本日はふたたび「北海道住宅始原の旅」です。
このブログで明治初年の開拓使の「建築工事」の受注業者として
「中川組」のことについて触れました。
この建設業者は江戸に本拠のあった建築業者で、江戸時代末期建設の
「函館奉行所」の受注業者であり、札幌での「新府建設」についても
積極的に関与し、はじめは現地発注側に建築専門家がいなかったことから
その設計などについてもあわせて受注していた、とされる。
「洋造」以前の日本在来の建築工法で対応していたと思われる。
この写真は、明治4年5月撮影のものということなので、
かれらが考える建築の基本形式が表現されているのでしょう。
ちなみに明治3年に2代目判官として札幌開発責任者になった岩村通俊は
それ以前開拓使本拠が置かれていた函館にいた。
この岩村と函館奉行所の元請け事業者で函館がほぼ本拠になっていた
中川組は縁が強まったのか、岩村の札幌移転後、開拓使の御用請負人になった。
基本的には和風そのものの建てられようです。
縁が大きく取られ陽だまりに家族が参集したポーズで写真に収まっている。
白黒写真なのでハッキリしないけれど、手前側には草地に
ところどころ雪とも思われる白い部分が見えているので、まだ早春なのか。
縁と室内との間には障子が造作されている。
外部には「戸袋」が見られるので、縁の外端部で板引き戸が使われたのでしょう。
左側にも窓があり、戸袋付きともみえる。
外壁は押し縁が施されているので塗り壁ではなく板張りを押さえている。
屋根は石置き屋根となっている。
石置き屋根は、日本海側気候地域で伝統的に用いられた「防風」屋根。
多雪寒冷という気候条件では「萱葺き」の方がまだしも合理的と思えるが、
あえて「防風」重視という考えにしたのか。
あるいは明治初年の開拓使の「家作」方針として屋根は柾葺きとする
そういう方針があったようにも思われます。
この明治3−4年段階の「官舎」建築では萱葺きは一切採用されない。
寒冷地住宅として直火を扱う囲炉裏暖房を考えれば、防火管理上、
燃え広がりやすい萱葺きでは不都合という考え方か。
そういえば江戸幕府は度重なる火災に対して江戸市中の屋根を
「瓦葺き」にせよ、という建築法令を出している。それからすると、
幕府を引き継いだ政権の「官営」工事の考えに、
絶対に防火最優先という考え方があったと思える。
しかしこの写真のような和風住宅の「畳敷き」では囲炉裏は設置できないから
ひたすら「火鉢」を抱きかかえていたのだろうと思われます。
移築されて明治初年の生活を再現した「屯田兵住宅」では大量の火鉢が
実際に家の中に置かれていました。
しかし炭は製造にも輸送にもものすごく手間が掛かり高価なハズ。・・・
防寒住宅にまだ手が付けられていなかった様子が明らかですね。
「洋造」という家作方針は、防寒住宅への官の側の号砲一発だったのでしょう。
この方針決定こそが「高断熱高気密」の最初の一歩だった。
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