「久留米絣」
Description / 特徴・産地
久留米絣とは?
久留米絣(くるめがすり)は、福岡県久留米市を中心に周辺地域で生産されている織物です。綿素材の織物で、通気性が良いため夏は涼しく感じることができ、冬は内側の熱が放出されにくいため暖かく感じることができます。着れば着るほどに肌に馴染み、風合いが良くなっていきます。丈夫な生地のため普段着としても優れた性質を持っています。
久留米絣の特徴は柄のかすれやにじみです。手作業で作られた絣に親しみやすさを感じることができるでしょう。素朴なデザインの中でも、デザインの技術は進歩していき、大柄小柄絣、絵絣などの技法を生み出しました。
備後絣(びんごがすり)、伊予絣(いよがすり)と並び日本三大絣の一つと呼ばれる久留米絣は、複雑で繊細な柄と素朴な藍色が着る人の心を楽しくさせます。洗うほどに美しくなるとも言われ、長く愛用される木綿絣です。
History / 歴史
久留米の米屋に井上伝という、当時12歳ほどの少女がいました。久留米絣は彼女の探究心が、生み出した織物です。
藍染めの着物を何度も洗うと色が抜け落ちるため白い斑点ができます。この斑点を調べるため糸を解き、現れた糸と同じように新しい糸を染めたことがきっかけとなったのです。
この織物を加寿利(かすり)と名付け、生産を始めたところ評判となりました。絣に絵模様を入れるための技術を発展させ、徐々に生産を増やし弟子も増えていきます。1827年(文政10年)には、弟子だけで1,000人以上おり、400人ほどが各地に散らばったことで、全国に久留米絣が広まっていきます。この頃から久留米絣業としての地位が確立されていきました。
市民の普段着として一般的に使われていた絣ですが、洋服の登場により、生産は落ち込んでいきました。役目を終えたという人もいますが、現在、新しい取り組みが始まっており、絣の着物で洋服を製作する職人もでてきました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kurumegasuri/ より
ゆったりと呼吸をしている、久留米絣
丹念に織り込まれた模様と、ていねいに染め上げられた藍色が醸し出す素朴で、あたたかな風合い。久留米絣の魅力はその素材感にある。およそ200年という長い時の流れのなかで磨かれ、受け継がれてきた技と美しさは、忙しい現代人にゆったりと呼吸をする大切さを教えてくれるようである。
久留米絣の生みの親”井上伝”
久留米絣は、寛政の末(1800年頃)、久留米のお米屋の娘として成長した井上伝(1788~1869年)という女性によって考案された。ある日、伝は衣服が何度か水をくぐって色あせたところに、白い斑点がついているのに気づいた。粗削りな美しさを持ったその斑点に魅せられた伝は、持ち前の探究心が沸き立つのを抑えることができなかった。急いで、その衣服を解き放し、糸の白黒にならって白糸でくくった。そして、これを藍汁に染めて乾かし、そのくくり糸を解いてみたのである。それを機にのせてみると、白い斑点が数百点布面に現れ、不思議な魅力を持った新しい織物が生まれたのである。この織物は所々かすれたように見えることから「加寿利」と名付けられた。これが久留米絣の始まりである。
手くくり藍染め手織りの技術は、筑後全域にひろまり、伝亡き後もさらに発展、昭和32年には国の重要無形文化財の指定も受けている。
200年の歴史を持つ久留米絣の伝統を、今も頑なに守り続ける「括り(くくり)業」の伝統工芸士深町繁登さんにお話をうかがった。
久留米絣は人間と機械と糸のおりなすハーモニー
春の暖かい日、深町繁登さんは自分の仕事場で黙々と仕事をしていた。忙しい中、仕事の手を止めいろいろとお話を聞かせてくれた。深町さんは昭和5年生まれで、約50年近く久留米絣に携わっていることになる。本当は、地元の工業学校を出て長崎の造船会社に就職が決まっていたのだが、親戚のおじさんが「何で長崎まで給料取りにいかないかんか。地元の産業の久留米絣をやれ。」と半ば強引に引っ張られ、そのおじさんの門下に弟子入りしたわけである。当時の”括り機”は電力ではなく、人力であった。朝から晩まで、”括り機”を踏み続けなくてはいけない、大変な重労働なのであった。
「おまけに19才になっても、給料はないんやけね。まあほんの小遣い程度はもらったけどね。」と深町さんは笑う。「この”括り”の場合、他の職人は知らんばってんが、一個一個が複雑で難しかせん、おじさんは、手取り足取り丁寧に教えてくれたよ。やけど、あまり憶えが悪かったら、すぐゲンコツが飛んできよったねえ。そんな修行時代が4年くらいあったかね。もともと機械が好きやったけ、この仕事もつらいと思ったことはあまりないね。だけど、たまに今でもあるけど、なかなか糸が言うことを聞いてくれんことがあるとですよ。そんな時はつらいね。何回やっても思うようにいかず、『あ~もう、腹ん立つ』と思うけどね。でも機械も糸も生き物やけんが、いつも機嫌よういくとは限らんよね。絣は”機械”と”糸”と”人間”がうまく調和せないけん仕事やけんね」と深町さんは、もう30年近くも動き続けてくれている、括り機を愛しそうに見ながら笑っている。たぶん久留米絣の持つ素朴さは、深町さんのように、機械と糸にたっぷりと愛情をもつ人達の気持ちの表われなのかもしれない。
「職人の名誉は、『あの人にたのめば間違いない』と言われることやろね。」
深町さんは70才を過ぎても、もちろん現役である。今も図案デザインから”括り”まで、大忙しである。その深町さんが胸を張って語ってくれた。「職人の名誉は金じゃなかね。仕事をくれる人つまり、わたしらから言えば”機屋(はたや)”さんがね、『あの人にたのめば、間違いない』と言ってくれると、本当に嬉かねえ。特にこの括りの仕事は、久留米絣の基礎工事やけんが、誇りを持っちょりますたい。機屋さんが、『この仕事は難しかけん、深町に括らせなたい』と言うてもらったら、もう金じゃなかろうもん。『よっしゃ。任せんね。』と気合いが入るよね。」と深町さん。
金沢に旅行した際に偶然、自分で図案をデザインし、自分で糸を括った久留米絣の着物を着たご婦人に出会ったという。その時は、驚くと同時に、嫁にやった娘に会うような気持ちであったということである。自分が丹精込めて作った絣が、どんな経路でこの金沢に来たのかは知らないが、見ず知らずの人に大切に着てもらっている。「あの時は、嬉しかったあ。」と深町さんは満面の笑みで語ってくれた。愛情を込めたモノ作りをした人にしか感じることのできない、現代社会では到底経験することのできない、特別な感動なのかもしれない。
「やけどね、後継者不足で寂びしかね。わしでよければ、どがん技術でも教えてあげるたい。久留米絣を21世紀にも22世紀にも繋げていきたい、それがわしの夢やけん。わしはこの久留米が好きじゃし、もちろん伝統の絣も郷土の誇りやと思っとるけん、死ぬまで現役を続けるつもりばい。」
深町さんのご自宅の庭には、ツツジの花が満開であった。ツツジは久留米市の市の花である。久留米絣の伝統工芸士は、郷土を愛し、郷土の工芸を愛し、郷土の花を愛す人であった。
職人プロフィール
深町繁登 (ふかまちしげと)
久留米絣図案・くくり伝統工芸士。昭和5年生まれこの道一筋50年のベテラン職人さんである。
こぼれ話
久留米絣の創成の歴史
井上伝の誕生
1788年12月29日、久留米藩の城下に一人の娘が誕生しました。それがのちに久留米絣を創始する井上伝です。父は米屋を営んでいました。伝は幼い頃から機織りが好きで、12~13才頃には上達して城下で織物を売りに出していました。
久留米絣の創製
このころ(1800年頃)、何度も洗濯して古くなった藍染めの着物がありました。ところどころ染料が抜けて白く斑点ができていましたが、伝はそれに疑問を持ったのです。一本一本の糸はどのようになっているのだろう?この疑問を放置せずに、実際に着物の糸を解いてみたことが、久留米絣を生み出すきっかけとなりました。伝は一本の糸に現れている白い部分と同じように、新しい糸を別の糸であちこち縛って、その部分が藍で染まらないようにして染めてみました。この糸で織り出したとき、その布面は寄観を呈したのです。これが久留米絣の始まりです。
伝は、評判がよかったため、この織物に「加寿利(かすり)」と銘打って城下で売りに出しました。そして、15才の頃には伝の教えを求めて20数人が集まっていました。その後21才で結婚しましたが、結婚後も弟子の指導にあたり、「久留米原古賀織屋おでん大極上御誂(だいごくじょうおめし)」の証票を添付して売り出していました。
1813年には、伝は斑紋しかできなかった絣に絵模様を織り出したいと苦心していましたが、当時、儀右衛門(ぎえもん)と呼ばれていた、田中久重に相談します。15才の久重は絣の板締め技法と考えられる絵形の組み方と器機を完成させます。この田中久重は幼少から「からくり儀右衛門」と称されてており、のちに大阪、京都に移り住んで、現在国立科学博物館に展示されている「万年時計」を始め、いくつもの画期的な発明をした有名な人物です。その後上京し、銀座の工場で電信機を製造し、電話機を試作したりしました。没後、跡を継いだ二代久重によって東京・芝に田中製造所が設立され、のちの「東芝」の前身になります。
伝が、27才頃の時、3人の幼子を残して、夫が病死します。伝は3人の子どもを連れて生家の斜め向かいの小さな家に入り、弟子の指導を続けました。
久留米絣業の成立
1827年の伝40才の頃には、弟子は1000人にも及び、そのうちの400人ほどが各地に散らばり機業を開業しました。この時点で、久留米絣の生産が個人の趣味的生産から製造販売を目的とする自営業集団、つまり「久留米絣業」としての地位がとりあえず創成されたことを物語り、ここに久留米絣業(産地)の成立をみることができます。
1857年の伝70才の頃、現在の久留米市大善寺町の有志が妻や娘への絣織の指導を頼んできました。今日のように交通の便はあまりよくはなく、通勤するには遠いことから、子女だけを伝のもとに置くことを躊躇し、出張教授を要請したのです。伝はすでに老齢でしたが、同地に赴き、しばらく滞在して指導しました。また現在三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町の庄屋からも同様の依頼を受けて数十人の子女を指導しました。織りの実地指導ではもはや力が出せないため、孫のトモを同伴して手本させたと言います。
このように、伝は晩年を迎えても絣技術の指導に当り、その教えを受けた者は、数千人を数えたと言われます。こうして、久留米藩内(現在の久留米市・小郡市・八女市・筑後市・大川市・三井郡・三潴郡・浮羽郡)に機織りの音を聞かないところはないと言われることになるのです。
*https://kougeihin.jp/craft/0124/ より
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