宮本氏が中国との関係を断絶した後、反日左翼の世界はどうなったのか。情報の続きがありますので、紹介します。
「1966(昭和41 ) 年 10月には日中友好協会が、日本共産党派と非日本共産党系に分裂し、後者は「日中友好協会正統本部」を結成した。」
「続いて日本アジア・アフリカ連帯委員会も、日本共産党派と非日本共産党系に分裂し、日本ジャーナリスト会議や新日本婦人の会でも両派が対立し、分裂した。」
共産党系も非共産党系もどちらも反日左翼革命勢力ですが、宮本委員長が中国式「武力闘争路線」と決別したため、暴力革命を信奉する過激派勢力が社会党の方へ移動しました。その結果革命路線だけを比較すると、共産党の方が社会党より穏健に見えるという奇妙な姿になりました。
私のように反日左翼勢力を嫌悪し、内輪揉めに関心を払わない人間にとっては、経緯が分からず不思議な現象だけが見えました。自民党と共にかって日本の二大政党と言われた社会党が、今は社民党と名前を変え消滅寸前となっているのは、福島瑞穂党首の教条主義的反日主張が国民に疎まれているだけでなく、抱え込んでいる過激派集団のせいもあったようです。
選挙のたびに議員の数が減り、党首の福島氏や吉田氏さえ落選するという零落ぶりです。反日マスコミの先頭を走っていた朝日新聞も、読者の激減で赤字会社となり、社員の6割を対象に今年から自主退職者を募るという状況にあります。選挙の一票を持つ国民が本気になると、反日勢力が消滅するという事実がやっと見えてきました。
そんな時であるだけに、最も忌むべき政党である共産党が国民の目を眩ませ、このまま生き延びていくことが見過ごせません。「共産党は、国民の命を守る反戦と平和の党です。」と、こんなキャッチフレーズに騙されている人間がまだいることに、危機感を覚えます。
シリーズが長くなっても、宮本氏と共に反日共産党に関する情報を紹介し、安倍元総理へ捧げる鎮魂歌にしたいと頑張る理由がここにあります。話が横道へ逸れましたので、本題へ戻り情報の続きを紹介します。
「中国共産党からの批判・内政干渉・分派作りに直面し、宮本は中国共産党との関係断絶に踏み切らざるを得ず、これ以降日本共産党は、他国の共産主義政党とは距離を置く〈自主独立〉の旗を掲げるようになった。」
「しかしソ連のみならず、中国も敵に回したことにより、日本共産党は国際共産主義運動の中でほぼ完全に孤立した。また国際共産主義運動自体も、ソ連派、中国派、チェコ派、中立派などの四分五裂を起こして事実上崩壊状態となった。」
共産主義革命の総本山として世界の共産党を束ねていたソ連が、スターリンの死後フルシチョフの主張する「平和共存論」へと舵を切り、二番手の大国である中国と非難の応酬を始めたのですから、国際共産主義運動が四分五裂して不思議はありません。するとまた、ソ連共産党が宮本委員長へ歩み寄ってきます。
「1968( 昭和43 ) 年には、日本共産党と中国共産党の決裂を知ったソ連共産党が、日本共産党との関係を修復しようと、スースロフを団長とする代表団を代々木の日本共産党本部に送った。」
「日ソ両共産党は一応共同コミュニケを出したが、〈自主独立〉路線の日本共産党はソ連とも距離を置く姿勢を取った。」
「同年にソ連がチェコスロバキア侵攻を行うと、〈兄弟党の内部問題不介入の原則に、著しく反する〉としてソ連を批判し、そのためソ連共産党と日本共産党の関係回復も短期間で終わった。」
「この時期日本共産党は、ユーロコミュニズム掲げるイタリア共産党との友好関係を強め、議会内政党として国政での影響力を高めたことで、毛沢東主義による文化大革命を続けた中国共産党とは全く異質の党となった。」
次の説明では、中国共産党へ擦り寄っていくのが自由民主党と社会党 ( 現社民党 ) 、公明党へと代わり、手玉に取られていく日本の政界の情けない状況が見えてきます。
「その後、1972 ( 昭和47 ) 年のニクソン大統領の中国訪問によって、中国の外交政策が変わり、同年10月に北京を訪問した田中角栄総理と周恩来総理が共同宣言を発表した。」
「日中国交正常化が実現しても、日中共産党の関係改善はされず、国交回復のための地ならしとなる野党外交では、党内過激派グループの影響もあり、党として中国共産党と友好関係を持っていた日本社会党 ( 現社民党 ) と、田中訪中の3カ月前に周恩来から親書を受け取っていた公明党よって担われた。」
消滅寸前の社民党が命脈を保っているのは、もしかすると中国共産党のお陰なのかもしれません。日本国内を掻き回し、混乱させるためなら、中国は何でも利用する共産党独裁政権です。