日本にとって忌まわしい政党でも、隠れている事実を知るのは学徒の喜びです。「ねこ庭」訪ねられる方々には常識なのかもしれませんが、共産党の過去について私は無知でした。
詳しい経緯をご存知の方には、読むに値しない冗長なブログとなります。つまらないと思われた時点で、スルーしてください。今回はソ連共産党だけでなく、中国共産党の動きも出てきます。知り得た事実を、時系列で紹介します。
・1945年(昭和20年)敗戦後の12月、徳田球一、宮本賢治などの釈放者たちが共産党大会の活動を再開
・1946年(昭和21年)1月に、中国延安から野坂参三が帰国。同年2月の第5回日本共産党大会において、「平和革命論」を定めた。内容は次のごとし
「日本共産党は、現在進行しつつあるわが国のブルジョア民主主義革命を、平和的、かつ民主主義的方法によって完成することを当面の目標とする。」
・1949年(昭和24年)1月の台4回衆議院選挙で、当選者35名を出す躍進
・1950年(昭和25年)1月6日にコミンフォルムが、次のような野坂批判
「平和革命論はアメリカ帝国主義を美化するものであり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない。」
・コミンフォルム批判は、共産党内に動揺を与え内部が次のように分裂
所感派 ( 主流派 ) ・・ 徳田球一、野坂参三
国際派 ( 非主流派 ) ・・宮本顕治
・所感派の主張 ( コミンフォルムへ「政治的所感」で反論 )
「日本の実情も知らずに同志 ( 野坂 ) の言動を批判することは、重大な損害を人民並びにわが党に及ぼす。」
「一見方針が親米的に見えるだけで実質はそうでなく、党の方針に誤りはない。」
・国際派の主張
「所感に反対、コミンフォルムの意見を受け入れるべき。」
宮本ら非主流派は、国際派と呼ばれるようになる
日本の戦後史について、多少知っているつもりでしたが、所感派・国際派という言葉を初めて聞き、コミンフォルムの干渉についても知りませんでした。温故知新の読書も、反日左翼教授や学者の著書でしたから、不都合な事実を省略していたのかもしれません。次の経過も、初めて知りました。
・1949年(昭和24年)毛沢東が、中華人民共和国の成立を宣言
・1950年(昭和25年)1月、毛沢東が「人民日報」においてソ連を支持し、野坂の自己反省を要求。記事の内容は、次のような批判
「野坂の、平和的方法で国家権力を勝ち取るため、ブルジョアを利用できるとする理論は誤りであり、徳田の所感の内容は遺憾である。自己批判を求める。」
・同年1月18日、野坂は平和革命論を自己批判し、コミンフォルムの批判の全面的受け入れを表明
共産党は前回紹介した平成22年5月13日の記事では、次のように述べていました。
「もともと共産主義=科学的社会主義とは、自国の民族のことを他国に干渉されずに自分たちで決めるという、〈民族自決権〉を大事にする立場です。」
しかし事実はそうでなく、ソ連と中国から路線の誤りを指摘されると、日をおかず即座に受け入れています。どこが民族自決権かと言いたくなりますが、これが共産党の厚かましさです。みっともない過去は、なかったものとして国民に語りません。
党内紛争は国際派の勝利となりましたが、主流派はこの屈辱をそのままにせず、宮本氏らを左遷したと言います。朝鮮戦争が勃発したためGHQが方針変更をし、共産党幹部の公職追放令を出し、いわゆるレッドパージが始まります。所感派の徳田氏と野坂氏は地下に潜ることとなり、左遷されたお陰で国際派の宮本氏が無傷で残りました。
・1950年(昭和24年)9月徳田と野坂は北京へ亡命し、北京機関を創設
・残った宮本ら国際派は12月に、対抗措置として「日本共産党全国統一会議」を結成
・1951年(昭和26年)2月徳田らはこれを分派とし、「分派闘争決議」を出す
・徳田は北京で毛沢東、モスクワでスターリンと会談し所感派への支持を確保した。国際派の幹部には自己批判書の提出を要求
その結果宮本氏は自己批判書を提出し、「日本共産党全国統一会議」は解散となります。宮本氏の指導部復帰が認められたのは、1954年(昭和29年)になってのことだったと言います。
徳田・野坂両氏がなぜ北京へ亡命したのか、宮本氏との間にどのような確執があったのか、説明を読み理解しました。〈民族自決権〉と最もらしい意見を述べていますが、当時の共産党はソ連と中国の批判を受けると、右往左往しています。尊大な彼らが、事実を隠す気持ちも分からないでありませんが、歴史の事実の隠蔽は公党の行為と言えません。彼らは政府の文書改竄を国会で追及していますが、同党の過去を知ると笑止千万です。
昭和史の復習として、次回も知り得た事実を紹介いたします。