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<知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト> 直木賞&芥川賞&菊池寛 その3.

2025-01-18 11:07:09 | 知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト

 「菊池寛」

 菊池 寛(きくち かん、旧字体:菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名の読みは「きくち ひろし」。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。

 生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。

 著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。

 経歴
 生い立ち

 香川県香川郡高松七番丁六番戸の一(現在の高松市天神前4番地)で7人兄弟の四男として生まれる。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、寛の縁戚に当たる。しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた。高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。しかし家が貧しかったため、高等小学3年生の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。このころ、「文芸俱楽部」を愛読し、幸田露伴、尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しむ。

 学生時代
 1903年(明治36年)香川県立高松中学校(旧制、現在の香川県立高松高等学校)に入学。寛は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。図画や習字は苦手だったが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になった。中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、歴史や文学関係など興味のあるものはすべて借りたという。

 中学を卒業した後、成績優秀により学費免除で東京高等師範学校へ進んだものの本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けた。地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、明治大学法科に入学するも3か月で退学。 徴兵逃れを目的として早稲田大学に籍のみ置く。文学の道を志し第一高等学校受験の準備をする。これが養父に発覚し、縁組は解消。進学が危ぶまれたが、実家の父親が借金してでも学費を送金すると言ってきたことで道が開ける。

 1910年(明治43年)、第一高等学校第一部乙類に22歳で入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介、久米正雄、井川恭(後の法学者恒藤恭)がいた。しかし卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れする「マント事件」が原因となり退学。その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず選科に学ぶことを余儀なくされた。本来は一高の友人らと同じく東京帝国大学に進みたかったが、上田萬年の拒絶のため叶うことはなかった。京大選科の時に『萬朝報』の懸賞に応募した短編小説「禁断の木の実」が当選。翌年旧制高等学校の卒業資格検定試験に合格し本科に移る。

 この京大時代では文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。当時の失意の日々については(フィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。1人京都の地で孤独や焦燥の日々の中、ジョン・ミリントン・シングなどのアイルランド戯曲を読破する。東京にいる芥川、久米らの好意により第三次『新思潮』創刊同人となり、菊池比呂士、草田杜太郎の筆名で戯曲を発表する。卒業を間近にひかえた1916年(大正5年)5月、第四次『新思潮』では本名の菊池寛の名で「屋上の狂人」を発表。

 人気作家への道

 1916年(大正5年)7月、京大卒業。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」。上京して、芥川、久米と夏目漱石の木曜会に出席する。成瀬家の縁故で時事新報社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金する。また第四次『新思潮』に「父帰る」を発表するも、特に反響はなかった。

 寛は生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談。1917年(大正6年)、高松藩の旧・藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚。1918年(大正7年)、『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高評価され文壇での地歩を築いた。1919年(大正8年)、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表。時事新報を退社し、執筆活動に専念する。翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した大衆小説「真珠夫人」が大評判となり、一躍人気作家となった。

 『文藝春秋』創刊
 1923年(大正12年)1月、人気作家となった寛は若い作家のために雑誌『文藝春秋』を創刊する。発行編集兼印刷人は菊池寛、発売元は春陽堂、定価は10銭で、『中央公論』が特価1円、『新潮』が80銭の時代に破格の安さだった。巻頭を飾ったのは芥川龍之介のエッセイコラム「侏儒の言葉」。創刊号3000部はまたたくまに売り切れ、次号も売り上げを伸ばし、「特別創作号」を銘打った5号は1万1千部の売り上げとなった。1926年(大正15年、昭和元年)から春陽堂を離れて「文藝春秋社」として独立し『文藝春秋』は総合雑誌となる[12]。初期の編集部に石井桃子、桔梗利一らがいる。また大衆作家として、婦人雑誌や新聞に多くの小説を発表していたが、1927年(昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺。葬儀では友人代表として弔辞を読み上げたが、読む半ばから涙が止まらなかった。 1935年(昭和10年)、新人作家を顕彰する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を創設した際には11人の選考委員の1人となった。1926年(大正15年)日本文藝家協会を設立。

 1925年(大正14年)、文化学院文学部長就任。1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。しかし1937年(昭和12年)には、東京市会議員に当選した。

 言論の自由を何よりも重んじた菊池は、「左傾にしろ、右傾にしろ、独裁主義の国家は、我々人類のために、決して住みよい国ではない」と主張し、政治家として、「反資本、反共産、反ファッショの三反主義」を掲げる穏健派の社会主義の社会民衆党で活動した。

 日本が数年来、反動的な右傾時代になつたに就いては、政党政治の堕落も、その一つの原因であるが、もう一つは共産主義者の妄動である。彼等は、日本に対する正当なる認識を欠き、自己の力量をも知らず、実現不可能な理想をふりかざして、社会不安を醸成したゝめに、却つて反動的勢力の擡頭に、口実を与へてしまつたのである。彼等の妄動のために、合理的な労働運動や、正当なプロレタリヤ解放運動までが、オヂヤンになつてしまつた。十年前までは、あんなに盛んであつた改造とか解放とか云ふ言葉が、今ではどこにも聞こえなくなつた。日本の社会改革運動は、合法的な社会民衆党的な主張に依つて、穏健に確実に行はるべきであつたのである。
 — 菊池寛「話の屑籠」(昭和10年5月)
 文士部隊

 1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った。1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任、国策映画作りにも奮迅する。

 公職追放、急死
 終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった。その際、夫人の手を握りしめていたという。

 告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。

 私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。
 — 吉月吉日 菊池寛

*Wikipedia より

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<社名の由来> 日清オイリオ

2025-01-18 10:57:33 | 社名の由来

 「日清オイリオ」

 日清オイリオグループ株式会社(にっしんオイリオグループ、The Nisshin OilliO Group, Ltd.)は、東京都中央区に本社を置く日本の食用製油会社であり調味料等の大手食品メーカーでもある。

 コーポレートステートメントは「植物のチカラ」で、それ自体が登録商標(日本第4548319号ほか)である。

 概要
 「日清サラダ油」をはじめとする「日清」ブランドの商品は、日清製油(1907年創業)によって製造・販売されており、丸の中にナイフとフォークをX字に交差させたマーク(ナイフフォークマークと呼んでいた)とともに長らく親しまれていた。

 2002年、日清製油はリノール油脂(三菱商事系)、ニッコー製油(前身は日本興油)と経営統合。日清製油は持株会社となって商号を日清オイリオグループ株式会社に改め、日清製油の事業部門は会社分割されて子会社の日清オイリオが設立された。2004年、日清オイリオグループ株式会社(純粋持株会社)、日清オイリオ、リノール油脂、ニッコー製油の4社が合併し、改めて日清オイリオグループ株式会社が発足した。

 社名のOilliO(オイリオ)とは、油を意味する英単語「Oil」にそれを反転させた「liO」を重ねた言葉で、製油業の原点を大切にしながら新しい分野へ次々とチャレンジしていくという意志が込められている。ロゴマークはフジタ工業などのロゴマークを作成した伊藤勝一が作成した。

 なお、日清食品、日清製粉、日清紡績、日清医療食品など、日本国内には「日清」を冠した著名な企業がいくつか存在するが、それらとの資本関係は特にない。

*Wikipedia より

 創業時に日本と当時の清国 大連に工場があった事より「日+清」製油とする。ロゴマークは、油のOilをシンメトリーにしてliOでオイリオOilliOとしている。

*Wikipedia より

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< 郷土料理 > 長野 やたら

2025-01-18 10:51:51 | 郷土料理

 「やたら」

 主な伝承地域 北信地域

 主な使用食材 きゅうり、なす、みょうが、青唐辛子、大根の味噌漬け

 歴史・由来・関連行事
 「やたら」とは、野菜や漬物を細かく刻んで混ぜ合わせたもので、夏野菜のふりかけのようなもの。主に北信地域で食べられている郷土料理で、夏の定番メニューとして親しまれてきた。みょうがやなすなどの夏野菜、ぼたんこしょう、大根の味噌漬けを刻んで混ぜ合わせ、あたたかいご飯にかけて食べる。「ぼたんこしょう」は、古くからこの地域で栽培されてきた青唐辛子で、牡丹の花のように見えることからぼたんこしょうと名前が付いたといわれている。平成20年に信州の伝統野菜に認定された。野菜のシャキシャキ感と、ピリッとしたぼたんこしょうの辛みがアクセントになり、暑くて食欲がない夏でもやたらがあればご飯が食べられた。とにかく、やたらとなんでも入れたり、やたらと刻んだりすることから「やたら」といわれるようになったといわれている。やたらの美味しさは、「旬の野菜」、「味噌漬け」、「包丁の腕」で決まる。「信州味噌」は米こうじと大豆でつくる淡色・辛口の代表的な「米味噌」でこれを使った味噌漬けだから味に深みが出る。日本全体で生産・消費は全国一、40%を超えている。

 食習の機会や時季
 やたらは野菜をたっぷりと使った料理で、夏には欠かせないおかずである。たくさんとれる夏野菜を食べきるための工夫でもあり、毎食とれたての野菜を使って食べた。唐辛子やみょうがは食欲増進に効果的だといわれ、夏野菜に含まれているカリウムはほてった体を冷やす効果が期待できるとされており、夏バテ防止にもなった。

 飲食方法
 家にある野菜を使って自由にアレンジができる。おくらやながいもなどのネバネバ系や、味噌漬けの代わりにたくあんやぬか漬けを入れたりもする。醤油やカツオ節を加えると風味が増す。やたらはご飯だけでなく、素麺や冷奴とも相性が良い。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 現在も夏になると、各家庭でつくられている。最近は、地元の観光地のレストランでも提供されており、手軽に食すことができる。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/yatara_nagano.html より

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<B級ご当地グルメ> 徳島 徳島ラーメン

2025-01-18 10:43:55 | B級ご当地グルメ

 「徳島ラーメン」

*https://www.awanavi.jp/archives/spot/2430 より

 徳島ラーメン(とくしまラーメン)は、徳島県のご当地ラーメンである。大きく白・茶・黄の三系統に分けられるスープとトッピングされる肉などが特徴である。「中華そばいのたに」が、1998年に新横浜ラーメン博物館に期間限定で出店したのを切っ掛けとして全国的に徳島ラーメンが知られるようになった。

 概要
 徳島ラーメンは、戦後1949年頃に屋台から始まっていると言われている。
 徳島にとんこつラーメンが広がったのは、日本ハムの前身である徳島ハムの工場があり、安いとんこつが大量に供給されたからといわれている。
 屋台の夜鳴きそばや、街角の大衆中華そば店に端を発した中華そばである。庶民の空腹を満たしつつ自然発生的に広まり、70年余の長い歴史の中で変遷を遂げてきた。したがって、将来的に次世代の職人が全く毛色の違う徳島ラーメンを開発する可能性は大いにある。
 スープは、大きく白・茶・黄の3系統などが見られる。発祥地と絡めて、白=小松島系、茶=徳島系、黄=鳴門系に分類されることもある。
 スープに薄口醤油や白醤油などで味付けした所謂とんこつの白系、豚骨スープに濃口醤油やたまり醤油で味付けし中細麺の茶(黒)系、鶏がらや野菜などを使い薄口醤油を加えた薄い色のスープを用いる黄系である。
 ただ、大雑把な分類であるが、鶏ガラと豚骨が原材料の主流であり、多くの店でこの二素材を組み合わせてダシを取っている。これに店ごとのアレンジを加え、昆布や鰹節など魚介系の要素を加えたり、スープに複雑な旨味や和の舌感を醸し出している店もあれば、香味系の野菜や香辛料を隠し味で用いている店もあり、百花繚乱である。
 トッピングされる肉であるが、薄切りの豚バラ肉を醤油や砂糖、みりん、酒ベースで甘辛く煮付けたものが乗せられる。店によって肉質や脂身の比率が異なり、甘辛さの度合いやカットの幅が異なり、そこに店の個性が出る。そのほか、牛肉、チャーシューがトッピングされる店も見られるようになった。
いずれの肉も単独の存在で成り立っているというよりも、時間の経過とともに、肉汁や脂を熱いスープに放ちながら、味わいを変化させていく役割(一口ごとにあっさりからこってりへ)を担っている。
 麺は、縮れが少なく短め、固さは柔らかめである。具は、青ネギ、メンマ(というよりはタケノコの水煮)、モヤシなど。
 生玉子が特徴的(特に茶系)であり、ほとんどの店で生玉子のトッピングがある。このことから、すき焼きのようなラーメンと表現する人もいる。

*Wikipedia より

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<料理用語-和食> 善哉

2025-01-18 10:11:35 | 料理用語

 「善哉-ぜんざい」

 関東ではお汁粉。

 小豆を煮崩して砂糖を加えた汁。

 餅、粟、蕎麦、栗、白玉等を入れる。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/94_H/015.html より

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うまいッ! NHK 「“宝の海”の希望の魚!メヒカリ〜福島・いわき市〜」

2025-01-18 09:50:35 | うまいッ!NHK

 「“宝の海”の希望の魚!メヒカリ〜福島・いわき市〜」 2024年3月11日

 東日本大震災から13年目の3.11、福島・いわき市を天野ひろゆきさんと塚原愛アナウンサーが訪ね旬を迎えた福島の海の幸「メヒカリ」の美味をたっぷりとお伝えします。

 いわき沖は黒潮と親潮とがぶつかる潮目の海、豊富なプランクトンを求め多くの魚が集まってきます。そこで取れる「メヒカリ」は他県産より脂のりがよく味も濃厚との調査結果も。このおいしい魚を消費者に安心して食べてもらえるよう、生産現場では安全を守るための様々な取り組みが行われています。刺身はもちろん焼いても揚げても洋食にも相性抜群のメヒカリ!両MCが自慢の腕を振るって地元の人気料理に挑戦します。お楽しみに!

 「うまいッ!」の秘密
 いわき沖は、黒潮と親潮が交わる「潮目の海」と呼ばれ、黒潮とともに北上してきた魚が親潮で発生したプランクトンを食べて繁殖。質の良い魚が獲れると言われている。福島産のメヒカリは粗脂肪率が高く、皮や骨も柔らかくなる。

 メヒカリは足が早い魚であるため、県外でメヒカリの刺身にありつくのは極めて難しかった。その悩みを解決してくれたのが-60℃の冷凍庫。生のまま加工し、すぐに冷凍。県外に出荷後、解凍すれば新鮮さそのままに生食できるようになった。

 「メヒカリを使った料理レシピ」について
 「メヒカリの唐揚げ」※素材自体がおいしいので、余計な味付けは控え、シンプルに魚の旨みを楽しむ料理。
 <作り方>
 1)首と内臓を取り除いたメヒカリにかたくり粉を付けて冷凍する。
 2)冷凍のまま160℃の油で5~7分揚げる。

 「メヒカリのアヒージョ」
 <材料>1人分
 ・メヒカリ:2匹
 ・エリンギ:2切(10g)
 ・しいたけ:2切(10g)
 ・ミニトマト:1個
 ・ブロッコリー:1切(15g)
 ・ニンニク:5片(3g)
 ・オリーブ油:70ml(適量)
 <作り方>
 1)オリーブ油の中に、ニンニク、キノコ類、トマトを順番に入れる。
 2)1)にメヒカリ入れ、弱火で10~15分煮る。
 3)2)にブロッコリーを入れて盛り付ける。

*https://www.nhk.jp/p/umai/ts/P7R4N8K39M/episode/te/WLP3R8XJ5K/ より

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<異名-スポーツ選手> ピクシー

2025-01-18 09:37:57 | 異名

 「ピクシー ドラガン・ストイコビッチ」

 ドラガン・ストイコヴィッチ(セルビア語: Драган Стојковић、ラテン文字転写: Dragan Stojković、1965年3月3日 - )は、セルビア(旧ユーゴスラビア)の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。セルビア代表監督。

 愛称のピクシー(PixyまたはPiksi)は少年時代に見ていたアニメ「ピクシー&ディクシー」(日本でのタイトルは「チュースケとチュータ」)の主人公のネズミの名前に由来している。本来のつづりは「Pixie」であり、Pixyというつづりはメディアが付けたものである。

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 話を振る など

2025-01-18 09:28:04 | 慣用句・諺

 「話を振る」

 会話のきっかけとして相手に話題を提供する。話題をもって話しかける。

 

 「鼻血しか出ない」

 (「鼻血も出ない」「鼻血しか出ない」などの形で)出すものはすべて出した意で、有り金を使いはたしたたとえにいう。

 

 「鼻血も出ない」

 (「鼻血も出ない」「鼻血しか出ない」などの形で)出すものはすべて出した意で、有り金を使いはたしたたとえにいう。

 

 「鼻っ柱が強い」

 勝ち気で人の言いなりにならない。自信家で気が強い。鼻っぱしが強い。

 

 「鼻っ柱を圧し折る」

 相手の向こう意気や自信をくじく。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 新潟 君の井酒造

2025-01-18 08:56:19 | 日本酒

 「君の井酒造」

 君の井酒造株式会社(きみのいしゅぞう)は、新潟県妙高市にある1842年(天保13年)創業の酒蔵。屋号は「田中屋」「酒田中」。代々「大五郎」を襲名。銘柄は「君の井(きみのい)」。

 君の井酒造の酒造りの特徴として、仕込みの半分を昔ながらの山廃仕込みで造っていることが挙げられる。今日の酒造りでは、水に純粋な乳酸を入れて酸性にし、外から雑菌が入って腐造しないようにしてから酒母造りを始める速醸仕込みが主流を占めるのに対し、自然界の乳酸菌で時間をかけて発酵させていくやり方である。

 使用する米は2018年(平成30年)兵庫県産の「山田錦」から地元新潟県産の「越淡麗」に切り替えた。また君の井酒造では、昔から料理との相性も考えた酒造りを続けてきた。その証拠に君の井山廃純米が、2020年(令和2年)フランスの日本酒コンクール「Kura Master」の純米酒部門でプラチナ賞に輝いたのを皮切りに、2022年(令和4年)も同部門の金賞に輝いている。

 君の井酒造株式会社 新潟県妙高市下町3-11

*Wikipedia より

 代表銘柄

君の井 山廃 純米大吟醸
やわらかな香りと奥行きのある深く滑らかな旨味の逸品です。

原材料 米(国産)・米こうじ(国産米)
使用米 新潟県産越淡麗100%
精米歩合 40%
アルコール度数 16.5度

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<日本の名水百選> 埼玉 元荒川ムサシトミヨ生息地

2025-01-18 08:48:31 | 名水百選

 「元荒川ムサシトミヨ生息地」

 「熊谷市ムサシトミヨ保護センター」

 熊谷市ムサシトミヨ保護センター(くまがやしムサシトミヨほごセンター)は、埼玉県熊谷市にある研究施設。

 概要

 1957年4月、埼玉県水産指導所熊谷養鱒試験池として設立(幾度かの組織変更や移転を経て、廃止時には「埼玉県農林総合研究センター水産研究所熊谷試験地」)。確認されている中では唯一のムサシトミヨ(絶滅危惧種)生息地である元荒川源流域の近くにあり、ムサシトミヨの研究・保護活動や元荒川の清流維持のため、井戸水をポンプで汲み上げて元荒川へと流す作業も行なわれていた(元荒川自体は、生活廃水などが流れており、ムサシトミヨの生息に適した環境ではなくなってしまったための生息地存続策。他地域のムサシトミヨがいなくなったことを受けて開始)。

 しかし、県組織の再編から、埼玉県農林総合研究センター水産研究所では、熊谷試験地を閉鎖し、ムサシトミヨ研究も終了することが決定。閉鎖されると、元荒川流水用のポンプも稼動停止にせざるを得なくなり、ムサシトミヨの生存が困難になってしまうため、県と市の協議の結果、ポンプ管理および実験池・実験室は県が管理継続、管理研究用施設は熊谷市に移管、ムサシトミヨ研究は県環境科学国際センター(加須市)に移管することで合意、2004年10月1日、管理研究用施設が「熊谷市ムサシトミヨ保護センター」に生まれ変わった。

 現在はさいたま水族館の職員によってムサシトミヨの飼育・繁殖・保護が行われている。また、市民グループ「熊谷市ムサシトミヨをまもる会」の活動拠点としても利用されている。

 「ムサシトミヨ」

 学名:Pungitius sp.。定まった学名がない。
 関東地方の一部(東京都西部の石神井・井の頭、埼玉県熊谷市・本庄市・川越市、群馬県、茨城県、千葉県)に生息していたことが知られているが、都市化や環境汚染などの影響で生息地が急激に減少していった。20世紀終盤以降、確実に生息が確認されているのは埼玉県熊谷市の元荒川源流域のみである。平成3年に埼玉県が県の天然記念物および「県の魚」に指定した。平成23年には熊谷市が「市の魚」に指定し、熊谷市ムサシトミヨ保護センターを拠点にして、保護下に置いている。食性はボウフラや水生昆虫、小さな甲殻類を食べている。身を守るために背には8 - 9本、腹には2本、尻には1本のトゲがあり、体長3.5 - 6cm程。鱗板は尾の付け根部分にある。体色は緑っぽい暗緑色。寿命は短く約1年で、産卵期(3月頃)には婚姻色で体色が少し黒ずむことがある。
 絶滅危惧IA類 (CR)(環境省レッドリスト)

 「ムサシトミヨ保護活動」
 ムサシトミヨの項目を見ればわかるように、ムサシトミヨは絶滅の危機に瀕している。これを食い止め、増やそうとする活動が、市民を中心に行なわれている。

 前述の「まもる会」は、密漁防止(「埼玉県希少野生動植物種保護条例」に基づく「県内希少野生動植物」に指定されており、捕獲は禁止されている)のパトロールを行い、ゴミ拾い・草刈りといった生息地の自然保護活動を行なっている。また、保護センターにおいて、ムサシトミヨの解説会を開き、ムサシトミヨを通して自然の保護の大切さを訴える啓蒙活動を行なっている。
 市管工事業協同組合青年部が、ボランティアとして清掃を行なっている。
 近隣の2小学校および1中学校では、ムサシトミヨを校内で増殖・飼育し、生息地に放流するという課外授業が毎年行なわれている。
 2008年、環境省による「平成の名水百選」にムサシトミヨ生息地が認定される。
 2013年、日本ユネスコ協会連盟のユネスコ・プロジェクト未来遺産運動に「熊谷市ムサシトミヨをまもる会」の活動が「世界で一つだけの『元荒川ムサシトミヨ生息地』保護活動」として登録される。

*Wikipedia より

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