「岐阜 郡上八幡」
澄みきった水と徹夜で踊るまくる「郡上おどり」で知られる城下町・郡上八幡は、長良川の上流に位置し、特に名水の町として知られる。町を歩き、生活用水として使われている場に出会いと、誰もが水の恩恵について再発見するだろう。
この地に八幡城を築いたのは江戸初期に藩主となった遠藤慶隆で、このころから無礼講の踊りが行われ、今の郡上踊りの原点となった。その後の藩主は譜代大名が入れ替わって治めて明治を迎えている。今ある天守閣は、昭和に復元されたコンクリートのお城だが、郡上八幡のシンボル的な存在になっている。天守閣から見える山々に囲まれた八幡の町はとても美しい。
時代は遡るが、応仁の乱を避けてこの地へやってきた連歌師の宗祇は、清水のそばに草庵を結んだ。このことから、今もこの近くにある清水は宗祇水と呼ばれ、多くの観光客が訪れる。また、この清水は名水百選の一号でもある。
山間の小さな町のため、高速道路ができるまでは交通の便もよくなかったであろうが、その分、古い町並みが残っている。その魅力は小京都の中でも五本の指に入る。
=岐阜県の小京都・郡上八幡の観光ポイント=
「女性に人気」の観光地
「桜の名所」がある
江戸時代からの「城下町」
郡上八幡城
戦国時代末期、永禄2年(1559)、遠藤盛数によって戦の陣が置かれたのが郡上八幡城のはじまりです。その後、稲葉氏遠藤氏の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって、幕府から城郭として格上げされました。のちに井上、金森と相次いで入部。宝暦5年大規模な農民一揆がおこり、12代城主金森頼錦は、お家断絶に追い込まれるというわが国歴史上、最も壮絶な一揆(宝暦騒動)が展開されました。金森氏に代わって宝暦9年に丹後の宮津から転封した青山幸道は、城下の殿町に居館を築き、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸、松の丸に改められました。明治4年廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残して取り壊されました。現在の城郭一帯の石垣すべてが県の史跡に指定され、天守閣は市の有形文化財に指定されています。作家司馬遼太郎氏も『街道をゆく』の中で感動を記しております。
町人文化が息づく
*https://www.little-kyoto.com/gifu/gujohachiman.html より
*https://shokyoto.jp/ml/ja/sub/gifu_gujohachiman より
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