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<経産大臣指定伝統的工芸品> 岐阜 美濃和紙

2021-05-07 06:27:49 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「美濃和紙」

 Description / 特徴・産地

 美濃和紙とは?
 美濃和紙(みのわし)は、岐阜県で作られている和紙です。美濃は自然豊かな土地で、和紙の原料となる楮(こうぞ)も採取できる環境であることから和紙が奈良時代から作られており、その記録は奈良の正倉院にも残っています。
 薄さと丈夫さ、美しさの共存が美濃和紙の大きな特徴です。職人の高い紙漉(す)きの技術から、素材の良さを活かした美しさが引き出されています。江戸時代には、最高級の紙として徳川幕府も御用達でした。
 岐阜県で和紙の産地として有名なのは、関市寺尾です。水が違うと和紙の質も大きく変わってくるため、産地によって製品の風合いに微妙な違いが現れます。他にも、岩佐、谷口、牧谷などの産地で高品質な美濃和紙が生産されています。
 岐阜では、美濃和紙が発展したことから、美濃和紙から作られる岐阜提灯、岐阜和傘などの工芸品も生み出されています。

 History / 歴史
 美濃和紙 - 歴史

 奈良時代に始まり、1,300年以上の歴史をもつという美濃和紙が全国的に広がったのは、室町時代に入ってからです。美濃国守護の土岐氏は、地元産業を活性化させるために製糸業を保護し、六斉市(ろくさいいち)という紙市場の開催により生産を着々と拡大させていきます。また、土岐氏は文化人だったため、土岐氏と交流のある公家や僧侶が好んで美濃和紙を使用しました。これによって全国に美濃和紙が知られるようになったと言われています。
 江戸時代には、美濃が専売制度によって特産地に制定されたことから障子紙として確固たる位置づけを得ました。それまで高級和紙として地位を確立していましたが、町人からの支持を受けて美濃と聞けば障子のことを連想する程に生産が拡大しました。
 明治維新の頃には、更に国内の紙需要は増大し、戦時中には日用品のほか爆薬包装紙などの軍用品としても美濃和紙が使われました。
 戦後、石油化学製品が入ってきてからは和紙を日常で使用することはほとんどなくなりましたが、1985年(昭和60年)には経済産業省により伝統的工芸品に指定され、現代でも手漉き和紙の職人たちが美濃和紙の古くから続く伝統を受け継いでいます。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/minowashi/ より

 

 職人半生記~美濃和紙この50年~
 美濃和紙に書かれた大宝2(702)年の戸籍が奈良・正倉院に保存されている。日本最古の戸籍といわれるものだ。1300年もの間、美濃和紙は薄く丈夫で美しい最高級の紙としてその名を知られてきた。美濃に代々続く紙漉きの家に生まれ、職人として半世紀にわたって美濃の和紙を作り続けてきた石原英和さんにお話を伺った。

 
 紙に呼び戻され続けて
 「本当は先生になりたかったんですよ。」中学卒業後、高校へ進学しようと思ったが、お母さんの病気で家業の紙漉きを手伝うことになった。それが、石原さんの紙漉き職人としてのスタートである。薄く丈夫で美しいことで知られる美濃和紙の中でも、特に薄手のものを得意とする名手・石原さんの紙漉き人生は、けれども紆余曲折だ。20歳を過ぎた頃、紙を売る商売の方をやろうと東京へ出たが、今度はおじいさんが病気になり、美濃へ戻った。30歳代だった昭和40年頃には、紙漉きを廃業して当時需要の急増していたプラスチックの工場を始めようと思ったが、取引先に泣き落とされて続けることになった。「よく迷ったよ。迷わなくなったのはここ最近のことかな。でも他の道へ行こうとすると何かしらあって必ず紙の方に呼び戻される。紙の方が私を好きだったんじゃないかってときどき思うねえ。」石原さんはおっしゃる。


 作れば作るだけ売れた昭和30年代
 石原さんの家は代々続く紙漉きの家で、長良川の支流、板取川から少し山側に入った上野(かみの)にある。板取川沿いの地域は川がきれいで原料が豊富。また冬場の生業が他になかったこともあってか、昔から特に紙漉きが盛んだった。石原さんが15歳でこの仕事をはじめた頃も近所はみな紙漉きをやっていた。紙屋の息子が紙屋を継ぐのは当たり前の時代で、友達も紙漉き職人になる人が多かった。当時は毎朝、4時前に起きて仕事していたというが、作れば作るだけ売れた。サラリーマンよりも給料がよかった時代だ。


 背中も見えない
 当時は、集落ごとに薄物中心、障子紙中心などと作る傾向がおおよそ決まっていて、石原さんが住む上野は薄物が多い地区だった。石原さんが作ってきたのも非常に薄い紙が中心で、伝統的工芸品に指定されている岐阜提灯や、友禅染めに使う伊勢形紙などに使われてきた。
 金沢箔で使う「箔合紙(はくあいし・できあがった金箔がくっつかないようにはさんでおく紙)」を頼まれたときのことだ。「これは難しい紙でね、『早く先輩たちに追いつくように頑張ります。』って言ったら、『何言ってるんですか。とっくに背中も見えませんよ。』って言われたんです。」そうか、まだ先輩の背中も見えないのかと思ったという。でもお客さんは、まだ40代半ばの石原さんが、すでに並みいる先輩をしのぐ腕を持っていると言ってくれたのだった。「これはうれしかったです。真面目に一生懸命お客さんのことを考えてやっていればこういうこともあるんだな、って思いました。」

 手漉き和紙の需要の激減
 紙漉きの仕事は面白いと思いますか?と愚問してみた。面白いとか面白くないとか、仕事だからそんなことを考えたことはない、という。 「逆に、何が辛かったって、紙が売れなくなってみんなやめていくのが辛かった。」高度成長の頃からか、機械化とあいまって手漉き和紙の売り上げは激減していった。石原さんのところでも、最盛期には月に2万枚漉いていたのが今では月に2千枚。以前は隣近所、みな紙をやっていたのに、今作り続けているのは上野と隣の蕨生(わらび)・片知の集落を合わせて20軒ほどしかない。高齢化も進んだ。


 紙は素材
 でも幸いなことに、紙漉き職人を志望する若い人は少なくない。他府県から美濃に移り住む人もいて、現在、10人ほどが美濃で職人を目指している。「そういう若いやつらにぼくは言うんですよ。アーチストになるなって。紙は素材であって、それ自体で作品じゃないんです。」 「いい紙」の定義はないという。障子紙としていい紙、型紙にいい紙、「いい紙」は用途によってみなちがう。紙はそれを使うお得意さんが「いい」と言ってくれてはじめて「いい紙」なのだという。しかし、今、和紙は素材としての需要よりはむしろ、ちぎり絵やはり絵の材料やインテリアの素材のような趣味的用途としての需要の方が多い。かつて、素材として、産業の一部として手漉き和紙が使われていた時代は隆盛だった。でも今は違う。和紙はどうあるべきなのか、1300年の歴史を継承していく若い後継者たちに課せられた課題でもある。

 職人プロフィール

 石原英和 (いしはらひでかず)

 1935(昭和10)年生まれ。中学卒業後、家業の紙漉きを手伝いはじめ、以来50年。薄手の紙を得意とする。現在は組合の理事長として後継者の育成にも力をそそいでいる。


 こぼれ話

 手漉きハガキを作ろう!

 薄くて丈夫な美濃和紙の足下にもおよびませんが、手漉きをやってみませんか。牛乳の紙パックと市販の紙漉きセット(ハガキ大の枠と網)を使ってご家庭で簡単にできます。ちょっとご紹介しましょう。

 1.開いた牛乳パックを石鹸を入れた鍋で煮て、表面に貼ってあるラミネートをはがします。ラミネートをはがしたら、紙をよく洗って石鹸の成分を落とし、細かくちぎって水と一緒にミキサーにかけてどろどろにします。これが紙の原料です。
 2.紙漉きセットの枠に網をのせ、原料を流し込みます。(紙漉きです)
 3.網を引き上げてタオルの上に置き、別のタオルをかけてはさみ、水気をとります。網をはずしてアイロンをかければ出来上がり。

 葉っぱを漉きこんだり、絵の具を原料に溶かして色つきの紙を作ったりすることもできますよ。牛乳パックのリサイクルにもなりますね。

*https://kougeihin.jp/craft/0903/ より

 


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