ねこ庭の独り言

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共産党と宮本委員長 ( 中ソ対立と部分的核実験禁止条約 )

2022-08-19 15:15:49 | 徒然の記

 「宮本は戦後、1958 (  昭和33 ) 年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。」

 宮本顕治氏について資料を探すと、このように書いてありました。別の資料で歴代委員長の在任期間を見ると、次のようになっています。

 宮本委員長24年間、不破委員長13年間、村上委員長2年間、志位委員長20年間、そうなると宮本氏が40年間党を指導したという説明が通じなくなります。さらに探していると、党規約の説明がありました。

 「日本共産党の党規約には最高職の明文規定がなく、中央委員会議長、書記局長、そして幹部会委員長の党三役が、中央最高指導部として機能している。」

「近年『政治資金収支報告書』では、委員長が名目上〈日本共産党の代表者〉となっており、内閣総理大臣指名選挙や党首討論では委員長が党を代表するのが通例であり、党外からは委員長が党首として遇される。」

「委員長になった者は長期間その職を務める傾向があり、委員長退任後は中央委員会議長に就任している。」

 実力者宮本氏は、書記局長になった時から党の指導者となり、委員長を不破氏に譲った以後も、中央委員会議長として指導力を失わず、通算40年間党を支配したということが理解できました。

 社会主義国の独裁者が報道される時、役職が委員長であったり首席であったり、総書記や首相だったりしていました。肩書きに注目していませんでしたが、ソ連でも中国でも役職名がさほど重要視されず、権力を握っている個人に焦点が当てられていました。共産党史から、もう一度必要部分を紹介します。

  ・1953 ( 昭和28 ) 年3月スターリン死去、10月北京で徳田死去

    フルシチョフ指導部の路線の評価に関して、ソビエト連邦と中華人民共和国の間に深刻な対立発生

  ・1954 ( 昭和29 ) 年、ソ連共産党が平和共存路線へと変更

  ・1955 ( 昭和30) 年、ソ連の勧告で日本共産党の所感派と国際派が和解し、中国の革命方式「武装闘争路線」放棄を決議

  ・両派の和解後1958(昭和33)年の第7回党大会までには、宮本の党主導権が確立した

 この時期の状況について、次のような説明があります。
 
 「中ソ両共産党は世界各国の共産党に対して、どちらの側に付くのか明らかにするよう迫った。」
 
 こういう事実があったことを初めて知りましたが、日本だけでなく世界中の共産党が悩んだことでしょう。
 
 「日本共産党は判断に悩みしばらく沈黙を続けたが、党内の中国派からの突き上げもあり、1963( 昭和38 )年の第5回中央委員会総会でこの問題を討議した。」「ソ連支持、中国支持、不介入と三様の意見が出たが、結局宮本が〈中国寄りの中立〉で意見をまとめた。」

 「足して2で割る、自民党の政治」、「どうにでも解釈できる玉虫色の解決策」と、反日マスコミが自民党政府を常に批判していますが、実力者宮本氏の結論も似たようなものでした。党内の出来事のため報道されませんでしたが、大国に挟まれた日本が切羽詰まった時は、共産党でもこんな結論しか出せないのだと教えてくれました。自民党の政府ばかりを批判するマスコミも、少しは共産党史を勉強し報道の仕方を工夫すべきではないでしょうか。

 1963( 昭和38 ) 年には中ソの対立だけでなく、もう一つ大きな動きがありました。それは同年8月にアメリカ、イギリス、ソ連の3ヶ国外相がモスクワで調印した「部分的核実験禁止条約」でした。

 条約の契機は前年秋の「キューバ危機」で、キューバにあるソ連の基地に核兵器を設置しようとしたソ連と、阻止しようとしたアメリカが、核戦争の一歩手前まで対立しました。

 この苦い経験から米ソ両国が歩み寄り、部分的核実験禁止条約の締結へと向かったのだそうです。同時に核実験に伴う「死の灰」による健康被害や環境破壊への、国際的な批判の高まりも背景にありました。

 「キューバ危機」については、ケネディ大統領とフルシチョフ首相の激しいやり取りを、マスコミが連日トップニュースで報道しましたからよく覚えています。しかし「部分的核実験禁止条約」については、ほとんど記憶にありません。条約の効果と問題点について、次のような説明がありましたので紹介します。

 〈 条約の効果 〉

   ・冷戦時代となり核開発競争が活発化しつつある中で、米ソが歩み寄り、条件付きながら核開発を抑制することは、画期的な出来事である

   ・技術力の低い国では地下核実験が困難なので、未開発国や後進国への核の拡散を防ぐ効果がある

 〈 条約の問題点 〉

   ・核開発でアメリカ・イギリス・ソ連に対して遅れをとっていたフランスと中国が反対し、条約への不参加を表明した。

   ・両国から見ると、核開発で先行している米ソ両大国が核戦略で優位を保ち、後発国の参入を阻止する条約と映った。

   ・両国はすでに核開発に着手していたが、地下核実験の技術をもっていなかった。

 現在の世界は、ウクライナを侵略しているロシアの大統領「プーチン氏の核使用発言」で大揺れをしていますが、「キューバ危機」時の世界も同じように緊迫していました。繰り返す歴史を確認するためにも、今しばらく1963( 昭和38 ) 年〉当時を検証してみたいと思います。

 興味のある方は、「ねこ庭」へ足をお運びください。

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