近畿地方の本州西には岡山県、広島県、山口県、島根県、鳥取県の五県があり、この地方を中国地方と呼んでいます。
岡山県出身の私の故郷には中国銀行があり、広島県には中国新聞社や中国電力、中国放送など、中国を冠した企業があります。
この中国と言う呼称ですが、何故この地方を「中国」と呼ぶのでしょうか?「China」と関係があったのでしょうか?
そこで調べてみました。
先ず、「China」と関係があったのか?ということについては、全く関係はありません。
日本で「中国」と言う単語が初めて記されたのは太平記で1300年代のことです。
当時、現在中国と呼ばれている中華人民共和国は「元」、「明」で、「中華民国」が成立したのは1912年です。
よって、「China」とは全く関係ありません。
次に何故、中国地方を「中国」と呼ぶのか?については、日本の律令制に由来するようです。
奈良、京都の王朝政府は日本各地を四つの地域に区分しました。
王都を取り巻く地域は「畿内」です。「畿」は王宮、都を意味する文字です。「畿内」に似た言葉を現代語で探せば「首都圏」だそうです。
その「畿内」から遠い国は「遠国(おんごく)」、近い国は「近国(きんごく)」、そして中ほどに位置する国が「中国」となったのです。
なので、中国とは「遠国」と「近国」の間にある所を指していたということです。
その分類は以下の通りです。
「畿内」…山城、摂津、和泉、河内、大和
「近国」…若狭、美濃、尾張、三河、伊賀、伊勢、志摩、近江、丹後、丹波、但馬、播磨、淡路、紀伊、備前、美作
「中国」…越中、加賀、能登、越前、甲斐、信濃、飛騨、遠江、駿河、伊豆、因幡、伯耆、出雲、備中、備後、阿波、讃岐
「遠国」…陸奥、出羽、常陸、下野、上野、武蔵、上総、下総、安房、相模、越後、佐渡、隠岐、石見、安芸、長門、周防、伊予、土佐、筑前、筑後、肥前、肥後、壱岐、対馬、
豊前、豊後、日向、大隅、薩摩
つまり中国とは、「都から中程度離れている国」という意味なのです。
従って、嘗ては都から西の方だけでなく、東の方(中部地方の一部)も中国だったようです。
さらに西の方でも、島根、広島の一部や山口県を含まず、香川、徳島を含んでいることから、現在の中国地方とは一致していません。
この「中国」が中国地方の元々の語源であることは間違いないと思いますが、現在の中国地方5県の区分がいつから使われたか、なぜこの名前が採用されたかは定かではありません。
しかし、中国地方の呼称の由来については主に3つの説あるようです。
1.律令では畿内からの距離に応じて国を「近国」「中国」「遠国」に分類していて「中国」がまとまっている地域だったからとする説。
2.大陸との窓口など西の拠点であった大宰府と都の中間にあった国々の地域だったからとする説。
3.日本神話の葦原中国(あしはらのなかつくに)があったと思われる地域だったからとする説。
いずれも決定打に欠け、由来ははっきりとわからないのが実情だと言うことです。
(参考)
10世紀ごろ、「律・令・格・式」という法体系が出来上がり、その中の「延喜式(967年施行)」という法律で、全国の国を都からの距離に応じて畿内、近国、中国、遠国に分け、公文書の提出期限などを分けていました。
なお、「律・令・格・式」とは、刑法の律、刑法以外の諸規定を網羅した令、補足法としての格 (きゃく)、施行細則である式です。