いいもの見ぃ~つけた!

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<おせち> 焼き肴-鰤の焼き物

2023-11-23 05:54:52 | おせち

 「鰤の焼き物」

 出世を祈願。出世魚であることにあやかったもの。地域によっては鮭の塩引き 。

 名称
 標準和名「ブリ」については、江戸時代の本草学者である貝原益軒が「脂多き魚なり、脂の上を略する」と語っており、「アブラ」が「ブラ」へ、さらに転訛し「ブリ」となったという説がある。他にも身が赤くて「ブリブリ」しているからといった説がある。「鰤」は中国の古い漢字の中にもあるが、実体未詳の毒魚の意味であり、日本のブリとは異なる。日本でブリに「鰤」をあてるのは、師走(12月)に脂が乗って旨くなる魚だから、また「師」は大魚であることを表すため等の説がある。

*Wikipedia より

 照りが美しくふっくらとした白い身がおいしいぶりの照り焼きは、おせちだけでなく冬の家庭料理としても人気があります。

 実際のぶりの身は白いのですが、回遊魚なので種類としては「赤身魚」です。ぶりはおいしいだけでなく、ビタミンB2やコラーゲンも豊富なので美容効果も期待できます。

 体が大きく成長していくにつれて、「モジャコ」から「ワカシ(関東)・ワカナ(関西)」、「イナダ(関東)・ツバス(関西)」、「ワラサ(関東)・ハマチ(関西)」、そして最終的に「ブリ」へと名称が変化します。
 日本人はその様を社会で出世していく人の姿に重ね合わせて「出世魚」と呼び、縁起がいいとしてきました。立身出世を願う人にはうれしい魚なのです。

*https://www.shop.post.japanpost.jp/column/osechi/osechi_iware13.html より

 ブリの漁獲量
 農林水産省がまとめた平成27年産の漁獲量を見ると、主な産地は長崎県、石川県、島根県など日本海側が多く、太平洋側では千葉県や茨城県となっている。日本海側では「佐渡ブリ」、「能登ブリ」、富山湾に入ったものは「氷見ブリ」など、寒ブリと呼ばれ冬の特産として有名。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fish/buri.htm より

 天然能登寒ぶり最高級ブランドの「煌(きらめき)」が初登場!価格は国内史上最高額400万円となり華々しいデビュー! 石川県漁業協同組合 2022年12月1日 17時00分



 石川県漁業協同組合は、2022年12月1日(木)、石川の四季のさかなのブランド戦略の一環として9月に発表した天然能登寒ぶりの新ブランド「煌(きらめき)」のデビューに合わせて、グランプリ(最高金額)を決める「鰤-1グランプリ」を石川県漁協かなざわ総合市場にて開催いたしました。
 石川県内の港から集められた選りすぐりの天然能登寒ぶりを石川県漁協かなざわ総合市場にて目利き人による厳しい認定をクリアした、1本のみが初の「煌(きらめき)」に認定。またセリでの価格は400万円と寒ぶりとしては前例のない史上最高の落札額となり、昨年の加能ガニ「輝」の500万円、今年の11月の香箱ガニ「輝姫」に続き、石川県漁業協同組合における新ブランドの華々しい初セリデビューとなりました。

■「鰤-1(ブリワン)グランプリ」当日の様子

 かなざわ総合市場で初めて開催された「鰤-1グランプリ」の冒頭の説明会において、いしかわ四季のさかなPR推進協議会橋本会長より、「煌(きらめき)」のブランド立ち上げの背景や特長などを改めて発表。
「おかげさまで昨年の加能ガニは知名度が上がっております。「輝」に続き、今回の天然能登寒ぶりのブランド化によって石川県の魚介類全体の知名度を上げて、付加価値を高めていきたい。そしておいしい魚を食べに石川県に来てほしい」とコメントしました。
  鰤-1グランプリの事前エントリー18本のうち「煌(きらめき)」候補を含む当日の参加数は10本で、それらは、1本ずつ測定や記録が次々に行われました。その後、厳しい審査を経て認定された「煌(きらめき)」は1本のみとなり、認定の証として石川県産材(能登ヒバ)の認定プレートがおかれました。その後のセリでは、多くの仲買人が参加して行われ、結果「煌(きらめき)」の落札額はなんと400万円となり、天然能登寒ぶりとしてはもちろんのこと、寒ぶりとしても史上最高額となり、昨年の加能ガニ「輝」500万円、先月11月の香箱ガニ「輝姫」に続き、新たな新ブランドが華々しいデビューを飾りました。
 この記念すべき天然能登寒ぶり「煌(きらめき)」を最高額で手にしたのは、地元七尾市の企業でスーパーを
経営されている。株式会社どんたくとなりました。

 ■ 落札された「煌(きらめき)」について

 鰤-1グランプリ参加数:10本
 初セリにおける認定数:1本

 グランプリに輝いた煌(きらめき)
 重量:15.5㎏
 長さ:94㎝
 漁獲した網元:岸端(きしはた)定置網組合(石川県七尾市)
 落札価格:400万円 

 購入者:株式会社どんたく(石川県七尾市)

 ■「煌(きらめき)」購入者のコメント
 「私たち七尾市の企業が地元七尾市でとれた初の「煌」を必ずセリ落としたかった。煌(きらめき)が寒ぶり史上最高額でセリ落とされたことで、能登の海産物が全国的に知れ渡ることで、能登全体にスポットライトが当たってほしい。セリ落とした「煌」は経営している食品スーパー「どんたく西南部店」「どんたくアスティ店」でお刺身やお寿司として通常のぶりの価格で提供するのでぜひおいしく召し上がってほしい。」とコメントしました。

 「煌(きらめき)」の認定基準
 「天然能登寒ぶり」のうち以下の条件を全て満たすものだけを市場の目利き人により「煌」に認定します。
 ・石川県内の定置網で獲られる天然能登寒ぶり
 ・重量14kg以上
 ・12月から翌年1月までの間に限定
 ・傷がなく胴回りが十分あること
 ・鮮度の徹底(氷締めや活締めを施す等)
 ・資源管理への積極的な取り組み
 (地区ごとに年間2~3ヶ月の網揚げ休漁を行うほか、小型魚が入らないよう網の目を大きくするなど、将来寒ブリとなる資源を守る自主的な資源管理を実施しているもの)

*https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000006.000088156.html より

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<大阪-観光> 法善寺横丁

2023-11-23 05:52:30 | 観光

 「法善寺横丁」

 ミナミの繁華街にありながら、静かななにわ情緒を漂わせている法善寺横丁。東西両端にある門にそれぞれ掲げられた「法善寺横丁」の文字は、西は藤山寛美、東は3代目桂春団治によるもの。長さ80m、幅3mの2本の路地が東西に伸びる横丁内には、老舗の割烹やバー、お好み焼き、串カツ店などがずらり、風情ある石畳に行き交う足音がコツコツと鳴り響く。もともとこの地は浄土宗天龍山法善寺の境内で、参拝客相手の露店がいつしか横丁に発展したもの。太平洋戦争の空襲で寺も横丁も焼失したが、戦後、盛り場として復活。織田作之助の小説「夫婦善哉」の舞台として知られ、歌謡曲「月の法善寺横町」にも歌われた。戦火をくぐり抜けた不動尊は、願いを込める人たちがかけた水で、全身に緑の苔がびっしり。旧中座の2回にわたる火災を乗り越え、復活を遂げた法善寺横丁は、かつての風情を残しつつ、浪速の人情も守りつつ、今も活気溢れる街だ。

*https://osaka-info.jp/spot/hozenji-yokocho/ より

 法善寺横丁は大阪の人々に愛された飲食店街で、地元の方や観光に来られた方はもちろん、芸能人も利用するスポットとしても有名です。
 東西に伸びた2本の路地には、老舗割烹や小料理屋、バー、B級グルメなど50あまりの店が軒を並べています。
 カウンター席の小さなお店も多いですが、ここで自分の店を持ちたいと、力のある料理人が集まり、なかにはミシュランガイドに掲載されるお店もあります。

 「価格が高いイメージがあるので入りにくい…」と、思われる方もいるようですが、横丁内には1000円未満で食事が楽しめるお店もあります。
 もちろん、老舗割烹や高級料理店などのお店もありますので、大阪に来られた方との食事や記念日といった特別なシーンに法善寺横丁のお店を利用される方も多く、「法善寺横丁のお店なら間違いない」という、食にこだわりを持つ大阪の方からも厚い信頼が寄せられているエリアです。

 法善寺について

 法善寺は浄土宗の寺院で、江戸時代初期の寛永14年(1637年)からミナミの地にあります。
 もとは境内に六堂伽藍(ろくどうがらん)と呼ばれる建物がありましたが、太平洋戦争で焼失してしまい水掛不動尊(みずかけふどうそん)と金毘羅(こんぴら)大神、お初大神だけが残りました。

 水掛不動尊は念ずることでご利益を与えてくださり、どんな願いごとでも手助けをしてくださると信じられています。人々はお不動さんに水を掛け、手を合わせて願いごとをします。
 夕方頃には周辺にお店を持つ商売の無事を祈る商人の姿を目にすることもあり、長年地元の人々から愛されてきたのがわかる寺院です。
 また、朝の仕事前に立ち寄れたり、法善寺横丁内で食事をされた方が夜中に参拝できたりと、24時間いつでも参拝できる珍しい場所でもあります。

 法善寺には水掛不動尊以外にも4つの諸堂があります。

 法善寺横丁の歴史

 法善寺横丁のはじまり

 法善寺横丁の歴史は江戸時代までさかのぼります。この時代は法善寺の境内に寄席が2軒あっただけといわれています。

 法善寺の境内が栄えてきたのは、明治の終わりから大正・昭和にかけてです。
 当時のなんば・道頓堀(どうとんぼり)は、歌舞伎や人形劇などの文楽が盛んで船場の旦那衆の娯楽の場所、商談や社交の場所として栄えていました。

 なんば・道頓堀に向かう途中で法善寺に参拝に来る人や芝居小屋に向かう芸能の人を対象に、また芝居小屋へ向かう旦那衆を乗せた車引きの休憩所として、茶店や屋台、露店といった価格の安いお店が集まりだしたのが横丁の始まりだそうです。
 当時は、まだはっきりとした名称はなく「法善寺裏」「法善寺路地」と呼ばれていました。

 時代は流れ、「法善寺横丁」という名を全国に知らしめたのは、大正時代を生きた文豪たちがきっかけだそうです。
 織田作之助の代表作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」や長谷川幸延(こうえん)の代表作「法善寺横町(当時は横町と呼んでいた)」。また、芝居や映画・歌謡曲などに次々と紹介され「法善寺」「法善寺横丁」の名前は広く日本中に知られることになりました。

 その後、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)に起こった大阪大空襲で、水掛不動尊以外全て焼けた法善寺周辺の復興と共に、現在もあるお店が集まってきたそうです。
 こうした歴史を経て、今の法善寺横丁の原型ができてきました。

 風情溢れる石畳の秘話

 時は進み昭和55年(1982年)に、古くなった排水本管の工事によって横丁内の路地が壊される時に、元々アスファルト舗装だった路地を「石畳にしよう」という案がでました。
 この時に提案してくれたのが、法善寺横丁内のお店を良く利用していた、当時南海電鉄(南海電車)に務めていた方々です。
 南海電鉄の協力のもと、阪堺(はんかい)電車の路面の敷石に使っていた石を譲り受けて石畳にしました。
 こうして、現在の風情ある法善寺横丁の雰囲気を生み出す石畳は完成しました。

 この石畳が完成した8月10日・11日を記念日として現在も毎年「法善寺横丁まつり」が開催されています。  (令和2年(2020年)は感染症対策のために開催していません。)
 このお祭りは法善寺の境内が会場で、法善寺横丁に所縁(ゆかり)のある芸能の方が落語・演芸を披露します。
 また、法善寺横丁の名店がそろい、手作りの屋台で、お祭り限定の料理を提供するなど、お祭りを通じて法善寺横丁の魅力に触れ合えるイベントです。

 法善寺横丁火災の復興・再生物語

 平成14年(2002)年9月と翌15年(2003年)4月に発生した法善寺横丁の火災の時には、法善寺全体や周辺のお店にも大きな被害を与えました。

 焼失したお店を元通りにできるのか、また横丁の顔である路地を守ることができるのかが難しい問題だったそうです。
 現在の建築基準法では、店を建て直すために現状2.7mの路地幅を4m以上に広げなければならず、風情ある横丁の街並みの再建が危ぶまれました。

 しかし、2度目の火災の火元となった店主から「自分のところの借地の権利を売るので、それで各店舗の間口を広げて再建してください。買っていただいた権利金は被災された方々にお詫びの気持ちで納めます」という申し出があり、再建が大きく前進したそうです。
 4店舗でその間口を当分に振り割り、1m程度残った空間は路地とくっつけて少しでも空間をつくるように再建し、法善寺横丁の横幅2.7mという路幅を守り、石畳も復興しました。

 大阪市の協力のもと、また約30万人以上の署名の数の人々の「このままの風情を守りたい」という想いのおかげで、以前と変わらない景観と活気が戻りました。

 最初の火災から2年後の平成16年(2004年)9月9日には、法善寺の北側の路地に「慈悲地蔵尊(じひじぞうそん)」が建てられました。
 法善寺横丁の復興の際に寄せられた、多くの“慈悲”に対する感謝が詰まっているお地蔵さまです。

 現在ある「法善寺横丁」は、横丁内の各お店をはじめ、横丁を愛する街の人々のおかげでできた、人情溢れる力強い街です。

*https://ebisubashi-magazine.com/hozenji-yokocho-history/ より

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