛りにする。五色を基本として配色に気をくばり、味も各自変化をつけるようにする。
 総合的に後から出てくる料理に期待感を持たせるような仕上げでなければいけない。

 元々日本料理にはなかった献立で、西洋料理や中国料理から近代になって導入されたものである。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/94_H/014.html より

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うまいッ! NHK 「磯の風味たっぷり!“幻の海藻” 銀杏草 〜北海道・稚内市〜」

2025-01-17 07:58:54 | うまいッ!NHK

 「磯の風味たっぷり!“幻の海藻” 銀杏草 〜北海道・稚内市〜」 2024年3月4日

 銀杏草(ぎんなんそう)は北海道や東北地方で1~3月にとれる海藻。収穫量が少なく“幻の海藻”とも言われます。磯の香り豊かな、北の大地の冬の風物詩をご紹介します。

 北海道稚内市は銀杏草(ぎんなんそう)の一大産地。極寒の冬の海に漁師たちは歩いて入り、深さ1メートルほどの浅瀬で水中をのぞき込みながら、一株づつ丁寧に摘み取ります。その過酷な作業に今回、食材ハンターの當間ローズさんも挑戦!銀杏草の魅力は、磯の香りと独特の“食感”。生で食べるとコリコリした歯応えですが、味噌汁に入れて熱を加えるとトロトロに変化します。ユニークな“幻の海藻”を味わい尽くします。

 「うまいッ!」の秘密
 銀杏草の収穫は浅いところは一株ずつ手摘み。手が届かない深さは「カッチャキ」という道具で、銀杏草の根本を慎重に剥がして採ります。デリケートな銀杏草を、傷つけずに採ることが、鮮度とシャキシャキ食感を守る秘訣です。

 銀杏草を収穫したあとは、根元の黒く固い部分は食感が悪いため切り落とします。鮮度が落ちないよう素早く行うことがポイント。室温が高いと銀杏草が痛むので防ぐため作業場の暖房もつけません。少しでもシャキシャキ食感を守る工夫です。

 「銀杏草を使った料理レシピ」について
 「銀杏草のライスサラダ」
 <材料>(2人分)
 ・鱈の切り身:50g×2
 ・塩こしょう:適量
 ・マヨネーズ:60g
 ・ワサビ:少々
 ・ミックスチーズ:少々

 ・銀杏草(2~3㎝くらいに切ったもの):15g
 ・たくわん(サイコロ状にカット):10g
 ・ごはん:100g
 ・すし酢:適量
 ・フレンチドレッシング:30ml
 ・ソース(盛り付け用):マヨネーズ25g・ケチャップ8g・タバスコ少々・レモン汁少々
 ・ミニトマト・ベビーリーフ:飾り用少々
 <作り方>
 1) 鱈に塩こしょうを振って焼く。(フライパンかオーブン180℃で5〜6分)
 2) マヨネーズとわさびを混ぜ合わせて1)の鱈に塗り、ミックスチーズを乗せてオーブンで焼き色がつくまで焼く。
 3) ごはんにすし酢とフレンチドレッシングを混ぜて冷まし、刻んだ銀杏草とたくわんを混ぜる。
 4) 皿に3)を盛り、その上に焼いた鱈を乗せる。
 5) ソース(盛り付け用)、飾り用のミニトマト・ベビーリーフを乗せる。

 「トロトロ食感を楽しむ!銀杏草の和風パスタ」
 <材料>(1人分)
 ・銀杏草:30g
 ・しらす:10g
 ・キャベツ:20g
 ・しめじ:20g
 ・パスタ:100g
 ・鷹の爪:少々
 ・めんつゆ(めんつゆ1:水3):70cc
 ・バター:2g
 ・水菜(飾り用):少々
 ・ネギ(飾り用):少々
 ・刻みのり(飾り用):少々
 ・オリーブオイル:適量
 <作り方>
 1) キャベツ・しめじ・銀杏草・水菜(飾り用)を一口大にカットする。
 2) フライパンにオリーブ油、鷹の爪を入れて弱火で香りが出るまで炒める。
 3) 香りが出たらキャベツ、しめじをさっと炒め、銀杏草を加えて銀杏草の色が変わるぐらいまで炒め、めんつゆを加えて中火にする。
 4) 水1ℓに対して塩10gでゆでたパスタを3)に絡めてバターを加える。
 5) 皿に盛り、上からしらす・水菜・刻みのり・ネギを飾り、オリーブ油をかけてできあがり。

*https://www.nhk.jp/p/umai/ts/P7R4N8K39M/episode/te/5N7X452RQ2/ より

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<異名-スポーツ選手> コンダクター

2025-01-17 07:52:57 | 異名

 「コンダクター デメトリオ・アルベルティーニ」

 デメトリオ・アルベルティーニ(Demetrio Albertini, 1971年8月23日-)はイタリア・ロンバルディア州出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはMF(レジスタ)。

 アルベルティーニはあのオランダトリオがいるA.Cミランでレギュラーで試合に出続け、若きベテランと記者から呼ばれていた。ミランでも代表でも守備的MFの色が濃くドナドーニがゲームを作りアルベルティーニは攻守のバランスを取っていた。1990年代のACミランとイタリア代表のレギュラーを務め、セリエA制覇と2度のUEFAチャンピオンズリーグなど、多くのタイトルを獲得した。また、キャリア終盤にはスペインのFCバルセロナに移籍し、最終シーズンにはリーガ・エスパニョーラを制覇した。

 イタリア代表では、FIFAワールドカップとUEFA欧州選手権にそれぞれ2度出場し、共に1度決勝に進出した。2005年12月引退し、2006年7月にイタリアサッカー連盟(FIGC)副会長に就任した。

 愛称 コンダクター、デミー、プレーテ(司祭)、メトロノーム

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 話に花が咲く など

2025-01-17 07:23:17 | 慣用句・諺

 「話に花が咲く」

 次から次へと興味ある話が出て会話が弾む。

 

 「話に実が入る」

 話に熱中する。興に乗って盛んに話す。

 

 「話の腰を折る」

 口をはさんで、相手の話を途中でさえぎる。

 

 「話を合わせる」

 相手の話に、同意・賛成するようにふるまう。

 

 「話を付ける」

 話の片をつける。相談・交渉をまとめる。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 新潟 武蔵野酒造

2025-01-17 07:11:54 | 日本酒

 「武蔵野酒造」

 武蔵野酒造株式会社(むさしのしゅぞう)は、新潟県上越市にある1916年(大正5年)創業の酒蔵。銘柄は「スキー正宗(すきーまさむね)」。1927年(昭和2年)に従来の銘柄「越山政宗」を、当時の高田市の依頼で改めた。戦時中一時敵性語として使えなくなり「寿亀政宗(すきまさむね)」(この銘柄自体は、数年前に吟醸酒のラインナップとして復活)に改名するも、戦後再びスキー正宗に戻した。妙高山塊から流れ出る伏流水を仕込みに使っている。

 また高田生まれの坂口謹一郎博士とも縁があり、戦時中坂口が疎開していた頸城の住まい楽縫庵らくほうあんを、戦後武蔵野酒造の杜氏が管理していたため、坂口はよく酒造を訪れていたという。

 2020年(令和2年)公開の映画『瞽女GOZE』とタイアップした限定酒特別純米「瞽女」を8月26日に発売した。モデルとなった小林ハルの瞽女名がチヨノなのも縁がある。

 武蔵野酒造株式会社 新潟県上越市西城町4-7-46

*Wikipedia より

 代表銘柄

寿亀正宗
大正時代までの越山正宗から昭和に入るとスキー正宗と名称を変更。第二次世界大戦に入り戦火強まるとカタカナが敵性語として扱われ、読みは同じくすきーまさむねとするも、表記はスキー正宗から寿亀正宗に変更しました。 僅か3年弱くらいの期間と思いますが寿亀正宗は存在していました。 令和元年、寿亀正宗を復活させ大吟醸、純米大吟醸の高級酒ライン発売。

スキー正宗
スキー正宗は昭和2年にそれまで使用していた越山正宗からスキー正宗へと変更しました。 昭和18年前後から第二次世界大戦の戦火が厳しくなりカタカナが敵性語として扱われ会社名や商品に使いづらい世の中へとなりました。当社もすきーまさむねと言う読みは代えなかったものの表記はスキー正宗から寿亀正宗へと変更。戦後にまたカタカナ名へと戻し現在に至っています。
上越エリアのお酒は新潟県内の淡麗辛口のお酒と違い若干甘めのお酒が多いのが特徴。当社のお酒の伝統の味もやや甘口。スキー正宗シリーズは日本酒度の目標を0~+2と定め、数値上はやや辛口となるものの味わいはやや甘くと感じられるお酒です。
スキー正宗の伝統の味わいは純米原酒で地元産の青梅を漬け込んだ『梅ほの香』にも受け継がれています。甘すぎない梅酒を目指して折角の地元の梅の味を存分に味わって頂きたく、極力氷砂糖の使用量を減らして飲み飽きしない梅酒に仕上げました。

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<日本の名水百選> 群馬 尾瀬の郷片品湧水群

2025-01-17 07:03:51 | 名水百選

 「尾瀬の郷片品湧水群」

 瀬の郷片品湧水群について
 優れた水質に加え、清掃・植林・山林保全・環境活動等、村民による長年の取り組みが評価され、平成20年度に環境省より「平成の名水百選」として認定されました。
 尾瀬の郷片品湧水群は、片品村全域の湧水を対象としています。

 湧水群の成り立ち
 尾瀬や片品村を囲む至仏山、武尊山、白根山など2000メートル級の山々に降った雪や雨が地下に浸透し、長い時間をかけて自然の中で濾過され、各所に湧出したものです。湧水源は村内に広く数ヵ所にあり、村民は古くからこの土地の恩恵としてその流れを汲み、生活に、また田畑の用水として使ってきました。

 おいしさがわかる水
 ハイキングや各種のサマースポーツ、スキー・スノーボードなどで片品村を訪れる観光客の中には早くから水のおいしさに着目していた人たちがいました。一般に飲んで「おいしい」、料理が「おいしい」と言われる水は、感覚的な評価のほかに、水質検査による裏づけがあります。片品湧水群の水は、硬度11~55、pH7.3~8.2と、おいしい要素を満たしています。水グルメとは言わずとも、おいしさは誰にもわかるものです。

 おいしい湧水を気軽に味わっていただくために
 村民プロジェクト
 片品村では「平成の名水百選」認定を機に、村を訪れる方々に是非この湧水のおいしさを直接味わっていただきたいと考えました。しかし、場所によっては湧水源が深い山林の中にあり、自然環境を守るという方針から保存林となっているために立ち入ることは出来ません。そこで、湧水源を持つそれぞれの地域住民の協力を得て、いわば村民プロジェクトとして運動を起こしました。このようにして、村内の10ヵ所に取水設備を整え、おいしい水を求める人に便宜をはかることができるようになりました。それぞれ一番近い水源から直接引いてきています。

 尾瀬の郷片品湧水群のひとつ「観音様の水」

 夏でも手の切れそうな、というたとえがたとえでないほど冷たい水が滾々と湧き出しています。湧出源はこのすぐ後ろ。そこから直接引いているピュアな水です。

 歴史

 ここは古くは御座野入と書き、上州の観音札所・沼田横堂三十三所の二十九番の札所になります。背後の山の中腹、右上に見える神社がこの地の歴史の一端を物語ります。興味をそそられて登って行きますと、最近建て替えられた様子の社の前に控えめな石碑があり、御詠歌が彫刻されています。古文書の知識をもって眺めていると、このような字に読めます。

 「満以りき定 以まそあら多に 美さの入 山乃奥にも ありあけの月」

 上の句を現代的な文字使いに改めますと

 「参り来て 今ぞあらたに御座の入り」

 となるようです。この地の由来がしのばれます。そして同時にその背後に、おそらく無名のままそこに生きた多くの人々の生活の歴史もあります。

 村民プロジェクト
 この給水施設は地元の人たちが寄進して整備したもの。かやぶきの屋根の中にその人たちの名前が記されています。
 御座入の人たちは、毎月一回、日を決めてこの周辺の清掃を行っています。右の写真のように、冬の間も休まず行っています。

*https://oze-katashina.info/meisui/kannonsama/ より

 水質・水量
 1日の湧水量:1・1万トン
 由来・歴史
 水源の裏に沼田横道三十三番観音霊場があったため「観音様の水」と名付けられた。
 水質保全活動
 「観音様の水」は、地域の村民が、毎月1回清掃活動を行い、湧水群周辺は森林組合やボランティアによる計画的な森林の整備や上下流交流の植林体験会を毎年行っている。又、「自然保護の原点」と言われる尾瀬を中心に清掃活動等、地域住民、村内小中学校、企業、ボランティア団体等と連携を図り多くの自然保護活動が行われている。

 周辺の自然環境-尾瀬国立公園と日光国立公園にまたがる湧水群。1日11,000トン以上の豊富な水量で、入山者や地域住民の簡易水道として利用されている。また、片品村全体が豊かな自然に包まれており、良好な景観を保持している。
 利用状況-「岩清水」は、登山者の水場として利用されている。
 「観音様の水」は、お茶やコーヒー、料理に利用されている。
 水道水としては市民の生活用水や、観光施設でも利用され、またミネラルウォーター、どぶろくや豆腐等の製造が行われている。

*https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=17 より

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