今年も巡ってきました七五三の季節。この時期はオカブの心は重い。教会で七五三があるからだ。
オカブとしては教会で七五三(当教会ではこども祝福式と称している)をやること自体はやぶさかではない。しかし、その目的が、こどもの親が神社に七五三に連れて行ってしまうことを妨げるためというのであれば、なかなか釈然としないものがある。
七五三はもともと日本古来の行事である。それをあろうことか奪取した挙句、そちらの神社には行ってはいけないというのはあまりにも狭量であろう。
もとより、信教の自由の時代である。オカブの教会は幼稚園が併設されていて、キリスト教主義の保育を行っているが、ここに幼児を通わせている親はみんながみんなクリスチャンではない。神社でばっさばっさとやってほしければやってもらえばいいのである。それを済ませてから教会に来たっていいだろう。これも偶像礼拝というならば、キリスト教側の偶像礼拝の取り違えである。「偶像礼拝」とは、私たちが普遍的に持っている金銭への執着など、神に勝って愛を注ぐことがあってはいけないという、自戒を込めた戒めである。七五三に神社に行くのが偶像礼拝とは言えないであろう。まあ、難しいことは抜きにして、この日は、午後のこども祝福式は教会学校副校長のオカブが代役で千歳飴ならぬ、お菓子の袋詰めを渡す係り。
しかし、こどもはみな可愛いものである。無垢なこどもを前にして、つまらない煩悩に惑わされた自分を反省。
声あげてまろび駆けるや七五三 素閑