らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

皆既月食

2011-12-11 | 雑学

昨夜から今朝にかけて満月が地球の影にすべて隠れる「皆既月食」でしたが、ご覧になりましたか?
今回の皆既月食では、月食の始まりから終わりまでを日本全国で観測でき、このような好条件で見られるのは、2000年7月以来11年ぶりだそうです。

皆既月食です。


皆既月食 とは、月が地球の影にすっぽりと入り、月と太陽、地球の3つが一直線に並ぶ現象のことです。
昨夜は、午後9時45分に欠け始め、11時5分から11時58分まですっぽり隠れる皆既月食となり、今朝の午前1時18分に元の状態に戻りました。

国立天文台 天文情報センターによれば地球の影に対する月の動きは次のようです。
 20時31分 半影食の始め
 21時45分 部分食の始め
 23時  5分 皆既月の始め
 23時31分 皆既月食の最大
 23時58分 皆既食の終わり
翌1時18分 部分食の終わり
 22時31分 半影食の終わり


次の皆既月食は平成26年10月だそうです。


カラスの大群

2011-12-10 | 地元紹介

先日、畑で作業をしていると、突然グワッー、グワッー、カーカー、けたたましい鳴き声がしてきました。
この鳴き声が止まないので目を向けると、
夥(おびただ)しい数の黒い鳥が高圧電線上に、横一列に並んでいるではありませんか。

何だと思いますか?
そう、カラスの大群でした。
恐らく数百羽はいたであろうと思われます。そのカラスが大集結していたのです。
最近、カラスが増えたように感じていましたが、このような大群を見たのは初めてです。


・電線上のカラスは画像に入りきらず、この倍くらい並んでおり、鉄塔の上辺にも群がって止まっていました。


カラスの大群について調べてみました。
カラスは3月から7月頃が繁殖期で、この時期にはペアで行動するのが基本のようですが、繁殖期を過ぎると集団塒(ねぐら)行動をとるようになるそうです。
なぜ、こうした大群になるのか、詳しいことは解明されていないようですが、考えられることは天敵に対する集団自衛だろうと言われています。



カラスの大集結について某専門家は、
『昼の行動は分散しているため、同じ塒(ねぐら)に帰るカラス同士、別々の時間にまちまちに帰ったのでは塒(ねぐら)の安全性が低くなる。
 仮に猛禽などの捕食者がいれば、先に帰ったカラスから、順番にやられてしまうことになります。
 ところが集団で帰ると捕食者にも驚異だし、戦う場合も有利だ。
 今はそのような状況はないにしろ、長い進化の中で、そんな戦略が本能的に働いているのかもしれない。』
と語っています。




この大群を撮影した時間は2時30分頃ですが、3時には殆どが飛び去り、残っていたのはわずか4羽だけでした。

・あれだけ群れていたカラスですが、僅か30分足らずで殆どいなくなりました。


カラスの集団行動については専門家もまだ詳細にはつかめていないようです。
野鳥の生態は、まだまだ未解明の部分があるようですね。


「冬将軍」の語源

2011-12-09 | 雑学

天気予報によれば、日本列島は今日から明日にかけて大陸から「冬将軍」がやってきて寒くなるとのことです。
大阪地方も今日の最高気温は9度、明日と明後日の最低気温は2度と4度と予想されており、この冬一番の冷え込みになりそうです。

天気予報では大陸からの寒気団の張り出しを「冬将軍」と表現していますが、冬のシベリアからの寒気を何故「冬将軍」と言うのでしょうか?
そこで今日は「冬将軍」について調べました。

「冬将軍」とは、冬の厳しい寒さを擬人化した表現で、その謂れはフランスの皇帝ナポレオンに由来します。
1812年にロシアに遠征したナポレオンは、厳しい寒さのため敗退を余儀なくされました。
その際、イギリスの新聞は「ナポレオンがgeneral frost(厳寒将軍)に負けた」と報じたと言われていますが、これを、日本で「冬将軍」と訳したそうで、以後、日本ではシベリアから張り出してくる強い寒気(シベリア寒気団)を指して使われるようになりました。



日本では「冬将軍」がやってくると日本海側に強い降雪をもたらし、太平洋側では乾燥した北西風が吹き荒れる気候となります。
今年は秋から初冬にかけて比較的暖かい気候でしたが、「冬将軍」の出現によって本格的な冬の到来となります。
節電の冬ですが、「冬将軍」に負けないように頑張りましょう。


「オキザリス・ベルシコロール」の花

2011-12-08 | 

今日は我が家の「オキザリス・ベルシコロール」の花をご紹介します。

オキザリスはカタバミ科に属する多年草で、原産地の南アフリカを始め世界中に800種以上分布する植物です。
今日ご紹介する「オキザリス・ベルシコロール」は紅白のねじれ模様が特徴のとても美しい花です。



「オキザリス・ベルシコロール」は、花が少なくなる11月下旬から2月~3月頃まで咲きます。
我が家では鉢に植えてキウイフルーツの棚に吊るしていますが、紅白のねじれ模様が鮮やかなことから冬の殺風景な庭には欠かせない貴重な花となっています。

・太陽が当たった蕾は開き、日陰になっている蕾は閉じたままになっています。


花色は白色の他、桃色、黄色、ソフトな中間色もあるようです。

・蕾から開きかけた時がとても綺麗です。


・朝・夕や曇天になるとこのように蕾んでしまいます。



大雪(たいせつ)

2011-12-07 | 季節

今日は二十四節気の一つ「大雪(たいせつ)」です。
「大雪」とは、雪が激しく降り始める頃という意味で、暦便覧にも、「雪いよいよ降り重なる折からなれば也」と説明しています。

この頃になると、山々は雪に覆われて冬の姿となり、平地でも雪が降り始め、朝夕には池や川に氷が見られるようになります。

今朝の大阪・泉州地方は最低気温が8度と12月としては暖かい朝となりましたが、明日からは寒くなり、最低気温も5度前後まで下がると予想されており、正に「大雪」に相応しいような冷え込みとなってきそうです。

雪は冬の象徴ですが、その雪はやがて消えてしまう儚さをも表現する語としてよく使われます。
雪は、その結晶が6枚の花弁を持つ花のように美しいことから「六花(りっか)」とも呼ばれ、また、晴れた空から舞落ちる雪は「風花(かざはな)」と呼ばれて、落ちるとすぐに消えてしまう儚さを花に例えて美しく表現されます。
雪の結晶を研究し、随筆家としても有名な中谷宇吉郎は、著書「雪」の中で『雪は天から送られた手紙である』と言っています。

今年は東日本大震災でたくさんの犠牲者が出ました。
東北地方に降る雪がご遺族や被災者の皆さんに“心温まる天からのお便り”となって欲しいものです。

 


「ソムリエ」の語源

2011-12-06 | 雑学

11月のボージョレ・ヌーヴォーの解禁から年末にかけては、特にワインを飲む機会が多くなるのではないでしょうか?
フランス料理店やイタリア料理店などワインを提供するお店ではワインの専門職「ソムリエ」を雇用しているお店が増えてきました。

ソムリエと言えば、この人をご記憶されているでしょうか?そう、田崎眞也(たさきしんや)氏です。
彼は1995年5月、第8回世界最優秀ソムリエコンクールで優勝し、その後、“世界最優秀ソムリエ”と呼ばれてテレビCMによく出ていたましたね。
このソムリエという職業は、元々は王様の荷物を運搬・管理する人の事を云ったようです。
今日は、ソムリエの語源について調べました。

「ソムリエ」は、最初は運搬や労役用の動物の使い手を指して言った言葉で、「荷役用の牛馬」を意味するラテン語の「saumarius」に由来し、12世紀にフランス語の「sommier」となり、13世紀に動物の使い手を意味する「sommelier」の語が生まれたようです。
動物の使い手を意味することから、王様の旅行に随行し、荷物を運搬・管理する係の者を指して言うようになり、それが後に、宮廷で食事とワインを管理する者をソムリエと呼ぶようになりました。

その後、フランス革命で王による政権が崩壊して失業したソムリエは、その専門技術や知識を生かしてレストランやカフェのワイン係となり、ワインの専門職へと転じていきました。
日本でもワインの専門家を「ソムリエ」と言っていますが、最近では、「野菜ソムリエ」やに「アクアソムリエ」、「温泉ソムリエ」など『○○ソムリエ』と言う言葉をよく耳にするようになりました。

このような使い方は日本独自のものであり、通称として呼ばれることがほとんどのようです。
しかし、それだけ「ソムリエ」がワインのみならず、各分野で必要とされている証しであり、専門知識を生かして消費者にアドバイスをしてくれる人が必要視されてきていると言うことなのでしょうね。




ミカン栽培(収穫)

2011-12-05 | 家庭果樹

今日は我が家の温州ミカン栽培についてご紹介します。
私が栽培している温州ミカンの品種は宮川早生と言う品種ですが、早生とは名ばかりで、12月になって漸く果実の緑色が無くなる晩生のようなミカンです。
このミカン、“品種に偽り”ありなのか、それとも植えている畑の立地によるものなのか、将又(はたまた)、栽培者の性格に似てきたものなのか、原因は分かりませんが、早生品種らしからぬ
収穫の遅いミカンです。

・10月29日に色づき始めた温州みかんです。果実の緑色が全て黄色に変わるまでに1カ月余り要しました。


我が家の温州ミカンは植え付けてから今年で4年になる木ですが、今年になってやっと枝葉が茂り、12~13個の果実が実りました。
二桁の個数を収穫できるのは初めてのことです。
今年は幹も太くなってきたので、来年からは毎年このくらいは収穫できるのではないかと期待しています。



これが収穫した温州みかんです。
収穫直後はまだ硬いので暫く追熟させて柔らかくなるまで待ちます。




「すき焼き」の語源

2011-12-04 | 雑学

師走に入って急に気温が下がり、いよいよ冬も本番の寒い季節となりました。
寒くなると恋しくなるのが寄せ鍋やすき焼きなどの鍋もの料理ですが、今日はその内の「すき焼き」の語源について調べました。

「すき焼き」は元々、江戸時代の農夫たちが仕事中に腹が減ると、農具の鍬(すき)の金属部分を鉄板の代わりにして魚や豆腐を焼いて食べたことから「鍬焼(すきやき)」と呼ばれるようになったと言われていますが、他にも、薄く切った肉を意味する「剝身(すきみ)」から「剝き焼き(すきやき)」になったとする説もあるようです。



「すき焼き」は江戸時代末頃に誕生した比較的歴史の浅い食べ物のようです。
日本では、牛や馬は大切な労働力であったので食べると罰が当たると信じられていたため、古く(飛鳥時代の頃)から明治時代に入るまで、肉食が禁じられていました。

しかし、貧しい民衆の間ではこっそりとイノシシやシカなどの野獣の肉を食していたようです。
そんな風潮の中で、牛肉もこっそりと食されるようになり、幕末には京都の三条河原に「すき焼き屋」が初めて誕生したと言われています。

明治時代に入ると、明治天皇が牛肉を食べたことがきっかけで、一般庶民にも牛肉を食することが解禁され、関西では「すき焼き」、関東では「牛鍋」が庶民の間で大流行したそうです。

このようなことから「すき焼き」は元々関西地方での呼び名であって、関東では牛鍋と呼ばれていましたが、今では一般に「すき焼き」として親しまれています。


大河ドラマ「江の里」ツアー(その5)

2011-12-03 | 旅行

大河ドラマ「江ー姫たちの戦国ー」は11月27日で終了しましたが、その主役であった浅井三姉妹の故郷を訪ねた私たち山の手台のツアー一行は、長浜市から岐阜県の関ヶ原に向かいました。

関ヶ原では、JR東海道線の関ヶ原駅から2キロ程の所にある「関ヶ原ウォーランド」に行きましたが、ここではこのテーマパークを見学するのではなく、土産物店でお土産を買うのが目的で立ち寄ったようです。

「関ヶ原ウォーランド」の前には宝蔵寺があったので参拝してきました。

「宝蔵寺」
このお寺の名称は天満山宝蔵寺で、関ヶ原で命を落とした武将の霊を祭るお寺だそうです。
関ヶ原の合戦のとき、西軍の陣はこの寺のすぐ傍に布陣していたそうで、西軍が小早川秀秋の裏切りにより壊滅した際は、このあたりが逃げる西軍の兵士と、それに追いすがる東軍の兵士との間に悲惨な地獄絵図が展開されたと見られています。

・天満山宝蔵寺です。 「祈 ノーモア 関ヶ原合戦」の石碑はいかにも現代的な感じがします。


・関ヶ原合戦 戦没者供養堂です。


この宝蔵寺の鐘楼の前には、「400年記念 関ヶ原合戦戦没者慰霊碑」が建てられていました。
この碑は関ヶ原の合戦後400年に当たる平成12年(2000年)に400年記念のイベントが開かれたのを記念して建てられたようです。

・石碑には「400年記念 関ヶ原合戦 戦没者慰霊碑」と彫られています。


「関ヶ原ウォーランド」
「関ヶ原ウォーランド」は、今から約411余年前の慶長5年(1600年)9月15日早朝、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍がその命運をかけて戦った天下分け目の一大決戦を、約30,000㎡の敷地内に実物大の武将像を配し、旗指物・陣幕などを再現しているテーマパークです。
2階の合戦資料館には実際に合戦で使われたといわれる貴重な甲冑なども展示されているそうです。

・「関ヶ原ウォーランド」の入口です。


「関ヶ原ウォーランド」の敷地内には、戦をしている実物大のこのような人形が展示されているようです。


園内では、合戦の音響を流してその効果を演出していました。


バスの車内から撮影した場内の様子です。


約30,000㎡の敷地内にはこのような合戦風景が再現されています。




大河ドラマ「江の里」ツアー(その4)

2011-12-02 | 旅行

大河ドラマ「江ー姫たちの戦国ー」の主役、浅井三姉妹の故郷の滋賀県長浜市を「江の古里」ツアーのタイトルでご紹介していますが、今日はその4回目となります。
私たちの一行は昼食の後、浅井歴史民俗資料館に行きました。

「浅井歴史民俗資料館」
浅井歴史民俗資料館は戦国大名・浅井3代の歴史・文化を守り伝えることを目的に平成7年に開館した施設です。
この中には「郷土学習館」「七りん館」「「糸姫の館」「鍛冶屋部屋」の4つの建物があり、江戸時代後期から明治時代における浅井の庄屋・養蚕農家・鍛冶屋などの再現や、浅井の伝統的な暮らし、道具、もの作りの技の展示や体験が出来るようになっています。

・左が「郷土学習館」、正面が「七りん館」、そして右の藁ぶき屋根の建物が「糸姫の館」です。


「郷土学習館」
1階は、浅井家三代に亘る盛衰記をパネルで紹介しているほか、姉川合戦の経緯について「姉川合戦絵巻物シアター」を配置し、迫力ある戦国時代の雰囲気を実現しています。
2階では、「江」誕生から小谷城落城までをジオラマで紹介しているほか、その後の市と三姉妹の生涯について系譜で説明していました。



「郷土学習館1階の小谷城趾のジオラマ」
小谷城は、大永4年(1504年)、浅井亮政(あざいすけまさ)が京極氏より自立して築城してのち、浅井久政を経て、3代目の浅井長政が織田信長に破れた天正
元年(1573年)までの50年間、浅井氏が根城とした山城です。

・右側の尾根の上部に小谷城が築城されていました。


「小谷城大広間での長政家族」
小谷城の山上大広間で、浅井長政(29歳)と妻・市(27歳)、それに長男の万福丸(10歳)、茶々(5歳)、初(4歳)、江(1歳)の3姉妹が団欒している場面を再現しています。



「小谷城脇門の扉」
この門は織田信長のためにあえなく落城、焼け落ちた城楼の縁を示す唯一のものだそうです。
恐らく落城以前に城楼改築がなされた折に、旧館の一部(須賀谷に譲与されたもの)が永い風雪のため、門扉のみが残ったものと思われているそうです。

・小谷城落城で脇門を出るお市、茶々、初、江の3姉妹のジオラマです。


「七りん館」
1804年、江戸後期に建てられた長浜市鍛冶屋町の当時庄屋であった草野家を移築再現しています。
江戸から明治にかけての民具を生活そのままに展示し、昔のくらし体験などの総合学習の場としても利用されています。



「糸姫の館」
養蚕と製糸は浅井の伝統産業として発展してきたそうです
この館では、町内で江戸中期から盛んに行われるようになった養蚕と製糸の歴史や仕事振りを明治期の農家を再現し、人形ジオラマや写真パネルなどで詳しく紹介しています。


「姉川古戦場跡」
織田信長は越前の朝倉義景に将軍・足利義昭に従って共に京へ行くようにと二度も要請しましたが、義景が二度とも拒んだことによって、信長の朝倉氏攻略が始まりました。
朝倉氏と旧知の仲である浅井氏は、城主・浅井長政の妻が信長の妹・お市の方であることからの親戚関係と朝倉氏との間で迷っていましたが、長政の父・久政が朝倉氏との関係を優先し、朝倉の次は浅井氏を滅ぼすだろうと主張したために、長政はついにそれを受け入れて挙兵します。

元亀元年(1570年)6月28日早朝、浅井・朝倉軍約1万8千人、織田・徳川軍約2万8千人が姉川を挟んで軍を敷いてにらみ合っていましたが、徳川方の攻撃により戦が始まりました。
4時間ほどの激戦ののち、浅井・朝倉両軍は敗走することとなりました。
この壮絶な戦いが繰り広げられたのが姉川の野村橋付近一帯(下の画像)だそうです。

この戦いによる戦死者は両軍で2500人とみられて、この3倍に及ぶ負傷者も出て、姉川は血で真っ赤に染まったと言われています。
今も、血原(ちはら)、血川橋(ちかわばし)という地名が残っており当時の惨状を伝えています。

・姉川合戦付近をバスが通過した時車内から撮影した古戦場跡です。


なお、浅井長政はこの合戦の後も、本願寺(ほんがんじ)などの反信長勢と協力して抵抗を続けましたが、姉川の戦いから3年後に、小谷城を包囲され、28歳で自刃しました。