いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<珍しい野菜> ビキーニョ

2024-08-23 08:16:52 | 珍しい野菜

 「ビキーニョ」


 「ビキーニョ」で名取を元気に! 2023年10月18日 てれまさ 【仙台放送局 記者 宮崎竜之輔】
 ブラジル原産とうがらし、「ビキーニョ」はピクルスなどとして関東では最近、人気が高まっているそうです。東日本大震災で被災し、使われていなかった名取市の農地で、このビキーニョを栽培するブラジル出身の女性を取材しました。

 【名取でブラジル野菜】

 名取市沿岸部でビキーニョを栽培しているのは鴇田ミリアン由美子さん(55)。
 ブラジル出身の日系三世です。

 (鴇田ミリアン由美子さん)
 「ほのかに辛みはありますが、子どもでも食べられる程度です。形がかわいいので女性にも人気があり、さまざまな料理にあいます」

 【きっかけは東日本大震災】

 ミリアンさんは1995年に建築を学ぶため東北大学に留学生として来日。そのまま仙台の造園会社に就職しその後、日本人男性と結婚し、仙台市内で夫と息子の3人で暮らしています。

 ビキーニョ栽培のきっかけは、東日本大震災後に友人の紹介で始めた仮設住宅でのボランティア活動でした。
被災した人にふるさと、ブラジルの味を届ける活動を続けるうちに知り合いが増え、名取を元気にしたいと考えるようになりました。

 (鴇田ミリアン由美子さん)
 「ブラジル料理を作ってみんなにふるまったところ大好評でした。被災した場所で何かできればみんなをもっと元気にできるのではないかと思いました」

 【ブラジルにはつながりも】

 名取市はブラジルと深い関係がありました。その昔、名取からブラジルに渡った移民が現地で成功し戻ってきたことがきっかけで、ブラジル南部のグアララッペス市と姉妹都市になっていたのです。

 【広がる支援の輪】

 ミリアンさんの活動を支援しようと協力する住民も出てきました。地元の小松菜農家、森義一さん(70)は震災の津波で家を流され、仮設住宅で暮らしていました。津波で被災したあと使われていなかった農地を活用してほしいと、ミリアンさんに畑を提供しました。

 (森義一さん)
 「震災のあとミリアンはじめみんなにお世話になりました。ミリアンが地元でいろいろとやりたいと話していたので、協力してあげたいと思いました」

 活動には地元の学生たちも参加しています。名取市にある尚絅学院大学で栄養学を学ぶ学生たちが「チームびき~にょ」を結成し、ビキーニョを多くの人に食べてもらえるようレシピ作りに取り組んでいます。

 【いざ試作品作り!】

 9月下旬、学生たちと一緒にビキーニョを使った料理の試作品を作りました。試作品は、ギョーザの皮の上にビキーニョやピーマンなどを乗せて焼いたピザや森さんが栽培した小松菜と炒めた料理など全4品。

 「ピザはビキーニョの食感と香りが生きておいしい。ビキーニョは種が気になるという人もいますがピザで焼けば気になりません」

 (鴇田ミリアン由美子さん)
 「どれもすごくおいしい。ビキーニョにはまだまだ無限の可能性があると思っています」

 【ミリアンさんの夢】

 ビキーニョの栽培を始めてことしで5年。ブラジル野菜作りをきっかけに人とのつながりが生まれています。ミリアンさんは、来年はさらに収穫量を増やして県内のスーパーなどに出荷し、いずれは地域の特産品にしたいと考えています。

 (鴇田ミリアン由美子さん)
 「栽培量を増やしてビキーニョを使った名取を元気にする地域おこしができるよう頑張っていきたい」

 【取材を終えて】

 ミリアンさんはとても明るく前向きで、周りにいる人たちを笑顔にさせる力をもっている女性でした。ミリアンさんの作るビキーニョのピクルスをいただきましたが、ピリ辛でやみつきになるおいしさでした。もっと手軽に手に入るようになったらいいなと思いました。これからの活動に期待したいです。  【取材:宮崎竜之輔】

*https://www.nhk.or.jp/sendai-blog/telemasa/488650.html より

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< 郷土料理 > 埼玉 呉汁

2024-08-23 08:05:52 | 郷土料理

 「呉汁-ごじる」

 主な伝承地域 県内全域

 主な使用食材 大豆、野菜

 歴史・由来・関連行事
 「呉汁」は、稲作や畑作を行っていた地域を中心に、埼玉県全域で愛されている郷土料理。特に稲作が盛んな地域では、痩せた土地でも十分に育つ大豆を、田んぼのあぜに植え、土地の有効活用を目的に育てることが多くあった。自家用に田んぼのあぜで育てた大豆は、通称「たのくろ豆(田畦豆)」と呼ばれる。埼玉県では輪作作物や、水田における転作作物として、大豆は古くから栽培されてきた。このように大豆は人々の身近な食品であり、「呉汁」は庶民の日常食であった。大豆や季節の野菜の旨味、栄養が一杯に凝縮されており滋味深い味わいが特徴。味付けは味噌がポピュラーだが、醤油や塩などをベースにすることもある。加える大豆の量やすりつぶす度合いなどは家庭によって異なるようだ。

 食習の機会や時季
 各家庭では、秋に収穫を迎えた大豆を用いて呉汁を作り食すことが、肌寒くなってきた季節の楽しみのひとつであった。冬に不足しがちなタンパク源であることから、栄養食として疲労回復にも役立っていた。

 飲食方法
 大豆は水に浸して戻してから、すり鉢でなめらかになるまですりつぶす。サトイモ、ダイコン、ニンジン、しいたけ、油揚げ、こんにゃくをだし汁で煮る。煮立ったところに大豆を加え、火が通ったらネギを加えて味噌で味をととのえる。昔の食生活は質素だったため、大豆のほかに油揚げと野菜1~2種で作られており、ご飯にかけて食べる人も多くいた。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 家庭でつくられるほか、学校給食、飲食店でも味わえる。川島町では、生の大豆や芋がらなど10種以上の野菜を使った「かわじま呉汁」を開発し、地域活性化を目的に町内の飲食店で提供している。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/33_2_saitama.html より

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<B級ご当地グルメ> 神奈川 よこすか海軍カレー

2024-08-23 08:01:51 | B級ご当地グルメ

 「よこすか海軍カレー」

 「海軍カレー」

 海軍カレー(かいぐんカレー)とは、大日本帝国海軍(1872年-1945年)の兵食に由来するカレーライスである。

 日本でカレーライスが普及したルーツといわれることもあるが、実際には海軍の兵食のカレーは民間のカレーの普及に比例したものであり、これが発祥というわけではない(#海軍カレー、海自カレーについての誤った伝説)。

 本記事では、海上自衛隊(1954年-現在)の食事に由来する海自カレー(かいじカレー)についても述べる。

 歴史
 大日本帝国海軍では、1884年(明治17年)より、脚気対策のため給食が洋食化された。(詳細は「日本の脚気史#海軍の兵食改革」を参照のこと)。

 1889年(明治22年)11月25日海軍省達第四四九号において、厨夫学術検査規格が定められ、三等厨夫の項目に、“「ライスカレイ」ノ仕方”があげられている。

 1889年(明治22年)11月29日海軍省達第四五四号『五等厨夫教育規則』において、五等厨夫が学ぶ科目の1つに、“「ライスカレー」ノ仕方”があげられている。

 海軍カレーがレシピとして確認できる最も古い文献は、1908年(明治41年)に舞鶴海兵団が発行した『海軍割烹術参考書』であり、チキンライスとともに「カレイライス」が掲載されている。

 1918年(大正7年)に海軍教育本部から発行された『海軍五等主厨厨業教科書』には「ライスカレー」が掲載されているが、レシピは『海軍割烹術参考書』の「カレイライス」とあまり変わっていない。

 1932年(昭和7年)に海軍経理学校が発行した『海軍研究調理献立集』には「浅利のカレーライス」「伊勢海老カレーライス」「チキンカレー」など様々なカレーが掲載されている。

 海軍カレー、海自カレーについての誤った伝説
 伝説の中には誤りを指摘されている事項がある。下記にその類型を示す。

 誤り1:日本式カレーは海軍がルーツ
 高森直史によると、海軍でのカレーの普及は民間でのカレーの普及に比例したものであり、「日本式のカレーは海軍がルーツ」といった説には根拠がないと述べている。同じく高森直史は、海軍の兵食にカレーが取り入れられたのは、民間でカレーが広がりかけていた昭和初期のことではないか、と推定している。

 日本でもっとも古くにカレーがレシピ本に登場するのは、明治5年(1872年)に刊行された「西洋料理指南」においてであり、同じく明治5年刊行の「西洋料理通」にも、カレーライスの作り方が掲載されている。

明治6年(1873年)には陸軍幼年学校でライスカレーが供されていたことの記録がある(カレーライス#旧日本軍・自衛隊)。

 誤り2:海自での金曜日のカレーライスは海軍からの伝統
 海上自衛隊では、毎週金曜日の昼食にカレーライスを食べる慣習がある。この慣習について「金曜にカレーを食べるのは帝国海軍以来の伝統である」との説明がしばしばなされるが、それは誤りであると高森直史は指摘している。元統合幕僚会議議長であった佐久間一(海上自衛隊OB)は、水交会の機関誌「水交」平成25年(2013年)新春号において、「物事は誤って伝えられることがあります。卑近な例でありますが、海上自衛隊の金曜日の昼食の献立がカレーライスであるのは、海軍以来伝えられてきたのだという向きがありますが、それは事実と異なっております。」と述べている。

 誤り3:週末のカレーは曜日を忘れないようにするため
 「週末(金曜日または土曜日)にカレーを食べるのは、長期間の海上行動時でも曜日を忘れないため」と説明されることがあるが、誤りである。説明として面白いので誰かが言い出し、尾ひれがついて広まったものである。1960年(昭和35年)に2等海士として海上自衛隊に入隊した高森直史は、「半年間、横須賀教育隊で過ごしたが、隊食にカレーが出たのはほんの数回だったように記憶する。昭和35年(1960年)ごろの海上自衛隊のカレーとはそんなもので、その記憶からも「金曜カレー」はウソであることがわかる。」と述べている。

 1977年(昭和52年)に海上自衛隊に入隊し海上幕僚長や統合幕僚長を務めた河野克俊は、「海上自衛隊ではもともと、土曜の昼食がカレーであった。土曜の午後は休みになるため昼食の調理を簡単に済ませる必要があり、カレーがその条件に合っていたからである。その後、土曜が休日になったので、土曜昼食のカレーがスライドされて金曜昼食のメニューとなった。航海中でも曜日を忘れないように金曜日または土曜日にはカレーを供したというわけではない。」という趣旨の証言をしている。

 海上自衛隊で金曜日の昼食にカレーライスが供されるようになるのは1985年(昭和60年)ごろ以降のことである。海自における週休二日制が普及して、週末は土曜日ではなく金曜日という観念が定着し、訓練や日課等を加味して”金曜日の昼食はカレー”を定番料理とする艦艇部隊が増えたからである。その過程で「海上自衛隊で特定の曜日にカレーを食べるのは、長期間の海上行動時でも曜日を忘れないため」との誤った説明がなされるようになったに過ぎない。

 誤り4:よこすか海軍カレーは日本のカレーライスのルーツ
 横須賀が海軍カレーの発祥の地であるとの説は、誤りである。カレーライスの歴史に詳しい小菅桂子は、横須賀や呉に明治大正の昔から軍隊カレーの食堂があったという話は聞いたことがない、としている。

 現在の海自カレー

 海上自衛隊で食されているものは「海上自衛隊カレー」「海自カレー」とまとめて呼ばれる。各艦艇・陸上部隊ごとに独自のレシピが伝えられているため、作られるカレーは各艦艇・陸上部隊ごとに異なり、単一の味・レシピは存在しない。各艦艇・陸上部隊で独特の隠し味がある。海上自衛隊は、「海上自衛隊レシピページ」上において、各艦艇・陸上部隊のカレーのレシピをウェブサイトで公開している。

 YouTubeでの「防衛省 海上自衛隊 公式チャンネル」において、大日本帝国海軍の『海軍割烹術参考書』に掲載されている「カレイライス」を現代風にアレンジ・再現した「元祖海軍カレイライス」のレシピが動画で公開されている。

 護衛艦や陸上基地(航空部隊等)のイベントに合わせて、一般市民にも食べてもらう企画が、広報効果になったと考えられる。

 なお、海上自衛隊にて隊員らに支給されるカレーライスは、支給対象者が厳密に定められており、支給対象外の自衛官がたとえ「味見」と称して食べることも禁止されている。実際に京都府舞鶴市の第23航空隊や青森県むつ市の大湊地方総監部などにおいて、この違反事案があったとして、懲戒処分が行われたことを2022年3月に防衛省が発表している。

 文献に残るレシピ
 印刷された日本海軍の最古のカレーレシピとして間違いないと思われるのは、明治41年(1908年)に舞鶴海兵団が発行した教科書『海軍割烹術参考書』に掲載されている「カレイライス」のレシピで、下記の通り。これは海軍が独自でつくったカレーのレシピではない。当時民間でもつくられていたようなレシピと変わりない。

 材料
 牛肉または鶏肉、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、カレイ粉、小麦粉、ヘット(牛脂)、米、スープ 添え物として漬物(チャツネなど)
 作り方
 1.まず米を研いでおく。
 2.肉、玉葱、人参、馬鈴薯を賽の目に切る。
 3.ヘットを敷いたフライパンで小麦粉を煎り、きつね色になったらカレー粉を加え、スープで薄めのとろろ汁の濃さに延ばす。
 4.2の肉野菜を炒め、3に入れて火に掛けて弱火で煮込む。馬鈴薯は玉葱・人参がほぼ煮えてから入れる。
 5.先ほどの米をスープで炊く。炊き上がったら皿に盛る。
 6.4で煮込んだものを塩で調味し、皿に盛ったごはんに掛けて供する
 7.供する際「チャツネ」などの漬物を添える。
 初メ米ヲ洗ヒ置キ牛肉(鶏肉)玉葱、人参、馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細ク切リリ別ニ「フライパン」ニ「ヘット」ヲ布キ麥粉ヲ入レ狐色位ニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄トロヽノ如ク溶シ之レニ前ニ切リ置キシ肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ(馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ンド煮エタルヰ入ル可シ)弱火ニ掛ケ煮込ミ置キ先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ之ヲ皿ニ盛リ前ノ煮込ミシモノニ塩ニテ味ヲ付ケ飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス
— 海軍割烹術参考書 1908年(明治41年)
 炊飯やルー作りに使う「スープ」に関する記述がないが、牛骨やテール、鶏ガラなどをくず野菜とともに煮て、濾したもの(簡易ブイヨン)を使ったと推察される。

 よこすか海軍カレー

 かつて旧海軍の横須賀鎮守府が置かれ、現在も海上自衛隊横須賀基地が置かれている神奈川県横須賀市は、街おこしのために1999年(平成11年)5月20日「カレーの街」を宣言、カレーの街よこすか推進委員会を発足した。「よこすか海軍カレー」の名称を使用できる店舗は、海軍割烹術参考書のレシピをもとにしたよこすか海軍カレーの定義を満たしていると認定された店舗としている。キャラクター「スカレー」を起用し、「カレーの街よこすか」というウェブページを設け、京浜急行電鉄とコラボレーションしたキャンペーンを行っている。海軍カレーによる街おこしは、鎮守府が海軍カレーを採用していたことから、カレーライスは横須賀から全国に広がったと横須賀市が捉えたためである。しかし、これは史実ではない(#誤り4:よこすか海軍カレーは日本のカレーライスのルーツ)。

 横須賀市以外でも、小麦粉を煎ったものを混ぜたカレー粉が市販されているので、家庭でも容易に作ることができる[注釈 9]。よこすか海軍カレーは原則として、カレーライス・サラダ・牛乳の3点をセットで提供する。

 2010年8月、『よこすか海軍カレー』のスピンアウト作品として『すこやか軍艦カレー』が横須賀市内で販売開始された。

 大湊海自カレー
 かつて旧海軍の大湊警備府が置かれ、現在は海上自衛隊の大湊地方隊が置かれている青森県むつ市でも、護衛艦で食べられているカレーをご当地グルメとして普及させようという試みが行われている。2017年2月6日に、むつ市とむつ商工会議所、大湊地方総監部との間で事業連携協定が締結された。提供されるのは市内の10店舗で、護衛艦8隻と地上2部隊のレシピが各飲食店に伝授される。3月2日には提供する店舗の抽選がむつ市内で行われ、各店舗で提供するカレーが決定した。

 呉海自カレー
 帝国海軍の呉鎮守府が置かれ、現在も海上自衛隊呉地方隊が置かれている広島県呉市では、呉市役所と呉地方隊が協力して、2015年から「呉海自カレー」が同市内の飲食店30店舗(2018年3月現在)で提供されている。呉海自カレーは、呉地方隊に所属する各艦艇・陸上部隊(以下「艦艇等」)のカレーについて、艦艇等から飲食店にレシピを伝授し、各店舗で忠実に味を再現するもの。提供されるカレー(例:「護衛艦Aカレー」「潜水艦Bカレー」)が各店舗で重複しないシステムである。

 飲食店へのレシピ伝授については、艦艇等の調理員が各店舗に赴いて実地指導を行う。最終的には艦艇等の司令や艦長が各店舗が作ったカレーを食べて「忠実に再現されている」ことを認定し、司令や艦長が交代すると改めて認定をやり直すしくみ。カレーの味と接客レベルを保つため、レシピを提供した艦艇等による「抜き打ち検査」が行われている。

 派生
 よこすか海軍カレーパン - 日本全国ご当地パン祭り第1回で優勝。

*Wikipedia より

 

 よこすか海軍カレーとは
 よこすか海軍カレーとは
 明治41年に発行された「海軍割烹術参考書」には、当時日本海軍で調理されていた軍隊食のレシピが記されており、カレーライスの作り方についても記載があります。

 当時のカレーレシピの要約
 (材 料)
 牛肉または鶏肉、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、カレー粉、小麦粉、米
 (作り方)
 1.肉、人参、玉葱、馬鈴薯をサイコロのように細かく切り炒める。
 2.フライパンに牛脂(ヘット)をひき、小麦粉を炒めてカレー粉・スープ・肉・野菜を入れ、弱火で煮込み、塩で味を整える。
 3.ご飯にかけて漬物類(チャツネ)を付けて提供する。
 当時は“カレールウ”などという製品はありませんでしたので、日本海軍のカレーは、牛脂と小麦粉・カレー粉から作る「手作りカレー」でした。 具材には人参、タマネギ、ジャガイモ、牛肉または鶏肉を使用していましたので、見た目には現代のカレーに近いものだったようです。 また、豚肉および豚脂(ラード)は使いませんでしたので、現代の私たちからすると“あっさりとした昔懐かしい味”のカレーだったようです。

 海軍割烹術参考書のレシピをもとに、現代に復元したカレーが「よこすか海軍カレー」なのです。 原則的なルールを守った上で、各店舗では特徴を生かした味の海軍カレーを提供しており、45店(平成28年9月現在)のカレーが「よこすか海軍カレー」として認定されています。カレーの街よこすかでは、栄養バランスを考慮し、サラダと牛乳を必ず添えることが提供の際のルールとなっています。

 「よこすか海軍カレー誕生」エピソード
 平成10年12月、海上自衛隊地方総監の退官を前にお別れパーティーが海上自衛隊 田戸台分庁舎で開かれました。 その席上で総監が、「呉市と舞鶴市では、両市が本家争いをするなど、肉じゃがを“まちおこし”に繋げているが、カレーライスが庶民の食卓に普及したのは海軍のカレーにルーツがあるので、海軍の街である横須賀でカレー発信の地として、“カレー”を地域の活性化に利用してみては」という趣旨の話をされました。
 この話を受けて横須賀市役所、横須賀商工会議所、海上自衛隊の3者で調査、検討がはじめられ、旧日本海軍で提供されていたカレーを現代に再現する方針が決定しました。 平成11年5月20日、横須賀市は「カレーの街宣言」を行い、「カレーの街よこすか推進委員会」が発足しました。

 これが全国的にも初の試みとなる、横須賀市役所・横須賀商工会議所・海上自衛隊の3者が協力して行う「カレー」による街おこしのスタートとなったのです。
 カレーの街よこすか推進事業のメインブランドは、海軍割烹術参考書(明治41年)に記載のある「カレイライス」の作り方をもとにして、現代に復元したカレー“よこすか海軍カレー”とすることが定められました。

 カレーメニューの提供、商品の開発、販売は横須賀商工会議所に事務局を置く「カレーの街よこすか事業者部会」が担うこととなり、平成12年には「よこすか海軍カレー」の商標登録が認められました。

 これにより、市内での海軍カレー提供の他、お土産用“よこすか海軍カレー”レトルトの製造販売、海軍カレー関連商品の販売もスタートし、加盟事業者は年々増加を続けています。平成11年の発足当時15社の協力によりスタートした“カレーの街よこすか推進事業”は、平成28年には登録事業者数90社を数えるまでになっています。

 横須賀はカレー発信の地
 明治初期、海軍・陸軍軍人の病死の最大の要因は脚気(かっけ)でした。 当時の日本海軍では白米中心で、たんぱく質やビタミンB1が不足した軍隊食が提供されていました。明治16年には脚気による罹患者数が1,632名、死亡者数が49名にも上り、軍内では早急に対策を打つべき深刻な問題となっていたのです。

 明治17年、海軍軍医だった高木兼寛(後の海軍軍医総監)は軍艦筑波号による航海実験を行い「兵食改革」に着手しました。イギリス海軍で提供されていたカレー風味のシチューに小麦粉でとろみを付けて、ライスにかけたメニューを軍隊食に取り入れたのです。 このメニューはシチューの具材と小麦粉により当時の軍隊食に不足していた栄養分を補うことができるものでした。 その結果、明治18年には脚気の罹患者数は41名、死亡者数なし、という劇的な改善が見られ、脚気をほぼ撲滅することに成功したのです。

 このときに採用されたメニューが現在の日本のカレーライスのルーツと言われています。

 その後、カレーライスは兵役を終え故郷に戻った兵士たちにより全国に広まっていきました。 海軍とともに歩んできた街 “横須賀”。 横須賀はカレー発信の地なのです。 現在、横須賀市では、明治期のカレーを現代に再現した“よこすか海軍カレー”をメインブランドとして「カレーによる街おこし」を推進しており、全国に向けてカレーの情報を発信し続けています。


 金曜日はカレーの日
 海上自衛隊では毎週金曜日にはカレーライスを食べる習慣があります。 長い海上勤務・遠洋航海では、外洋の景色が変わらず、決まった曜日に勤務が休みとなるわけでないため、曜日感覚がなくなってしまいます。
 これを防ぐため、金曜日に各艦船の調理員が腕によりをかけた美味しいカレーライスを提供する習慣が生まれたのです。 現在、この習慣は船上勤務に限らず全ての部署に広がり、金曜日にはカレーがメニューに組み込まれるようになったのです。

 「カレーの街よこすか」では“金曜日はカレーの日”として、金曜日にカレーを食べることを推奨しています。カレーの街よこすか認定店でも、金曜日に大盛りサービス、半額サービス、割引サービスなどを行う店舗が多数あります。

*https://kaigun-curry.net/about より

*https://livejapan.com/ja/in-tokyo/in-pref-kanagawa/in-kanagawa_suburbs/article-a0003148/ より

「よこすか海軍カレースペシャル ビーフorチキン」は、お肉をビーフがチキンが選ぶことができ、牛乳とサラダ、薬味に加え、コーヒーまたは紅茶もセットでついてきます。「当時は、船内で紅茶やコーヒーをたしなむとき、ポルカやワルツの生演奏を聴きながら楽しんでいたそうです。それを再現すべく、店内でも専門家にセレクトしてもらったBGMを流しているんですよ。またスタッフの制服もレトロ感のあるデザインのものにしています」-「横須賀海軍カレー本舗」

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うまいッ! NHK 「東京によみがえる江戸の味! 東京しゃも〜東京・あきる野市〜」

2024-08-23 07:53:30 | うまいッ!NHK

 「東京によみがえる江戸の味! 東京しゃも〜東京・あきる野市〜」 2020年9月28日

 東京で復活した「東京しゃも」。闘鶏用に育てられたシャモは筋肉が発達しプリプリ食感と濃厚なうまみが魅力!「しゃも鍋」「親子丼」など絶品の江戸の味も紹介します!

 食材ハンター・板橋駿谷さんが東京都あきる野市の養鶏現場を訪ね、「東京しゃも」のおいしさの秘密を探ります。闘鶏用に育てられたしゃもは気性が荒く、群れで飼うのが難しいと言われますが、生産者はヒナの段階からの集団飼育で協調性を育むなど、独自の工夫を重ねていました。江戸の庶民に愛された伝統の味を現代に復活させた「東京しゃも」。老舗料理店自慢のしゃも鍋や親子丼なども紹介!奥深い魅力をたっぷりお伝えします!

*https://www.nhk.jp/p/umai/ts/P7R4N8K39M/episode/te/72Y986RY69/ より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「東京しゃも」

 「東京しゃも」 ページID:0068839 更新日:2022年2月20日

 東京と軍鶏のつながりは長い歴史を持っています。 江戸時代初期に日本に渡来した軍鶏は、主に闘鶏用として改良されてきましたが、その肉の美味しさは江戸の名物料理「シャモ鍋」としても有名で当時の 風俗誌 (幕末の風俗誌「守貞漫稿」(1853年)に「鴨以下鳥を食するは常の事也。然れども 文化以来京阪ではかしわという鳥を葱鍋 に烹て食する事専ら也。江戸はしゃもと いう鳥を同製にして之を売る。」とあります。) にも登場しています。「東京しゃも」の開発はこの伝統あるシャモ肉の味を再現するため、昭和46年にまず軍鶏特有の闘争性の除去や育成率の向上を図る改良から始まりました。 その後改良した軍鶏と様々な鶏種との交配を試行し、昭和59年に現在の交配様式を完成させました。

 「東京しゃも」が地理的表示(GI)として登録されました
 令和元年5月8日に、「東京しゃも」は、地理的表示(GI)保護制度に基づく登録を受けました。これは、かねてより東京しゃも生産組合が登録申請を行っていたもので、この度、農林水産省の審査を経て登録されたものです。登録された生産地や品質等の基準を満たした産品は、地理的表示(GI)を使用できますが、東京しゃも生産組合以外の生産者は、表示が制限されることとなります。

 詳しくは農林水産省ホームページへ

 東京しゃも肉の特質
 東京しゃもの肉は堅く引き締まっています。 また脂肪分が少なくさっぱりとした味わいで、日本の伝統的な料理に向いています。
 一般の鶏肉であるブロイラーに比べて、長期間(20週)飼育するので、味わいが濃く、特に鍋料理の素材にするとよくだしが出、見た目も上品な油の浮き具合です。 正月のおせち料理や雑煮などにも最適です。

 交配方法
 「東京しゃも」は改良した純系軍鶏とロードアイランドレッド種を交配した二元交雑種に、さらに軍鶏を交配するという三元交雑の交配様式をとっています。 この交配様式によって軍鶏独特の歯ごたえや食味が維持され、加えて生産性を高めることにも成功しています。

 生産と流通
 当センターで生産した東京しゃものヒナは、ふ化の翌日に「東京しゃも生産組合」に加入している都内の生産者に販売されます。 その後約120日~150日の飼養期間を経て出荷され、指定卸問屋から小売店、飲食店を経て、消費者に鶏肉が提供されています。  

*https://www.tokyo-aff.or.jp/site/ome/1197.html より

 

 江戸文化の味 “しゃも鍋”
 しゃもを軍鶏と書きあらわして、その勇壮な姿を好み、闘鶏で引き締まった肉を「しゃも鍋」として食すところが江戸っ子の心意気と言えるでしょう。 幕末の風俗誌「守貞漫稿(もりさだまんこう)」に、「鴨以下鳥を食すは常のこと也、然れども文化以来京坂(京都・大阪)はかしわという鶏を葱鍋に烹(に)て食す事専也(もっぱらなり)江戸はしゃもと云う鶏を同製にして之を売る」とあります。 あの、鬼平と呼ばれた、火付盗賊改方の長谷川平蔵宣以も、しゃも鍋を好んだとされています。 これは上方には広まらなかった食文化。しゃもは江戸を代表する味、江戸を象徴する味と言えます。

 東京に蘇えった江戸の味
 昭和40年代になると鶏肉は生産コストが低く、大量生産に適したブロイラーが一辺倒となり市場を席捲しました。 ブロイラーの味わいはとても淡白なものであり、どのような料理法にもなじみが良いという利点がある一方で、鶏本来のコクを失い、伝統的な日本の料理および味を表現できないという状況も生み出しました。 結果的に、江戸の伝統を受け継ぐ、この東京の地において、味の良いコクのある鶏肉の復活を望む声が高まったのです。 そこで、この声に応えるために、旧東京都畜産試験場(現在の東京都農林総合研究センター)が中心となって、昭和46年より研究を重ねて、十数年の年月をかけ、ついに昭和59年(1984年)に「東京しゃも」を誕生させました。 まさに、この東京で江戸伝統の風味が生きた鶏肉を蘇らせたのです。その味は現代のプロの料理人からも高い評価を受けています。

 伝統を守る誇り “東京しゃも”
 東京しゃもは、大量生産されるブロイラーとは一線を画する、今や東京都が誇るブランド鶏です。 今や、多種多様な”地鶏”も大量生産される時代になりましたが、東京しゃもは同じ路線は歩みません。 極められた味に裏付けられた30年にもおよぶ販売実績は、その最たる証と言えます。 東京しゃもは、あくまで東京生産にこだわり、東京農業を支える取り組みを続けます。 東京しゃもは、東京にふさわしい、ブランド力のある生産物であり続けます。 東京しゃもは東京都から東京都地域特産品認証食品として認証を受けました。東京しゃもを食材として取り扱う店舗はとうきょう特産食材使用店として登録を受け、積極的にPRすることができます。 今後も、東京しゃもは、地元で愛され、東京で愛される味であり続けたいと願っています。

 東京しゃもを愛する仲間達
 東京しゃもを誕生させた熱い情熱が、東京しゃもを愛する多くの仲間達を引き付けたと言えるでしょう。 東京しゃもの親にあたる鶏・種鶏の維持に始まり、お客様にお肉やお料理を提供する小売店・料理店に至るまで、かかわる仲間達が一丸となって、東京しゃもの価値、ブランド力を守る努力を続けています。 もちろん、時に喧々諤々、激しいやり取りになることも少なくありません。 でも、その全てが、東京しゃもが最高の鶏であり続けるためのプロセスなのです。 この先もずっと、熱い仲間達がブランド鶏”東京しゃも”を守り続けます。

 “生産地限定・生産者限定”  東京しゃも生産組合
 東京しゃもは、自然に恵まれた東京の多摩地域でしゃもの健康を第一に、そして「安心」「安全」「うまい」をモットーにして、東京しゃも生産組合員が生産しています。養鶏は一に場所と言われます。多摩の自然豊かな環境が東京しゃもを育んでいるのです

 組合員は東京しゃも生産組合が指定する東京しゃも専用の飼料を用いて、東京しゃもを飼育しています。自然の恵み、とうもろこしがたっぷり入った、この専用飼料が東京しゃものうまさの秘訣です。植物性タンパク質と動物性タンパク質を絶妙のバランスで配合し、しゃも肉の際立ったうまさを引き出しています。

 現在、4軒から構成される当組合は、東京都下でも有数のプロフェッショナル集団。東京しゃものひよこは農場に届いた後、じっくりと120日間以上、手間暇かけて育てられます。ひよこから東京しゃもを育てるためには、特殊な設備や熟練した技術を要し簡単な作業ではないのです。

 120日を超える飼育日数は、一般のブロイラーと比べると3倍程に及びます。じっくりと育てられることが、もう一つの東京しゃものうまさの秘訣と言えます。東京しゃもの魅力は、雄鶏のしっかりとした歯応えと雌鶏のふんわりとした脂のうまみ。これらの虜になったファンは、足繁くお店に足を運ぶと言います。しゃも肉、江戸を象徴する味は、この東京でも愛される味であり続けます。

*https://tokyo-shamo.jp/brand/ より

 

<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 77.  東京しゃも

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=06061cd99e02116925936baaf3940314&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTYlOUQlQjElRTQlQkElQUMlRTMlODElOTclRTMlODIlODMlRTMlODIlODImcD0x

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<料理用語-和食> 笹ずし

2024-08-23 07:33:16 | 料理用語

 「笹ずし」

 「笹巻きずし」とも言う。
 酢で締めた魚をすし飯と一緒に笹の葉で巻き込むなどしたもの。「毛抜きずし」とも言われ、現在の箱ずしや握りずしの原型になっているという。魚は小ダイ、アジ、コハダ、キス、アユなど。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/91_H/023.html より

 長野の郷土料理「笹寿司」とは少し違う。

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<難読漢字-鳥類> 戴勝

2024-08-23 07:29:26 | 難読漢字

 「戴勝 やつがしら」

 ヤツガシラ(戴勝、八頭、学名:Upupa epops)は、鳥綱サイチョウ目ヤツガシラ科の1種である。

 漢名は戴勝(たいしょう、簡体字: 戴胜、拼音: dàishèng タイション)。現代中国語では俗に呼哱哱(拼音: hūbōbō フーポーポー)、山和尚(拼音: shānhéshàng シャンホーシャン)とも。

*Wikipedia より

 由来-「戴勝」は漢名からで、頭に髪飾り(勝)を戴(いただ)いた鳥の意。

*https://www.kanjipedia.jp/kotoba/0004470600 より

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<異名-スポーツ選手> ミスターGT

2024-08-23 07:26:00 | 異名

 「ミスターGT 脇阪寿一」

 脇阪 寿一(わきさか じゅいち、1972年7月29日 - )は、日本のレーシングドライバー、レーシングチーム監督、プロデューサー。奈良県奈良市出身。

 実弟は、同じレーシングドライバーの脇阪薫一。夫人は、元レースクイーンの福沢美穂。長年に渡る全日本GT選手権やSUPER GTでの活躍で、「ミスターGT」の異名を持つ。トヨタ在籍初期~中期(主に2003年~2006年)には、「スピードファイター」の異名も持っていた(『激走!GT』より)。

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 飛ぶ鳥跡を濁さず など

2024-08-23 07:20:14 | 慣用句・諺

 「飛ぶ鳥跡を濁さず」

 「立つ鳥跡を濁さず」に同じ。-立ち去る者は、あとが見苦しくないようにすべきであるということ。退きぎわのいさぎよいことのたとえ。飛ぶ鳥跡を濁さず。

 

 「飛ぶ鳥も落ちる」

 権勢が盛んであることのたとえ。飛ぶ鳥を落とす。

 

 「飛ぶ鳥を落とす勢い」

 権力や威勢が盛んなようす。

 

 「飛ぶよう」

 非常に素早かったり、勢いがあったりするさま。

 

 「途方途轍もない-とほうとてつもない」

 「途方もない」に同じ。-

  1 道理に合わない。とんでもない。途方途轍 (とてつ) もない。

  2 並々でない。ずぬけている。途方途轍もない。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 栃木 相澤酒造

2024-08-23 07:14:40 | 日本酒

 「相澤酒造」

 銘酒「愛乃澤」を造る 「相澤酒造」/栃木県佐野市 栃木県 SAKE&2011.12.18

 相澤酒造の仕込み水。

 栃木県佐野市に蔵を構える相澤酒造は、安政元年・1854年に創業した栃木県内でも老舗の酒造だ。現在8代目の蔵元は相澤祥子さん、そして杜氏は娘の相澤晶子さんが務めている。
 中田が伺ったのは寒さ厳しい冬の日、ちょうど蔵では寒造りの真っ最中だった。蒸米の作業を見学しながら、今年の米の状態やこれからの細かな調整、変化について説明をいただく。
 「こちらのお水はどんな水質なんですか?」と中田。
 「水はやや硬水です、発酵が進みやすい水質です」と晶子さん。相澤酒造では敷地内の井戸から秋山川伏流水を汲み上げ、仕込み水として使用している。この清冽で豊かな水から爽快な味わいの酒が生まれるのだ。

 酒造りを見極めるために。

 麹室では純米吟醸用の製麹の作業を見学させていただいた。作業を行う床(とこ)の上いっぱいに広げた蒸米に向かい、腕と蒸米までの高さは一定に保ち、手に持った缶に入った麹菌を振りかけていく。
 「場合によって、米に水分が多いと感じたら、腕の高さを変えます。麹菌を振り切る、振り切らない、蒸かしあがったときの状態を見て決めています。」
 「毎年毎年、どんな出来上がりにしたいか想像しながら、感覚を見極めています。多くの量を造ることができないので、再現性を持たせるのが難しいです。」と晶子さん。
 相澤酒造の看板商品は「愛乃澤」「愛乃澤純」「旭城」。酒米“栃木県産五百万石”、“栃木県産ひとごこち”による酒造りは、まさに栃木の酒の味を醸し出している。栃木県清酒鑑評会では、県産米純米酒部門で知事賞受賞を受賞するなど、その名は広く知られところとなり、旨みや口当たりのバランスの良い酒とし気も高い。
 その味は、杜氏・晶子さんのきめ細やかな酒造りによって左右される。常に注意深く見極める感覚を持つこと、このすべての配慮は酒造りへの情熱に他ならないのだ。

 相澤酒造 栃木県佐野市堀米町3954-1

*https://nihonmono.jp/article/3097/ より

 代表銘柄

愛乃澤 オリーヴラベル
 特別純米 瓶火入酒 全量山田錦米 磨き60%

山田錦を全量用いて小仕込みで丁寧に醸し出した純米酒です。瓶火入で香りを守り、 低温貯蔵で味わいを調えました。
上品で爽やかな香り、山田錦らしい深みや丸さを感じさせつつもすっきりとした味わいの旨口純米酒です。

*http://www.paw.hi-ho.ne.jp/y-tsukii/ainosawa.htm より

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<パリ五輪2024> メダリスト 清岡幸大郎

2024-08-23 06:48:33 | パリ五輪2024

 「清岡幸大郎」 金-レスリング・男子 フリースタイル65キロ級

*https://www.sankei.com/paris2024/medalist/?qrkydog_paris2024_page=PROFILE-1939700-------------------- より

 清岡 幸大郎(きよおか こうたろう、2001年4月12日 - )は、日本のフリースタイルレスリング選手。高知県高知市出身。階級は65kg級。妹は同じレスリング選手の清岡もえ。パリオリンピック金メダリスト。

 三恵海運所属。

*Wikipedia より

 「亡き父と一緒に1番高い所からの景色を」カメラの前でこぼれたアスリートの“本音”も パリ五輪代表・レスリング清岡幸大郎 テレビ高知 2024年5月23日(木) 18:25

 パリオリンピックのレスリングに出場する、高知市出身の清岡幸大郎(きよおか・こうたろう)選手。練習でのストイックさや、私生活での意外な一面、さらに、亡き父への思いなど、密着取材で素顔に迫りました。

 4月、キルギスで行われた、レスリングのパリオリンピック・アジア予選。高知市出身の清岡幸大郎選手が、男子65kg級の準決勝で勝利し、オリンピック出場を決めました!

 高知県勢では、女子の櫻井つぐみ選手に続く初の快挙で、“夢舞台”での活躍が期待されます!オリンピックが日に日に近づく中、このほど、清岡選手の練習がメディアに公開されました。*57㎏級の世界チャンピオンである櫻井つぐみとは幼馴染だった。

 ■清岡幸大郎選手
 「先日、世界最終予選が行われて、オリンピックの自分の階級に出場する選手が決まって、日を追うごとに(五輪が)近づいていくにつれて、実感もどんどん湧いてきて、『五輪に向けて頑張っていかなきゃな』と感じています」

 23歳の清岡選手は、社会人1年目。この春日本体育大学を卒業し、現在は、兵庫県の「三恵海運」に所属しています。住んでいるのは神奈川県で、母校・日体大が練習拠点。北京オリンピック銀メダルの湯元健一コーチのもと、トレーニングに励んでいます。

 ■清岡幸大郎選手
 「ひたすらスパーリング(実戦練習)をして、後輩に技術指導をしたり、逆に後輩の技術を見ていいところがあれば盗んだり、いろんな部分で勉強しながら練習させていただいています」

 強豪選手が集まる日体大のレスリング場は、清岡選手にとって絶好の“鍛錬の場”。この日も、後輩との実戦練習に熱が入ります。相手は、“全日本王者”ですが…

 清岡選手の持ち味は、「スピード」と「スタミナ」。この場面も、相手の一瞬の隙を突いて攻撃を仕掛け、「持久力」で抑え込み続けて主導権を渡しませんでした。

 ■日体大レスリング部 田南部魁星(たなべ・かいせい)主将
 「(テレビで)さらされたわ…恥ずかしい…。おととい、きのうぐらいの(対戦)を出してほしいな…」

 ■日体大レスリング部 田南部魁星 主将
 (Q.やっぱり、強いですか?)
 「めちゃめちゃ強いですね、やっぱり。何をやっても完璧な人間なんで、レスリングぐらいは勝ちたいなと思うんですけど、レスリングも強いので、ズルいですよね(笑)」

 練習の合間には、後輩へ積極的にアドバイス。

 ■清岡幸大郎選手
 「常に戦わなくてもいいから、プレッシャーをかけるタイミングだけ、ここに『圧をかける』。…っていうのができるようになれば、もっと『怖さ』とか『圧』を相手は感じる。技を仕掛けにいかなくていいから、『組み手』のところで『プレッシャー』をかけるのがもう少しできるようになれば、もっと良くなる」

 マットの中でも、外でも、“頼れる先輩”は大きな存在です。

 夕方からの練習が終わり、帰宅したのは、午後8時半。

 清岡選手は、大学近くのマンションで、同じ「三恵海運」所属の高橋夢大(たかはし・ゆうだい)選手とルームシェアをしています。

 ■清岡幸大郎選手
 「(高橋選手とは)一緒に食べることもあるんですけど、練習が終わる時間が別だったりするので、けっこう各自で食べることが多いです」

 大学時代は寮生活でしたが、いま、食事は“自炊”です。

 ■清岡幸大郎選手
 「(学生時代は)学生食堂で(食事を)出していただいていたんですけど、練習が終わって『疲れた』ってなっている時に、ご飯がちゃんとできている状態でいただける、っていうのは、今になって、やっぱりありがたみを感じますね」

 それでも、手際よく料理していく清岡選手。実はこんな一面も・・・。

 ■清岡幸大郎選手
 「もともと好きだったので、料理するのは。『好きなものを食える』って考えたら、いいところもあるのかなって。自分の摂りたい栄養を、自分で考えて。その栄養も、好きな料理にして食べられるっていうのは、良いですね」

 疲れた中でのこの時間も、清岡選手にとっては“充実したひととき”。よく作るのは好きな中華料理だそうでこの日のメニューも、肉野菜炒めとチャーハンです。

 ■高橋夢大選手
 (Q.試合後のインタビュー対応について)
 「(清岡)幸大郎は人前が好きなので、堂々としていてかっこいいですね。僕はもう、こう、小っちゃくなって、何喋ってるかわかんない感じなんで…。普通に私服も“バチイケ”で…」

 大学時代の同級生同士、気心知れた仲ですが、オリンピックの話になると、“アスリートの本音”も。

 ■高橋夢大選手
 「(本人には)言いづらいですけど、『悔しい』が一番ですね。同級生で、一緒に、同じ『オリンピック』っていう目標を掲げてやってきて…。今はすごく悔しいんですけど、僕は4年後(ロス五輪)に切り替えて頑張っています」

 ■清岡幸大郎選手
 「絶対そうだと思いますね、僕が逆の立場でもそうですし、一番身近なところで言うと、それこそ櫻井つぐみが先に(五輪出場を)決めて、めっちゃ悔しくて…」

 高校時代の同級生、櫻井つぐみ選手のオリンピック壮行会。この時、出席した清岡選手はまだオリンピック出場を決めておらず、密かに悔しさを滲ませていました。

 ■清岡幸大郎選手
 「トップレベルの選手って、全員そうなんだと思います。どれだけ身近で、普段すごく仲良い人でも、同じ・高い目標を持っている以上は、『先に達成されてしまった、自分ができていないのに』という状況になると、すごく悔しくなると思います」

 悔しさをバネに掴み取ったパリへの切符。それは、海外まで応援に来てくれる母・えりかさんや、おととし12月に病気で亡くなった父・義雅(よしまさ)さん(享年47)に捧げるものでもあります。

 ■清岡幸大郎選手
 「『自分が好きでやっていることを、母も好きでいてくれること』が、何より一番嬉しいと思います。父に関しては、亡くなってしまう前に僕が海外での試合で戦っている姿を見せることができなかったので…」

 「常に近くで見守ってくれているとは思っているので、パリにも付いてきてもらって、1人で戦っているんじゃなくて、マットの上に一緒に立っているくらいの気持ちで。一緒に『一番高い景色』を見せることができたらいいなと思っています」

 「本当にたくさんの思いを背負って、自分としても、応援を力に変えることができるので、期待を全て背負ってパリの舞台で戦っていきたいと思います」

*https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1188164?display=1 より

 

 “リンクル”で攻め続けた 金メダル 清岡幸大郎【解説】 NHKNEWS 2024年8月12日 9時28分 

 初めてのオリンピックで金メダルという最高の結果をつかんだ清岡幸大郎選手。

 パリオリンピック、レスリング男子フリースタイル65キロ級の金メダリストが、憧れの舞台で見せたのは「攻め続ける」という清岡選手らしさ全開の“超攻撃的”なレスリングでした。 (スポーツニュース部 記者 松井嚴一郎)

 得意の“リンクル”でつかんだ夢の舞台
 清岡選手の持ち味はスピードのあるタックルや高い身体能力、そして終盤でも衰えないスタミナを生かした“超攻撃的”ともいえるほど攻め続けるレスリングです。

 中でも得意とするのが相手の足の間に自分の頭を入れて相手を回転させる“リンクル”という技です。

 1回決まってしまえば、相手が簡単には抜け出せないこともあり、何度も回転させることで大量ポイントがねらえる技です。

 清岡選手は、この1年間だけで3回の優勝をこの技を軸に決めました。

 その1つが、東京大会の金メダリスト・乙黒拓斗選手を破った去年の全日本選手権。

 準決勝で乙黒選手を倒したあとの決勝を”リンクル”で決めると「一番気持ちよかった」と振り返り、パリオリンピック予選への出場権を勝ち取りました。

 勝てばパリオリンピック出場が決まることし4月のアジア予選でも、最後は“リンクル”でポイントを重ねて勝利。オリンピック前、最後の大会となったことし6月の国際大会では決勝でいきなり8ポイントを追いかける展開となりましたが、“リンクル”でポイントを重ねて同点に追いつき、その後の逆転勝利につなげました。

 清岡幸大郎 選手
 「初見だったら絶対に相手の体を返せる自信がある。試合でかかった回数も断トツで多い技」

 こう述べて、絶大な自信をのぞかせていました。

 レスリングは“超攻撃的”
 迎えた初めてのオリンピック。

 「とにかく自分から攻撃して見ていてどきどきするようなレスリングに注目してほしい」ということばどおり、初めての大舞台でも持ち味を貫きました。

 1回戦は得意の素早いタックルなどから得点を重ね、わずか3分余りでテクニカルスペリオリティでの勝利。

 準々決勝でも去年の世界選手権で準優勝したプエルトリコの選手を相手に最大6ポイントのリードを奪います。4ポイント差で迎えた後半も守りに入ることなく攻め続け、最後は2ポイント差まで迫られましたが、宙返りで相手の技をかわそうとするなど“攻撃的な守備”でも見せ場をつくりました。

 最後は得意の“リンクル”で
 決勝の舞台で試合を決めたのが、清岡選手が最も得意とする“リンクル”でした。

 1ポイントを先制されたあと、前半残り30秒ほどのところで相手の背後を取って、まずは逆転に成功すると、すかさず相手の足の間に頭を入れて得意技の体勢に入りました。

 必死に抜け出そうとする相手をそのまま回転させること4回。磨いてきた“リンクル”で決勝の大舞台も制しました。

 「オリンピックじゃないとレスリングを目にする機会がなかなかないと思うので、レスリングのおもしろさを伝えることができたのかな」

 充実感をにじませていた清岡選手。23歳で挑んだ初めての舞台で“超攻撃的”なレスリングを徹底し、金メダルをつかみ取りました。

*https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240812/k10014546871000.html より

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