おとのくに♪♪

生徒さんのピアノレッスンで感じたこと、考えたこと、コンサートの感想などポツポツ綴っています。

今頃?の「羊と鋼の森」

2020年12月03日 | 書籍紹介
今頃?と思われそうですが、調律師さんの話「羊と鋼の森」を読みました。

読みながら色々と考え、自分がしていることと通じることが多いと思いました。

いくつか留めておきたい言葉があるので、忘備録としてここに。

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いつも思い出す。音の波の数と高さを揃えること。そこまでは誰でも訓練で到達することができる。才能ではない、努力だ、と諭された。ピアノを弾けても、弾けなくとも、熱意があっても、なくても、耳が良くても、悪くても、訓練すればだれでもスタートに立つことはできるのだ、と。

自分のことは棚に上げておいて、生徒さんのスタートラインについて考えさせられました。

これまで、とりあえず森に行っちゃえ、と、森を歩くのに適した靴も履かず、寒くなった時に備えた服装もせず、のどが渇いた時に飲む水も持たず、おなかがすいた時の食料も持たず、生徒さんを森に連れて行って、歩けない、おなかすいた、のど乾いた、寒いとなった生徒さんを励まし続けるのがピアノ指導者の役目のように考えていたのではないかと。

指導法をロシアンメソッドに変えて、最初にやるべきことがはっきりして、そこができれば生徒さんは様々な景色を見ながら歩けると知りました。

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一足でそこへ行ってはだめなのだ。一歩ずつ、一足ずつ、確かめながら近付いていく。その道のりを大事に進むから、足跡が残る。いつか迷って戻った時に、足跡が目印になる。どこまで遡ればいいのか、どこで間違えたのか、見当がつく。

早くたどり着けるのが良いことのような風潮があります。教えてもらう方が速いから自分で探さない。それでは自分の中に残らないのです。迷った時にまた人に教えてもらおうになります。それでは永遠に自立できません。

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才能ってのはさ、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。どんなことがあってもそこから離れられない執念とか、闘志とか、そういうものと似てる何か。

ヴィルサラーゼも仰っています。才能は関係がない。音楽がなければ生きていけないという情熱があればいいと。

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エゾマツの鳴らす音を僕は知っている。ピアノの原風景を、僕はずっと知っていたのだった。

ピアノが加工される前の、木であった姿を考えたことがなかったように思います。森や山にあった木、羊毛で出来たダンパーのフェルト。そのぬくもりがアコースティックピアノにはあるのだと。デジタルには感じられない一番の違いはこれだと、単純にそれが一番違うことと思って良いのでは。

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あきらめる、あきらめない。-それは、どちらかを選べるものなのか。選ぶのではなく、選ばれてしまうものではないか。

これは厳しい言葉・・

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勘違いしていたんだな。技術は身に付けるものだから、身体で覚えるだろうと思って。幻想。耳が覚えるだろう、指が学だろう、なんてのは幻想。ここだよ、覚えるのは。そう言って、自分の頭を指してみせた。

音楽は感性だけでどうにかなるものと勘違いされていることが多い気がします。頭脳を使わなければできないです。

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書きとめるだけじゃ、駄目だ。覚えようとしなきゃ、無理だよ。歴史の年号を覚えるみたいにさ。あるときふっと流れが見えてくる。

学校の勉強と違い、覚えて終わりではできないのが音楽です。組み立てて、形にして、考えて、聴いて、伝える。音の読み方を覚えるとピアノは弾けると勘違いされているのは悲しい・・
コメント
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