『日本人とユダヤ人 』の、第二回目です。12ページです。
「内なるゲットーと、外なるゲットーと言ったのは、ユダヤ人国家の父テオドール・ヘルツェルである。」
若い時は何も気にせず先へ進んでいましたが、現在は、そんな読み方ではこうした本が、理解できないと知っています。著者が既知の事実として説明を省略しているものを、必ず別途調べます。ヘルツェル氏についても、そうしました。
「テオドール・ヘルツェルは、失われた祖国イスラエルを取り戻す、シオニズム運動を起こした一人である。彼は、かってのオーストリア帝国、現在のハンガリーのブタペストで生まれた。」
「ウィーンで、法律、文学、ジャーナリズムを学び、当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけ、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であった。」
「新聞記者として、フランスのドレフェス事件(1894年)の取材にあたったとき、ユダヤ人に対する根強い偏見に遭遇してショックを受け、失われた祖国イスラエルを取り戻す、シオニズム運動を起こした。」
「反ユダヤ主義を主張する、キリスト教社会党のカール・ルエーガーが、ウィーンの市長に選ばれたことや、当時の東ヨーロッパでのユダヤ人迫害 ( ポグロム ) や、オーストリアにおける、反ユダヤ主義大衆運動に接し、彼の態度はますます鮮明になり、シオニズム運動のさきがけをなす、著作『ユダヤ人国家』を出版した。」
「ここで彼は、ユダヤ人国家像と国家建設のプログラムを詳細に記し、翌1897 ( 明治30 ) 年、スイスのバーゼルにおいて、最初のシオニスト会議を開いた。」「ヘルツェルは、1904 ( 明治37 )年に、44才で死去したが、その遺志は多くのユダヤ人に受けつがれることとなった。」
彼らの運動が実を結び、第二次世界大戦後の昭和23 ( 1948 ) 年に、現在のイスラエル共和国が誕生します。そのヘルツェルが言う、「内なるゲットー」と「外なるゲットー」とは、何であるか。長い説明uので、要約します。
〈 外なるゲットー 〉
ゲットーはヨーロッパ諸都市内で、ユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区である。ナチス・ドイツが設けた強制収容所も、こう呼ばれる。 アメリカの大都市における、マイノリティの密集居住地をさすこともある。
〈 内なるゲットー 〉
ゲットーを出て、外で暮らす「同化ユダヤ人」となるのなら、出自を隠し、自分の精神の周りを黒幕で包み、まったく心にもない生き方をしなければならない。これは自分の心をゲットーに押し込めることで、彼はこれを、「内なるゲットー」と呼んだ。
氏がユダヤ人の名前を借り、興味深い日本人論を展開しています。
「 ( 隠れキリシタン ) を除けば、日本人には、こういった経験はない。日本人は常に自由であった。」「敗戦後、急に自由を与えられたから、日本人には自由の有り難みが分からないなどというのは、誤った俗説であろう。」
「私は戦前の日本で生まれ育った人間だが、戦前のどこを探しても、内なるゲットーも、外なるゲットーもなかった。」「もちろん、何事にも例外はあろう。しかし、ほとんどすべての日本人は、この島の中で何の内的束縛も、外的束縛もなく、自由自在に生きていた。」
「確かに、ハワイやアメリカやブラジルに移住した日本人も多い。しかしその中に、内的ゲットーや外的ゲットーから逃れるため、一団となって移住したという人々を、私は知らない。」「まして生命の安全を求めて、海外に出て行った人間など、私はまったく知らない。」
「もちろん、例外はある。だが、一部の人々が、その例外を強調すればするほど、私には、日本人への羨望のため息が出るだけである。」
この本が出版された昭和45年を、見てみましょう。昭和45年は、司馬遼太郎氏の『歴史と視点』が出される、10年前です。息子たちが分かりやすいように、端的に言えば、敗戦後20年、当時世間に溢れていたのは、反日左翼の出版物です。
「日本だけが、間違った戦争をした。」「横暴な軍人たちが暴走し、国を破滅させた。」「軍国主義が国民を弾圧し、自由に物が言えなかった。」
こういう本を学者や、文化人が書いていた状況下で、『日本人とユダヤ人 』が出版された事実が意味を持ちます。氏が批判しているのは、反日左翼の人間たちだということが、息子たちに分かったでしょうか。氏の著者名の虚構を不愉快と感じていても、氏を評価したくなった気持を、理解してくれたでしょうか。
楽しい読書ではありませんが、自分を啓蒙してくれる本に暫く向き合います。有意義な書は、時として疲れさせられます。