ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日本共産党と、ソ連共産党の関係 - 2 ( コミンフォルム批判 )

2022-08-14 07:23:16 | 徒然の記

 日本にとって忌まわしい政党でも、隠れている事実を知るのは学徒の喜びです。「ねこ庭」訪ねられる方々には常識なのかもしれませんが、共産党の過去について私は無知でした。

 詳しい経緯をご存知の方には、読むに値しない冗長なブログとなります。つまらないと思われた時点で、スルーしてください。今回はソ連共産党だけでなく、中国共産党の動きも出てきます。知り得た事実を、時系列で紹介します。

 ・1945年(昭和20年)敗戦後の12月、徳田球一、宮本賢治などの釈放者たちが共産党大会の活動を再開

 ・1946年(昭和21年)1月に、中国延安から野坂参三が帰国。同年2月の第5回日本共産党大会において、「平和革命論」を定めた。内容は次のごとし

  「日本共産党は、現在進行しつつあるわが国のブルジョア民主主義革命を、平和的、かつ民主主義的方法によって完成することを当面の目標とする。」

 ・1949年(昭和24年)1月の台4回衆議院選挙で、当選者35名を出す躍進

 ・1950年(昭和25年)1月6日にコミンフォルムが、次のような野坂批判

   「平和革命論はアメリカ帝国主義を美化するものであり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない。」

 ・コミンフォルム批判は、共産党内に動揺を与え内部が次のように分裂

   所感派 ( 主流派 ) ・・ 徳田球一、野坂参三

   国際派 ( 非主流派 ) ・・宮本顕治

 ・所感派の主張 ( コミンフォルムへ「政治的所感」で反論  )

   「日本の実情も知らずに同志 ( 野坂  ) の言動を批判することは、重大な損害を人民並びにわが党に及ぼす。」

   「一見方針が親米的に見えるだけで実質はそうでなく、党の方針に誤りはない。」

 ・国際派の主張

   「所感に反対、コミンフォルムの意見を受け入れるべき。」

    宮本ら非主流派は、国際派と呼ばれるようになる   

 日本の戦後史について、多少知っているつもりでしたが、所感派・国際派という言葉を初めて聞き、コミンフォルムの干渉についても知りませんでした。温故知新の読書も、反日左翼教授や学者の著書でしたから、不都合な事実を省略していたのかもしれません。次の経過も、初めて知りました。

 ・1949年(昭和24年)毛沢東が、中華人民共和国の成立を宣言

 ・1950年(昭和25年)1月、毛沢東が「人民日報」においてソ連を支持し、野坂の自己反省を要求。記事の内容は、次のような批判

  「野坂の、平和的方法で国家権力を勝ち取るため、ブルジョアを利用できるとする理論は誤りであり、徳田の所感の内容は遺憾である。自己批判を求める。」

 ・同年1月18日、野坂は平和革命論を自己批判し、コミンフォルムの批判の全面的受け入れを表明

 共産党は前回紹介した平成22年5月13日の記事では、次のように述べていました。 

 「もともと共産主義=科学的社会主義とは、自国の民族のことを他国に干渉されずに自分たちで決めるという、〈民族自決権〉を大事にする立場です。」

 しかし事実はそうでなく、ソ連と中国から路線の誤りを指摘されると、日をおかず即座に受け入れています。どこが民族自決権かと言いたくなりますが、これが共産党の厚かましさです。みっともない過去は、なかったものとして国民に語りません。

  党内紛争は国際派の勝利となりましたが、主流派はこの屈辱をそのままにせず、宮本氏らを左遷したと言います。朝鮮戦争が勃発したためGHQが方針変更をし、共産党幹部の公職追放令を出し、いわゆるレッドパージが始まります。所感派の徳田氏と野坂氏は地下に潜ることとなり、左遷されたお陰で国際派の宮本氏が無傷で残りました。

 ・1950年(昭和24年)9月徳田と野坂は北京へ亡命し、北京機関を創設

 ・残った宮本ら国際派は12月に、対抗措置として「日本共産党全国統一会議」を結成

 ・1951年(昭和26年)2月徳田らはこれを分派とし、「分派闘争決議」を出す

 ・徳田は北京で毛沢東、モスクワでスターリンと会談し所感派への支持を確保した。国際派の幹部には自己批判書の提出を要求

 その結果宮本氏は自己批判書を提出し、「日本共産党全国統一会議」は解散となります。宮本氏の指導部復帰が認められたのは、1954年(昭和29年)になってのことだったと言います。

 徳田・野坂両氏がなぜ北京へ亡命したのか、宮本氏との間にどのような確執があったのか、説明を読み理解しました。〈民族自決権〉と最もらしい意見を述べていますが、当時の共産党はソ連と中国の批判を受けると、右往左往しています。尊大な彼らが、事実を隠す気持ちも分からないでありませんが、歴史の事実の隠蔽は公党の行為と言えません。彼らは政府の文書改竄を国会で追及していますが、同党の過去を知ると笑止千万です。

 昭和史の復習として、次回も知り得た事実を紹介いたします。

コメント (2)
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