宮本委員長を「隠れた日本の支配者 ? 」と書いたのは、表現過剰だったのかも知れません。中国に同調する左翼過激派を共産党内から追放しても、広島原爆忌の式典を妨害する中核派や革労協勢力を日本から追放する力はなかったからです。
氏が戦ったのは「共産党」と言うコップの中でしたが、そこだけでおさまらなかった原因は、氏が「日本学術会議」の反日学者と反日マスコミを手中に収めいてたからでした。大嘘の「反戦平和の共産党論」を、傘下の学者やマスコミを通じ見境なしに発信したやり方は、広島原爆忌を妨害するバカ者たちがそっくり真似ています。他人の迷惑を考えず場所を占拠し、手前勝手な強弁をマスコミの前で主張し、騒動が全国へ発信されるのが、平和活動の一環だと思い込んでいます。
それでも宮本氏の頃は、まだ戦後を引きずっていて、「鉄や竹のカーテン」に隠され社会主義国の実態が見えない時でした。社会主義政権が国民弾圧の全体主義政府しか作れず、国民を幸せにするどころか、政府に従わない人間を容赦無く獄へ送り、最後に殺してしまうことを知る人は、ほとんどいませんでした。たとえ現場を見た人間が事実を伝えても、そんなはずはないと、誰も信じない時代でもありました。情報社会が発達したお陰で、現在は社会主義国家の実体が誰の目にも見えますから、広島原爆忌の式典を妨害する過激派勢力は、いっそう国民に疎まれます。
時代から置き去りにされているのに、左翼過激派たちはとっくの昔に廃れた反日の歌を合唱しています。人殺しの悪人が童謡を歌っているような、釣り合いの取れない姿になります。デモ隊の横を通る市民の視線は、胡散臭そうな、迷惑そうな冷淡さで、耳を傾ける人もいません。
「日本共産党」というコップの中には、ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムなど世界の共産党が侵入し、それなりの広がりを持っていましたので、宮本氏の足跡を辿ると、金日成に劣らない党内闘争が見えます。金日成と氏の違いは、氏が一人だったのに対し金日成が数百人だったという、殺した政敵の数でしょうか。
広島原爆忌で横道に逸れた話を、元に戻します。1963( 昭和38 )年7月に、ソ連と米英が締結した「部分的核実験禁止条約」を、中国の側に立ち賛成しなかった宮本氏の話です。興味深いネットの情報がありましたので、紹介します。
・1964(昭和39)年1月、日本共産党の親中反ソ傾向が強まったことに気づいたソ連共産党は、オルグ3人を日本に送り込み、日本共産党を内部から切り崩そうと計った。
・同年2月日本共産党は、袴田里見を団長とする代表団をモスクワに送り談判を行ったが、けんか別れに終わった。
・その帰りに北京に立ち寄ると、中国共産党から「反修正主義の英雄」として大歓迎を受けた。
・同年5月、来日したソ連のミコヤン第一副首相が、衆議院本会議を傍聴席から眺めた。
・その会議においてソ連派の志賀義雄が党の方針に反し、「部分的核実験停止条約」の批准に賛成票を投じた。
・参議院でも鈴木市蔵が賛成票を投じ、この報を受け急遽中国から帰国した宮本は、二人を党から除名した。
・さらに同年9月25日にはソ連派の神山茂夫と中野重治も除名し、党からソ連派を一掃した。
ミコヤン氏来日の事実を知らなかったので、この時期に志賀氏や鈴木氏など多数の党員ががなぜ追放されたのかが疑問でしたが、この情報で納得しました。ところが今度は中国との対立が発生し、これもまた私の知らなかった事実なので、息子たちと「ねこ庭」を訪れる方々へ紹介します。
この時期は氏だけでなく、共産党にとっても多忙な時だったらしく、それだけ国際情勢が動いてたと言うことなのでしょうか。現在もプーチン氏の「核の脅し」で世界が揺れ動いていますが、何時になっても国際社会は揺れを止めず、平和な時が少ないと言うことなのでしょうか。
スペースの都合で、続きは次回と致します。興味のある方だけ、残暑厳しい「ねこ庭」へ足をお運びください。