「ヒゲの大先生」といえば、ポカが有名である。
升田幸三九段と言えば、その全盛期に名人・九段(竜王)・王将の三冠王(当時の全冠制覇)になっただけでなく、木村義雄、大山康晴の永世名人2人を「指し込み」に追いこむ、はなれわざを見せた。
「指し込み」とは昔の王将戦にあったシステムで、3連勝や4勝1敗など、スコア的に星3つの差が開くと、勝っているほうが香を落として戦うことになっていた。
サッカーで言えば、
「おまえ弱すぎるから、ハンディやるよ」
とばかりに、1人選手を減らして10人で挑んでくるようなものだ。
「下手」を持たされる側からすれば、屈辱きわまりない制度であり、しかもそこでも升田に敗れてしまった大山(木村は「陣屋事件」のどさくさで香落ち戦は指されなかった)は、「名人」が駒を落とされたうえに負けた、という事実のあまりのみじめさに涙を流したそうだ。
1955年、第5期王将戦の第4局は、升田幸三八段が大山康晴王将(名人)に「香落ち」上手をもって戦うことに。
図は大山に一矢あって、上手の升田が△84桂と打ったところでは優勢になり、以下制勝。
子供のころ「名人に香を引いて勝つ」と抱いた、途方もない夢を本当に実現してしまった。
升田はよく色紙などに、
「名人の上」
と書いたそうだが、
「名人に香を引いて勝つ」
物差しの裏に書き残して家出してきた少年が、まさにそれを実現させるというドラマチックがすぎるストーリー。
将棋界の最高峰である名人の「上」なんて書いてしまうのも、決してケレンやハッタリではなかったわけなのだ。
そんなスーパスター升田幸三だが、意外なことにタイトル獲得数や棋戦優勝回数はさほど多くなく、それこそ一度はコテンパンにのしたはずの大山の総タイトル数は80期だが、升田は7期。
一般棋戦優勝も大山が44勝にくらべて6勝と、相当に見劣りする。
まあ、大山が強すぎたのは今さらとしても、その宿命のライバルだった升田なら、もっと勝っていてもおかしくないのに、永世称号すら持っていないのも意外だ。
なので、升田の称号は今でも「升田九段」であり、一応「実力制第四代名人」ということになっているが、いかにも後付けの呼び名だし、升田自身も好んでいなかったそうだ。
ではなぜにて、「ヒゲの大先生」がその実力とくらべて、実績的に歯がゆいのかと言えば、ひとつは体調面。
若いころ兵隊に行き、南方戦線の激戦地で無理をさせられたため、体を壊してしまった。
また、酒と煙草を好んだ無頼派だったことにくわえて、「高野山の決戦」など大山に勝てなかったことから、そのたしなむ量も爆発的に増えたとあっては、なかなか「絶好調」で対局に挑むとはいかなかった。
そしてもうひとつが、ご存じ「升田のポカ」であって、「高野山の決戦」をはじめ名人戦などでもアッと言うウッカリで、必勝の将棋を落としたりしている。
本人は「楽観」してしまうのを悪い癖だと自戒しているが、実は理由はそれだけではないという声もある。
たとえば、升田を敬愛する河口俊彦八段によると、升田が信じられないミスを犯すのは、
「天才は人と違うことを考えているから」
升田と言えば、画期的な序盤戦術を次々と生み出す天才棋士だが、そういう「創造性」に長けた棋士は、「ふつうと発想が違う」からこそ、「ふつうの手」でいいところで、ついクリエイティビティを発揮してしまう。
それがうまくハマれば「新手」「絶妙手」につながるわけだが、反転すると「考えられないポカ」になると。
升田の言うウッカリの言い訳に、こういうものがある。
「後でやるはずの手を先にやってしもうた」
たとえば、ある局面で桂馬を跳ねて、金を寄って、最後に銀を打つという流れがあったしよう。
そこで大先生はなんと、桂馬跳ねと金寄りを「指したつもり」になって、いきなり銀を打ってしまうのだ。
どんな妙手順でも、順番を間違えれば空中分解するのは当たり前で、「升田のポカ」にはこういう不可解性があるというが、それは単に「そそっかしい」のではなく、「別の風景が見えている」ゆえに、そうなるのだと。
ホンマかいなという話で、そもそも「後に指す手を先に」なんてミスを、実際やるものだろうかという気もするが、これがないこともないから、おもしろいもの。
2009年のC級1組順位戦。北島忠雄六段と広瀬章人五段の一戦。
図は後手玉に詰みがあるが、ここで▲44金と打ったのが、信じられない底抜けで、△32玉まで広瀬投了。
ここでは先に▲44銀と打って、金を後に使えば後手玉は簡単に捕まっている。「金はトドメに残せ」のセオリーにも反して、まったくの意味不明な手順だ。
寄せの名手が見せた、まさに「後に指す手を先に」という【升田のポカ】で、おそらく広瀬は簡単な手順の裏に手が「見えすぎて」つんのめったしまったのだろう。
敷かれたレールの外側にある何かを見つけられる(そしてそれをまた「論理」で再構築できる)人は、ときにその「ひらめき」に裏切られるのだろうか。
このところ「ヒゲの大先生」のことを書きながら、そんなことを思い出してたら、フト、あれそういや、なんか似たようなこと言ってた人がいたんじゃないかと、脳内のアンテナが反応した。
なんだったかなー、たしか先チャンの本じゃなかったっけなー。
そこで電子書籍で買い直した、先崎学九段のエッセイ集をめくってみると、ありました。
序盤で天才的な創造性を発揮する「あの男」の見せるポカこそが、まさに升田のそれと同じであると、先チャンは言うのである。
(続く)
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