いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

イッピンNHK 「足元をおしゃれに 気持ちよく~山形 履物~」

2023-12-22 08:29:25 | イッピンNHK

 第243回 2020年1月14日 「足元をおしゃれに 気持ちよく~山形 履物~」リサーチャー: 春輝

 番組内容
 絹でできた高級品志向のスリッパ。日本一のスリッパ生産量を誇る山形県河北町で開発された。格式のある日本旅館などから注文が相次いでいる。また同じ山形で、女性向けのオシャレな下駄や、履き心地抜群の草履が作られている。実は、明治時代から山形の草履は全国的に知られている。理由は履いたときの気持ちよさ。編み上げた草履に熱と圧力をかけることで生まれる効果だ。また、女性向けのカラフルで姿勢がよくなる下駄も紹介。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A202001141930001301000 より

 

 1.豊国草履(軽部草履)

 寒河江市や河北町は、昭和始めには全国一の草履表の産地でした。
 「軽部草履」の始まりは、今から100年以上も前の大正2(1913)年。
 当時の山形県村山地方には草履業者は数え切れない程あり、「軽部草履」は家族のみの小さな個人事業に過ぎませんでした。

 しかし現在、 手編み草履の生産を行う事業者はわずかで、「軽部草履」がその95%以上を担っています。
 
 「軽部草履」は日本の伝統を足元から支えるべく次世代に継承するため若手の育成にも尽力しています。

 また近年、幻の品種「豊国」(とよくに)を栽培して、その稲藁を使った草履作りを開始しています。

 商品には、山形伝統の稲藁節草履「豊国」の他、良質な竹皮を利用した草履「竹粋」や「わらじ」、更には織田信長も愛用したという「足半」(あしなか) まで作っています。

 軽部草履 山形県寒河江市中央工業団地51

 

 2.かほくスリッパ

 <山形県スリッパ工業組合に加盟するスリッパメーカー>
 阿部産業株式会社
 タカナシスリッパ
 株式会社後藤
 河内スリッパ
 有限会社タキザワ
 軽部草履株式会社
 
 全国から注文が殺到する2万円の最高級スリッパ「KINUHAKI」(阿部産業)

 大正8(1919)年に、草履の仲買いとして創業を開始した阿部産業。
 昭和40年代に、室内履きの製造を始めました。
 現在「山形県スリッパ工業組合」では中心的な役割を果たしています。

 創業99年目の平成30(2018)年に「スリッパ」という言い回しを「ホームシューズ」と改め、” 家に帰ったら、ゆったりとした時間を過ごしてほしい”との想いから、自社開発のオリジナルファクトリーブランド「ABE HOME SHOES」を誕生させました。

 「ABE HOME SHOES」の 1作目
 「BABOUCHE(Canvas)バブーシュ・帆布」は強度・耐久性に優れ、 通気性の良い帆布(=キャンバス地)素材のものです。
 しっかりしていながらも足馴染みが良く柔らかで、使い込むごとに更に柔らかくなっていきます。

 冬は「ボア」

 裸足で履く「室内用草履」は、足の疲れをリセットしてくれます。
 洗濯機で洗えます。

 麻のスリッパ「さふら」は、ふわりと足を包み込んでくれる優しい履き心地です。

 格式のある日本旅館などから注文が相次ぐ、絹でできた高級品志向のスリッパ「KINU HAKI」

 「KINU HAKI」は、 工業技術センターとの共同研究し、「紅花」と「かほくスリッパ」と「米沢織り」の出会いから生まれた袴地仕立ての室内履きです。

 米沢織り職人(神尾織物)が丹誠込めて織り上げた最高級の絹を使った袴地を、日本の生活文化の中で育まれた美しい所作をイメージして「たたむ・仕舞う・携える」をテーマに室内履きに仕上げました。

 「神尾織物かんおおりもの」

 現在、市場で販売されている礼装用男袴の95%近くは山形県米沢市で生産されている「米沢平袴」です。
 
 平成21(2009)年には「グッドデザインアワード」で「日本商工会議所会頭賞」受賞。
 同年には「山形エクセレントデザイン奨励賞」も受賞しました。

 他にもロンドン在住のデザイナー・和井内京子さんが「米沢織り」の「袴地」をもって生み出した「HAKAMA JITATE」は平成23(2011)年に「山形エクセレントデザイン」の「エクセレントデザイン大賞」受賞しています。
 
 「心地よく軽快なはき心地」、「シンプルで楽しいスリッパ」コンセプトの「HaWrap」もあります。

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Yamagata/hakimono より

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イッピンNHK 「個性が光る 北の大地の器~北海道 札幌の焼き物~」

2023-12-21 20:18:41 | イッピンNHK

 第242回 2020年1月7日 北海道 札幌の焼き物 個性が光る 北の大地の器 南沢奈央

 番組内容
 北海道、札幌の焼き物。個人作家が多く、自由な風土の中、個性をいかした様々な製品が生み出されている。女性らしい柔らかさを表現したいと作られたのは、レースの模様が華を添えるアンティーク調の器。使いやすさを大切にして作られたのは、深い青のグラデーションに包まれたカップ。独学で焼き物を追及した作家が作ったのは、素朴な土の風合いと繊細な網目模様が印象的な器。札幌の焼き物の魅力を南沢奈央さんがリサーチする。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A202001071930001301000 より

 

 今回のイッピンは「北海道 札幌の焼き物」。

 現在、北海道には旭川市の「大雪窯」など300程の窯があると言われています。

 道内での焼き物作りは江戸時代末期の安政年間に「函館」で始まったと言われています。
 当時は「箱館」という地名でしたので「箱館焼」と言いました。

 安政6(1859)年に箱館奉行が地場産業を育てようとして幕府から許可を得て、美濃(岐阜)から来た足立岩次らが箱館谷地頭で、道内初の窯業を本格的に開始しました。

 「箱館焼」は磁器中心で染付の小物中心に作られ、本州に北前船で運送されました。

 しかし、冬の気候や資材調達に経費が掛かり過ぎるなどの経済的理由から「箱館焼」はそれほど長続きせず、3年程で閉鎖となりました。

 小樽では明治に入ってから3窯が開かれました。

 明治5(1872)年に小樽の土場町で「土馬焼(後志焼)」(愛知常滑の本多桂次郎・守清、~昭和18年まで)、大正7(1874)年には「入船焼」(石川県九谷焼の松原新助・陶光)、そして明治32(1900)年に北海道小樽に渡った越後出身の白勢慎治氏が昭和10(1935)年に「小樽窯白勢陶園」を始めました。

 美しい青緑色からファンも多かったのですが、後継者難から、平成19(2007)年に幕を閉じました。

 現在「小樽窯白勢陶園」の建物は、ガラス工房の「幸愛硝子(ユキエ ガラス)」が工房とギャラリーとして再活用しているそうです。

 札幌では大正3(1914)年10月に円山村 (当時)に「札幌陶器工業株式会社」が誕生し、「札幌焼」が始まりました。

 その後酒類を扱う「三国屋南部源蔵商店」の支配人・中井賢治郎によって買収され、「中井陶器工場」を開設し、三国屋にとっての必需品である徳利、甕、茶器などを生産しました。

 しかし、大正14(1925)年10月の三国屋倒産や本州からの陶磁器流入が影響し、閉鎖となりました。

 昭和52(1977)年に中井陶器工場の中心的陶工だった涌井辰雄さんが大正期の陶器の破片を元に「札幌焼」を復活。

 涌井さんが亡くなられた後はお弟子さんの阿妻一直さんが「札幌焼」の名を引き継いで「札幌焼盤渓窯」として作品制作を行っています。

 なお、札幌市旭山記念公園内に「札幌焼窯跡」で、さっぽろ・ふるさと文化百選のNo.048として選定されています。

 

 1. NUIT  (原田聡美さん)

 「NUIT(ニュイ)」とは仏語で「夜」を意味します。

 手にした心地よさと驚きを大切に、当たリ前の使いやすさでだけではない、印象的な器づくりをしているそうです。

 レースの模様が華を添えるアンティーク調の「Lace」シリーズが紹介されるようです。


 2. 札幌焼盤渓窯  (阿妻一直さん)

 深い青のグラデーションのカップを作るのは「札幌焼」を復活された涌井さんの弟子・阿妻一直さん。

 阿妻さんは岩見沢市の「こぶ志焼」や加藤唐九郎・濱田庄司が復興した窯としても知られる秋田県の「楢岡焼」を学びました。

 「楢岡焼」は美しく深みのある青色は「海鼠釉」という釉薬を使う所に特徴があります。

 

 3. 橋本忍さん

 独学で焼き物を追及している作家さん。
 素朴な土の風合いと繊細な網目模様が印象的な器を作っていらっしゃいます。

*http://atmarymead235.seesaa.net/article/473001138.html より

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イッピンNHK 「百万石の美を装う~石川 装飾品~」

2023-12-20 08:49:37 | イッピンNHK

 第241回 2019年12月24日 「百万石の美を装う~石川 装飾品~」リサーチャー: 田丸麻紀

 番組内容
 白地に金の装飾がエレガントなバングル。カラフルな絹糸が輝くペンダント。鳥の羽が風にゆれる可愛らしいイヤリング。すべて、石川県・加賀百万石の文化にルーツを持つ。石川県は、江戸時代、藩主・前田家が工芸を奨励したことから、多彩な伝統工芸が花開いた。漆工芸の蒔絵、鮎つり用に特化した毛針、そして加賀友禅の縫子たちが作った絹糸の指ぬき。それぞれから、現代のセンスに合わせたアクセサリーが生まれている。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201912241930001301000 より

 

 1.「Classic Ko」(大下香仙工房)

 「大下香仙工房」は、初代・大下雪香が金沢で習得してきた高度な装飾技術を要する 「加賀蒔絵」を
故郷の山中の地で広め伝えるべく明治27(1894)年に創立されて以来120年余り、「蒔絵・漆」の手法を駆使して、美術工芸品を制作する傍ら、イアリング、ペンダント、ピン、ブローチなどの蒔絵ジュエリー・アクセサリーを作っています。

 「Classic Ko」は「古典的な、一流の、時代に左右されない」などの意味を持つ「Classic」と初代「雪香」(せっこう)より代々受け継がれる雅号「香(Ko)」 に、「その人の美意識・感性を [ 香り(ko) ] として纏う」 という意味も込めているそうです。

 大下香仙工房 石川県加賀市二子塚町103−2  
 
 
 2.加賀ゆびぬき(加賀てまり毬屋・大西由紀子さん)

 大西由紀子さんは、金沢に伝わるゆびぬきの技法を復元・研究する小出つや子さんをお祖母様に持ち、そのお祖母様やお母様の指導の下、平成12年からゆびぬき作りを始めました。

 平成16年1月に東京・銀座で初の作品展が好評を博して以来、ゆびぬきブームの中心として活躍されています。
 
 
 3.フェザーアクセサリー「MEBOSO」(目細八郎兵衛商店)

 目細八郎兵衛商店は、加賀前田藩が城下を開く以前の天正3(1575)年に創業しました。
 初代八郎兵衛は京都系統の技術に独自の工夫を凝らして「めぼそ針」を作り上げ、加賀藩主より「めぼそ」を針の名前として頂きました。

 明治23(1890)年「第3回内国勧業博覧会」で17代目細八郎兵衛が「加賀毛針」が褒状を受賞したことで、
「加賀毛針」の品質と名声が広く全国に伝わました。

 そして現代、 加賀毛針の美しさ伝え、新しいものづくりで伝統を守りたいとの思いから、「フェザーアクセサリー」を生み出しました。

 目細八郎兵衛商店 石川県金沢市安江町11−35 

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Ishikawa/accessory より

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イッピンNHK 「維新のふるさと 志を受け継いで~山口 工芸品と菓子~」

2023-12-19 07:07:54 | イッピンNHK

 第240回 2019年12月17日 「維新のふるさと 志を受け継いで~山口 工芸品と菓子~」リサーチャー: 生方ななえ

 番組内容
 山口県萩市は、幕末・明治維新の時代、新しい日本を切り開いた人々のふるさとだ。今も、新しいものを生み出そうとする精神が、工芸や菓子作りに息づいている。萩焼では、それまでなかった香炉。幕末の長州藩士が作ろうとしてできなかった、硬くて熱にも強いグラス。そして、維新後、萩が活気を取り戻すきっかけになった夏みかんを、その形のまま和菓子に仕上げたもの。職人たちの繊細微妙な技と、萩の歴史への熱い思いに迫る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201912171930001301000 より

 山口県萩市は、幕末・明治維新の時代、新しい日本を切り開いた人々の故郷です。
 新しいものを生み出そうとする精神は、今も工芸や菓子作りに息づいています。

 

 1.萩焼「本郷窯」(萩焼作家・廣澤洋海さん)
 
 「萩焼」とは、山口県萩市を中心に作られている陶器です。
 慶長年間に渡来した、朝鮮人陶工の李勺光(山村家)、李敬(坂家)の兄弟が慶長9(1604)年に藩主・毛利輝元の命で、城下で御用窯として開窯し、高麗風の茶陶を制作したことに始まります。
 以来今日まで、この伝統は400年以上の歴史とともに受け継がれ、育まれています。

 そして古来より茶人の間で「一楽、二萩、三唐津」と賞され、数ある茶陶の中でも深く愛されてきました。
 
 茶道の世界では、古くから茶人の抹茶茶碗の好みの順位、もしくは格付けとして「 一 楽・ 二 萩・ 三唐津 」(いちらく・にはぎ・さんからつ)と言われてきました。
 
 これは、
 1位: 楽 焼(京都)
 2位: 萩 焼(山口県萩市)
 3位: 唐津焼(佐賀県唐津市) を意味します。

 「萩焼」の特徴のひとつは焼き締まりの少ない「柔らかな土味」です。
 そしてもうひとつは、高い「吸水性」です。
 「吸水性」が高いことから、長年使っていくうちに器の表面にある細かなヒビ「貫入」(かんにゅう)から
茶が滲み込んで茶碗の趣が変わり、茶人の間では「茶馴れ」とか「萩の七化け(ななばけ)」と言って珍重されています。
 
 戦後の高度成長も「萩焼」は発展を続け、昭和32(1957)年に「選択無形文化財」に選ばれました。
 また昭和45(1970)年)には三輪休和(十代三輪休雪)が、昭和58(1983)年には三輪壽雪(十一代三輪休雪)が「人間国宝」に認定され、平成14(2002)年には「伝統的工芸品」の指定を受けています。

 廣澤洋海(ひろさわひろみ)さんは、「萩焼」の伝統的な色合いの生地に繊細な透彫を施した香炉や花瓶などの作品を製作して、数多くの賞を受賞。
 明治神宮にも奉納されています。

  
 2.萩ガラス工房

 「萩硝子」を制作している「萩ガラス工房」は、幕末に長州藩士の科学者であった「中嶋治平」(なかしまじへい)が興した硝子工房をルーツとしています。

 1823(文政6)年に、萩で朝鮮通詞を務める家に生まれた中嶋は、安政3(1856)年に朝鮮語や蘭語、英語を学ぶために私費で長崎で遊学していた際、その頃大流行していたコレラの予防法を萩藩に提出。
 その功により、公費遊学、オランダ人からの直接の伝習が認められ、軍医・ポンペからは「分析術」を、
長崎製鉄所主任技師・ハルデスからは「蒸気機関学理論」や「冶金学」などを学びました。

 そして安政6(1859)年に萩に帰藩すると、藩に産業の振興奨励として、鉄工局の開設や化学の必要性を訴える建白書を提出、ガラス製造所の開設に関わります。
 
 ガラス製造の目的は、治平が長崎で修得した化学知識を生かして、火薬、医薬品などを研究、製造するためのフラスコ等の道具類を作るためでした。
 
 中嶋は、藩命により薩摩藩に赴き硝子製造や反射炉などを視察、長崎では英国製の蒸気車模型を買って帰り、文久元(1861)年に藩主毛利敬親の御前で試運転を行い、蒸気の力を披露しています。
 
 そして当時の最先端技術である蒸気機関を駆使した硝子製造所が藩主別邸の南園(萩市江向)内に設立され、長州藩に硝子産業を興しました。

 こうして生まれた「萩硝子」は、やがて上質なガラスとして食器やグラスとなり、天皇家や公家に献上するにまでその質を向上させ一時、隆盛の時代を築きました。

 中嶋はその後も分析術の必要性を藩に説き続ける一方、文久3年の下関攘夷戦で撃沈された蒸気軍艦「壬戌丸」の引き上げ、藩内鉱区調査などに奔走した他、写真術・パン製造・染色・人工硝石などの実用化を図り、慶応2(1866)年2月には舎密局(理化学の研究所)の総裁となりました。
 
 ところが同年12月急逝。
 「萩硝子」も施設の焼失や激動の中で、わずか数年で潰えてしまいました。
 そしてその後は再興されることなく、以後、長きに渡って忘れられていました。

 それが、セラミック関連の技術者であった藤田洪太郎さんによって、平成4(1992)年に「萩ガラス工房」が椿原生林(かさやまつばきぐんせいりん)で有名な萩市「笠山」に設立され、治平遺品や残存している記録から当時の復刻品の製作を開始しました。

 「萩ガラス工房」の美しい淡いグリーンが特徴のガラス素地は、地元・笠山で採掘される玄武岩「石英玄武岩」(安山岩)から出来ています。
 この原材料の石英玄武岩を独自で精製し、1520℃という超高温度域で製作した製品は、硬くて熱にも強い国内最高レベルの品質です。

 また、繊細なヒビ割れが特徴の「内ヒビ貫入ガラス」は、熱膨張率の大きいガラスを耐熱ガラスで両側から挟み込んだ「3重構造」になっていて、間に挟んだガラスだけが膨張と収縮を繰り返し、ヒビが入ります。
 そしてこのヒビが熱膨張を繰り返して、3年程かけて自然にヒビが成長して出来たものだそうです。

 約30年前にハンガリーでこの手法出会ってから、日本で再現し、完成品にするまでには、10年以上と歳月が掛かったそうです。
 
 萩ガラス工房 山口県萩市大字椿東越ヶ浜1189-453

 

 3.夏みかん(光國本店)

 萩と言えば「夏みかん」!
 5月上旬から中旬にかけては、「夏みかん」の白い可憐な花が咲き、歩いているとフワっと甘く、爽やかな香りに包まれます。

 大正15(1926)年5月、まだ皇太子であった昭和天皇が萩に行啓した際、市街に「夏みかん」の香りが溢れていたのを「この町には香水が撒いてあるのか」と下問されたという話も残っています。
 
 そしてこの頃に、かんきつ公園では「萩・夏みかんまつり」が開催されます。

 「夏みかん」は、今からおよそ300年前に山口県長門市の大日比(おおひび)の海岸に流れ着いた果実の種を、西本チョウという人が蒔いて育てたのが始まりとされています。
 この原木は、昭和2(1927)年に国の「史跡および天然記念物」に指定されています。

 萩には、およそ200年前に大日比から送られたものが利用されていたようで、江戸時代の終わり頃には、
萩の武士や大きな商人などが自家消費として家の庭などに植えていたそうです。

 それを日本で最初に経済栽培したのが、小藩高政(おばたたかまさ)でした。
 小幡高政は、文化14(1817)年に周防国吉敷郡恒富村(現・山口市)に生まれました。
 長州征討にも出陣し、維新後は、宇都宮県参事、小倉県参事、小倉県権令と要職に就きましたが、明治9(1876)年に母親の看病の為に官を辞して萩に帰り、平安古町(ひやこまち)に住みました。

 新政府樹立後、毛利藩藩主は萩から山口に移り、士族の「給禄奉還」や明治9年の「萩の乱」の勃発・鎮圧により、萩士族は失意は大きく、また経済的にも大打撃を受けていました。
 
 小幡は、生活の術を失った士族達を救うため、空き地となった武家屋敷での「夏みかん」栽培を思い立ちます。
 「耐久社」(たいきゅうしゃ)を設立して、明治9(1876)年に初めて「夏みかん」の種子を蒔き、翌・明治10(1877)年には苗木10,000本を接木し、明治11(1878)年には士族に「夏みかん」の苗木の頒布を開始しました。
 明治20(1887)年頃には、「夏みかん」は萩の特産物に成長しました。

 明治20年代初めの頃、長州萩町漁人町(りょうどまち)の釣道具及び砂糖商の森重正喜という人が「夏みかん」の皮を煮て砂糖漬けにした菓子「橙菓子」(だいだいがし)を初めて製造しました。

 それを安政5(1858)年創業の菓子司・光國作右ェ門が苦心研究の結果、改良して明治13(1880)年に売出しました。
 それを2代目・光國貞太郎が明治23(1890)年に「内閣々益大博覧会」へ出品して、一等金牌を受領。
 更に光國貞太郎は、実弟福五郎と共同して「萩乃薫」(はぎのかおり)と改名して、商標を登録しました。

 また、大正5(1916)年には3代目・光國義太郎が「夏蜜柑丸漬」(なつみかんまるづけ)を創製。
 「夏蜜柑丸漬」は、夏みかんの中身をくり抜き、皮をあく抜きして糖蜜で煮込んだら、中に白羊羹を流し込んで、グラニュー糖をまぶしたものです。
 
 夏みかんは一つ一つ大きさや形、皮の厚さなどが異なるため、「夏蜜柑丸漬」は職人さんの全て熟練の技によって手作りされていて、完成には5日間要します。
 そしてみかんの皮を漬けている蜜は、大正5(1916)年から継ぎ足して使っているうちに、エキスが混ざって独特の旨味を生み出したものです。
 夏みかんの皮に含まれる風味とほろ苦さはそのままに、その上品な甘さで全国にファンを持つ逸品です。
他に、夏みかんマーマレード缶詰があります。
 
 光國本店 山口県萩市熊谷町41

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/YamaguchiHagi/Craft%26sweets より

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イッピンNHK 「アイデア満載!町工場の技~三重の金属製品~」

2023-12-18 07:57:46 | イッピンNHK

 第239回 2019年12月3日 「アイデア満載!町工場の技~三重の金属製品~」リサーチャー: 藤澤恵麻

 番組内容
 三重県の町工場。リーマンショック以降、業績不振に苦しむ工場が多い中、自分たちの技術力で製品開発を進める職人たちがいます。高い切削技術が応用され、食材のうまみを引き出す保温性に優れた鍋。バイクのマフラーの色変化に注目し、虹のような輝きをまとったグラス。鉄工所の3代目が作りだすのは、柔らかな曲線を描く印象的な家具。リサーチャーは藤澤恵麻さん。町工場と職人の技術力が生み出す、金属製品の魅力に迫ります。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201912031930001301000 より

 三重県にはたくさんの町工場が集まっています。
 リーマンショック以降、業績が上がらずに苦しんでいるところも多いのですが、不況に立たされた職人達は自分達の技術で新たな製品開発に力を入れています。
 今回の「イッピン」は、町工場の技が作り出す三重県の金属製品の魅力に迫ります。
 
 
 1.「ベストポット」(MOLATURA:モラトゥーラ)

 三重県四日市市にあるMOLATURA(モラトゥーラ)は昭和44(1969)年7月に「中村製作所」として創業。
 飛行機やロケットなどの機械部品を手掛けてきました。
 ところがリーマンショックの後には10分の1にまで受注が減ったため、自社技術「空気以外なんでも削ります。」
 どんな素材や大きさも精密に削れる技術を応用して、新たな製品開発に乗り出しました。

 その一つが印鑑です。

 そして、食材をふっくら美味しく調理出来ることから人気の鍋「ベストポット」です。

 「ベストポット」は、航空宇宙産業の部品加工にも携わる高精度技術の現合加工、誤差1/1000mm以内の精度で鍋と蓋を削り、熱と素材の旨味が逃げない構造に仕上げることによって生まれた無水調理が出来る鍋です。

 「ベストポット」は本体が三重県四日市市の伝統工芸である「萬古焼」で、蓋部分は「鉄の鋳物」にホーロー加工が施されたものです。
 鍋本体とは異素材の鉄を蓋にすることで気密性が高まるため、旨味が逃げる隙を与えません。

 「陶器」と「金属」の異なる素材をピッタリと合わせるために、試行錯誤が繰り返されました。
 課題となったのは、陶器製の鍋をいかに精密に作るか。
 そこで協力を仰いだのが土鍋を作る窯元の水谷泰治さん。
 
 水谷さんが山添さんから求められたのは「精度」でした。
 焼き物は焼くと収縮するために、土鍋は通常2、3㎜歪んでしまうのですが、金属の蓋が形が決まっているので1㎜以下にして欲しいと提案されました。
 
 水谷さんは正確に作り専用の窯で焼き、山添さんはダイヤモンドの砥石を角度を調節しながら、蓋が合うように陶器部分を削ることで、量産出来るようになりました。

 「ベストポット」の鍋は、特殊な羽釜形状と二重構造になっていて、鍋の中でまんべんなく熱が対流するようになっています。
 また「萬古焼」は遠赤外線放射率が高いのですが、更に鍋の内側には阿蘇山の火山灰が釉薬に調合されていて、煮込み料理や蒸し料理をより美味しくしてくれます。

 蓋にも工夫が凝らされています。
 蓋の内側の中央付近には隆起がつけられていますが、この隆起が内部の空気を対流させることで、素材の旨味を含んだ蒸気を 効果的に循環させています。
 そしてこの突起を「フィボナッチ数列」に基づいて配置することで、素材の旨味を含んだ蒸気をより効果的に水滴に変えているのです。

  
 2.「チタンカップシリーズ」(クラフトアルマジロ)

 三重県鈴鹿市は自動車産業が盛んなところで、部品を作る企業が数多く集まっています。
 
 バイクのパーツを作る金属加工会社「クラフトアルマジロ」の代表・永田健二さんは、全日本選手権などを 戦った経験を持つレーシングライダーで、バイク好きが高じて金属加工会社を設立しました。

 平成23(2011)年に立ち上げたオリジナルブランド「マーベリック」のマフラー、ステップキットといったレース用パーツは全日本や鈴鹿8耐に参戦するチームに供給されており、チームやライダーの好成績を支えています。

 「クラフトアルマジロ」が扱うのは「チタン」。
 「チタン」という素材は、非常に強く軽量で、高温になると色が変色する特徴があります。
 その性質に目をつけた永田さんは、「チタン」のタンブラー「タンブラーレインボー」を開発しました。
 オールチタンの中空二重構造のタンブラーです。
 虹のような輝きをまとった、幻想的なグラデーションのタンブラーです。

 職人の浜上サトシさんにグラスの製作過程を見せていただきました。
 まず「チタン」をカットしたら機械にセットして金型で押し広げて、グラスの形にしていきます。

 そこからグラデーション作りを行っていきます。
 グラスの色は温度によって変化していきます。
 浜上さんが火を使って、炎を回すようにして炙っていくと、およそ300度のところで、グラスは「金色」になりました。
 更に温度が上昇すると「紫色」から「寒色系」に変わり、700度になると「緑」に変化しました。
 
 グラスの色付けは低温の色に戻す事は出来ないため、浜上さんは、調整しながら色の変化を見極めて、キレイなグラデーションを配色していきます。

 クラフトアルマジロ 三重県鈴鹿市国府町7669-57

 

 3.「ZACC -ザック-」(豊岡溶工)
 
 三重県名張市で鉄工所を営む豊岡溶工さんは業務用の棚や鉄柵など、機能性を重視したものを作っています。
 
 こちらの三代目で、ミュージシャンでもある豊岡顕典さんは、鉄の新たな可能性を追求したいと「ZACC-ザック-」というブランドを立ち上げ、雑貨、小物、家具、エクステリアなどのアイアン製品を製造しています。
 
 豊岡さんのこだわりは、硬い鉄をしなやかに見せること!
 まずは長くて真っ直ぐな鉄を用意し、螺旋状のカーブは経験から導き出したもので、計測しながら溶接していきます。

 本物の「ツタ」のようなカーブにするために、下の部分から火を入れて、様子を見ながら曲げていきます。
 それをねじって回すことで、蔓に躍動感が生まれます。
 風合いが悪くなるため一発勝負だという豊岡さん。
 
 しなやかに立ち上る曲線が生まれたら、アクセントとして葉っぱをつけていきます。
 仕上げに特性の液剤を塗ってサビを出して完成です!
 
 豊岡溶工 三重県名張市東町1691−1

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Mie/metal_products より

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イッピンNHK 「ふるさとで学び 新しい“世界”へ~滋賀 焼きもの~」

2023-12-17 08:12:38 | イッピンNHK

 第238回 2019年11月19日 「ふるさとで学び 新しい“世界”へ~滋賀 焼きもの~」リサーチャー: 福地桃子

 番組内容
 焼き物のふるさと、滋賀県甲賀市信楽。ここの窯業技術試験場は、陶芸家志望の人たちを受け入れ、その基本を教えてきた。そこを巣立った3人に焦点を当てる。一人目は、洋風のティーポット。陶器としては珍しいほど薄く仕上げる。そのため、粘土に工夫が。二人目は土鍋。底を平らにして火の通りをよくし、ハンバーグもよく焼ける。3人目は、表と裏、両方使える皿を開発。一方には溝がつけられ、揚げ物などの油を切ってくれる。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201911191930001301000 より

 

 信楽焼は「日本六古窯」のひとつで、土の味わいや温もりを生かした風合いが愛され、花器や食器、置物やタイルまで、
幅広く住宅やインテリアに使われています。

 <参考:信楽窯業技術試験制度>
 信楽窯業技術試験場の研修制度は、昭和48(1973)年に県内窯業の後継者を養成する目的で開始された制度です。
 研修期間は1年。
 大物ロクロ成形科、小物ロクロ成形科、素地釉薬科、デザイン科が設置されています。
 これまでに研修を修了した研修生は500名を超え、活躍しています。
 
 令和5年度の募集は、「秋試験」(試験日時:令和4年11月9日[水])は、10月11日[火]から10月31日[月]まで受け付けています。
 「冬試験」(試験日時:令和4年2月 8日[水] )は、令和4年1月10日[火]から 1月31日[火]まで受け付けています。
 Let's チャレンジ!

 

 1. 竹口要さん
 
 竹口要さんのうつわは、持ちやすさ・軽さ・口当たりの良さが特徴です。
​ 信楽でつくられる土をギュッと焼き締まるよう独自に調合しており、見た目の印象以上に欠けにくいことも特長です。

 竹内さんは、近所の人に勧められたことがきっかけで、滋賀県立信楽窯業試験場で3年間、焼き物を学びました。
 平成4(1992)年には「素地焼成科」、翌年には「釉薬科」、更にその翌年には「小物ロクロ科」を修了され、平成16(2004)年独立。
 そして平成26(2014)年からは工房を滋賀県東近江市にある「ことうヘムスロイド村」に増設しました。
 
 滋賀県の南東部にある東近江市は、1市6町が合併した琵琶湖から鈴鹿山脈まで広がる自然豊かな地域です。
 その東近江市の誕生前の旧湖東町に、「ことうヘムスロイド村」があります。

 旧湖東町は、梵鐘をつくる鋳物師や宮大工が多く、匠の郷として知られてきた場所です。
 伝統を守りつつ、現代のものづくり推進を目的に、平成5(1993)年3月に「ことうヘムスロイド村」を作りました。

 その際モデルにしたのが、スウェーデンのレトビック市。
 「スウェーデン人の心の故郷」と言われるこのエリアでは、手づくり・ものづくりが盛んなことから、スウェーデン語で「手工芸」を意味する「ヘムスロイド」を村の名前にしました。

 村が完成して間もなく、レトビック市と湖東町は、ともに手工芸が盛んであることや、地理的に湖の東に位置することなどから姉妹都市提携を結び、現在も交流が続いています。

 現在この村の中では、6組の工芸作家が活動し、素敵な作品を作っています。
 ガラス  :東ユキヤス
 木 工  :田中智章
 鍛 鉄  :石倉創、石倉康夫
 陶 芸  :竹口要
 日本画  :西川礼華
 cafe&ヨガ :ウエノ チシン・ナル

 毎年5月第4日曜日とその前日土曜日には、「ヘムスロイドの杜まつり」が開催され、県内外から100名以上の工芸作家が参加し、陶器やガラス工芸作品の展示や販売が行われます。
 住所:滋賀県東近江市平柳町568

 独り立ちした時には、多くのライバルに囲まれていたため、独自の焼き物を生み出そうと試行錯誤した結果、白くて軽い洋風のティーセットが誕生したそうです。

 明日から「作り手と結ぶ庭」に参加致します。
 画像は春らしいティータイム…ではなく、今回出品する「ボタ」というカップの画像がなく無理矢理持って来たのです。右手に写るカップです…。ホワイトデーにも良いかと思います!

 白いピッチャーの軽さの秘密は3㎜という薄さ。
 陶器でその薄さでは欠けやすくなってしまうため、竹内さんは、粘土を工夫することでその難問を解決しました。
 白い粘土は風合いが良いが強度は強くないため、固く焼締まる黒い粘土を混ぜて、強度を上げました。
 また、素焼きした時の淡いクリーム色の風合いを残すため、釉薬にも工夫をし、ガラス質なのに光沢を抑えた象牙色のピッチャーが出来上がりました。
 この釉薬は、象牙色の表面に揺らめく水のような模様が生まれるという、更に予想もしなかった効果を生みました。
 
 竹口要

 

 2.「ロール土鍋」(陶夢工房・杉本寿樹さん)

 杉本寿樹さんは、滋賀県甲賀市の毛枚(もびら)の工房「陶夢工房」(とうむこうぼう) で作陶をしていらっしゃいます。

 杉本さんは、信楽の高校を卒業後、高校から坂を下ったところにあった滋賀県立信楽窯業試験場で2年間修業されました。
 その後、京都の「陶芸 高木岩華」(とうげい たかぎがんか)で9年、三重県伊賀の「土楽窯」(どらくがま)で7年修行した後、独立されました。

 「普段の食卓で、つい使ってしまう器を作りたい」とおっしゃる杉本さん。

 普通、土鍋と言えば型で作った底が丸いものです。
 それに対して杉本さんの土鍋はろくろで成形した、底が火が通りやすいように平らなったものになっています。
 底が平らだと、料理がしやすい。ひたひた煮も作りやすい。
 煮魚も、普通の土鍋のように煮汁からしっぽ飛び出たり、はみ出すこともない。
 角は丸くしながら、でも底はフラットになっています。
 
 火がよく通り、熱で割れない厚みは6㎜。
 杉本さんはこれをガイド線などを使わずに、叩いて厚みを測って削っていきます。
 厚さ6㎜にした鍋を素焼きし、オリジナルの釉薬をかけて窯焼きすれば完成です。

 

 3.「リバーシブル皿」(文五郎窯・奥田章さん)

 「文五郎窯」の創業は文久2(1862)年。
 初代・奥田文五郎氏が開窯以来、信楽焼の窯元として、代々伝統を守り続けてきました。
 現在は、伝統工芸士である兄の5代目・文悟さんは、陶製浴槽や大型プランター、手洗い鉢など大物ロクロ師の匠として活動しています。

 一方、弟の章さんは、スタイリッシュなデザインと使いやすさをコンセプトに、和洋どちらにも合う白と黒を基調としたシンプルモダンな食器を創作しています。

 章さんは窯元の次男として生まれ、かつては不動産のサラリーマンでした。
 24歳で会社を辞めて、焼き物へ世界に入りました。
 その際、父に親の仕事と同じものを作るなと言われたことから、滋賀県立信楽窯業試験場に通ったのだそうです。
 
 父に認められたい章さんは、信楽焼だが信楽焼らしくないものを作ろうと考え、「文五郎窯」では代々、火鉢などの大物を作成していましたが、食器を作る道へと進みました。

 「リバーシブル皿」は、表と裏の両面を使うことが出来るお皿です。
 台皿になったり、ひっくり返すと深さのある盛り皿になったりと1度で2度オイシイお皿です。
 裏面と表面がそれぞれ色が違うので、くるりと裏返せば、料理の種類や気分に合わせて、「食」の楽しみを一層広げてくれる器です。

 今や、「リバーシブル皿」は奥田さんの代名詞。
 20年程前にリバーシブルのフリースが大流行した時に、それに目をつけ、お皿にしたらどうか?と考え、出来上がったのだそうです。
 章さんの生み出した「リバーシブル皿」は、その類まれな創造性が賞賛されて、平成16(2004)年、信楽焼新総合展「食卓の部」で見事に優秀賞を受賞しました。
 
 人気は、溝のある四角い皿です。
 この溝は揚げ物などを載せた時に油が溝に落ちて、衣がカリッとしたままにになります。
 
 その作り方は、まず粘土をピアノ線を板状にして切って、更に四角にカットして溝を作っていきます。
 その溝は、「しのぎ」という技で、同じ深さで彫っていくのだそうです。
 そして、どっちの面にも同じ釉薬を使って統一感を出しつつ、釉薬の濃度の違いにより色が異なるようにしています。
 
 「十草(トクサ)」シリーズも有名です

 文五郎窯 滋賀県甲賀市信楽町長野1087

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Shiga/yakimono より

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イッピンNHK 「丈夫で長持ち 心なごむ明かり~茨城 水府提灯~」

2023-12-16 07:04:44 | イッピンNHK

 第237回 2019年11月12日 「丈夫で長持ち 心なごむ明かり~茨城 水府提灯~」リサーチャー: 野村佑香

 番組内容
 昔ながらの照明器具ちょうちん。茨城県水戸市は江戸時代から続く産地だ。ここで作られるものは水府提灯(すいふちょうちん)と呼ばれ、丈夫なことが特徴。職人の技で作り上げられる過程を紹介する。そこには様々な工夫が。また斬新でユニークなものも生み出されてる。書道家の文字や、四季折々の花を描いたもの。そしてデザインにこだわり、鳥の形にしたちょうちんも。リサーチャーは野村佑香さん。心なごむ明かりの魅力にまる。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201911121930001301000 より

 

 茨城県水戸市は提灯の産地です。
 岐阜、八女(福岡県)とともに「提灯の日本三大産地」と言われています。
 
 茨城県水戸市は水戸藩の城下町として発展したものづくりの盛んな街です。
 水戸の提灯は「水府提灯」と呼ばれ、水戸藩の産業振興として生まれました。
 因みに、「水府」は江戸時代の水戸の別称です。
 
 江戸時代、提灯が庶民に広まりました。
 水戸近郊には、丈夫な厚い和紙「西ノ内紙」の産地や良質な竹の産地があったことから、財政難に苦しむ水戸藩は提灯づくりを奨励しました。
 
 「西ノ内紙」(にしのうちし)は、茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産されている和紙です。
 強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられたそうです。
 
 下級武士の内職から始まった提灯づくりでしたが、その「堅牢、質実剛健」な提灯は丈夫で長持ちすると評判となり、
江戸の町などで多く用いられるようになり、水戸は提灯の一大産地となりました。
 現在も、「三社祭」や「神田祭」で 使われているそうです。
 
 「水府提灯」は、丈夫な厚い和紙「西ノ内紙」の産地や良質な竹を主材料とし、更に「一本掛け」という独自の手法で作るため、丈夫で、力強く引っ張っても型崩れしないのが特徴です。

  
 水府提灯づくり(蔭山利兵衛商店・蔭山興一さん)
 
 蔭山利兵衛商店は、寛政10(1798)年創業の提灯づくりの老舗です。
 蔭山興一さんは昔ながらの提灯で結婚や出産などに使用されている「弓張り提灯」を手掛けています。
 
 「弓張り提灯」の特徴は、弓のような取っ手です。
 提灯の本体を強い力で引張って固定して、使わない時はコンパクトにまとめられることが出来るという伸び縮みする提灯です。
 
 まずは本体の木型には8枚使い、”あみだ”と呼ばれる部品に差し込んで上下を固定します。
 木型の表面には細かい溝があり、そこに沿ってひごを巻いていきます。
 次に固定するために糸をかけるのですが、これが力がいる作業。
 蔭山さんはお手製の畳針を変形させたもので綿の糸を巻き付け、ひごを固定します。
 その後、ひごの上に糊をつけ、和紙をシワやくぼみが出来ないように刷毛を動かして貼り付けていきます。
 更に丈夫にするために扇形の和紙を使って、糸を巻き付けた部分に貼っていきます。
 名前を入れたら、取っ手を付けて完成です。
 
 蔭山利兵衛商店 茨城県水戸市本町3-3-7

 

 オリジナル提灯(青野商店・青野れい子さん)
 
 今、美しいインテリアとして、新しい提灯も生み出されています。
 創業大正10(1921)年の青野商店では、水戸市在住の書家・北條蘭徑先生の文字を大胆にあしらった提灯「書道提灯」、国際的に高い評価を得ている茨城出身の木版画家・富張広司さんとのコラボレーションによる「富張版画提灯」など、様々なオリジナル提灯を作成しています。
 
 「ひめシリーズ」は、丹精込めて漉かれた「西ノ内紙」に季節の花々がデザインされた、青野商店の人気シリーズです。
 青野商店の青野れい子さんは提灯を通して季節の移ろいを感じて欲しいとおっしゃいます。
 
 青野商店 茨城県水戸市新荘1-5-50

 

 西ノ内紙(紙のさと・菊池大輔さん)

 「西ノ内紙」は350年の歴史を持つ、茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産される和紙です。
 水戸黄門こと徳川光圀公が命名し、光圀自身が編纂した『大日本史』にも使われました。

 奥久慈地方にある常陸大宮市の和紙職人・菊池大輔さんは紙の原材料として日本最高級とも言われる「那須楮」(なすこうぞ)の栽培から紙製品に仕立て上げるまでを全て手作業で行っています。
 
 「那須楮」(なすこうぞ)は日本最高級の原料です。
 水はけが良く、瘦せた土地で、寒暖差が激しく、冬になっても滅多に雪が降らない奥久慈地方は楮を栽培するのに適した所です。
 ここで採れた楮の繊維により、丈夫で緻密な美しい紙が出来るのだそうです。
 
 ユネスコ無形文化遺産に登録された「石州半紙(島根県浜田市)、本美濃紙(岐阜県美濃市)、細川紙(埼玉県小川町・村山村)」これらの和紙制作に使われており日本はもとより、世界が認める質の高さを誇っています。

 西ノ内和紙の特徴は紙が厚くて丈夫。
 提灯、唐傘、大福帳などとして、江戸の街に広がりました。
 大福帳は商人が大事な取引を書く大事なもの。
 家火事が起きても井戸に放り込んで後で乾かせば文字も滲まずに元通りに使えました。
 明治35年から大正15年までは、丈夫な紙として選挙投票用紙として使われてきました。

 菊池さんの作る水に強く、まるで布のような和紙は現在、クッションカバーや暖簾、財布、名刺入れなど、多くのファンに愛される人気商品になっています。
 
 紙のさと 茨城県常陸大宮市舟生90

 

 左右非対称の提灯(鈴木茂兵衛商店・由元君平さん)

 鈴木茂兵衛商店(すずも提灯)は創業150年を超える提灯の老舗製造元です。
 製造から販売まで一貫して行っています。
 
 由元君平さんは、理学部で隕石を学んでいたそうですが、すずも提灯でアルバイトをしたことをきっかけに、現在は、製造開発担当として伝統の技を活かしながら新しい提灯の開発を行っています。

 2012年のグッドデザイン賞受賞のミック・イタヤさんとのコラボ「ミック・イタヤシリーズ」は、オレンジ色のLEDにゆらぎ機能を搭載した独自の照明を開発し、また、音感セン サーによるスイッチやコードレス使用はオブジェとしても楽しめる作品です。

 左右非対称の提灯を作るには様々な工夫が必要。
 新しい形はCAD(コン ピュータによる設計)を使いますが、ただ型を作ればいいというものではありません。
 普通の提灯よりも凹凸が大きく、型の溝に沿ってひごを巻いていくのも簡単ではありません。
 
 それを作るのが職人の安部志保さんです。
 カーブや突起の部分が多く、かなり神経を使うそうです。
 きめ細やかな手仕事によって「提灯」が完成するのです。

 鈴木茂兵衛商店 茨城県水戸市袴塚1-7-5

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Ibaraki/SuifuChochin より

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イッピンNHK 「仏壇の技がいきる~新潟 漆工芸~」

2023-12-15 09:48:22 | イッピンNHK

 第236回 2019年11月5日 「仏壇の技がいきる~新潟 漆工芸~」リサーチャー: 田中道子

 番組内容
 錦ゴイをかたどった箸置き。黒い漆の地に金粉などで模様を描いたネイルアート。そして水を注ぐと、器の内側に星空が浮かび上がるさかずき。これはどれも新潟で、仏壇を作ってきた職人たちの手になるもの。近年の住宅事情の変化などから、大型仏壇の需要は減る一方。そんな中、仏壇作りに携わってきた漆職人が、その高度な技を使って生み出したユニークな工芸品が、評判を呼んでいる。女優の田中道子さんが、その製作現場を訪ねる。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201911051930001301000 より

 

 色漆錦鯉×特製桐箱「(愛称) KOIOKI [コイオキ]」(「羽賀佛壇店」4代目・羽賀良介・富美子さん御夫妻)

 新潟には「新潟・白根仏壇」「三条仏壇」「長岡仏壇」と、国指定の伝統的工芸仏壇が3産地あります。
 
 新潟市を中心に作られている「新潟・白根(しろね)仏壇」は、艶やかな漆黒ときらびやかな金箔、花鳥や人物といった緻密な彫刻に蒔絵が施され、荘厳ながらも絢爛な姿の仏壇です。

 新潟県は、浄土真宗の始祖の親鸞や日蓮宗の始祖の日蓮が流された地で、古くから仏教信仰が盛んな場所でした。
 度重なる信濃川の氾濫により、多くの被害を受けた民衆には、仏教を心の拠り所とした信仰心が育まれていました。
 良質な材料や高温多湿で、漆の乾燥に最適な気候に恵まれたこともあり、300年以上に渡り、仏壇の生産地として発展を続けています。
 近年は一戸建てが少なくなった他、ライフスタイルの変化で大きな仏壇を持つ家庭はめっきり減り、仏壇の需要は減っていますが、職人達は、仏壇作りの技術を使って、新たな製品を作り続けています。
 
 仏壇は、「木地師」と呼ばれる職人が木を削って様々なパーツを作り出し、「彫師」は各宗派の物語、守り神となる動物や植物を彫り込みます。
 そして、木の部分では「塗師」が漆を塗り、金箔を貼ります。

 新潟仏壇の羽賀佛壇店4代目で「塗師」の羽賀さんは、新潟特産の錦鯉に着目して、木型と仏壇に使われる漆技術を応用した箸置きを発案しました。
 新潟県の観賞魚「錦鯉」が桐の流紋を泳ぐ愛らしい箸置きです。

 羽賀さんは、約1ヶ月の月日を費やして、生漆を塗っては磨き、塗っては磨きを繰り返し、蒔絵師の奥様・富美子さんが錦鯉の模様の他、縁起物の松竹梅などを描きます。
 
 そして、その宝石のような美しさを更に引き立てるのが、鈴木石太郎タンス店の鈴木浩昭さんが誂えた、加茂桐簞笥の特製桐箱です。

 羽賀佛壇店 新潟県新潟市東区山木戸6-11-6

 

 蒔絵ネイルチップ(「林佛壇店」五代目・林芳弘さん)

 仏壇を修復し、綺麗にすることを「お洗濯」と言います。
 「林仏壇」五代目・林芳弘さんは、約100年前に作られた仏壇を依頼主から引き取り、分解、お湯に溶かした炭酸ソーダで長年の埃を洗い流し、金箔も洗い落とします。
 
 「先達者はどのような技法を駆使して、この仏壇を作ったのか」
 そんな思いを馳せながら作業を進め、「新しいものを作るよりかえって難しい」とおっしゃっていました。
 
 現在、林さんは娘さんたちとともに蒔絵の技法を使ったネイルアートを手掛け、好評を博しています。
 
 林さんにはお嬢さんが二人いらっしゃいます。
 蒔絵師の裕美さんと一級ネイリストの亜美さんです。
 まず、ネイリストである亜美さんが爪の幅や湾曲にあわせたネイルチップを作成し、父の芳弘さんがそのチップに下地の漆塗りを担当。
 母・由利子さんが爪のデザインを手掛け、裕美さんが蒔絵を施すというチームプレーで行われました。

  
 酒杯「宙COCORO」(「林佛壇店」六代目・佐藤裕美さん)

 酒杯「宙COCORO」は、蒔絵ネイルチップを製作されている林さんのお嬢さんで、「林佛壇店」の六代目・佐藤裕美さんの作品です。
 蒔絵の技法を応用したステンレス製の盃です。

 裕美さんは約190年続く「林佛壇店」を営む家に生まれました。
 彼女のお父様・林芳弘さんは林仏壇店の5代目であり、伝統工芸士の資格を持つ塗師。
 また、お母様の由利子さんも、同じく伝統工芸士の蒔絵師です。
 裕美さん自身は、小さな頃から絵を描くことが好きでしたが、家業を継ぐのは嫌やだなあと思い、高校卒業後はデザイン専門学校に通ってイラストレーターを目指していました。
 
 ただ、専門学校に通いながらも、「技術を継いで欲しい」と願うご両親から漆塗と蒔絵の指導を受けて、仏壇の蒔絵の図柄を写す手伝いをしていました。
 簡単に出来るだろうと思っていた蒔絵が、想像以上に難しくて、満足に線を引くことすら出来なかったという裕美さん。
 とにかく扱いが難しい。
 格闘する中、納得のいく線が引けるようになるに従って、蒔絵がだんだん楽しくなってきたそうです。
 裕美さんは「白根仏壇」の蒔絵部門の伝統工芸士の資格を取得し、現在、伝統工芸士として伝統技法を受け継ぎ、他の仏具メーカーから仏具やおりんなどに蒔絵を施す仕事を請けながら独自の表現手法にも果敢に挑戦しています。
 
 新潟県が金属加工が盛んという土地柄から、15年前より裕美さんはお父様とともに、金属に漆を焼付する技法を試行錯誤しながら研究してきました。
 
 そんな中、新潟県燕市のササゲ工業が製造するステンレス製の盃との出会ったことがきっかけに、酒杯「宙COCORO」は誕生しました。

 ササゲ工業が製造する盃はステンレス製で、表面の酸化皮膜の厚みを変化させて、光の干渉現象を起こし発色させる、酸化発色が施されています。
 塗装や染色とは異なるため、色が剥げず、耐食性が高い点が特徴です。
 また中を空洞にして作られているため、ステンレス製なのに軽く、注いだお酒の温度をある程度保つ利点があります。
 
 裕美さんは「小宇宙」をテーマに、蒔絵の技でもって、美しく壮大な銀河を繊細に表現したのが、「宙COCORO」です。
 お酒を注ぐと、底面が見込みの曲面に沿って湾曲すると同時に、水面も表面張力によって丸く膨らむため、レンズ効果が一層発揮されて、ひとつひとつの星がふわりと浮かび上がって見え、美しく壮大な銀河を更に堪能出来ます。
 
 「宙COCORO」の銀河と星座は、筆ではなく、なんと爪楊枝やスポンジなどで描かれています。
 裕美さんは、自ら、爪楊枝の先端を紙やすりで削り、理想の細さを追求します。
 何色もの色漆をパレットに取り、油で溶いて色を混ぜ合わせながら、爪楊枝で少しずつ器に点描したり、スポンジで叩いたり。
 このように色ごとに絵付しては、天火で熱して焼付することを繰り返します。
 当初、この焼付に最適な温度と時間を探るのに、試作をずいぶん繰り返したそうです。
 
 現在、仏壇の扉にも同じような星空をあしらって欲しいという依頼が舞い込むようになっているのだそうです。
 
 林佛壇店 新潟県新潟市中央区本間町2-2656

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Niigata/urushi より

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イッピンNHK 「曲げて削って 魅惑のカーブ~岐阜 飛騨の木工製品~」

2023-12-14 09:19:43 | イッピンNHK

 第235回 2019年10月15日 「曲げて削って 魅惑のカーブ~岐阜 飛騨の木工製品~」リサーチャー: 中山エミリ

 番組内容
 岐阜県の飛騨地方では、古くから曲面を生かした木工製品が作られてきた。圧力をかけて木を曲げていく技法や、繊細に削っていく方法などによって、カーブが印象的な製品が生み出されている。刀のさやをモチーフにしたペンケース。花のつぼみのような形のランプシェード。身体を優しく包み込むモダンな椅子。どれも試行錯誤を繰り返し、経験を積み重ねた職人技が描いた美しさ。飛騨の木工製品の魅力を中山エミリさんがリサーチする。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201910151930001301000 より

 

 1. TANTO:短刀(オークヴィレッジ)

 「なら材の村」という意味の「Oak Village」(オークヴィレッジ)は、昭和49(1974)年に、豊かなナラの木に囲まれた家具の特産地、飛騨高山で創業しました。

 丈夫で安心、安全にこだわり、家具や木のおもちゃから文具、食器・漆器、インテリア用品、アクセサリー等の木製品は全て国産の無垢材から作っています。
 時間をかけて育った木材を愛着ある製品にするために、持続可能なものづくりを行っています。

 「寄木の積木セット」や木琴「小さな森の合唱団」が人気。
 また、同社が運営する入場無料の「オークヴィレッジ森の博物館」では優れた工芸品を例に、それぞれの木の特徴が分かりやすく紹介されています。
 周辺の野外遊歩道も人気です。

 「TANTO:短刀」は「短刀」をモチーフとした木製ペンケースです。

 内ポケットやカバンにすっと入るコンパクトなサイズで流線型のデザインが特徴です。
 直線と曲線を用いて、木という素材の良さを生かした心地よい仕上がり!
 植物性オイルを塗布したナチュラル色で仕上げているので、使い込む程に味わい深い風合いへと変化します。

 内側にはペンが傷付かないよう革張りが施されています。
 「the Red Dot Award:Product Design 2014」を受賞しています。

 「レッドドットアワード」は、ドイツのノルトライン・ヴェストファーレン・デザインセンターが1955年より選定を行っている国際的なデザイン賞で、「世界3大デザイン賞」として、世界でも権威ある賞の一つだそうです。

 オークヴィレッジは、立教大学の学生だった5人が、国産材を材料にした建築や木工製品を都会で販売することを生業としながら、自分達の森を持って木を育て、田畑で農業を行い、水もエネルギーも自分達で創り出すことを目標に、
移住先に選んだのが、岐阜県高山市に移住。

 木工を基礎から学ぶために全員で一年制の飛騨高等技能専門学校に入学し、刃の研ぎ方、工具づくり、機械の手入れを徹底的に学び、立ち上げた工房です。

 オークヴィレッジ 岐阜県高山市清見町牧ケ洞846

 

 2.「ひのきのあかり」(木工房 大噴火・清水丈雄さん)

 清水さんは木からランプシェードを製作していています。
 ひのきを1mmより更に薄く加工し、表面を鉋で仕上げているため、「ひのきのあかり」は 透明感のある暖かい光を放ってます。
 熱や紫外線に強いガラス塗料を滲み込ませてあるので高い耐久性があります。

 

 3.CHIC シック(柏木工株式会社)

 昭和18年創業の柏木工は飛騨高山の家具・キッチン・室内建具を製造販売するメーカーです。

 日本の復興が始まった初頭、最初の家具「南京椅子」を作り、焼け野原となった都心部で急増した屋台店や簡易店に
飛ぶように売れました。

 昭和27年にウィンザーチェアを作るようになると、本場アメリカに技術の高さを認められ、輸出を開始するなど順調な歩みを遂げてきました。
 平成10(1998)年には、初めてのグッドデザイン賞を受賞、その後も多くの賞を受賞しました。
 平成5(1993)年には、吹上御所へ家具を一式納品しました。

 現在、「日本の美飛騨デザイン」というテーマと五つの条文を掲げ、世界に向かって、日本を代表するデザインを発信しています。
 
 第一条「自然との共生」
 飛騨デザインは、自然との共生を考慮し、将来も持続可能なモノづくりのあり方を追求します。
 
 第二条「人がつくる」
 飛騨デザインは、人の手の技を尊重し、つくり手が喜びと誇りを感じられるモノを目指します。
 
 第三条「心の豊かさ」
 飛騨デザインは、世界の人々にこころの豊かさと、精神のやすらぎを与えるモノをつくります。
 
 第四条「伝統を生かす」
 飛騨デザインは、日本の伝統文化を尊重しながら、現代と未来の暮らしの中で、輝いて生き続けるモノをつくります。
 
 第五条「永続性」
 飛騨デザインは、長く使い続けられ、長くつくり続けられるデザインを目指します。
 
 「身体を優しく包み込むモダンな椅子」として紹介された「CHIC シック」は、日本らしい造形美にこだわり、
素材(ウォールナット)の美しさを際立たせることがコンセプトの椅子です。

 柏木工株式会社 岐阜県高山市上岡本町1丁目260番地

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Gifu/hidakagu_2 より

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イッピンNHK 「歴史がはぐくむ島の宝~熊本 天草陶磁器~」

2023-12-13 09:29:41 | イッピンNHK

 第234回 2019年10月1日 「歴史がはぐくむ島の宝~熊本 天草陶磁器~」リサーチャー: 比嘉バービィ

 番組内容
 熊本県天草諸島は磁器の原料となる陶石の日本有数の産地であり、良質の粘土も採れるため、昔から焼き物を作ってきた。現在もそれぞれの窯元が、個性的で多彩な焼き物を生み出している。真っ白な肌に、濃紺の十字の模様がよく映える花瓶。また「海鼠釉(なまこゆう)」という釉薬を使い、深い独特の青を出したお皿。さらに、土の質感を前面に押し出したコーヒーカップも。歴史と豊かな自然に培われた、独創的な焼き物づくりに迫る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201910011930001301000 より

 

 1. 内田皿山焼(木山健太郎さん)

 「内田皿山焼」の窯元は、元々、天草陶石を採掘する会社「木山陶石鉱業所」を経営していました。
 木山陶石鉱業所・初代の木山直彦氏は慶應義塾で学び、福沢諭吉から「天草に生を受けたのなら陶石を是非おやりなさい」と陶石採掘の道を直接指導されたそうです。
 そして陶石業における繁栄期を築き、原料供給などで瀬戸地域へ意欲的に交流を図るなど、陶石を通し多くの地域への陶石の販路拡大を積極的に行いました。
 
 木山陶石鉱業所3代目の社長の木山勝彦さんは、昭和45(1970)年にタコ壺などを焼いていた窯を引き取り、
工房を造り直そうとしたところ、そこで江戸時代頃の古い磁器の陶片が発見されます。
 町が行った発掘調査によってこの窯が1650年頃から約100年間に渡って磁器を生産していたことが判明。
 日本有数の歴史を持つ“幻の窯”を再興すべく、木山さんは本格的に食器などを中心とした「天草陶磁器」作りに取り組むことを決意し、「内田皿山焼」を開窯しました。

 「内田皿山焼」では、自ら地元で採掘する天草陶石や志岐粘土を使い、磁器だけでなく陶器まで手掛けています。

 また「天草陶磁器」の知名度を全国的にアピールしようと周りの窯元に呼びかけ、振興会も発足させました。
 
 現在は、息子の健太郎さんが現代表として、更なる新風を吹き込んでいます。

 「Amacusa」は、天草陶石を世界に発信するために平成27(2015)年にスタートとしたブランドです。
 「Amacusa MUSO」は、高品質な陶石のみを使用し、今までの天草陶磁器には無い モダンなフォルムで、
現代の暮らしにマッチした アイテムのシリーズです。
 天草の キリシタン文化への オマージュと 新たなフォルムの追求、陶石本来の白を活かした デザインになっています。
 「MUSO クルス 花器」は真っ白な肌に、濃紺の十字の模様がよく映える 花瓶です。
 
 内田皿山焼 熊本県天草郡苓北町内田554−1

 

 2.水の平焼・水の平焼 器峰窯

 「水の平焼」(みずのだいら)は、明和2(1765)年に岡部常兵衛が水の平の地で創業した窯元で、「海鼠釉(なまこゆう)」に元祖と言われています。

 三代目・弥四郎は従来の「水の平焼」に一層に改良を加えて一種の象眼焼を作り上げ、明治10(1877)年、「内国勧業博覧会」で「花紋章牌」を受賞。
 全国的に「水の平焼」の名を高めました。

 五代目・源四郎は釉薬の開発に打ち込み「赤海鼠釉」の開発に成功、「水の平焼」の名声を不動のものとします。
 特筆すべきは、明治43(1910)年の「日英博覧会」に出品された「赤海鼠コーヒーセット」で、形状もモダンで美しく博覧会より「銅賞」を受賞しました。

 現在、兄・祐一が窯元の八代目として代々受け継がれてきた「海鼠釉」の器を中心に制作、弟・俊郎が「水の平焼 器峰窯」として「天草陶石」を使った「磁器」を中心に制作しています。
 
 無印良品のセレクトショップ 「Found MUJI」などで取り扱いがあります。
 
 水の平焼 熊本県天草市本渡町本戸馬場 2004

 

 3.丸尾焼

 「丸尾焼」は 弘化2(1845)年、金澤與一により創業。
 丸尾が丘周辺の粘土質の赤土を使い、水瓶、味噌瓶、醤油瓶等を製造し、「天草の瓶屋」と 呼ばれていました。

 三代・金澤武雄は技術者として、沖縄、栃木等の窯業地で指導を行い、栃木県では益子町の県立窯業指導所の初代の所長を務めます。
 天草においても天草中学校窯業部を創設するなど次世代の技術者養成のため尽力しました。
 昭和7(1932)年に三代を継承し、食器・花器等、手工芸としての陶器作りに着手。
 名称も「丸尾焼」と定めました。

 現在は、金澤一弘さんが昭和55(1980)年に五代を継承し、機械による大量生産を一切行わず、
 全ての作品を習熟した手仕事により行っています。

 釉薬は、黒、モスグリーン、乳白、透明、新透明の5種と染付の呉須鉄釉。
 その祖父・3代武雄が残した調合をそのまま使ったりアレンジして使っています。
 金澤一弘さんは、生活空間をより豊かにする普段着感覚の焼物を目指しているそうです。

 番組では、土の質感を前面に押し出したコーヒーカップが紹介されました。
 
 丸尾焼 熊本県天草市北原町3-10

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Kumamoto/AmakusaCeramic より

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