映画『ギャラクシー・クエスト』はオタク的にも、コメディとしても一級品

2021年02月26日 | 映画

 映画『ギャラクシー・クエスト』が、おもしろい。

 昨今ではオタク文化といえば「日本のお家芸」といったイメージがあるが、もちろんマニアックな趣味人の世界は、時代東西を問わず存在する。

 そんな「OTAKU」をあつかった物語といえば、日本だと

 

 『げんしけん』

 『トクサツガガガ』

 

 など枚挙に暇がないが、海外でも

 

 『宇宙人ポール』

 『暗黒太陽の浮気娘』

 

 などたくさんあり、この『ギャラクシー・クエスト』もまた、そのひとつなのである。

 主人公は人気SFテレビドラマ『ギャラクシー・クエスト』に出ていた俳優たち。

 すでに放送終了から20年も経っているのに、そのカルト的人気はおとろえず、今でも様々なイベントが開催されるほど。

 俳優たちは往年の衣装を着て、劇中の名セリフを朗読したりして喝采を浴びているのだ。

 ところが、彼ら(ひとりは女優)の現状はといえば正直、役者としてはサッパリ

 いわば『ギャラクシー・クエスト』での仕事は「一発屋の営業」というか、皆食うためにイヤイヤだったり、倦怠だったりして、完全に「お仕事」としてやっているわけなのだ。

 宇宙人のアレクサンダーは劇中の決めセリフを言うことを、かたくなに拒否し、ヒロインのグエンは演技より「オッパイのでかさ」しか語られないことに、ウンザリしている。

 かわいかった子役の黒人トニーも、今では「ふつうの大人」でしかないし、『プロテクター号』艦長のジェイソンは、ドラマの中と違いヘラヘラしてるが、ファンが自分のことを陰で、

 

 「過去の栄光にすがるイタイ奴」

 

 嘲笑しているのを知り、ショックを受ける。

 そんなパッとしない二流の役者たちが、ある日突然サーミアンという宇宙人の船に連れていかれることから、話が大きく動き出す。

 嘘をつくという概念がなく、すべての物事を「本当のこと」と受けとめるサーミアンたちは、なんと『ギャラクシー・クエスト』を「本物のドキュメンタリー映像」と解釈。

 クルーたちの、勇気あふれる戦いに感動し、

 「あの人たちの手を借りよう!」

 なんと悪の宇宙人サリスを、やっつけてくれと頼んでくるのだ!

 ムチャクチャな展開で、こんなアホ気な設定をどうやって進行させていくのかとあきれる思いだったが、この映画、それを見事な脚本でさばいていくのだ。

 まず、クルーたちが

 「オレたちは宇宙船の操縦なんて、できない!」

 とうったえると、

 「大丈夫、あなたたちが使いやすいように、映像のままの仕様に作ってある」

 つまり、役者たちがセットで演じたように、ボタンを押せばテレビでやってたままビームが出るし、「全速前進!」とレバーを上げれば宇宙船は操縦できる。

 その他、廊下の長さからトイレの位置まで、すべてドラマ通り。

 これなら、『ギャラクシー・クエスト』を見てたら、だれでも操縦できるやんけ!

 これには腹をかかえて爆笑するとともに、えらいこと感心してしまった。

 なーるほど、こりゃだいぶ、脚本練ってるやないかいな。

 とにかくこの映画、設定的な乱暴さを、すべてこういう手順で納得させていくのがお見事。

 SF的な「文明間の齟齬」が、巧みに設定リンクさせてるの。いやー、うまいですわ。

 さらには、そういう噛み合わなさと、オタク的発想がギャグとしても次々飛び出す。

 たとえば、ジェイソンとグエンが船内を冒険するときも、やたらと危険な障害物があれこれ出てきて、

 

 「なんでこんなものが船内にあるの?」

 「ストーリーを盛り上げるためだよ。意味なんてない」

 「その回の脚本を書いたヤツ、絶対殺してやる!」

 

 みたいな、やり取りがあったり。

 反炉心を停止させるボタンを押すが、何度やっても反応せず、すわ、お終いか!

 覚悟を決めたところ、「1秒」の表示でピッタリ止まったり、といった「お約束」とか。

 なんで自分が乗ってる船に、乗組員を殺そうとする罠があるのか、なぜあらゆる危険なボタンは、押してすぐ反応しないのか。

 もちろん、これらはストーリーを盛り上げるため、ドラマ本編で脚本家がいい加減に書いたものを、サーミアンが忠実再現してるのだ!

 なんという余計なお世話で、グエンがブチ切れるのも納得だが、もしそうでなかったらメンバーは宇宙船を操縦できなかったんだから、しょうがないよねえ。

 トドメに笑っちゃうのが、船内をリモートで案内するのが『ギャラクシー・クエスト』の大ファンである、イケてない青年ブランドンなこと。

 なぜ彼がナビをするのかと問うならば、オタクの彼はクルーたちのだれよりも『プロテクター号』のことにくわしいから。

 一方の出演者たちは、ファンほど自分たちのドラマに思い入れもないから、オンエアをまともに見ていないわけで、船内の構造なんて、なんの知識も興味もない!

 これまた洋の東西や時代を問わない

 「伝説の作品あるある

 であって、元ネタの『スター・トレック』にかぎらないわけだが、「わっかるわー」と、もう爆笑に次ぐ爆笑。

 それこそ、『ルパン三世』次元大介を演じておられた小林清志さんも、

 

 「ファンの方から、よく次元の思い出を聞かれるんですが、昔の仕事なんで、よく覚えてないんです」

 

 インタビューで困ったように答えられてましたが、たしかにわれわれは好きな作品を何回、ときには何十回と鑑賞したりするけど、むこうは

 「仕事で1回

 なんだから、そこに温度差が出るのは、やむを得ないのであるなあ。

 『ギャラクシー・クエスト』は、このようなファン心理やオタク心をくすぐるネタがてんこもりで、もう楽しい、楽しい。

 以前、『蟲師』などで知られるアニメ監督の長濱博史さんが、

 

 「『機動戦士ガンダム』を見たときの感動はね、あー、あのガンダムの胸のギザギザは排気口なんだ。あー、あの額の穴はバルカン砲で、横の出っ張りに弾が入ってるんだって。

 そうやって見た目の違和感を、次々と説明してくれることなんだ。冨野さんに言いくるめられる快感なんだよ!」

 

 なんて『熱量と文字数』で熱く語ってましたけど、まさに言えて妙。

 私も『ギャラクシー・クエスト』のおもしろさは、この「つじつまを合わせる」楽しさ、「いいくるめられる」快感にあった。

 そんな風呂敷広げて、そうたたみますか、と。ピタゴラスイッチ的ニコニコ感、とでもいいますか。

 それはもうですね、やはり制作人による愛憎入り混じった「オタク愛」と、しっかり練られた脚本の力が大きい。

 しかも、クライマックス付近では、役者たちのトホホな人間性や、劣等感、ドラマのマヌケ設定が、すべて伏線回収で「感動」に転化されるのだからスバラシイ。

 観て思ったことは、日本のエンタメ映画の弱さは、まさにこの「構成力」の不足にあるのではないか。

 とりあえず演技のヘタな役者と、「説明セリフ」と「浪花節」に頼ったフニャフニャのストーリーはもうウンザリ。

 めんどうかもしれないけど、地道に脚本を練る作業を、もっと重視してほしいなあ。

 『カメラを止めるな!』が当たったのとか、まさにそこだと思うんですよ。

 


 

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シュレディンガーの悪手 米長邦雄vs脇謙二 1992年 第5期竜王戦1組決勝 その3

2021年02月23日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き。

 1992年の第5期竜王戦、ランキング戦1組決勝。

 死闘となった、米長邦雄九段脇謙二七段の一戦も、いよいよクライマックス。

 

 

 

 

 図は▲44香と飛車を取って、下駄をあずけたところ。

 先手玉は△45銀から自然に追っていけば捕まりそうだが、▲55玉から、▲64▲75とスルスル抜ける筋には、気をつけなければならない。

 まさに詰むや詰まざるやで、いよいよ決着がつく場面。

 ……のはずだったが、ここで脇の指した手が、信じがたい一着だった。

 

 

 

 

 

 

 △44同歩と取ったのが、度肝を抜かれる手。

 

 「詰ましてみろ! ただし、詰ましそこなったらゆるさんぞ」

 

 脅しをかけられたところで、なんと詰ましに行かないどころか、


 
 「そっちこそ詰ましてみろ!」

 

 居直ってきたのだ。

 冷静に考えて、ふつうはこんな手は指せない。

 先手玉はいかにも詰みそうなのに、ここで手番を放棄して、それで自玉が逆に詰まされでもしたら、アホみたいである。

 なら、読み切れなくても、王手ラッシュをかけそうなもので、その過程で詰みを発見できるかもしれず、実戦的にはなにか王手しそうなものだ。

 そこを堂々の△44同歩

 色んな意味で、シビれる一着。松田優作演じる、ジーパン刑事でなくとも「なんじゃこりゃあ!」ではないか。

 この将棋は米長が、雑誌の自戦記で取り上げていたが、やはりこの△44同歩には、たまげたそうである。

 「詰ましてみろ!」とせまって、米長からすれば、すでに勝負は終わっている

 あとは脇が詰ませれば「お見事」と頭を下げ、しくじれば「いや、運が良かったね」となる。

 ここが実戦のアヤで、つまりは▲44香と取ったところで、米長はいったんスイッチを切っていた。

 なんたって、負けるにしろ僥倖に恵まれるにしろ、どっちにしても先手にはもうすることがない。

 後手が「詰ますか、詰まし損なうか」。

 これを待つだけなのだ。まな板の鯉である。

 ところが、その状態で、まさかの「もう一手、指してください」との要求。

 これに米長はパニックにおちいってしまった。

 そして、敗着を指してしまう。なんと▲55玉と上がってしまったのだ。

 

 

 

 これはまったく1手の価値がなく、後手玉にせまってないどころか、自玉の詰めろも解除できていない。

 ここで脇は落ち着いたのか、△54歩と打って、今度こそ捕まえた。

 以下、▲64玉△42角と王手して、▲75に逃がさないのが、当然とはいえ好手。

 しょうがない▲73玉に、△82銀から簡単な追い詰みだ。

 こうして脇が見事1組優勝を決めたのだが、それにしても何度見てもすごいのが、この△44同歩という手だ。

 結論から言えば、この手では△45銀と打って詰みがあった

 ▲同玉△47竜から、本譜と同じ△42角と使う筋である。

 

 

 つまり、もし負けていたら△44同歩敗着ということになる。

 では、先手に勝ちがあったのかといえば、実はこれもあった

 ▲91飛と打って、△81合▲72歩からバラして、▲73金という筋で、後手玉は詰みだった。

 

 

 そう、米長は

 

 「詰ましてみろ! ただし詰まなかったらゆるさんぞ」

 

 と手を渡したのだから、詰まさないなら「ゆるさん!」と、斬りかかればよかったのだ。

 それで先手が勝ちだった。あの△44同歩は、やはり悪手だった。

 それも詰みをのがして相手に手番を渡し、それで自玉が詰むという、「ココセ(相手に「ここに指せ」と指令されたような悪い手のこと)」級のウルトラ大悪手だったのだ!

 ロジカルに考えれば、詰みを逃した△44同歩は脇の大失策だ。

 なにか錯覚があったか、米長相手に手番を渡されて、「本当に詰むのか?」と疑心暗鬼におちいったのかもしれない。

 そこで△44同歩と取る。

 それは読み切れず落胆したのか、それとも開き直ったのか。

 はたまた脇謙二のことだから、勝つにはこれしかないと根性入れたか。

 これが大山康晴十五世名人なら、自玉の詰みを発見しながら、それでも平然と香を取ったかもしれない。

 この手が、米長の思考を破壊した。

 一度オフにしていたエンジンを、もう一度臨戦態勢にするのは、に追われていては至難である。

 そこで本来なら指すはずだった「ゆるさん」を選べなかったのだから、まったく人のやることというのは、思う通りに行かないもの。

 仮に読むことはできなくても、「とりあえず王手」しておけば、それでもよかったのだ。

 志の低い発想かもしれないが、とにかくそれで手番を渡さなければ、すぐ落ち着きを取り戻し勝てたろう。

 その簡単なことを、数えきれないほどの修羅場を経験した、米長ほどの大棋士ができなくなるのだから、なんともおかしなものではないか。

 何度も言うが、△44同歩は大悪手だった。

 だがそれが、結果的には米長の論理的思考を阻害し勝着となるとは、まったく筋が通らず、道理が破綻していて、まだ中学生くらいだった私は思ったわけである。

 

 なんて、おもしろい将棋なんや!

 

 △44同歩と▲55玉。

 この2手の間の数十秒には気迫落胆執念諦観居直り安堵焦燥未練驚愕……。

 様々な感情が、ものすごい密度でまじりあい、ありとあらゆる「言語化不可能な感情」が、うず巻いたはず。

 その一瞬奔流こそが、まさに人間同士の戦いの醍醐味なのであり、将棋というゲームの麻薬的な魅力なのである。

 

 


  (斎藤慎太郎の華麗な攻め編に続く→こちら

 (脇謙二と中村修の熱戦は→こちら

 
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シュレディンガーの悪手 米長邦雄vs脇謙二 1992年 第5期竜王戦1組決勝 その2

2021年02月22日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き

 1992年竜王戦、ランキング戦1組決勝。

 米長邦雄九段脇謙二七段の一戦は、横歩取り△33桂戦法から大熱戦に。

 

 

 

 図で▲54馬と引いたのが、米長のねらっていた妙手。

 ▲72馬からの詰みと、王様が▲46の地点に逃げたとき、後手から△45金と打つ手を消した「詰めろのがれの詰めろ」になっている。

 あざやかな一手で、米長快勝かに見えたが、ここですごい返し技があった。

 


 

 

 

 △67馬と入るのが、盤上この一手の見事なムーンサルト。

 こうして△45に利かしておけば、先手玉が▲46に逃げたとき、△45金▲同馬に、△同馬と取り返して詰ますことができる。

 さらには▲72馬、△同玉、▲83と、とせまられたとき、王様が△74から△85に抜けるルートを作っている。

 先の▲54馬が「詰めろのがれの詰めろ」なら、続く△67馬はそれを逃れての詰めろ。これすなわち、

 

 「詰めろのがれの詰めろのがれの詰めろ」

 

 という、ちょっと舌を噛みそうな、満塁ホームラン級の絶妙手だったのだ。

 まさに1組決勝にふさわしい見事な応酬だが、ここは脇が大豪米長に読み勝っていた。

 こんなものを食らっては、さしもの米長も負けを認めざるを得ないが、もちろんあっさりと勝負を投げてしまうわけではない。

 そう、なんといっても米長は「泥沼流」とよばれる男。

 局面はまいっているが、そんな簡単には楽をさせてくれないのだ。

 ▲72馬と取って、△同玉に▲83と、△同玉、▲94銀、△同馬、▲同香と、を消して、一回詰めろを解除する。

 

 

 

 これでまだ難しそうだが、脇の次の手が、また好手だった。

 

 

 

 

 △25桂と王手するのが、うまい手。

 ▲46玉△24角王手飛車で、やはり後手勝ちはゆるがない。

 ちなみに、王様を▲26に上がっても△15角と、こちらから打つ筋があって同じようなもの。

 さっきまで桂馬は、△45金と打って詰ます筋の土台になっていた駒だから、それをヒョイと跳ねてしまうのは、ちょっと気づきにくい。

 脇の柔軟な発想が感嘆を呼ぶ手で、こんなクリティカルヒットを2発ももらっては、さすが剛腕米長もなすすべもない。

 ▲35歩△51角▲86桂としばって「どうにでもしてくれ」と開き直るくらいしかない。

 

 

 

 後手は△44飛と打って、仕上げにかかる。▲45香△48竜

 いよいよ先手に受けがないから、▲74金から▲83角と王手して、せまるだけせまって▲44香と飛車を取る。

 

 

 

 いわゆる「下駄をあずけた」という手であって、

 

 「詰ましてください。ただし、やり損なったらゆるしませんよ」

 

 という局面。

 これが大事なところで、仮に負けは確定でも、相手にプレッシャーをかけながら、一縷の望みをたくす精神力は見習いたいところだ。

 ではここで、先手玉に詰みはあるのか。

 あれば文句なく後手が勝ち。

 パッと見は、ほとんど詰みそうだが、万一なければ、飛車を渡してしまった後手玉も相当に危険だ。

 さらには両者とも、難解な戦いが続いたせいで、時間もなくなっている。

 詰むや詰まざるやで、いよいよこの熱戦もフィナーレをむかえるかと思いきや、ここからが、この将棋のハイライト第2弾

 次の手が、またしても米長が読んでいない手。

 それも、先の△67馬とはまったく違う意味での、ちょっと信じがたい一手だったのだ。

 

 (続く→こちら

 

 

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シュレディンガーの悪手 米長邦雄vs脇謙二 1992年 第5期竜王戦1組決勝 

2021年02月21日 | 将棋・名局

 将棋の魅力、その本質は「悪手」「フルえ」にこそある。

 数年前、将棋ソフトがトップ棋士を、完全に超えるような内容で倒してしまったとき、

 

 「もはや人の指す将棋など、だれも見向きもしないのではないか」

 

 という恐れを誘発したが、私はそれに対して、

 

 「そっかなー?」

 

 いまひとつピンとこなかったのは、人の指す将棋の魅力はその「不完全性」にあると思っているからだ。

 という話を、こないだしたんだけど(→こちら)、なんで今さら、そんな旬でもないAIについて語ったかと言えば、実はこれがやや長めの前振り

 本題なのは今回の将棋で、これこそがまさに、

 

 「人の指す将棋のおもしろさ」

 

 このエッセンスが、ギュッと詰まっているなと感じられるから。

 前回はA級昇級記念に、山崎隆之八段の巧みな受けを紹介したが(→こちら)、今回はそういった人同士の戦いで見える「実戦心理」について見ていただきたい。

 

 1992年の第5期竜王戦、予選1組決勝。

 米長邦雄九段脇謙二七段の一戦は、後手番の脇が横歩取りの、△33桂型に誘導。

 

 

 ややマイナーだが、当時脇はこの形を得意にしており、現在再評価の進んでいる矢倉▲46銀型の「脇システム」と並ぶ、トレードマークのような戦法だったのだ。

 そこから両者じっくりと組み合い、相振り飛車のような形となるが、米長が仕掛けてペースを握っているように見える。

 

 

 

 △85馬と攻防に引いた手に、▲74歩が好手。

 △同馬とすれば、馬が攻めに利かなくなり、▲32飛成を取るくらいで優勢。

 脇は△55銀と取って、▲同馬△49金とせまるが、ここで▲64馬と王手できるのが先手の自慢。

 

 

 

 受けるには△73香と合駒するしかないが、歩打ちの効果で、▲同歩成とボロっと取れる。

 こんな屈辱的な手を強制できれば、気分的には先手必勝と言いたいところだが、そこから勝ちに結びつけるとなると、また大変なのは、皆様もご存じの通り。

 米長も優勢は意識しながらも、意外とむずかしいぞと、しっかり腰を入れて読み直す。

 ▲73同歩成、△同桂に、▲93銀と打ちこんでせまり、むかえたこの局面。

 

 

 先手玉は△48竜、▲同玉、△49馬から詰む「一手スキ」になっている。

 一方の後手玉はまだ詰まない上、先手陣にうまい受けも見当たらない。

 すわ! 逆転か! と思いきや、ここで米長にねらっていた手があった。

 

 

 

 

 

 ▲54馬と引くのが、米長一流の必殺手。 

 次に▲72馬、△同玉、▲83と、からの一手スキ

 と同時に、後手が△48竜、▲同玉、△49馬、▲37玉、△38馬などとせまってきたとき。

 そこで▲46玉に、△45金と打つ筋を▲同馬と取れるようにした、いわゆる、

 「詰めろのがれの詰めろ

 になっているのだ。 

 最終盤でこんな手が飛び出しては、普通なら先手の勝ちは決定的である。

 米長も当然それを確信していたが、そこにまさかの落とし穴があった。

 米長はその次の、脇の手が見えていなかったのだ。

 ここが、この将棋のハイライト第1弾

 まさにこれぞプロの妙技、とため息をつきたくなる華麗な手が交錯するのを、まずは味わってほしい。

 

 (続く→こちら

 

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「勇気」の価値は ジョー・ウォルトン『ファージング』三部作 『英雄たちの朝』『暗殺のハムレット』『バッキンガムの光芒』

2021年02月18日 | 
 ジョーウォルトンファージング』三部作を読む。

 舞台は1949年。第二次大戦終結後、すぐのイギリス

 といっても、これは我々の知る


 「アメリカ、イギリス、ソ連などを中心とした連合軍がドイツ(&日本)に勝利した戦後」


 という教科書で習うそれではなく、この『ファージング』三部作による「戦後」とは、

 「ドイツの副総統ルドルフヘスによる講和工作の成功により、イギリスドイツ和平を結んだ世界」
 
 有名なところではフィリップ・K・ディック高い城』や、クリストファー・プリースト双生児』に代表される、
 
 
 「第二次大戦でドイツが勝利(に近いもの)をおさめた」
 
 
 という歴史改変もの作品になっているのだ。 

 この世界ではアメリカは第二次大戦に参戦しないどころか、親独チャールズリンドバーグ大統領になっていたりしている。
 
 ソ連とドイツは、いまだ東部戦線で殺し合いをしていて、「クルスクの戦い」をあつかった映画に、ハンフリーボガートが主演したり。

 われらが大日本帝国も「東亜共栄圏」(イギリスとやりあってないので領土を分け合っているから「」ではないらしい)で、ブイブイいわしたりとか、そういう時代なのである。

 この『ファージング』三部作に共通している構成として、語り手が2人いることがあげられる。

 まずシリーズを通しての主人公であるカーマイケルは、スコットランド・ヤードの刑事

 イギリスを対独講和に導いた「ファージング・セット」と呼ばれる貴族政治家など、上流階級で起こった殺人事件の捜査を担当することから、政治的陰謀に巻きこまれていくことに。

 一方、そのペアとなる語り手は、これがすべて女性

 『英雄たちの朝』のルーシー、『暗殺のハムレット』のヴァイオラ、『バッキンガムの光芒』のエルヴィラ

 3人とも、自身が深くかかわっている上流階級の社会に違和感を感じ、自分の人生を自分で選択したい、という強い意志を持っている。

 性格こそ違えど、そこはかなりハッキリと設定的にトレースされており、もしかしたら作者であるジョーウォルトンの性格や思想が、大きく投影されているのかもしれない。

 そして、この3人のもう一つの共通点は、


 「最初は政治に興味などなかったのに、それぞれの個人的な出来事がきっかけに、いやおうなく政争にかかわらざるを得なくなっていく」

 
 『英雄たちの朝』における、いっそ能天気ともいえるルーシーのパートでは、迫害の度合いが増しつつある、ユダヤ人を夫に持ったがゆえ。

 舞台女優のヴァイオラは、主演に抜擢された『ハムレット』の舞台上で、なんとヒトラー暗殺の片棒を担がされたことによって。

 諸所の事情でカーマイケルが後見人をつとめるエルヴィラも、オックスフォードへの進学と社交界デビューを控える中、政治犯とのつながりを疑われ、強制収容所(!)送りの危機にさらされる。

 彼女らは、はからずも関わることとなった事件から、徐々に「覚醒」していくのだが、読んでいて恐ろしいのは、


 「全体主義に染まっていくイギリス」


 これへの変化が静かに進行し、やがては後戻りできなくなるところまで行く過程だ。

 そう、「歴史」を知っているわれわれからすると、ナチズム同化していくイギリスの姿は危険であり、それだけでもドキドキするが(まあ、現実の英国もどうやねんとは思いますが)、当の本人たちは案外とそれを受け入れるし、もし違和感を感じたとしても、対抗する術もない。

 実際、カーマイケルも3人の女主人公も、政治的なかかわりに無知だったり面倒がっているし、エルヴィラに至ってはこんなセリフすら口にする。
 
 
 「ファシズムに逆らうのはよくないことでしょ?」
 
 
 そのへんの危機感のなさも、『バッキンガム』の解説で書かれいている作者の問題意識が、深くかかわっているのだろう。
 
 もしかしたら主人公たちの考え方の遍歴こそが、「かつてのジョー・ウォルトン」だったのかもしれない。
 
 いつの間に、世界はこんなことになってしまっているのか。その間自分は何をやっていたのか、と。

 昨今の世界情勢化を鑑みれば、あの国もこの地域も、もちろん日本も他人事でないところがリアルであり、考えさせられるところでもある。

 気がつけば、事態は対処不能なほどに悪化しており、無辜の市民も、いつの間にか他人事ではなくなる。
 
 歴史書をひもとけば、人は何度も何度も同じパターンを繰り返しているが、21世紀になっても、やはり似たようなことをくり返していく。
 
 そして、その責任はだれあろう「われわれ」にもあるのだ。
 
 3人の女性の変化を通じて、そうジョー・ウォルトンは突きつけてくる。

 ……なんて書くと、ずいぶんとお堅いというか、マジメな内容ではないかと腰が引けることがいるかもしれないが、これが案外とそうではない。
 
 このシリーズは三部作を通して、サクサク読める上質のエンターテイメントに仕上がっており、そんな設定の暗さをまったく感じさせないのだ。

 「ある秘密」ゆえに権力側に利用され、泥水を飲まされる羽目におちいったカーマイケルは、その知恵正義感によって、密かなレジスタンスを開始する。

 ルーシー、ヴァイオラ、エルヴィラも元は決して、たくましいヒロインではない。
 
 自意識こそ、同時代の平均的女性よりは強いかもしれないが、それぞれがそれぞれに、「若い娘さんの無思慮」を持った、等身大の女性にすぎないのだ。

 それでも彼女たちもまた、自身が不条理にさらされたとき、大きな決断をする。
 
 それはきっと、アントニオタブッキが『供述によると、ペレイラは……』で描いた「たましい」のためだ(それについては→こちら)。 
 
 リーダビリティーが高く、疾走感あふれる文体に、魅力的な設定とキャラクター

 紆余曲折に数々の悲劇もあるも、最後はあざやかで希望にあふれた収束。
 
 シメはちょっと出来すぎではというか、「そこにまかせて大丈夫?」という気もするけど、いかにも「大団円」と呼ぶにふさわしい大物もからんできて、エンタメ的にはこれでいいでしょう。

 ミステリ好きに歴史好き、また「の時代」に違和感を感じている人も皆、『ファージング』三部作は、とってもおススメです。
 
 
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玉の早逃げ八手の得 山崎隆之vs先崎学 2011年 竜王戦

2021年02月15日 | 将棋・好手 妙手

 山崎隆之八段が、A級に昇級した。

 独創性あふれる山崎将棋のファンである私は、この結果に大いに浮かれて、

 

 「来年には山崎名人か。で、糸谷棋王とタイトル戦で【師弟対決】やな」

 

 なんてニヤニヤしている。

 なんという先走りと笑う向きもいるかもしれないが、本来なら山崎の才能は10年前、とっくに名人になっていても不思議ではなかったのだ。

 前回は山ちゃん、A級でもがんばれということで、新人王戦初優勝を遂げた一戦を紹介したが(→こちら)、今回も引き続きで魅力的な山崎将棋を。

 

 「玉の早逃げ八手の得」

 

 というのは、実に有用な格言である。

 実際のところ、8手も得することはないわけだけど、早逃げ自体、その意識があるだけで自陣の耐久力が相当変わってくるという、テクニックのひとつ。

 そもそも終盤は「一手違い」と言われるように、最後には本当に1手だけ稼げればいいわけで、を使わず受けることのできる強みもあり、タイミングをマスターすれば勝率アップは間違いなしなのだ。

 ということで、今回はそのお手本を見せてもらおうと、2011年の竜王戦。

 先崎学八段山崎隆之七段の一戦から。

 山崎といえば人マネを嫌う棋風で、駒組の段階から、たいてい見たことのない形になるが、この将棋も序盤から波乱含みで、盤上はこんな感じに。

 

 

 

 山崎得意の相掛かりから、後手の先崎が横歩を取って、気がついたらこんな大嵐。

 まだ39手目なのに、おたがい居玉ままができて、▲53(△57)に、と金もできそうとか。

 コント55号ではないが、「なんでそうなるの?」と言いたくなる大乱戦

 先手をもって生きた心地はしないが、後手も飛車角のみの攻めなのと、途中△52歩とあやまらなければならなかったり、ちょっと息切れしているよう。

 受けの強い山崎が、しのぎ切っていたようで、むかえたのがこの局面。

 

 

 

 △48竜までの一手スキになっているが、受けの強い人なら次の手は一目かもしれない。

 

 

 

 

 ▲28玉が、まさに「玉の早逃げ八手の得」。

 △48竜▲38銀くらいで、詰めろが続かない。

 先崎は△48金とさらにせまるが、すかさず▲18玉

 

 

 これで、やはり寄りはなく、ピッタリ受かっている。

 △39金くらいしかないが、▲28飛とガッチリ受けて後続はない。

 

 

 

 

 以下▲77馬から▲58角と、を詰まして先手勝ち。

 

 

 

 

 まるで作ったような手筋の連発で、あの危ない玉がスッスとふたつにすべっただけで安全になる、というが不思議なものだ。

 「玉が露出してからが強い」山崎隆之の、面目躍如ともいえる終盤戦であった。
 


 (脇謙二と米長邦雄の「人間らしい」終盤戦編に続く→こちら

 

 

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柘植文『野田ともうします』に見る「おもしろく間違う」の好例 アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』のマグロのお刺身編

2021年02月12日 | 映画
 「おもしろく間違っている人」と話すのが楽しい。
 
 という話を先日したわけだが(→こちら)、小説や映画の感想をあれこれしゃべっていて、「正しい解釈」を語るよりも、
 
 「ズレていても、その人にしか思いつかない視点」
 
 これを見せてくれる人の方が、圧倒的に興味を惹かれるのだ。
 
 私も若いころはそうだったが、どうしても人間は自分のさかしらな知識を披露し、そのプライド自己顕示欲を満たすために、せっせと物語の「テーマ」「メッセージ性」などを探し、アピールすることに血道をあげてしまう。
 
 だが実際のところは、そんなもん聞かされても、退屈でめんどくさいことが多いし、中身もうすく、的外れなことがほとんどだ。
 
 そういうものは、玄人の映画評論家や書評家にまかせておいて、われわれはもっとフリーダムにやってもいいのでは。
 
 経験的に見ても
 
 「それ絶対に鑑賞ポイント間違ってるけど、オレには絶対に思いつかん発想やわ」
 
 という「間違った」意見の方がよっぽどか参考になるし、その人となりが伝わるものなのだ。
 
 その好例を、今回ここに紹介してみたい。
 
 ドラマ化もされた、柘植文先生『野田ともうします』の1シーンで、
 
 
 
 
 
 
 
 
 これですよ! これ、これ!
 
 この野田さんによる、読みどころのはずし方がすばらしい!
 
 あのヘミングウェイの名作といわれる『老人と海』を捕まえて、
 
 
 「マグロの刺身がうまそうじゃない」
 
 
 とは、独自が過ぎるではないか。
 
 しかも「主人公に共感できません……」とうなだれるとか。
 
 そんなに大事か、マグロの刺身
 
 さらに彼女が偉いところは、
 
 「巨大魚との戦いの過酷さ」
 
 という本質をしっかりと読み取ったうえで、「だとしても」と間違っていること。
 
 この「一回、知性が乗っかった」うえで、わざわざ「そっちかよ!」と意表をつきまくる。
 
 つまりは「頭のいい誤読」なのだ。
 
 もっと言えば、すべてが本気なのがいい。こういうところで、
 
 
 「オレはちょっと、ナナメの視点からモノを見れるセンス系の人間」
 
 
 というアピールをされると、冷めることはなはだしい。
 
 ウケねらいではダメなのだ。そこに「熱き魂」があってこその、おもしろい間違いである。
 
 その点、野田さんの解釈、エド・ウッド風に言えば「パーフェクト!」
 
 私もこれから海外文学に接するときは、
 
 
 「文学における和食的美味の視点」
 
 
 これを忘れずに、その妙味を味わってみたいと思う。
 
 
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A級順位戦まで何マイル? 山崎隆之vs北浜健介 2000年 第31期新人王戦決勝 第3局

2021年02月09日 | 将棋・名局

 山崎隆之八段が、A級に昇級した。

 山崎隆之といえば、奨励会時代から次期関西のエースと期待されていた男。

 「中学生棋士」こそ逃したが、17歳でデビュー後も新人王戦NHK杯で優勝など、各棋戦で勝ちまくって、その評判に偽りがなかったことを証明した。

 となればあとは、A級八段とタイトル獲得まで一直線と思われたが、ここで意外な苦戦を強いられる。

 まずタイトルへの道が遠く、2009年の第57期王座戦で初めて檜舞台に出るも、羽生善治王座を相手に3連敗のストレート負け。

 また順位戦も、なぜか13年B級1組に定着してしまい、山崎隆之の才能を知るものからすれば、まさに「なんでやねん」な状態であったのだ。

 それがやっと、ようやっと、まずはA級に昇ることができた。

 もちろん、独創性あふれる山崎将棋のファンとしては、これだけで満足などできるわけもなく、次はタイトルをねらってほしい。

 これは高望みではなく、本来なら常時タイトルのひとつやふたつ、持っていてもおかしくない器なのだ。

 前回は羽生善治久保利明に見せた、驚異の一手パス&絶妙手のコンボを紹介したが(→こちら)、今回はA級昇級記念に、復活を遂げた山ちゃんの若手時代の将棋をどうぞ。


 2000年の第31期新人王戦で、決勝に進出したのは24歳の北浜健介六段と、19歳の山崎隆之四段だった。

 関西の若手ホープである山崎だが、早くにB2まで上がって、すでに六段の北浜はなかなかの強敵。

 山崎が先勝するも、北浜も1番返してタイに。

 決戦の第3局は、山崎先手で角換わり腰掛銀になって、むかえたこの局面。

 

 

 

 中央でが交換になったところ。

 後手は次に△36歩がねらい。

 ▲35角としても、△53銀打としっかり受けられて、さほどの効果はない。

 受けにくいように見えたが、実は後手陣にはそれ以上の不備があり、山崎はそれを見逃さなかった。

 

 

 

 

 

 

 ▲84銀と打つのが、スルドイB面攻撃

 これが△93香取りと、▲73銀成の両ねらいで、後手の駒組をとがめている。

 まるで、羽生善治九段の得意とする、攻め駒を責める「羽生ゾーン」のようだ。

 北浜は△55銀と受けて、▲35角△61飛とかわすが、そこでタダのを取らず▲83銀不成がおどろきの一手。

 

 

 

 ここでは▲56歩と突いて、先手が指せていたそうだが、山崎には逆方向から攻めるねらいがあった。

 △36歩の反撃に、▲25桂と逃げて、△37歩成。そこで▲72銀不成

 

 


 も、タダで取れるも取らず、グイグイと不成の進撃。

 まさに「銀は千鳥に使え」で、ここで△48と、と攻め合うのは▲61銀不成から先手が速いから、一回△62飛とする。

 ▲同角成、△同金、▲71飛と王手してから、△22玉に一回▲18飛と逃げ、後手も△27と、と追っていく。

 

 


 この局面、北浜は「指せると思っていた」と言い、控室の検討もそれに同意。

 さもあろう、△27と、に▲48飛と逃げ回るようでは、△37と、から千日手にされそう。

 また、勝ちに行くなら強く△26と、から上部を根こそぎにしてしまう選択肢もあるのだ。

 先手は手数をかけて使ったが、やや中途半端な存在どころか、下手すると質駒として、好機に取られてしまうかもしれない。

 先手難局を思わせたが、ここで山崎が見事なワザを見せるのだ。

 

 

 

 

 ▲83銀成とひっくり返るのが、だれも予想できなかった、すばらしい駒の活用。

 一見、駒が後ろに下がる、もっさりした手のようだが、▲25上部を押さえているこの一瞬は、次に桂馬を取って▲34桂と打つ筋が、すこぶる速いのである。

 なんと、この軽快なのステップ一発で、すでに後手から勝ちがなくなっている。

 △18と、とタダ同然で飛車を取れるが、▲34桂の投げ縄が強烈すぎて、その程度の得ではどうにもならない。

 それでも、後手は飛車を取るくらいしかないが、▲73成銀と取って、△38飛の攻防手にも、悠々と▲62成銀を補充。

 飛車を打ったからには、後手も△58飛成と取り返したいが、その瞬間に▲34桂が、やはり激痛どころか、後手玉は詰んでしまうのだ。

 △24歩と受けるしかないが、山崎は落ち着いて▲52成銀

 △31銀と逃げるも、▲41成銀とすり寄って、いよいよ後手に受けがない。

 

 

 

 それにしても、あざやかなのが山崎の銀使い。

 ▲84銀と打ってから、▲83、▲72、▲83、▲73、▲62、▲52、▲41と大遠征を果たす活躍。

 しかも▲83から、▲72▲83一回転しているのだから、その美技にはほれぼれする。

 その後も山崎は、ゆるまぬ攻撃で後手を圧倒

 優勝を目前にして投げきれない北浜も、懸命に抵抗したが、最後は緩急自在の寄せの前に屈した。

 これで2勝1敗となり、山崎四段が新人王戦初優勝

 このころはまさか、こんなにB1で足を取られるとは、思いもしなかったものだ。

 まあ、時間こそかかったが、一回上がってしまえば、あとは取り戻すだけ。

 A級でも、ぜひこのころのような勢いがあり、かつ人がアッとおどろく将棋を見せてほしいもの。

 山ちゃん、アンタならできる!

 マジで期待してますぜ。

 

 (山崎隆之の「玉の早逃げ」編に続く→こちら

 

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「悪手」「フルえ」こそ人間の将棋のおもしろさ 将棋ソフトやAIの出現について

2021年02月06日 | 将棋・雑談

 「将棋AIも、すっかり定着したもんやなあ」

 

 というのは最近の将棋中継を見て、よく思うことである。

 昨今、ソフトを使った研究や「評価値」を参考にしながら観戦するスタイルが当たり前になった将棋界だが、数年ほど前には、ソフトが人間を凌駕した、といっていいような結果を次々とはじき出し、

 

 「プロ棋士の、いやさ人間の指す将棋に価値がなくなるのでは」

 

 なんていう恐れを喚起させた時期もあったもの。

 その後は、AIがあまりに圧倒的になってしまったことや、「藤井フィーバー」のどさくさ。

 また将棋界の象徴ともいえる、谷川浩司九段羽生善治九段が、この問題に関して穏健派だったことなどなどあいまってか、あまりそういうことも聞かなくなったが、私自身は、なぜ一部の人があんなにソフトを否定するような発言をするのか、いまひとつピンとこないところはあった。

 羽生世代の棋士たちがデビューしたころからの将棋ファンで、わりと歴の長い方だと思うが、ソフトに対するアレルギーというのは、まあ、ほとんどないといっていい。

 だから、電王戦でプロ棋士が負けたときも

 

 「へえ、ついにか。すごいなあ」

 

 おどろきこそしたが、まあまあの数のファンが感じたであろう「ショック」というのには無縁だった。

 いやむしろ、

 

 「これでまた、将棋がおもしろくなるかも」

 

 という期待すら抱いたほどである。

 それは私が将棋ファンであると同時に、SFも好きであるからかもしれない。
 
 なので単純に、「棋士が将棋ソフトにかなわなくなった」ことよりも、

 

 「ソフトが人間を超えた先に見える、世界の広がりと、新しい将棋の可能性」

 

 こっちの世界の方が、将棋ファン的にもSFファン的にも、ずっと魅力的に見えたからだ。

 なので、これに関してはプロ棋士の中でもハッキリと、

 「機械の指した手など価値がない」

 なんていう発言する人もいるわけだけど、なんか、それもちょっと狭量ではないかと思ってしまうわけなのだ。

 私も長年将棋を観ているから「プロの矜持」というものに尊敬の念を抱いてはいるけど、もしそれが、

 

 「新たな発見や、他の技術や価値観を受け入れないところにある、せまい世界」

 

 これで担保されているものだとしたら、正直それは、わりとどうでもでいいんである。

 だって、将棋はプロだけのものじゃないんだし。
 
 私はただ、新鮮でエキサイティングな戦いやアイデアを、たくさん見たいだけ。
 
 その発信源はプロでもアマでも機械でも、すべて平等に期待したいわけだから、わざわざ語り手の範囲をせばめる必要などない。
 
 なもんで、
 
 
 「ソフトの将棋は合わない」
 
 「好きじゃない」
 
 「興味がない」
 
 
 なら個人の嗜好だから別にいいけど、「価値がない」という意見には、
 
 
 「いや、そんなことはないっしょ」
 
 
 としか答えられなかった。
 
 好き嫌いは自由だけど、「価値」があるかないかは社会歴史もふくめた、もっと大きなものが、おそらくはゆっくりと時間をかけて判定していくのだから。
 
 そもそも、そういう人って、アランチューリングジョンフォンノイマンといった偉大な先人が残してきた業績も「価値がない」と言うのだろうか。
 
 それはあまりに傲慢だし、他の分野でがんばっている人にリスペクトを欠いている気がしてならない。
 
 「矜持」があるからって、何言ってもいいわけじゃないと、思うわけなのだ。
 
 人が自分の仕事や既得権を侵害されそうになったとき、危機感をおぼえるのは「ラッダイト運動」や「ジョンヘンリー」など歴史の「あるある」だから、「価値がない」とムキになるのも、そんなにおかしな反応ではない。

 ただ私は「羽生世代」によって、古き将棋界がどんどん変えられていく様を見てきた。

 それはおそらく「産業革命」のような歴史の転換期であり、先崎学九段羽生善治九段を評したように、

 

 「七冠王や国民栄誉賞をもらうことより、すごいこと」

 

 その時代の変遷に立ち会う興奮を存分に楽しめた。

 なら、ここでもうひとつ生まれたパラダイムシフトを否定するというのは、筋が通りもしない。

 それでは当時の若い棋士たちがもたらした「新しい時代と将棋」を、理解しようともせず叩いたりバカにしたりした、旧弊な昭和の棋士や評論家と変わらないではないか。

 羽生さんがAIに否定的でないのは、もしかしたら「当時のこと」をおぼえていて、同じ轍を踏んでもしょうがないと感じているからかもしれない。

 そもそもこの手の「新しい技術に対する、なかばヤカラのような嫌悪感」に関しては、

 

 「シャーペンを使うと字がきたなくなる」

 「ワープロを使うと文章が下手になる」

 「ケータイを持つとバカになる」

 「インターネットを介したつきあいなど、本当のコミュニケーションではない」

 

 などなど、山のような「言いがかり」を見てきたから、正直信用できないところもあるしなあ。

 人は新しいものに無条件で警戒心を抱くものだから、それはしょうがないけど(もちろんだってそうですし)、なんだかなあという気分にはさせられた。

 この問題に関しては様々な意見があるし、「変わらない良さ」が将棋という伝統ある遊戯のいいところだとも思う。

 ただ、私は以上のような理由で、ソフトに関してはどれだけ人間と感覚が違おうが、羽生善治や藤井聡太を凌駕しようが、なんとも思わなかったし、これをきっかけに、将棋と将棋界が、どんどん色んな方向に転がってほしいと願っている。

 誤解してほしくないのは、私はソフトに関しては容認派だが、AIが人間より強くなろうとも、決してそれで人の指す将棋の価値が下がるとも思っていないこと。

 なんといっても、人の将棋のおもしろさは「悪手」「フルえ」をはじめとする心の揺れなど、「人の不完全なところ」にこそある。

 ソフトの発達は、むしろそういった

 

 「人間同士の戦いのおもしろさ」

 

 これを再確認させてくれたといってもいいほどなのだ。

 そう、人は完璧ではないからこそ、そこにドラマが生まれる。

 今期の竜王戦第3局や、羽生善治九段と佐藤康光九段A級順位戦のように。

 どんな超人でも、決して逃げられない人のブレと、クールなAIがときに相反したり、ときに融合したりしながら、創り出していく新しい世界。

 豊富なネット中継とともに、それを味わえる今のファンは本当に幸運で、私も羽生さんのように好奇心を失わず、新時代の将棋も楽しんでいきたいものだ。

 

★おまけ 「人間同士の戦い」のおもしろさを凝縮したと自分が思う将棋が→こちら

「心のコントロールのむずかしさ」が生む「論理の中の非論理」が存分に味わえます。

 

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映画や小説の「正しい解釈」と、「おもしろく間違う」ことについて その2

2021年02月03日 | 映画

 前回(→こちら)の続き。
 
 小説映画の感想を「間違っている」「的外れ」と言われても、昔と違って全然気にならなくなったのは、
 
 
 「独自的で、おもしろく間違っている人」
 
 
 の話を聞く方が、圧倒的に楽しいからだ。
 
 岡田斗司夫さん言うところの「トシオの妄想」というやつだ。 
 
 映画や小説には「正しい解釈」というか、それに近いものというのはたしかに存在する。
 
 
 「ゲーリー・クーパーとグレース・ケリーの『真昼の決闘』は、監督のフレッドジンネマンがハリウッドに蔓延する《赤狩り》を批判したもの」
 
 
 といったことは、評論家による解説や、監督のインタビューなどで語られてて、こういう
 
 
 「製作者の意図」
 
 「映画史における作品のポジション」
 
 「無意識に出てしまった監督の思想や欲望」
 
 
 などなどが、きっと定義的には「正解」となるのであろう。
 
 しかしまあ、こういうのはプロにまかせておけばいいのではないか。
 
 たとえば、中島らもさんはチャーリーチャップリンの名作『モダンタイムズ』を見て、怒りを覚えたという。
 
 激おこのシーンは、かの有名な、チャップリンが歯車の中で弁当を使うシーン。
 
 そこでチャーリーは機械によって、スープをにぶっかけられたり、トウモロコシで歯みがきをさせられたりするわけで、この場面の「正解」はもちろんのこと、
 
 
 「機械に支配されるかもしれない、ディストピア的未来を喜劇的手法で表現している」
 
 
 ということだろうが、らもさんは子供のころ、ここを観ながら、
 
 
 「チャーリー! おまえ、オレよりええもん食うてるやんけ!」
 
 
 機械に支配されてもいいから、あんな豪華ランチを食べたいんやと。
 
 これには文明批判のつもりのチャーリーも、スココーン! とズッコケることであろう。
 
 似たようなところで、『アパートの鍵貸します』でも、ジャックレモン冷凍食品の弁当で夕食をすますシーンがあって、もちろんこれも、
 
 
 「独身男のわびしい晩餐」
 
 
 を表しているのだが、和田誠さんと三谷幸喜さんは対談でこの映画を取り上げ、
 
 
 「みじめさを表現してるんでしょうけど、チキンとかあって、おいしそうなんですよね」
 
 
 これらの感想など、思いっきり制作サイドの思惑とを行っている「間違った」ものだけど、私としては「たしかに」と納得いくものであったし、
 
 
 「『貧しかった昭和日本』の経済や食事情」
 
 
 を理解させてくれるところもある。
 
 東野圭吾容疑者Xの献身』は本格推理というより、
 
 
 「モテない男の純愛小説」
 
 
 と読み解く作家の本田透さんや、ラジオで映画『プリティ・ウーマン』を、
 
 
 「主人公が男前じゃなかったら、とんでもなくゲスいストーリーや! その証拠にリチャード・ギアサモ・ハン・キンポーに入れ替えたら女性陣だれも観ませんよ!」
 
 
 そう喝破した、竹内義和アニキ。
 
 映画評論家の町山智浩さんなど、『ポセイドンアドベンチャー』のことを、「WOWOW映画塾」ではダンテの『神曲』をベースにメチャクチャ格調高く語ってたのに、『ファビュラスバーカーボーイズの映画欠席裁判』では、
 
 
 太ももだよ! この映画は若いオネーチャンがホットパンツから健康的な太ももを見せるのところがポイントなんだよ! リメイク版でそれを入れなかったのは万死に値する!」
 
 
 いやもう、これには「ダンテはどこ行ってん!」と爆笑しながらも、大いに共感してしまったもの。
 
 私も友人ナニワ君と映画『アベンジャーズ』を一緒に見たとき、
 
 
 「スカーレット・ヨハンソンのがサイコーや!」
 
 
 しか言わなくて、昼下がりのファミレスで、周囲の家族連れや女子高生にイヤな顔をされたもの。 
 
 いや、『アベンジャーズ』の魅力はそこ(だけ)ちゃう!
 
 でも、いいんである。
 
 そう考えると、私がこうした「そことちゃう!」な話が好きなのも、だれかと映画の話をするときは、その映画がどうとかよりも、
 
 
 「その映画を見て、目の前の人がどう思ったか。自分とは違う、どんな独自の世界観を見せてくれるのか」
 
 
 これを期待しているのだ。 
 
 いわば人を見ているのであって、作品はその「触媒」のようなものかもしれない。
 
 その化学反応こそが興味深く、きっとそれは作品自体の生の魅力とは別個のもの。
 
 その両方があってこそ、「映画談義」は豊かなものになり、「正解」よりも主観にかたよっていればいるほど、おもしろい。
 
 だからそう、われわれは「正しい」に臆することなかれ。
 
 間違うために、映画館に行こう!
 
 
 (続く
 
 
 
 
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映画や小説の「正しい解釈」と、「おもしろく間違う」ことについて

2021年02月02日 | 映画
 「その映画の観方と解釈、間違ってますよ」。
 
 なんて指摘を受けることが、たまにある。
 
 映画が好きなので、おもしろい作品に出会うと、あれこれ語りたくなるのだが、それが相手の心にヒットしないなんてことはよくあるもの。
 
 間違っている。
 
 そう突きつけられると、若いころはビビったものだ。
 
 映画や小説についてドヤ顔でテーマや見どころを披露したのに、時に冷笑するように、時に怒りや、あわれな人を見るような目で、ドカンと爆弾を落とされる。
 
 根が小心者なので、そうなるとこちらは顔面蒼白。全身から冷や汗が噴き出し、や……やってもうた……と、言葉を失ってしまう。
 
 とりあえずその場は、「あ、そうなんすかー」と笑ってごまかすとして、すぐさま本屋図書館にダッシュ。
 
 「映画」コーナーに行くと、そこにある
 
 
 「世界名作講座」
 
 「名画の鑑賞法」
 
 「監督、自作を語る」
 
 
 みたいな本を、かたっぱしから手に取って熟読
 
 上下左右、様々な角度から、徹底的に「テーマ」「構成の妙」「監督の演出意図」などなどを付け焼刃的に頭に放りこみ、理論武装に血道をあげることとなる。
 
 でもって、そこで仕入れた知識を他の場所で、あたかも自分だけの解釈のように披露し、
 
 
 「どうや、オレは映画にくわしいやろ! 教養もあるやろ! 難解なテーマも見逃せへんぜ!」
 
  
 懸命にを雪ごうとしたものだ。
 
 今思えば若かったというか、まあ映画や読書好きというのは一度はというか、星の数ほどこういうトホホな時代を経験し赤面することになる。
 
 まあこれはこれで、「聞くは一時の恥」みたいに勉強にもなる面もあるわけで、あながち悪いことだけでも、ないかもしれなけど。
 
 では、ナウなヤングでなくなった現在ではどうなのかといえば、これが「間違ってる」とか言われても、全然平気になってしまったなあ。
 
 日常会話とか、あとこのブログでも、たまに映画や小説を取り上げると、
 
 
 「それ違うよ」
 
 「的外れな感想でガッカリしました」
 
 
 なんてコメントをいただいてしまうこともあるけど、
 
 「ま、それもまたよし」。
 
 と思うくらいで、昔みたいに、あわてることもなくなってしまった。
 
 その理由としては、まずそんな
 
 「間違ってるかどうか」
 
 なんて、どうでもいいやん、ということ。
 
 映画でも小説でもお芝居でも、一番大事なのは
 
 
 「自分にとっておもしろいかどうか」
 
 
 であって、そんな
 
 
 「この作品はどういうテーマで作られているのか」
 
 「このシーンはどういう意味があるのか」
 
 
 なんてことを発見するために見るわけでもない
 
 いや、もちろん「テーマ」や「意味」も大事だけど、それはわかったらいいし、わからなければ後で人に訊くとか評論家の本でも読めばいい。
 
 でもそれは
 
 
 「わかると、作品をより楽しむことができる」
 
 
 からするものであって、別にそのことをドヤ顔で語って、頭のよさや映画知識の豊富さを競ったり、まして他者に優越感を感じたり、「正しい」のお墨付きをもらうためであるなら、
 
 「まあ、それはどっちでもいいなあ」
 
 という気になってしまうのだ。
 
 たとえば、私は町山智浩さんのファンで、著作や『WOWOW映画塾』を楽しんでいるけど、町山さんの
 
 
 「取材力」
 
 「教養」
 
 「洞察力」
 
 
 といったものは大いに学んで、吸収させてもらっている一方で(名著『映画の見方がわかる本』は今もバイブルです)、ことこれが「解釈」になると意見が違ってても、なんとも思わない
 
 だって、映画や小説の解釈には「正解」があって、それ以外の鑑賞法や感想を「ダメ」というのなら、そんなものテストでも受けさせられているようなもんで、楽しくもなんともない。
 
 そんなことに、1800円2時間という時を払いたくないよなあ、と。
 
 もちろん、若いときはそれが「教養」に結びつくし、知識を競い合うオタク的会話も基本的には大好きだけど、それよりなにより、心から笑ったり泣いたり心震わせたりして、
 
 「ええもん見たなあ」
 
 と満腹するのが、あえてこの言葉を使えば「正しい」鑑賞法だろう。
 
 そこで感じたことを「間違い」と言われたら、「そっすかね、恥かきましたか」とか頭をかきながら、でも心の中では、
 
 「ま、でもそれはそれで、ネ」
 
 としかならないのだ。今となっては。 
 
 さらにいえば、これは個人的嗜好かもしれないけど、これまで映画や小説の話をしてきた経験上「正しい解釈」を語る人よりも、
 
 
 「おもしろく間違っている人」
 
 
 この話を聞く方が、圧倒的におもしろいということに、気づいたからでもあるのだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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