癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

講演会「青森から見た箱館戦争」

2017年01月28日 | イベント鑑賞・参加

午後から、函館中央図書館で開催された「五稜郭タワー 第43回函館文化発見企画講演会」に参加。
北海道新幹線開業に伴う青函圏交流イベントの一環の企画らしい。演題は「青森から見た箱館戦争」。


講師は、青森市民図書館歴史史料室 工藤大輔氏(北海道遠軽町出身)

 講演内容は、箱館戦争勃発から終焉までの1年間の当時の青森町の様子がおもな内容だった。
 典拠となった史料は、当時の青森町屈指の豪商・滝野伊東家の滝野彦太郎の書いた「滝野日記」。滝野伊東家は、弘前藩など諸藩の御用達を勤め、箱館奉行とも取引があった。
 当時は、弘前が弘前藩のお膝元で、青森は人口1万人ほどの小さな湊町だった。

○開戦~新政府関係者の青森への避難
 明治元年10月25日に、突如蒸気船が入津し、旧幕府軍の五稜郭占拠前に、箱館惣督清水谷公考一行と新政府軍兵士が約1100人が避難してきて大騒動になったことが、箱館戦争との関わりの始まり。
 さらに、援軍が次々とやってきて、12月の時点で、人口とほぼ同じ約9500人の新政府軍が青森町に駐留し冬を越した。再び函館へ派兵することになった翌年4月には12000人に膨れ上がった。宿舎は民家や寺院が割り当てられた。

○蒸気船や外国人の増加
・函館から戦火を恐れて青森へやってくる蒸気船や外国人が増え、外国文化との触れあう機会が増えた。

○その間の市民生活への影響
・駐留する新政府軍兵士の世話や物資の調達に困窮。
・経済活動~スパイ対策、物資の移出制限
・ライフサイクル~年末・年始の行事禁止・競馬(くらべうま)の中止。

○再び箱館への派兵後の影響
・駐留する新政府軍はいなくなったが、箱館で怪我をした兵士が移送されてくる。塩町の遊郭に収容。その対応に追われる。
・終戦~戦後処理の一環として、降伏人の収容と調達金の賦課が重荷に。
・戦争が終わり、清水公考が箱館へ戻って行ったのが、明治2年10月25日。期せずして、清水公考が避難してきた日と全く同じ日で、ちょうど丸1年、青森は箱館戦争に振り回された感じである。

○箱館戦争と青森
・箱館戦争の兵站基地としての役割が強かった。
・マイナス要素~過重な負担が強いられた。
・プラス要素~政治的な地位が向上・北海道への渡航地としての重要な港。
       明治4年の「県都青森」誕生の背景に?

 丸1年間、青森にとっては、箱館戦争に振り回され、過重な負担を強いられて、非常に気の毒な感じが強かった。いつの時代も戦争は、市民にとって負担や犠牲を強いるだけで、良いことは何もない。

ライフスポーツコーチ研(座学のみ参加)

2017年01月28日 | スキー・クロカン



 今日は、函館ライフスポーツのコーチ研修会だった。講師は、顧問のKi氏。午後からは別の講演会に参加予定だったので、午前中だけの参加のつもりでスキー場へ向かった。

 七飯スノーパークは、強風だったが、ゴンドラはゆっくり動いていた。雪が付けば吹雪になる感じだったが、天候は小康状態だった。30分ほどの座学の後、スキーを履いての実技研修もするという。しかし、まだ体調が万全な感じでなかったし、風が強くて寒そうなので、座学だけで失礼した。

 座学の中心は、自分もいつも心がけて指導している「スキーは操作するのではなく、その性能を引き出すための上体の運動でターンをする。操作は筋力が必要だが、この運動は筋力を必要とせず、中高年向きだ。」ということの再確認だった。
<おもな指導のポイント>
 1、今は、靴とビンディングとスキーは一体の「装具」と考える。
 2、「操作」は、膝を曲げるとかエッジングをするといったスキーに直接働きかける下半身の動きが中心となるが、「運動」は、股関節から上の動きとなり、それがスキーに伝わる。(膝の運動から腰の運動へ)
 3、次のターンへの始動となる、重心のクロスは、内腰を引く、外腰を回す、目線でリードする、腕でリードするなどの運動がメインとなる。
 4、内スキーは舵とり、外スキーは出力(エンジン)<外足は親指の付け根に意識を置き、出力となるウエートを掛ける。内足は谷から山へ切り返す)
 5、トップで切り込み、テールで抜く。そのためには前の方に立ち上がる(ターン弧に合わせた重心の前後移動)。
 6、中高年は、肩を中心とした運動で大回りターン(ロングターン)を、腰を中心とした運動で中回りタ-ン(ミドルターン)をメインに指導するのが良い。小回りは膝の運動が中心となるので、負担が大きい)