小松幹生さんが亡くなられた。
小松さんとのつきあいというのは、ほんとうにもう、劇作家協会の設立以来の歴史そのものである。
1993年の3月、劇作家協会の必要性については、私たち若手も言い出し始めていたが、新劇世代の先達たちの間でも声が出ていることを知り、私が斎藤憐さんに連絡し、協会設立のために、会おうということになった。私は川村毅氏と平田オリザ氏に声をかけ、西永福の斎藤憐さん宅を訪ねた。別役実さんと一緒に私たちを待ち受けていたのが、小松幹生さんだった。
それがすべての始まりだった。
「会長退任にあたってのご挨拶」に記したとおりだ。http://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/bd31051879f80c59ea780c0d295c4f07
その「ご挨拶」に「あれから23年の歳月が重ねられてきているわけだが、なにもかもが「あっという間」の中の出来事であったと思う。多くの方がお亡くなりになり、また、ご病気になられ、ミーティング時などでも、協会立ち上げ期を知る者が少なくなってしまった。というか、小松幹生さんを除いては、ほぼいなくなってしまった。」と記したばかりだが、その小松さんまでが亡くなられてしまった。
忘れがたいのは、1994年の北九州の劇作家大会で、そもそも大会じたいが、先輩劇作家たちから「そんなことできるの?」といわれていたわけだが、その際に初めての「公開審査」での戯曲コンクールを行った。
「公開審査」といっても、そのとき候補作品を既に読んでいるのが審査員だけだったら、一般の人たちや候補者に審査過程を公開する意味がない。私は複数の「最終候補作」が一冊の本になって、「公開審査」のさいには既に出版されている状態でなければならないと考えた。
多くの先輩劇作家たちは無理だろうと言った。
既に相談はしていたが、出版・編集の仕事のプロである小松幹生さんが、「オレがやるよ」と言い、鮮やかな動きで、「最終候補作」をまとめた本を作られた。本が届いた北九州の朝の、小松さんと交わしたやりとりが忘れられない。
戯曲を応募した人が希望する審査員名を書き、その投票で審査員が選ばれる方式は、この時にはまだ行う余裕がなかった。だがそれ以外のさまざまな形式はほとんどもうこの時完成していた。
この協会で「新人戯曲賞」を管轄する部署が「出版部」であるのは、そうした小松幹生さんとの共闘作業の結果の、自然な流れなのである。
「新人戯曲賞」は、小松さんの生み出した子供であった。
「じつはオレ、ガンなんだよ」と聞かされたのは何年前だったか。その後も、皮肉屋で兄貴肌の小松さんは、変わらなかった。
最後に長く話したのは、最後の「優秀新人戯曲集」が出たばかりのとき、それを渡されて、座高円寺のロビーでだった。
私も会長任期満了になることはわかっている時期で、互いに「後をどうするかなんだよね」という話ばかりしていた。
劇作家という仕事は孤独なものだと言われるが、信頼を寄せられる先輩に励まされることが、どれだけありがたいことだったか。
小松さん、感謝しています。
これからも、できる限りがんばります。
ありがとうございました。
小松さんとのつきあいというのは、ほんとうにもう、劇作家協会の設立以来の歴史そのものである。
1993年の3月、劇作家協会の必要性については、私たち若手も言い出し始めていたが、新劇世代の先達たちの間でも声が出ていることを知り、私が斎藤憐さんに連絡し、協会設立のために、会おうということになった。私は川村毅氏と平田オリザ氏に声をかけ、西永福の斎藤憐さん宅を訪ねた。別役実さんと一緒に私たちを待ち受けていたのが、小松幹生さんだった。
それがすべての始まりだった。
「会長退任にあたってのご挨拶」に記したとおりだ。http://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/bd31051879f80c59ea780c0d295c4f07
その「ご挨拶」に「あれから23年の歳月が重ねられてきているわけだが、なにもかもが「あっという間」の中の出来事であったと思う。多くの方がお亡くなりになり、また、ご病気になられ、ミーティング時などでも、協会立ち上げ期を知る者が少なくなってしまった。というか、小松幹生さんを除いては、ほぼいなくなってしまった。」と記したばかりだが、その小松さんまでが亡くなられてしまった。
忘れがたいのは、1994年の北九州の劇作家大会で、そもそも大会じたいが、先輩劇作家たちから「そんなことできるの?」といわれていたわけだが、その際に初めての「公開審査」での戯曲コンクールを行った。
「公開審査」といっても、そのとき候補作品を既に読んでいるのが審査員だけだったら、一般の人たちや候補者に審査過程を公開する意味がない。私は複数の「最終候補作」が一冊の本になって、「公開審査」のさいには既に出版されている状態でなければならないと考えた。
多くの先輩劇作家たちは無理だろうと言った。
既に相談はしていたが、出版・編集の仕事のプロである小松幹生さんが、「オレがやるよ」と言い、鮮やかな動きで、「最終候補作」をまとめた本を作られた。本が届いた北九州の朝の、小松さんと交わしたやりとりが忘れられない。
戯曲を応募した人が希望する審査員名を書き、その投票で審査員が選ばれる方式は、この時にはまだ行う余裕がなかった。だがそれ以外のさまざまな形式はほとんどもうこの時完成していた。
この協会で「新人戯曲賞」を管轄する部署が「出版部」であるのは、そうした小松幹生さんとの共闘作業の結果の、自然な流れなのである。
「新人戯曲賞」は、小松さんの生み出した子供であった。
「じつはオレ、ガンなんだよ」と聞かされたのは何年前だったか。その後も、皮肉屋で兄貴肌の小松さんは、変わらなかった。
最後に長く話したのは、最後の「優秀新人戯曲集」が出たばかりのとき、それを渡されて、座高円寺のロビーでだった。
私も会長任期満了になることはわかっている時期で、互いに「後をどうするかなんだよね」という話ばかりしていた。
劇作家という仕事は孤独なものだと言われるが、信頼を寄せられる先輩に励まされることが、どれだけありがたいことだったか。
小松さん、感謝しています。
これからも、できる限りがんばります。
ありがとうございました。