「鬼作左 本多重次」
本多 重次(ほんだ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。通称は作左衛門(さくざえもん)。
生涯
享禄2年(1529年)、本多重正の子として誕生した。通称の作左衛門と、剛邁で怒りやすいことから、「鬼作左(おにさくざ)」と綽名された。
*Wikipedia より
鬼作左の由来
重次は気性が荒く、家康にも遠慮なく諫言した。また武勇に秀でており、三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだ、という逸話も伝わる。
性格に関して新井白石は「重次は恐ろしげに見え、言いたい放題を言い、思慮のあるようではなく、奉行など務まる柄ではないように思えた。だが心正しく、しかも民を用いるのに配慮があり、訴訟をよく聞き事を明らかにした」と評価している。
領地の民に法令を触れ回る時の立て札は、難しい言い回しを避け、ひらがなでわかりやすく大きな字で書かせたという。そして最後に「右に背くと、作左が叱る」という文言で締めたという。
*Wikipedia より
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