25年前の教え子3人が、「遊びに行きます」と、連絡してきた。370kmのドライブをして・・・。恩師の私としては、どう対処すべきであろうか・・・。
そして、5月10日、40歳を超えた3人の御婦人たちが来てくれた。定年退職し、勤務していた所から400km近く離れた所に住みはじめた還暦男に会いに。ありがたいことである。定年退職の1か月半前から、「勇退激励会」「還暦祝いの会」「送別会」が続き・・・そのたびに最大級のお褒めの言葉の数々をいただいた。3月中旬につくづく感じた。「これは生前葬だな」と。参会してくださった皆様への御挨拶は、ただただ「有り難うございました」しかなかった。その通りだから。
それで、今日のこと・・・正午近くに電話が入った
「近くまで来ています。昼食をとってからうかがいま~す」
「我が家で昼食を用意するから」
「いえいえ、それは・・・」
何とか強引に、我が家で昼食をとることにしていただいた。
4時間半滞在していただいたが・・・参った!なんと、3人のそれぞれの25年前の思い出話は、私の忘却の彼方にあること・・・、言われると、「ああ、そうだった!」と思い当たる節ばかり。「もうやめてぇ!」と言いたかったヨ。
その一つを開陳すると…
「先生、私たちを叱っているとき、『君達、私が知らないとでも思っているのかぁ!私の目は、節穴だぞ!』って、言ったもんね~。怒っていたので、おもしろいからと笑うわけにもいかず…あのときは、本当に困りましたよ~。」 国語教師であった私は、もちろん「目が節穴」の正しい意味を知っていました(コレホント!)。あのときは…私の語気に気圧され、途方に暮れていた40人の生徒達を笑わせてやろうかと思ってのボケだったのだが・・・。
もう一つ…
「私は、英語は全く分からなかった。まじめに授業を受けたのは、先生がおもしろかったから・・・」
「まず、英語っておもしろいな~と感じてもらうことが第一だからね」
「英語じゃなくて、先生がどんなギャグを言うかに気をとられて、英語は全く…」
私は英語教師でもありました。
団塊世代の英語は、かなりダメなもの・・・。私も、中・高では、全くわからなかった。というより、英語教員がダメだった。教師だった私が言うのだから、正真正銘です。中学校の英語教員は、教師用マニュアルで、英語にカタカナのルビがふってあるものを読んでいた。「『ジスイズアペン』『これは、ペンです』という意味です。」これが英語の授業。「グラマー・トランスレイテッド・メソッド」ってやつです。高校の英語教員など、「こんなもん分からんのか」で終わり。英語力などつくわけがない。英語は、ただ単に、「忌まわしいもの」
ところが、1966年8月6日、羽田空港で、カシアス・クレイとブライアン・ロンドンの(ボクシングの)試合を中継のテレビで見ていたら、アメリカ人と思われる白人に話しかけられた。
「ェズイスクレイ?」
「・・・・・・・」
近くに居た、50歳過ぎと思われる男が、
「Yes, this is Cley. 」
これで発憤した。羽田からの帰り道、下高井戸にあった、「ダニエル米語学院」に入学した。大学はどうしたかって?『学園紛争世代&安保がらみの全共闘世代』1年間通ったら、2年目は学生側のストライキ。3年目は、学校側のロックアウト。4年目は、通常!つまり、4年制の大学を2年だけ通って卒業。いくら優秀だからって(?)このようなことは滅多にない。しかも、ストライキ、ロックアウトの間に、英会話の学校へ通ったという。向学心を絵に描いたような!そんな訳で、英語教員免許状も取得しておりました。
で、3人の教え子の皆さんは・・・①1万円分の図書カード。②生しいたけ一箱。③果物アラカルト(アップルマンゴー入り)。④教え子である今金町の、いけ麺(ラーメン屋さん0137-82-0009)の社長さんからの還暦男へのプレゼント、『いけ麺2種類6食分セット』と、いうおみやげ持参・・・。生前葬がまだ続いていた。4時間半、笑いっぱなしでした。退職後、こんなに笑ったことなし。二度とないかも・・・。
そして、5月10日、40歳を超えた3人の御婦人たちが来てくれた。定年退職し、勤務していた所から400km近く離れた所に住みはじめた還暦男に会いに。ありがたいことである。定年退職の1か月半前から、「勇退激励会」「還暦祝いの会」「送別会」が続き・・・そのたびに最大級のお褒めの言葉の数々をいただいた。3月中旬につくづく感じた。「これは生前葬だな」と。参会してくださった皆様への御挨拶は、ただただ「有り難うございました」しかなかった。その通りだから。
それで、今日のこと・・・正午近くに電話が入った
「近くまで来ています。昼食をとってからうかがいま~す」
「我が家で昼食を用意するから」
「いえいえ、それは・・・」
何とか強引に、我が家で昼食をとることにしていただいた。
4時間半滞在していただいたが・・・参った!なんと、3人のそれぞれの25年前の思い出話は、私の忘却の彼方にあること・・・、言われると、「ああ、そうだった!」と思い当たる節ばかり。「もうやめてぇ!」と言いたかったヨ。
その一つを開陳すると…
「先生、私たちを叱っているとき、『君達、私が知らないとでも思っているのかぁ!私の目は、節穴だぞ!』って、言ったもんね~。怒っていたので、おもしろいからと笑うわけにもいかず…あのときは、本当に困りましたよ~。」 国語教師であった私は、もちろん「目が節穴」の正しい意味を知っていました(コレホント!)。あのときは…私の語気に気圧され、途方に暮れていた40人の生徒達を笑わせてやろうかと思ってのボケだったのだが・・・。
もう一つ…
「私は、英語は全く分からなかった。まじめに授業を受けたのは、先生がおもしろかったから・・・」
「まず、英語っておもしろいな~と感じてもらうことが第一だからね」
「英語じゃなくて、先生がどんなギャグを言うかに気をとられて、英語は全く…」
私は英語教師でもありました。
団塊世代の英語は、かなりダメなもの・・・。私も、中・高では、全くわからなかった。というより、英語教員がダメだった。教師だった私が言うのだから、正真正銘です。中学校の英語教員は、教師用マニュアルで、英語にカタカナのルビがふってあるものを読んでいた。「『ジスイズアペン』『これは、ペンです』という意味です。」これが英語の授業。「グラマー・トランスレイテッド・メソッド」ってやつです。高校の英語教員など、「こんなもん分からんのか」で終わり。英語力などつくわけがない。英語は、ただ単に、「忌まわしいもの」
ところが、1966年8月6日、羽田空港で、カシアス・クレイとブライアン・ロンドンの(ボクシングの)試合を中継のテレビで見ていたら、アメリカ人と思われる白人に話しかけられた。
「ェズイスクレイ?」
「・・・・・・・」
近くに居た、50歳過ぎと思われる男が、
「Yes, this is Cley. 」
これで発憤した。羽田からの帰り道、下高井戸にあった、「ダニエル米語学院」に入学した。大学はどうしたかって?『学園紛争世代&安保がらみの全共闘世代』1年間通ったら、2年目は学生側のストライキ。3年目は、学校側のロックアウト。4年目は、通常!つまり、4年制の大学を2年だけ通って卒業。いくら優秀だからって(?)このようなことは滅多にない。しかも、ストライキ、ロックアウトの間に、英会話の学校へ通ったという。向学心を絵に描いたような!そんな訳で、英語教員免許状も取得しておりました。
で、3人の教え子の皆さんは・・・①1万円分の図書カード。②生しいたけ一箱。③果物アラカルト(アップルマンゴー入り)。④教え子である今金町の、いけ麺(ラーメン屋さん0137-82-0009)の社長さんからの還暦男へのプレゼント、『いけ麺2種類6食分セット』と、いうおみやげ持参・・・。生前葬がまだ続いていた。4時間半、笑いっぱなしでした。退職後、こんなに笑ったことなし。二度とないかも・・・。