さよなら山梨(1998/3/17)
今、九想は、心の糸が切れた状態です。
昨日(3/16)、本社の小平工場が閉鎖ということが発表された。
つまり、私の帰る場所がなくなった。1年という約束で山梨事業所に来た
のに、帰るところがなくなりました。
本社は10時に全社員を集め社長が話したそうです。
3/23までに、山梨に行けるか、それとも退職するか結論をだせ、という。退
職する者は、会社都合ということになって、年数に応じた退職金プラス給料の
二ヶ月分を払うという。
今日現在、本社の製造部、資材部、技術部で山梨に来る者はゼロらしい。そ
の各部署の部長はみな来るが、その部下たちは全滅です。20何人かが辞める。
今の第一事業部の売り上げでは、60人ぐらいが食っていけるそうです。現
在は119人いる。なんてことはない。リストラするために小平を閉鎖するよ
うなものです。これまでうちの会社がこれまでやってこれたのも、小平の稼ぎ
だ。その苦労をしてきた者たちが辛い目にあって、まったく稼いでこなかった山
梨事業所の奴らは暢気にしている。おそらく、景気がよくなって受注がきたな
ら、山梨の人間では対応できないだろう。会社の経営者は何を考えているのか。
山梨事業所でも、昨日の5時半に全員が集められて発表された。
業績不振なので、小平を閉鎖し山梨に集約するという。それをいう山梨事業
所長は、その日、本社に呼ばれて行ったがなんのために行くのか知らなかった、
とバカなことをいう。あいつは取締役なのだ。取締役会で決定したと自分でい
いながら、知らなかったという。
私ともう一人、本社から来ている製造部のやつが、所長にくってかかった。
「会社の業績が悪いのは、Yさんのせいじゃないのか。開発が目的の山梨事業
所で、ちゃんと開発が出来なかったから、売れるものを造れなかったから、会
社の現状がこんなんじゃないですか。あやまってください。頭を下げて下さい。
おれ、**さん含めて本社の者たちにあやまってください」
Tは、右手の拳を震わせ、いう。
「経営者の一人としてあやまれ、というのか」
「いや、ちがう、山梨の開発部の責任者としてあやまれ」
「取締役の一人としてなら、頭を下げる」
「訳のわかんねェこというな。ろくな装置を造れなかった開発の責任者として
あやまれ」
Tは、今にも所長に飛びかかりそうだった。彼は、中国拳法を習っている。
私は前に出て、Tの右腕を両手で抱え込み後ろに引きずった。このままじゃ
Tは収まらないだろうと考え、私もいった。なんかいったんだけど、よく覚
えていない。
「去年、山梨に来たとき、これから8インチの装置の部品を17台集めるのが
おれの仕事だった。おれは燃えた。単身赴任はいやだったが、やってやろうじゃ
ないか、と思った。ところが売れない。まだ7台残ってるじゃないですか」
「Tくん、**くんの気持ちも分かる。確かにあの装置の開発は2年遅れた。
そのせいで他社に負けているのかも知れない。しかし、性能はうちのがいいんだ。
みんながんばってあの装置を開発したんだ」
それを聞いて私はキレた。
「どこが他社より性能がいいんですか。HセミコンダクターにもS社にも、お
れは何回も部品を送っているんですよ。搬入して立ち上げてからあんなに部品
が壊れるなんて、装置の設計が悪いからとしかいいようがないです。それをY
さんはどう考えてるんですか。冗談じゃないですよ」
所長は、顔をひきつらせている。
そのとき、左の奥の方から声がした。開発のリーダーのOだった。
「**さん、すいません。私が悪いです。みんな私の責任です」
私はあっけにとられた。でも、うれしかった。それまでOのことを私は嫌い
だった。わがままで、いばっていて、嫌味な奴だった。
重い空気が沈殿したまま、散会になった。
Tと製造のSに煙草を吸いに行こう、と外に出ようとしたら、玄関のとこ
ろまでOが追いかけてきて、
「本当にすいません。私は、今月いっぱいで辞めます。いろいろ不自由な思い
をさせてすみませんでした」
「え、辞めんの。どうして…」
「前から考えてたんです。今日で心が決まりました」
こんなことがあった。
私は、会社を辞めます。
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15回めの転職は?(1998/3/18)
いくつになってもバカやってます。
おそらく5月で46になるおれなんかに、まともな就職先なんてないでしょ
うね。
今の会社は10年です。もう、転職なんかないだろう、2度と履歴書なんか
書くもんか、と思っていたのに、だめな男です。
うちの親会社は、世界的に大きな商社なので、いますぐ潰れるようなことは
ないでしょうが、山梨事業所長にあんなこといってしまったし、おれ自身情熱
もなくなったので辞めます。
もともと会社組織で働くということが、おれには無理なんです。いや、組織に
合わそう寄りかかろうとおれは努力しているのですが、どうしても、会社とい
うものがおれをはじき出すようです。
いろいろこれから教えて下さい。
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同居人?(1998/4/15)
九想庵には、私のほかにかわいい奴がいます。「うなぎいぬ」です。
去年の秋、上野の「赤塚不二夫展」に行ってきたときに連れてきました。
部屋の蛍光灯のひもにぶら下がって、九想庵を見守っています。
私は九想庵に帰ると、まず、うなぎいぬに「ただいま」という。でも、彼は
黙っています。それでも毎日飽きずにいいます。たまには、ほっぺたをつついた
りもする。しかし、真っ直ぐ前を見て、黙っています。
写真うつりは悪いが、実物はなかなか可愛いです。私は、こいつにいろいろな
ときに救われました。涙が出るほどいい奴です。
あのとき赤塚不二夫は、少しお酒が入った感じで、山本晋也と話していた。そ
れはもう楽しい話だった。あの頃も、赤塚さんは癌だったのでしょうね。
私が小学5、6年の頃、毎週、少年サンデーを街の本屋に自転車で買いに行
った。「おそ松くん」が連載されていた。その頃の「少年サンデー」も置いてあ
りました。赤塚不二夫は尊敬する人間のひとりです。
4月29日に、うなぎいぬと私は所沢に帰ります。
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バイバイ単身赴任(1998/4/28)
明日(4/29)、所沢に引っ越します。
振り返ってみれば、楽しい1年でした。
友だちもたくさんできました。
正直なところ、山梨を去ることが悲しいです。
明日から家族と一緒に暮らせる。
このアパートに、明日の夜はいないということが信じられない。
今、心の中は支離滅裂です。
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女房とデート(1998/5/4)
昨夜、女房と新宿のエル・フラメンコに行ってきた。
彼女は昨日からGWに入り、そこそこ明るい気分だったのでしょう。
私は現在無職。あまりいい精神状態ではないのですが、女房のうきうきして
いる心を沈めることもないので、努めて明るく振る舞った。
フラメンコのステージはよかった。ギター、パルマ(手拍子)、サパティア
ード(床を足で踏みならす音)のリズムの嵐。その中で私は、人生の哀愁を感
じていました。
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家族と暮らす喜び(1998/5/8)
昨日11時過ぎ、寝ようと思っていたら女房から電話が来た。
「また、貧血のようで気持ち悪くて電車に乗ってられない。一駅一駅乗ってき
たけど、もうだめ」
と元気ない声だった。
「むかえに行くから待ってろ」
といい、急いで私は駅に向かった。
2月の頃か、私が山梨にいたときにも貧血で倒れ、電車を遅らせたことがあ
った。やっぱりフラメンコの練習の帰りだった。
花小金井駅の暗いホームのベンチに女房は座っていた。
下りの電車は満員で席が空いてない。次の小平駅で一つ空き、女房を座らせ
る。新所沢に着いた頃には、顔色もピンクになり、本人も治ったという。
つくづく単身赴任をやめてよかった、と思った。
昨日は有が、ホームルームの延長でどこかに1泊した。
今日は圭が、学校の遠足でディズニーランドに行く。
毎日、息子たちの変化を見られるのも喜びです。
日曜日、浜松に行こうかな、と思っているのですが、交通費を考えるとつら
いです。5月は給料がありません。女房と相談です。
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再就職(1998/5/9)
無事、新しい会社の3日間が終わりました。
感想は一言「疲れた」です。
初日、2日目の午前まで、会社のこと、生産管理の仕事の流れなどの話を聞
き、午後と3日目の昨日は製造の実習をした。話を聞いていたときは眠たく、
製造の実習では立ちっぱなしのため疲れました。
こんどの会社の営業内容は、自動車用ガラスの製造です。従業員60名弱の
小さな会社です。入ったばかりにクライスラーとベンツが合併して、これから
の自動車業界も大変そうです。
来週から生産管理課に行きます。
あらためて転職は大変だな、という思いです。
人間が分からない。会社のようすが分からない。神経使います。でも、ここ
でやるしかありませんから、がんばります。
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嬉しい日(1998/7/3)
今日(7/3)は、息子たちの誕生日です。
朝、私が台所の換気扇のところで煙草を吸っていると(うちでは、こことベ
ランダでしか煙草を吸えません)、
「Uは3時30分、Kはその3分後に産まれたんだよ」
と、朝食を食べてる息子たちに話していた。
ああそうだったな。18年前の朝6時半、私は病院からの電話で起こされた。
それから新宿区にある病院まで行った。始めて息子たちを眺めて感動した。双
子のせいか、二人は未熟児で産まれた。
そんなのが、今では私より背がでかくなった。
女房も残業をして帰ってきたので、食事は9時過ぎた。私はUとKが揃うの
を待って缶ビールの栓を開けた。
「U、K、誕生日に乾杯」
といってビールを飲んだ。できたら二人にもビールを飲ませたかった。とこ
ろが、冷蔵庫には350mlの缶1本しかなかった。
「ありがとう」
Kがいった。
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GODZILLAとゴジラ(1998/7/26)
「GODZILLA」観てきました。
なかなかよかったです。毎日鬱々暮らしているおれにはよかった。
しかし、ありゃゴジラではないな。「ニューヨーク版ジュラシックパーク」
という感じです。SFXがすごい。
おれは、あの“素朴”なゴジラが好きだった。おの、おどろおどろしい、動
きの緩慢な、まるで人間が入ってるような(入ってるんだよね)。
中学生の頃、「キングコングとゴジラ」かな? 観たくって、映画館がある
二駅離れた下館まで、自転車で1時間半ぐらいかけて行ったことがある。
おれも素朴な少年でした。
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11年前(1998/8/21)
先日、昔撮った8ミリビデオをVHSにダビングしようと思った。
8ミリビデオをテレビのビデオにセットし、再生して日付を見ると「87.3.17」
とあった。
息子たちがいた。幼稚園の卒園式の朝だった。
忘れていたUとKの幼稚園の頃の姿がいきなりあらわれ、私はなぜか涙が流
れて止まらなかった。
当たり前だが、ビデオの中の息子たちは小さいのです。今の彼らは私より背
が高い。別ないいかたすればぶあいそでこ憎たらしい高校3年生だ。
卒園式の後は、小学校の入学式が写っている。その後は7月3日の誕生日だ
った。
小さな記憶が、ビデオを見て大きな思い出にかわる。
女房が太っていた。ゴジラみたいだった。67キロとか写っている彼女が喋
っていた(今は、55キロ)。
私は痩せていた。67キロといっていた(現在、73キロ)。ということは
夫婦してそのときは同じ体重だったということか。
ビデオで話すことを聞いて、その年私は2度転職したことを思い出した。
そうだそうだ、あのときも大変だった。息子たちが小学校に入ったというの
に、私は不安定な暮らしをしていた。
次の日、女房と一緒に見る。
あのときはこうだった。あのあとはああだった。と話しながら見た。
私がトイレに入ったとき、UとKと女房の声がする。水を流して出ると二人
は逃げるようにして自分の部屋に戻っていった。
父親とはさびしいものですね。
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パソコンとの距離(1998/9/4)
最近、パソコンに向かうのが億劫になりました。
今は、会社で日々パソコンのお世話にならないと仕事になりません。前の会
社でも使っていたけど、毎日というほどではなかった。
それで、今の私は、家に帰ってからパソコンのスイッチを入れることに気が
進まなくなってます。
ああ…、おれって勝手だな。
と、反省している。
4月以前、もとの会社の同僚に「パソコン通信は面白いよ」とよく薦めてい
たのですが、だいたい返ってくる返事は、
「会社で1日中パソコン使っていると、家に帰ったら、パソコンなんて触りた
くねぇよ」
というセリフだった。
そんなもんかな、とそういう奴らを半ばバカにしていたのですが、現在の私
がそうなっている。
パソコンが嫌いになったわけではないのだが、なんかパソコンの前に坐りた
くない。
パソコンを仕事に使ってはいけませんね。
明日は、久しぶりに土曜日休みます。つくづく2連休はいいなと思う。
パソコンなんていじらないで、本読んだり、楽器触ったりしようかなと考え
てます。
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訛(1998/9/4)
私はこの4月まで、自分の“訛”を意識しないで暮らしていた。
5月から今の会社に就職して、何人かの人に、
「**さんはどこの生まれですか?」
とか、
「**さんの話し方は、どこだろうな?」
なんて何人かの人にいわれる。
最初の頃そういわれて、私は「えッ」という思いだった。茨城を出て25年、
今では完璧に標準語を話していると思っていた。茨城の言葉を話さないおれは
寂しい男だ、なんて思っていたりもした。
20代の前半、アマチュアの劇団に入り、テネシー・ウィリアムズの「最後
の金時計」という芝居の若いセールスマンの役をやったとき、演出をしていた
劇団の主宰者に、練習するたびに怒られていた。
「茨詭弁しゃべるアメリカのセールスマンがいるか」
私は、なんどやめようかと思ったことか。言葉はなおせても、イントネーシ
ョンが変えられない。なんとかステージには立ったが、その後すぐその劇団を
やめた。
そのぐらいひどい訛だった。
自分でいうのもへんだが、ふだんの私は訛はないと思う。オフでお会いした
みなさまいかがでしょうか。いや、少しはあるのかな…。百歩ゆずっても、か
なり訛は少ないほうですよね(イマノ、ワタシハ、ジシンナイ)。
私は緊張すると訛が出るようです。
5月から、ずーっと会社で緊張しています。