アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

とりあえずフィンランドに倣うかぁ…? 

2025年01月03日 | Weblog
「小中学生、約29万9000人(22年度)」
 これって、なんの数字だと思われますか?
 不登校の数なのです。10年連続で増加しています。
 高校(全日制・定時制)の不登校生徒数は、6万575人。2年連続で増加だという。

 何度も同じことを書いてきましたが…、学力をつけると不登校は減ります。1日も登校しないで不登校になる子は、おりません。やむを得ない理由がある場合を除きますがね。

 OECD国際学習到達度世界一は、フィンランド。
 フィンランドに不登校は、いるか?
「不登校等の問題はほとんど無く、高校中退の場合はその後のフォローもしっかりやっている」(フィンランド文部大臣)

 フィンランドは、なぜ高い学力か?その答えは簡単で、「優秀な教師を育て、授業について行けない子どもを出さないから」 よって、子ども達は、不登校という手段を行使する理由がない。

 日本の教育と違うところは…
1 教科書に検定がない。教科書は出版社が独自に作成する。教科書の採用は、各学校または個々の教員。これは大切なこと。日本で取り入れるとしたら、「児童生徒個々によって教科書が違う」これこそ、個に応じた教育です。
 なお、日本の寺子屋は、学年もカリキュラムもなかった。正真正銘、個に応じた教育でした。極小規模校の教育について、「寺子屋方式」とかいう場合がありますが、本物の寺子屋に失礼です。

2 教員の勤務評定をしない。これによって、(校長と教員の)信頼関係が構築され、優秀な教員が確保できる…評定するか否かにかかわらず、教員には、高い能力を求められるということ。これは二面性がありますね。日本の場合は、「人事異動」があります。勤務評定は必要だと思います。

3 大学院で、修士号を取得しなければ教員にはなれない。これは、私が20年前に提唱したことと同じ。日本では教員養成の大学があるため、18歳でその大学へ進むか否かを決めます。
 つまり、「教職に就くかどうか」を18歳で決めなければならないような状況があるわけです。考えてみてください。18歳で、生涯の仕事を決められますか?!そのような、少々無理なルールになっているのが日本の教員養成。

 私の従来からの主張は、「教員養成は大学院で」ということ。つまり、フィンランド方式。
「教員養成大学から大学院へ進んで教員になる」
 それはもちろんそれでもいいです。もう一つの道として、
「どこの大学のどの学部を卒業しても、教員養成の大学院へ入ることができる。そこで教員の資格を取得する」
 全く畑違いのバックグラウンドを持って教員養成大学院へ入ってくる人の方が、「心の痛み」が分かる教員になる可能性が高いと私は思っています。

4 教職に就くための教育実習は、300時間以上。このあたり、はっきりした数字が出ているので、いかに日本の教員養成が「ヤワ」かがわかるところ。
 日本の場合、3~5単位分の教育実習に関して、1単位当たり30時間。つまり、合計90~150時間。
 ただし、3分の1までは、「大学内での実習や授業で代替できる」ので、実質60時間で済んでしまうケースも。こうなると、フィンランドの「5分の1」ですよ…。

5 教員の採用は、「各学校が独自に行う」。1年間は、仮採用。正式採用にするかどうかは1年後に決められる。

6 教員に転勤がない。定年まで同一校勤務。逃げ場がない。頑張り続けるか?はたまた辞めるか?

 これらのことは、日本もそっくり見習うことができると考えます。

 日本の教員養成、真剣に考えるところに来ているんじゃないの。小中高合わせて不登校36万人だもんね。

<お詫び>1月2日、明け方から突如「リアクションボタン」が機能しなくなりました。未だに復旧しません。読んで下さる皆様のブログにリアクションが出来ません(コメントも)。お許し下さい。今朝も、まだ反応しません…。


ブルドッグ似?自分の顔ですから大切にします

2025年01月02日 | Weblog
 新年を迎えまして、また年齢が増えました。おめでたいことです。
 世の中、自由・平等など無に等しい。数少ない平等の一つに、「老いること」があります。たまに鏡を見て、びっくりします。たるんでます・・・目の周囲、ほっぺた。
 正面を向いているときは、「こんなもんかな」と思いますが、下を向くと、地球の引力で、顔の肉類が垂れ下がります。ひどいものです。でも安心。誰にでも平等におとずれるものですから。「死なばもろとも」ということで…。

 たるんだほおの肉。「まるでブルドックだなあ…」。その重みに耐えられず、口の両端が下がり、「への字口」になっている。

 ブルドック…ブルは雄牛。ドックは犬。雄牛と戦わせた犬を「ブルドック」と名づけたのだそう。雄牛と犬の交配種ではなかった(心配しないでください。ボケのつもりですから)。
 一般的に闘牛は、「牛vs人」ですが、牛と犬の闘牛もありました(13~19世紀の半ば近くまで)。
「ブルベイティング」と呼ばれた競技で、つないだ雄牛に、数頭の犬をけしかけ倒させるもの(牛の鼻っ面にかみつく)。最初に牛を倒した犬の持ち主が高額賞金を受け取った。

 そうなると、望ましい犬は…
「牛の鼻に食らいついて離さない。しかもふりほどこうとする牛に振り回されても耐えられる。気性もどう猛なのが望ましい」 そのような犬が求められ、品種改良が重ねられた。

○ 牛に噛みついた時に、楽に呼吸ができるように、鼻がつぶれていて、鼻の穴が上を向くようにした。スノーケルの原理ですねコレ!
○ 噛みつく力を強くするために、下アゴを発達させた。
○ 牛の角に掬い上げられないように、短足にして体高を低くした。
○ 牛の角によるダメージを小さくするために皮膚をたるませた。皮膚のたるみって、こういう効果があったのかぁ!
○ 耳が大きいと邪魔なので、切った。
○ 牛に振り回された時の遠心力を小さくするため、首を短くして、重心を前にした。
○ 重い方が有利なので、大きくした(60kg前後にまで)。

 ブルドッグは、「勇気」「不屈」「忍耐」の象徴として、「イギリスの国犬」となっています。イギリス人(擬人化された典型的イギリス人像)のことを、「ジョン・ブル」というのも、ブルドックからきていると思います(私の推測ですがね)。
 また、ブルドックは、イギリス海軍のマスコットにもなっています。
 イギリス海軍だけでなく、アメリカ海兵隊のマスコットもブルドック。「しぶとく食らいつく」ということでしょう。

 アメリカ海兵隊のTシャツ・・・
 前面の絵は、斜に構えて、歯をむき出してにらむブルドック。
 背面の絵は、そのブルドックを後ろから見たもの。ほとんどお尻!ユーモアあるワ!私が持っているものは黒地で、ブルドックの絵はグレイ。「UNITED STATES」「MARINE CORPS」と書かれた文字は、白。ただ、背面の文字は、前面の文字を裏から見たように書かれています。たかがTシャツにも、ユーモアを忘れない…感心します!

世界中のマニアに愛好されているブルドックですが、イギリスで、「ブルドッグの認定基準」が変更になりました。
 認定基準があるのです!さすが、「イギリスの国犬」。

 ブルドックは、数奇な運命を辿っています。私の顔も数奇な運命を辿っていますがね。
 だけどぉ、自分の顔です。今年一年、大切にしなきゃあね。


おお、大砲

2025年01月01日 | Weblog
 新年を迎えることが出来ました。これも、ご先祖様がいらっしゃったから。有り難いです。で、元旦の今日は、ご先祖様のことを…。

 高取藩(今の奈良県)江戸留守居役家老「草川太忠(くさがわたちゅう)」は、天誅組が高取城を攻めているとの知らせに、早籠で江戸から高取へ駆けつけましたぁ!
 この草川太忠が私の曾祖父。高取に着いた時には、天誅組は退散しており乱は治まっていました。 

 高取城は日本の三大山城(美濃岩村城、備中松山城、大和高取城)の一つで、標高584メートルの高取山の頂にあります。現在は石垣のみ。
 1863年8月26日に天誅組が高取城を攻めたのですが、太平の世に浸かりきった連中に、山城を攻める技術などあるはずがなかった。なにしろ、田んぼの畦道を一列に並んで攻めて来たそうです。また、山頂までの道も細く長く斜度がきついのです。

 高取城には、大砲がありました。天誅組は、大砲を撃たれびっくりして逃げ出したそう。
 この天誅組の変、犠牲者は天誅組の2名のみ。この2名は、逃げる際に転んで、逃げ惑う味方に踏まれて亡くなった。轢死というべきか圧死というべきか…
「そりゃないだろう」というべき戦死の仕方です…。

 大砲の直撃をくらった天誅組の兵士は、鉄鍋をかぶっていたのが幸いし、2日間の耳鳴りで済んだという。直撃で耳鳴りだけ…これも凄い!なんとものどかな戦です。

 曾祖父草川太忠、「御家の一大事に早籠で、江戸から高取まで駆けつけた…」3~4日はかかったでしょう。これまたのどかなものです。乱は治まったが、残党が不穏な動きをしていたので、剣の達人でもあった太忠はしばらく高取に滞在した。
 天誅組が完全に壊滅したのは9月24日の鷲家口村の戦闘でした。

 太忠が江戸へ戻るにあたり、城主(植村家保:いえもり)は、遠路駆けつけた褒美として、柿をたくさんもたせてくれた。
 息子の為之介(ためのすけ、私の祖父)は、柿をたらふく食べた記憶があると言っていたという。
 柿の量が多かったので、干し柿にもした。為之介にとって父親「太忠」は、天誅組に早籠で立ち向かおうとした英雄であり、尊敬できる人物であり、甘い甘い柿と、さらには干し柿さえももたらした、絶対の存在であったことは間違いありませんね。この時代「父性」は、厳然として存在していましたねえ。

 1868年(慶応4年、明治元年)草川太忠は、高取藩の「参政」に任ぜられ、さらに「東京公用人」を兼務しました。江戸は、東京と名称変更されました。
 その後の藩政の改革で、家禄は9割減となった…!廃藩置県で、高取藩は高取県となり、さらに奈良県となった。

 1871年(明治4年)末。太忠の勤務する東京出張所は閉鎖された。追い打ちをかけるように、武士階級の特権を剥奪する諸制度の改革が相次いだ。草川家は凋落の一途をたどることになりました。

 司馬遼太郎の短編に、「おお、大砲」があります。天誅組の変のことが書かれています。曾祖父の太忠は、「おお、大砲」には登場しませんが、影を感じます…。 

 1873年(明治6年)私の祖父、草川為之介は19歳になっていました。1月に徴兵令が公布されました。
 政府は、20歳以上の男子を兵籍に入れ、3年間兵役に就かせることにしました。草川家に代人料270円(現在の相場に換算して約200万円)を支払うことができれば兵役は免除されたのですが、残念ながら草川家にそのようなお金は無かった。
 為之介は、徴兵を忌避し、新天地を求め北海道へ渡りました。

 と、まあ我が家には、このようなご先祖様がおられました。 高取城址へ行けばご先祖様が吸った空気を吸い、見た景色を見ることが出来るかな。
…そんなわけで、一度ですが高取城址へ行きました。ただただ、感動しました。