愚林日庵人様が4月19日亡くなられた。76歳であった。
私が以前に記事にした「すごい虫」の写真をとられたかたである。
氏とは住んでいたグリニッチタウンがやっているESL(外国人の大人のための英会話教室)で奥様と同じクラスだったことから知り合った。
ご自宅に始めて遊びに言ったとき「愚林日庵」と墨でかいた和風の素敵な木の板が飾ってあった。京都ご出身と聞いていたのでさぞかし何か意味のある事場なのかと思って聞いてみたら、「日のあたる林に愚かな老人が1人・・・・グリニッチの当て字ですわ。」と愉快に笑ってらっしゃったっけ。グリニッチの庵に住む人で愚林日庵人とご自身を名づけたのであった。
愚林日庵人様と一緒にやった日本文化紹介では、日本語、書道、折り紙、茶道、華道。
グリニッチにいた日本人の中にはいろんな方がいて、そういう道に長けた方がいらっしゃるのである。中には香道をなさっていた方、尺八を吹く方、お琴を弾ける人も。
愚林日庵人様の人徳のゆえ、今度こんな企画があるよといえばいろんな人が集まってくるのである。
特にブッシュホーリーハウスという歴史の在る建物で夏のデイキャンプがあるのだが、底で毎年のように折り紙の時間があり私もそのボランティアの一員として参加したものだった。
また、クリスマスの時期になるとお金持ちの多いグリニッチのお屋敷ではホームパーティをする。それも招待客が100人以上という尋常な数ではないので、客のつれてくる子ども達のために折り紙コーナーを設けたいという話があり、そんなところでも日本文化紹介の一環としていってきたこともあった。
「どうですか?パスピエさん、グリニッチの金持ちの家、見に行きませんか?」
「あ、それ、おもしろそうですね。」いつもこんな感じでひき受けてしまうのであった。
でもあまりにも大きなお屋敷だったゆえ、その時の氏の一言は「ここ、学校ちゃうんか。」だったとか・・・・。
そもそも氏は私達の暮らしていた地域フェアフィールド郡のジャパンソサエティに属している方で、日本文化を紹介の他に歴史的文化財の説明書を和訳するなど、ごかつやくされたこかたでもあった。
特にブッシュホーリーハウスではそこで見かけた100年ほど前の写真の中に日本人が写っているのに興味を引かれ、その人のことを調べているうちにいろいろなことがわかってきた。佐賀県出身の日本人ゲンジロウ、美術を勉強するために渡米しで当時美術家のコロニーだったブッシュホーリーハウスで日本の文化を教えていたということがわかった。
もともと愚林日庵人様は関西テレビに勤めていた方。何とかこの無名の日本人美術家を紹介したいと、テレビ局時代の人脈を生かし、とうとう佐賀テレビを巻き込んでドキュメンタリー番組の製作までにいたったのである。
また隣の町のスタンフォードにたくさんの桜並木が在るのだが野島淳三という人がタウンにお世話になったと桜を100本寄贈したという話があるのだがその話を紙芝居にして日本人の間に広めたりした。
そのほか立派な日本の菊作りをして図書館に飾ったり、氷の芸術、自宅に小さな日本庭園を造ったり、盆栽作り、お手製のケーキでもてなしてくださったり。。。数えればきりがないほど多趣味な人だった。ブルーベリー狩り、アンティークはここがよいといろんなことを教えてもらった。
私が帰国したあともよきメル友としてお付き合いくださった。今度こんなことに挑戦するんですよとか・・・。3年前になるかな・・・氏が奥様を伴って一時帰国されたのは、ホテルオークラで楽しい語らいのひと時であった。それが愚林日庵人様を見た最後になってしまった。その後いろいろな病気と闘ってらっしゃったが、いつものパワーで自分の闘病記などメールでおくってくれたのに・・・。
この頃メールがこなくなったなと思って気がかりではあった。メールを送ってくれた頃は私のほうが鬱でダウン気味だったのでろくろく返事もしなかった。だから久しぶりにメールしてみようかと思っていたところだったのだ。
他の友人に聞いたところもう両目が見えなかったらしい。左目がほとんど見えてないというのはきいたことがあったが。。。
肺炎で入院していたそうだが、よほど悪かったのか。。。でも延命措置は取りたくないとご自宅に帰って、次の日は貴重な時間を友人達と過ごされ、その次の日ご家族に看取られながらなくなったそうだ。
私のグリニッチ生活は当時大変なものだった。それでも元気でやってこられたのは日本文化紹介などをする時間でいつの間にか心がリフレッシュされていた体と思う。愚林日庵人様には心より感謝している。そういえばめぐろのいぬやしき様と一緒に墨絵を教わったこともある。
27日にはブッシュホーリーハウスで愚林日庵人氏を語る会があるそうだ。
ご家族が氏は楽しいことが大好きだったので明るい服装できてくださいといっているそうだ。私も行きたいけれどいけない。
でも愚林日庵人様の元気な姿は心に焼きついている。
「パスピエさん、今度はこれに挑戦しているんですよ。」という声がきこえてきそう・・・・。
私が以前に記事にした「すごい虫」の写真をとられたかたである。
氏とは住んでいたグリニッチタウンがやっているESL(外国人の大人のための英会話教室)で奥様と同じクラスだったことから知り合った。
ご自宅に始めて遊びに言ったとき「愚林日庵」と墨でかいた和風の素敵な木の板が飾ってあった。京都ご出身と聞いていたのでさぞかし何か意味のある事場なのかと思って聞いてみたら、「日のあたる林に愚かな老人が1人・・・・グリニッチの当て字ですわ。」と愉快に笑ってらっしゃったっけ。グリニッチの庵に住む人で愚林日庵人とご自身を名づけたのであった。
愚林日庵人様と一緒にやった日本文化紹介では、日本語、書道、折り紙、茶道、華道。
グリニッチにいた日本人の中にはいろんな方がいて、そういう道に長けた方がいらっしゃるのである。中には香道をなさっていた方、尺八を吹く方、お琴を弾ける人も。
愚林日庵人様の人徳のゆえ、今度こんな企画があるよといえばいろんな人が集まってくるのである。
特にブッシュホーリーハウスという歴史の在る建物で夏のデイキャンプがあるのだが、底で毎年のように折り紙の時間があり私もそのボランティアの一員として参加したものだった。
また、クリスマスの時期になるとお金持ちの多いグリニッチのお屋敷ではホームパーティをする。それも招待客が100人以上という尋常な数ではないので、客のつれてくる子ども達のために折り紙コーナーを設けたいという話があり、そんなところでも日本文化紹介の一環としていってきたこともあった。
「どうですか?パスピエさん、グリニッチの金持ちの家、見に行きませんか?」
「あ、それ、おもしろそうですね。」いつもこんな感じでひき受けてしまうのであった。
でもあまりにも大きなお屋敷だったゆえ、その時の氏の一言は「ここ、学校ちゃうんか。」だったとか・・・・。
そもそも氏は私達の暮らしていた地域フェアフィールド郡のジャパンソサエティに属している方で、日本文化を紹介の他に歴史的文化財の説明書を和訳するなど、ごかつやくされたこかたでもあった。
特にブッシュホーリーハウスではそこで見かけた100年ほど前の写真の中に日本人が写っているのに興味を引かれ、その人のことを調べているうちにいろいろなことがわかってきた。佐賀県出身の日本人ゲンジロウ、美術を勉強するために渡米しで当時美術家のコロニーだったブッシュホーリーハウスで日本の文化を教えていたということがわかった。
もともと愚林日庵人様は関西テレビに勤めていた方。何とかこの無名の日本人美術家を紹介したいと、テレビ局時代の人脈を生かし、とうとう佐賀テレビを巻き込んでドキュメンタリー番組の製作までにいたったのである。
また隣の町のスタンフォードにたくさんの桜並木が在るのだが野島淳三という人がタウンにお世話になったと桜を100本寄贈したという話があるのだがその話を紙芝居にして日本人の間に広めたりした。
そのほか立派な日本の菊作りをして図書館に飾ったり、氷の芸術、自宅に小さな日本庭園を造ったり、盆栽作り、お手製のケーキでもてなしてくださったり。。。数えればきりがないほど多趣味な人だった。ブルーベリー狩り、アンティークはここがよいといろんなことを教えてもらった。
私が帰国したあともよきメル友としてお付き合いくださった。今度こんなことに挑戦するんですよとか・・・。3年前になるかな・・・氏が奥様を伴って一時帰国されたのは、ホテルオークラで楽しい語らいのひと時であった。それが愚林日庵人様を見た最後になってしまった。その後いろいろな病気と闘ってらっしゃったが、いつものパワーで自分の闘病記などメールでおくってくれたのに・・・。
この頃メールがこなくなったなと思って気がかりではあった。メールを送ってくれた頃は私のほうが鬱でダウン気味だったのでろくろく返事もしなかった。だから久しぶりにメールしてみようかと思っていたところだったのだ。
他の友人に聞いたところもう両目が見えなかったらしい。左目がほとんど見えてないというのはきいたことがあったが。。。
肺炎で入院していたそうだが、よほど悪かったのか。。。でも延命措置は取りたくないとご自宅に帰って、次の日は貴重な時間を友人達と過ごされ、その次の日ご家族に看取られながらなくなったそうだ。
私のグリニッチ生活は当時大変なものだった。それでも元気でやってこられたのは日本文化紹介などをする時間でいつの間にか心がリフレッシュされていた体と思う。愚林日庵人様には心より感謝している。そういえばめぐろのいぬやしき様と一緒に墨絵を教わったこともある。
27日にはブッシュホーリーハウスで愚林日庵人氏を語る会があるそうだ。
ご家族が氏は楽しいことが大好きだったので明るい服装できてくださいといっているそうだ。私も行きたいけれどいけない。
でも愚林日庵人様の元気な姿は心に焼きついている。
「パスピエさん、今度はこれに挑戦しているんですよ。」という声がきこえてきそう・・・・。