「それが正義の味方のやることか!」
「こんなひどい番組(いろんな意味で)、うちの子供には見せられません!」
女の子を口説くのに、昭和特撮ヒーロー番組は禁物。
今回は、そういうオタク的苦い教訓をふくんだお話である。
私は怪獣が好きである。
大傑作怪獣映画『パシフィック・リム』での「kaijyu」という呼び名通り、怪獣というのは日本が成熟させた誇るべき文化であるが、残念なことに世間的なイメージでは「子供の趣味」といったところであり、評価は不当に低い。
特に女子に対してのアピール度は致命的であり、アニメやマンガがきっかけで恋が芽生えるというのは、昨今けっこうあると思うが、これが怪獣ではこうはいかない。
「『進撃の巨人』っておもしろいよね」
「うん、あなたはアニメとマンガ、どっち派?」
なんていう男女の会話の糸口はあるだろうけど、
「『帰ってきたウルトラマン』いいよね」
「うん、あなたはミステラー星人は善玉派? それとも悪玉派?」
とかから生まれる恋など、まずありえないであろう。
そんなモテとは無縁のロンリーウルフな特撮野郎だが、それを実感したのが大学生のころのあるパーティーに参加したときのこと。
「今度、女子を集めてビデオ上映会するからけーへん?」
そんなお誘いをしてきたのは、友人キタノダ君だった。
ビデオ上映会。なんでも男女が集まって、お酒でも飲みながら夜通し映画やテレビドラマなど映像作品を楽しむ、というイベントだそうな。
そんなリア充な話が、なぜにてボンクラ学生たる私などに転がりこんできたのかと問うならば、
「シャロン君って映画好きやん。だから、おもしろい作品あったら、持ってきてもらおうと思って」
なるほど、キタノダ君からすると、彼はこういった学生的チャラい企画は得意だが、映画のような文化系の趣味はうとい。そこでヘルプを頼みたいとのこと。
さらにいえば、その会にはもうひとつ使命があり、それはキタノダ君の友人であるサカイ君の恋の橋渡しだ。
そもそも、映像作品にくわしくないキタノダ君が、このような会を開いたのには理由があり、語学の授業で知り合ったノリコちゃんという女子に恋をしたサカイ君のため、一肌脱ごうとのことなのだ。
チャラ男であるキタノダ君の情報網により、その彼女が映画ファンということが判明したので、それで仲を取り持とうというわけだ。
青春である。いい話ではないか。
そうなるとこっちも気合も入ろうというもので、当時の私は映画青年であり、映画館やレンタルビデオ屋をハシゴしては、数々の名画を観まくっていたのであった。
そこを買っての依頼というわけで、女の子が来るということもさることながら、上映会で流す作品を選ぶ役をおおせつかるというのは、映画好き冥利に尽きるともいえる。
私はこのビデオ上映会を「リュミエール作戦」と命名。文化系人間の腕の見せ所と、気合一番ハチマキを巻くことにする。
ただ問題だったのは、私が映画好きであると同時に、
「狂った昭和特撮番組好き」
でもあったこと。
このかたよった嗜好により、私は大いに「やらかす」こととなるのだが、このときはまだそんな悲劇のことなど知るよしもないのであった。
(続く→こちら)
前回(→こちら)の続き。
「最強の動物はなにか?」
という問いに対して、象でも熊でもなくラクダを提唱した私。
一見おとなしそうなラクダだが、背中のコブがあれば長期間水も食料もなしで動けることから、
「相手が餓死するまで逃げまくる」
ことにより、どんな敵でもかなわないと言いたいわけだが、そこに
「ラクダのスピードでは、熊や象と競争すると追いつかれてしまう」
との物言いがついた。
しかし、それにはこちらも反論がある。
たしかに、これは戦いの場所が象のいる平原や、熊のいる山道などではラクダが不利であろう。
だが、そのバトルフィールドはだれが決定するのか。そら、場所によって有利不利に差が出るのは当たり前で、かつ不公平であろう。
いくらシロクマが強いと言っても、会場がタイの首都バンコクの特設リングでは、ほとんど実力を発揮できないだろうし、水中デスマッチならサメの機動力と攻撃力は相当な脅威だ。
ならばここは、不公平感を少しでもなくすために、「ホーム・アンド・アウェー」で戦うべきではないのか。
となれば、我が陣営がホームに選ぶのは、当然のごとく砂漠である。
足元が砂地なら、たとえ豹やライオンですら、そのフットワークはラクダにおとるであろう。
さらには、砂漠は熱い。
そんなところで力を発揮できる動物は少ないはずだ。それに、いったん持久戦に持ちこまれれば、今度は夜になると気温がいきなり下がる場面に遭遇することとなる。
この寒暖差が、さらなるダメージを施し、ますます敵の足をおとろえさせる。
そうすれば、たとえ時速30キロでも、相手を引き離すには充分の脚力である。
そう、ラクダはホームの「サンド・デスマッチ」では絶対に負けることはないのだ。
いくら魚類が水の中は有利とはいえ、猿とか相手なら負けるときもあるのではないだろうか。どんな動物でも、勝率100%は望めるものではない。
しかし、砂漠で強い動物はラクダのみである。海や山は、言っても生物が住める環境だが、砂漠はそうじゃない。
まさに死の世界である。そこを生き抜けるラクダに勝てる動物など、この世界にはいないのだ。
ホームで負けなしなら、アウェーでひとつだけ勝てばいい。
どれほど不利な状況でも、100回やれば1度くらいは「まちがい」が起こることもあり得る。一方ラクダは、砂漠なら万一もあり得ない。
なんたって逃げるだけなのだ。ポカの出現しようもない。そのミスしにくいシンプルなスタイルもまた、「砂漠の舟作戦」の売り。
サドンデスでやれば、いつかはこっちが勝つのだ。
そう反論すると、さらに議論は紛糾し、ならばラクダに勝てる動物とはなんなのかと再検討してみた結果、出てきたのは「サソリ」ではないかということになった。
なるほど、これならたしかに乾燥にも強そうだし、スピードでも対抗できそうだ。
なにより、持久戦と真逆たる一撃必殺の武器を持っているというのがおもしろい。
スポーツでも、プレースタイルがちがうもの同士の試合の方が、観ていて楽しかったりする。なので、動物界最強トーナメント決勝戦は、
「ラクダvs毒サソリ」
というカードになりそうだ。好勝負を期待したい。
前回(→こちら)の続き。
「戦ったら最強の《動物》はなにか」
とい中二病的テーマで友と語り合い、「答は熊か象」というところに議論は着地しかけた。
だが、そんな当たり前の結論ではおもしろくない。無駄に議論を紛糾させるのが得意な私は、ここに新たなる秘策を用意していた。
それは何者かと問うならば、それはラクダである。
などと言ってみると、おいおいちょっと待て、お前は頭がおかしいのか。
ラクダなんておとなしそうな動物が熊や象に勝てるはずはないではないか、という意見が返ってくるかもしれない。
もちろん正攻法でぶつかれば、まず勝てないであろう。
なんたってパワーが違うわけだが、そこは頭脳戦でカバーするのが、私の変化ワザだ。
単にウェイトだけで勝負が決まっては、なにごとも興味半減である。
では具体的に、どうやってラクダが象に勝つのかと問うならば、ポイントは、ラクダのコブである。
ご存じのように、ラクダの背中にあるコブには脂肪がつまっている。
これがいうなればエネルギーを備蓄するタンクの役割をしており、中身を消費することによって、ラクダはかなりの長期間飲まず食わずで活動することができるのだ。
水や天然資源に乏しい砂漠などでは、彼らが非常に重宝がられるゆえんである。
私の提唱する「砂漠の舟作戦」は、これを最大限に利用した戦い方をすることであり、方法は簡単。
「ただひたすら逃げ回る」
これをやればよい。
いくら最強の象とて生き物、食べたり飲んだりしなければいつかは死んでしまう。
そう、この作戦は、
「相手が餓死するまでひたすら逃げまくる」
という、補給なしで長時間活動が可能なラクダのみが選択できる、究極の持久戦なのである。
どうであろうか。この「砂漠の舟作戦」。
ヒトもそうだが、生物とは、食わないといつかは飢え乾き、死ぬことが運命づけられている。
その避けられない弱点をついた、実に非情な戦い方ではないか。
砂漠だけに、文字通りドライな作戦やなあ。フッフッフ、諸君、どうだい。このクレバーなファイトスタイルに対抗できる策があるなら聞こうではないか。
なんて余裕しゃくしゃくでおさまっていると、議論に参加していた面々は、すかさず手をあげると、
「いや、この勝負、ラクダの負けだ!」
ほう、私の「砂漠の舟作戦」のどこに水漏れがあるのかねと問うならば、
「熊も象も、案外動くと速いねんぞ」
なんでも熊も象も、走ると時速で40キロは出るらしい。
あの図体で、本気を出せば人間より速いとは意外である。ティーガー戦車の最高速度(時速38キロ)よりも早いのか。
その一方で、ラクダは時速30キロ程度。
それなりには速いが、リング上ではすぐに捕まってしまう。持久戦に持ちこむ前に、接近戦で瞬殺されるのでは。ということだ。
なるほど、そういわれればそうかもしれない。論理的で、しごく筋の通った反論だ。
だがそれでも、やはり私のラクダ推しは変わらないのである。スピードの差を埋めるその戦い方とは……。
(続く→こちら)
「結局、世界で一番強いヤツはだれなんや!」
いきなりそうブチ上げたのは、友人サヤマ君であった。
「○○の中で最強なのは誰か」
というのは飲み屋のウダ話では、よくとりあげられる議題である。
最強の格闘技とはなんなのか。空手か、柔道、相撲、それともムエタイ。
歴代サッカー選手で最強はペレやマラドーナにクライフ。今なら、メッシとクリスティアーノ・ロナウド、どっちが上なのか。
将棋なら、大山康晴と羽生善治はどっちが強いの? テニスなら、ロッド・レーバーとロジャー・フェデラーは? などなど議論は尽きない。
このように、語り出すと止め処がなくなる「だれが最強」トークだが、この日サヤマ君が出してきたテーマというのが、
「動物の中で、最強なんはなんやと思う?」
よく、ブログのアクセス数を伸ばす方法のひとつに、
「かわいい動物の写真を載せる」
というのが紹介されているが、当ページではそのビジュアルではなく腕力。
読者にとっては、特に女性にとっては死ぬほどどうでもいい話題のような気もするが、それはともかく、この議題。模範解答はおそらく「熊」であろう。
テディベアなどかわいいイメージがあるが、野田サトル先生のマンガ『ゴールデンカムイ』を持ち出すまでもなく、ヤツらの戦闘能力はハンパではないことは知られている。
「超カワイイ!」
なんて、うっかり抱きつこうものなら、ベアハッグを食らって、全身の骨を砕かれ即死である。
なんといっても、マス大山が最強を求めて戦ったのが熊なのだ。
まあ、バトルの際には極限まで弱らせていたのではという説もあるが、とにかく強い。最強の名にふさわしい猛者と言えよう。
ところがそこに、
「いや、熊より象やろ」
提言したのは、友人アサヒ君である。
なるほど、そうきたか。
なんのかのいって、基本的に格闘とはウェイトの大きい奴はそれだけで有利だし、鼻を使った遠隔攻撃も可能。
さすがの熊も、象のボディアタックにはまいるのではないだろうか。あのゴツゴツした皮膚は、防御の際も頼りになりそう。
攻防ともに、スキなしといったところか。
というわけで、とりあえずのところ議論は「象が最強」ということで落ち着きかけたのだが、ここで終わってしまっては話がおもしろくない。
ここで不肖この私が起死回生の意見でもって、議論を再活性化させることとなる。
あの最強の象をも倒せる動物を思いついたからだ。
いったいそのスーパーアニマルとは何者か。答えを言う前に、皆様も考えていただきたい。
ヒントは、どちらかと言えばディフェンシブに戦う動物です。
(続く→こちら)
『米長の将棋・完全版』を読む。
将棋の本には役立つ様々な名著と呼ばれる本がある。
プロでも参考にしたという『羽生の頭脳』シリーズをはじめ、
真部一男『升田将棋の世界』
藤井猛・鈴木宏彦『現代に生きる大山振り飛車』
勝又清和『最新戦法の話』
などは棋力アップのみならず、読み物としても充実しており、中級者以上の方にはぜひ一度は手にとってほしい一品。
そんな数々の良書の中で、私がもっとも影響を受けたのが、かの佐藤康光九段も修行時代バイブルにしていたという、米長邦雄永世棋聖の『米長の将棋』シリーズである。
私は将棋ファンであり、一応将棋倶楽部24で二段くらいの棋力もあったが、基本的には自分で指すよりも、テレビなどで観戦したり、棋士のエッセイを読んだりするのが好きな方である。
それは昔からそうで、町の道場に通っていたときも、そこにいるおっちゃんとワイワイ言いながら指すよりも、どちらかといえば隅でお茶でも飲みながら、備え付けの本や雑誌を読むのを好む変な子供だった。
そこで、『将棋マガジン』に連載されていた河口俊彦老師の『対局日誌』や、山口瞳さんの『血涙十番勝負』などと並んで、穴の開くほど読み返していた本というのが『米長の将棋』。
特に『振り飛車編』に関しては、棋譜をほとんど丸暗記するほどに読みこんだものであった。
なぜにて『米長の将棋』がそれほどに、少年時代の私の心をつかんだのかといえば、これはもう、
「米長邦雄の指す将棋が、めちゃくちゃに魅力的だったから」
米長永世棋聖といえば、根っからのパフォーマーであり、エンターテイナーであった。
そのことは米長さんを、当代きっての人気棋士へとのし上げたが要因だが、物事はなんでも裏表で、言い方を変えれば「目立ちたがり」の「お調子者」(そして意外と繊細でもある)。
中にはそのことをよく思わない人も多く、私自身も会長職に就かれてからの仕事ぶりに関しては、
「男を下げてるなあ」
と思うケースも多々あったが、こと将棋に関しては米長永世棋聖のそういう特長が良い目に出ており、『米長の将棋』を並べていると、それがよくわかる。
なんかねえ、とにかく勢いがある、腕力がすごい、その一手一手に
「オレが米長だ」
という強烈は主張が感じられる。
独特の色気というか華があって、もう並べてみて、おもしろいのなんの。
洗練度では、研究の行き届いた今の将棋の方が上かもしれないけど、泥臭いねじり合いの応酬には
「これぞ昭和の将棋やなあ」
しみじみうれしくなり、
「そら米長さん、モテはるのわかるわ」
感心してしまうことしきりなのだ。もうカッケーのよ、マジで。
また、この『米長の将棋』のオススメポイントは、
「中終盤の力強さが、メチャクチャに実戦的」
米長邦雄といえば、「泥沼流」と呼ばれ、不利な将棋や作戦負けの局面を、その剛腕でひっくり返してしまうのが売り。
本書ではその粘り腰や勝負手を、存分に味わえる。
なべても、米長語録でもっとも実戦的なものといえば、
「将棋とは相手の駒をはがすことなり」
それをお腹いっぱい堪能できるのが、1979年の第18期十段リーグにおける対森安秀光七段戦。
森安秀光といえば、これまた、そのねばり強さから
「だるま流」
「鋼鉄のマシュマロ」
などと呼ばれ、その「泥沼」とかぶるところからか、米長対森安といえば熱戦や珍局が多いのだが、その代表例がこれであろう。
この一戦で、米長はとにかく森安陣の駒をはがす。はがしてはがして、はがしまくるのだ。
「ミスター四間飛車」に対して、米長は得意の「米長玉」型4枚銀冠で対抗。
中盤で少しペースを握った米長は、寄せの足がかりとして玉頭戦を挑む。
銀冠に対して▲74の地点に歩の拠点を作ると、あとはそこから、ひたすらに駒をはがしていく。
馬を二枚引きつけて、頑強に抵抗する森安に、とにかく歩をたたいて手を作る米長。
図は先手が▲73歩と、たたいたところ。
△同馬寄に▲74歩とまたここにたたいて、△83馬、▲64桂、△71金引。
そこで、▲73歩成と時間差で捨てるのが、「ダンスの歩」の応用編ともいえる軽妙手。
△同馬に▲72歩と打って、カナ駒の入手に成功。
△同金右、▲同桂成、△同馬に、またも▲73歩。
△同馬、▲74歩、△55馬上に▲73金。
もう狂ったように、7筋に駒をぶちこむ米長邦雄のド迫力よ。
以下、△同馬、▲同歩成、△同馬に▲64角と打って、▲55角のラインがあるから、後手は受けがない。
そのシンプルゆえの力強さが、もう並べていて圧倒されることしきり。
なんというのか、将棋の強さには読みの力や、定跡の知識など様々あるが、実は一番大事なのは、
「相手をヒーヒー言わす粘着力」
なのではないかと、私はこの棋譜から学んだのである。
泥臭く、それでいて官能的なのが『米長の将棋』。
その棋譜を何度も鑑賞すれば、中終盤の腰のすわり方が違ってくるのは間違いなし。おススメです。
★おまけ 米長邦雄十段と、デビュー当時の羽生善治四段の対局(ちなみに、私が初めて見た将棋番組がこの一戦でした)は→こちらから。
☆おまけ2 米長と森安のさらなる熱戦は→こちら
★おまけ3 さらにもうひとつ森安との一戦→こちら
「夢の対決いうたら、やっぱ『ゴジラ対ガメラ』やろ」。
近所の居酒屋でそんなことを言いだしたのは、特撮マニアのナカツ君である。
「夢の対決」といえば、男子の酔っ払いトークで鉄板のテーマ。
水島新司先生『大甲子園』の「明訓対青田」や、『プラモ狂四郎』の「ガンダム対ドイツ軍」などいろいろあるが、特撮の世界ではこれであろう。
日本が誇る二大怪獣。ゴジラとガメラのどちらが強いか、男の子なら一度は考えたことがあるはず。ナカツ君と同様、大の特撮ファンの私としては大いに気になるところだ。
ただ、この二匹のブッキングというのは大御所ゆえに、なにかとややこしいところもある。
かつて竹内義和さんが、その著作の中で二匹を戦わせた末ゴジラを勝たせたら、大映からクレームが来たというのは有名な話。
それくらいにスターのあつかいは難しいのだが、ゴジラ先生自体は意外と『流星人間ゾーン』などヨゴレ仕事も請け負っているので、条件次第では受けてくれるかも。あとはガメラ師匠の出方待ちだ。
怪獣の話となれば勢いがつくというもので、次に手を挙げたのは私。
「それやったら、プルガサリ対ヤンガリーもあるな」
『怪獣大決戦ヤンガリー』とは、韓国制作の怪獣映画。
怪獣といえば日本リスペクトということか、テーマソングを大槻ケンヂさんが歌っており、その歌詞が荒唐無稽な脚本や演出に対するつっこみになっているという、前代未聞の仕掛けが施されている。
「しいていえば、《怪獣類》ですか」
「私は命を二つ持ってきた」
「ギャオッと鳴くからギャオスだよ」
などなど特撮の世界には「名セリフ」と称されるものがあるが、私としてはそこに『ヤンガリー』の、
「私の妻のように恐ろしい」
を加えたいもの。涙ぐむ、既婚男子特撮ファンの顔が思い浮かぶようだ。
曲の方も、ピアニスト三柴理さんの轟音ピアノが炸裂している名曲で、一聴の価値あり。韓流ブームといえばヨン様より、これと『グエムル 漢江の怪物』であろう。
一方の『プルガサリ』は北朝鮮で作られた怪獣映画。制作、脚本、監督、なんとあの偉大なる将軍様金正日。
その内容というのが、民衆を苦しめる悪の独裁者を、正義の怪獣プルガサリがやっつけて、平和が戻っためでたしめでたし。
……のはずが、正義の怪獣のはずのプルガサリは鉄を食べてどんどん巨大化していき、いつの間にか手に負えないほどでかくなる。
このままでは、心優しきプルガサリは飢えた民たちの食料を奪わなければ、生きていけなくなる。
かといって、恩人であるプルガサリを殺すわけにはいかない。そしてついには……。
……という、まあ何がどうということはないが、お前が言うなというか、
「で、その独裁者って、だれのこと?」
とのツッコミが押さえきれない映画であったが、意外や出来は『ヤンガリー』よりいい。
おしむらくは将軍様制作、監督、だけで「主演」が抜けていたこと。
ぜひ続編ではフラッシュビームで巨大化し、改造プルガサリと戦ってほしいものである。
この話は非常に盛り上がり、
「そこにタイ代表としてハヌマーンを加えたらどうか」
「レイ・ハリーハウゼンに敬意を表してリドサウルスをぜひ」
「イギリスからはゴルゴで決まりでしょ」
と話はワールドワイドに。
ならば怪獣大国日本からはゴモラやレッドキングではインパクトがないので、ジェットジャガー、ギララ、カメーバといったマニアックな連中を。
さらにはリプロス、イヤミラー、シビラス星人といった、100人に聞いたら150人はわからない怪獣などを参戦させるのはどうか。
巨大フジ隊員は怪獣に入れてもいいのか。それなら『さくや妖怪伝』に出てきた巨大松坂慶子もセーフのはずだ。
また、「さっき《改造プルガサリ》という単語が出たが、オレは《再生プルガサリ》がいい」などとだれかが言い出し、そこからも、
《プルガサリ二代目》
《プルガサリjr》
《にせプルガサリ》
など、表記をどうするかでもめにもめ、さながら議論は実相寺昭雄監督、幻の脚本『怪獣35+宇宙人15』ならぬ『マイナー怪獣35』という話になり、トークはさらに白熱した。
そうして熱く《夢》について友たちと語りあいながら、今日のネタはただでさえ女子ウケの悪い当店なのに、さらにガン無視されるんだろうなあ、なんて思いもよぎるけど、私は楽しかったので、特に問題はないものと思われる。
☆おまけ『怪獣大決戦ヤンガリー』は→こちらから
★おまけ2『プルガサリ』は→こちらから
海外のスーパーは楽しい。
私は海外旅行が趣味の、いわゆるバックパッカーというやつである。
いまどき「貧乏旅行」などというのも流行らないが、比較的エコノミーな予算で世界を闊歩する我々に必要なものはいくつかあり、格安バッタ航空券に安い宿、それに立地のいいところにあるスーパーマーケット。
日本ではもちろんのこと、海外でもこのスーパーというのは大変に便利であり、旅行者はよくお世話になる。
ペットボトルの水は、特に節約旅行をしてない人でもスーパーで購入するだろうし、物価の高い国にいたり、キッチン付きのユースホステルに泊まっている人なんかは、パスタや缶詰なんかを買って自炊することもある。
そこまでせずとも、地下のフードコートで食事をしたり、長旅の人なら、切れた石けんや洗剤の補充。ノートやペンなど文房具も手に入る。
あと、忘れ物が多い人は、「現地調達」のために寄ることも多い。うっかりカミソリや歯ブラシといった小物を忘れても、スーパーに走れば事足りる。
私など、台湾に出かけた際には、なんと替えのパンツを忘れるという大ポカをかまし、
「異国の地で、一週間も同じパンツをはき続けなければならない。天は我を見放したかのか!」
と、その長き旅路に絶望しかけたこともあったが、このときも宿の近くのスーパーで交代要員をそろえることができて、パンツノーチェンジ地獄を回避することができた。
古いCMコピーではないが、まさに「開いててよかった」である。
このように、意外と旅で活躍するスーパーマーケットだが、実用以外では、観光名所として利用するのも存外に楽しい。
というと、「そうそう、外国の市場って、けっこう活気があっていいんだよね」
なんてことをおっしゃられる方も出てくるかもしれないが、たしかにいわゆる築地とか、大阪でいえば黒門みたいな、「ヘイ、らっしゃい!」的市場もいいけど、現地のスーパーだって、それはそれで悪くないものだ。
なんたって、売ってる品物が当たり前だがすべて外国のものなのだ。これだけでも、見ていてけっこう飽きない。
しかも、取れたての新鮮な野菜とか、水揚げされたばかりの活きのいい魚とかではなく、ごくふつうの生活用品とか、パック詰めのお総菜とかである点も、これはこれで味である。
やはり、スーパーというのはその生活感が魅力だ。今はそうでもないだろうけど、昔はよく、
「ガイドブック片手に観光名所をめぐる旅など、本当の旅ではない」
なんていう、めんどくさ……もといストイックな旅人というのがいたものだが、スーパーマーケットこそ、まさにその土地に根ざした、「本当の現地」がある場所なのではあるまいか。
まあ、そこまで凝らなくても、用途不明の液体の入ったパックとか、なににつけて食べるのかよくわからないジャム的な瓶詰めとか、見てるだけで楽しい。
特に名前は有名なのに、さほど見所の少ない街というのは(私の場合だとミュンヘンとかミラノとかカサブランカとかクアラルンプールとか)、このスーパーめぐりがオススメである。現地の空気に、ぐっと近づける気がする。
こういったわけで私は海外に出たら、スーパーのチェックはおこたりなく、ユースホステルや安宿にチェックインした際は、朝のチェックアウトの時間とともに確認するのが
「この近くのスーパーの場所教えて」
なのだが、これは私だけの嗜好ではなく、たとえば東海林さだおさんなんかも、「スーパーは楽しい」といっておられる。
ショージ君はもともと日本でもスーパーに買い物に行くのを好むそうだが、これは外国でも同じらしく、その旅行記を読むと韓国やスペインなんかでせっせと通っては瓶詰めや正体不明の漬け物などを購入しておられる。
さすがは玄人のスーパーマーケッター(なんて言葉があるかは知らないけど)。フットワークも軽く、実に楽しそうである。
あと、海外ではコンビニもよく通う。
というと、えー外国いってまでわざわざコンビニなの? という意見はあるかもしれないが、スーパーと同じでコンビニも外国によって商品が微妙にちがっており、たとえば台湾などは日本のチキンやフランクフルトを売っているところに中華ちまきなんかがあって、これがウマイものだったりする。
それに、なんといっても24時間営業は便利なのだ。スポーツ観戦や観劇の帰り、もうスーパーもレストランも閉まっているという時間帯にホテルに帰ると、闇の中煌々と照るコンビニの明かりが、なんと頼もしいことか。
私は旅にロマンを求めないタイプなので、便利なのが一番なのだ。ちゃんと定価がついているのもすばらしい。
アジアなどでの値段交渉が苦手、もしくは疲れてめんどくさいときなどにも頼れる。ビバ! コンビニエンス!
『回転スシ世界一周』を読む。
エッセイストで、料理関係の著作も多い玉村豊男さんが、パリ、ロンドン、アムステルダム、ニューヨーク、LAで、今世界中で人気の
「KAITEN-SUSHI」
を食べまくり、そのレポートをまとめた一冊。
今でこそ、回転寿司が世界で親しまれているのは、さまざまな媒体で語られているが、おもしろいことに、これが各国によって、それぞれ特徴がある。
日本でも、スパイシーなインドカレーが家庭料理であるカレーライスになったり、オランダのクロケットがコロッケとしてご飯のおかずになったりと、
「アレンジがすぎる」
ことがあるが、世界のSUSHIも、生みの親をはなれると、これがなかなかにフリーダムである。
まず有名なのは「カリフォルニアロール」。
発祥の地はロサンゼルスの日本人街「リトルトーキョー」。
マグロの入荷が、とぎれがちになった時期に、たまたまアボカドがたくさんあまっていたので、それを試行錯誤の末、商品化したのだとか。
また、欧米での巻きものは、海苔をご飯の中に巻く「内巻き」を採用しているが、これは海苔を食べる習慣がなかった欧米人が、あの黒くて薄いものを見て、
「オー! ニポンジンハ、ペーパーヲタベルノデスカ!」
とビビるから。
あれが「紙」に見えるのだ。だから、内側にかくす。
どうも、ガイジンさんには、あの黒くてうすい物体というのはミステリーであるらしい。
やはり日本人のソウルフードであるおにぎりでも、白いご飯が見えなくなるよう、全体に海苔を巻くタイプがあるが、これが「爆弾」に見えるとか。
これまた物騒な話である。
となると、日本にくわしくない人が、うっかりコンビニのおにぎりコーナーの前に立ったりした日には
「ノー! コンナトコロニBOMBガ、タクサンアリマース! カミカゼ、バンザイ、リメンバーパールハーバー!」
なんて、一度は戦争放棄したはずなのに、「再軍備疑惑」なんて、持たれるかもしれない。
なるほど、文化のちがいというのは、おもしろいもの。
そんな誤解されがちな海苔は、なるたけ表舞台には出さないという方針か、ロンドンのスシ屋では、生春巻きやサーモン、ゴマなどで巻いたりしている。
さすがテロの本場(?)、ここでも爆弾と警戒されているのか。
写真を見たかぎり、まあ普通においしそうではあるけど。
味オンチのイギリス人のくせに、なかなかに生意気ではないか。
また、スシではないが、小さく盛りつけた焼きそばに焼き鳥をトッピングし、ソバとトリのモンブラン風なんていう創作料理もある。
モンブラン。なんだかオシャンティーである。
焼きそばといえば縁日の屋台か、カップ焼きそばというイメージが濃い私としては、モンブランなんていわれると、なんだかむずかゆい。
味も甘そうだしなあ。
こういう「親の手」をはなれて独自に発展していく寿司の中で、もっともアメリカンにかぶれているのが、これであろう。
ロサンゼルスのスシ屋にある「ジョン・レノンロール」。
ジョン・レノンロール。
そう聞いただけでは、パッとは、なんのイメージもわかない。
ジョン・レノンロール。何を巻いているのか。まあ、創始者がビートルズファンだったことはわかる。
このジョン・レノンロール。一体どんなものなのか、とりあえず素人ながらに予想してみたが、考えられるのは、
○「ジョン・レノンの好物を海苔で巻いた」
●「ジョン・レノンが常連の店のオーナーが開発した」
○「ジョン・レノンの出身地の名物を使っている」
●「ジョン・レノンが海苔で巻かれている」
○「マジ超適当につけた」
といったところであろうか。
正解はとレシピを見てみると、蟹やエビの天ぷらを巻いたスシに、きゅうり、梅干し、おしんこ、ミントの葉を玄米酢飯で裏巻きにしたもの。
……って、おいおい、それのどこにジョン・レノンな要素があるねん!
おそらくは、ベジタリアンつながりということなのであろうが、そんな安易でいいのか。
しかも玉村さんに
「ちょっと情けない味」
と評されては、勝手に名前を使われたうえに酷評され、ヨーコも砂を噛む思いであろう、イマジン。
前回(→こちら)の続き。
演劇などの公演で関西の若い男の子の反応がうすいのは、
「自分たちには笑いのセンスがある」
皆がみな思いこんでいるから。
そこには「格付」「勝負」の要素がからんできて、彼らはみな「負けたくない」から、「仲の良い身内」以外のことでは、なかなか笑ったりつっこんだりしてくれないのだ。
高校時代のクラスメートであるマツダ君も、私のつまらないボケに「なんでやねん!」と反応した後、「しまった!」と口走った。
そう、「笑いのセンスのある彼」にとって、会話というのは常に自分がボケて、
「その切れ味によって、本来ならつっこむ気もなかったはずの相手につっこませる」
こういう流れになっているのだ。
そんな彼にとって、「思わず、つっこんでしまった」というのは、
「相手のボケを、反応に値すると認めてしまった」
ということになる。
これはまさしく「敗北」であり、ましてや素で「宇宙人おらんやろ」などといった、「センスのない」ストレートな反応をしてしまった。
いや「させられた」ことは、屈辱以外のなにものでもないのだ。
あやつるはずのオレ様が、逆にあやつられた、と。
こちらとしては悪気も笑いにするつもりもまるでなかったが、これは大失敗だった。
これ以降、マツダ君は「負けた汚辱」を雪ごうと、なにかにつけてこちらに、つっかかってくるようになったのだから。
といっても人のいい彼のことなので、別に暴力的なヤカラではなく、
「オレとおまえと、どっちのボケが勝るか勝負だ!」
という、まあ罪はないものだったが、会話中やたらと一発ギャグを連発してきたり、こっちが軽い冗談でも言おうものなら、オチ前に入ってきて「ボケつぶし」に血道をあげたり、もうめんどくさいことこのうえなかった。
そんな心配せんでも、地味男子のオレが女子から笑いなんかとれへんからさ!
クラスの男子としては、キミのほうが「格上」って、みんな思ってるから!
まあ、そういう問題でもないのだろう。彼からすれば、私がやったように
「つっこむつもりもないのに思わず」
な一言がほしいわけで、こっちも平和裏にコトが済むならそうするのにやぶさかではないが、「電話に出んわ」とか「パイン食べ過ぎて、お腹いっパイン」とか、悪いけどつまらないし……。
いや、クラスの女子は大爆笑ですけどね。
くだらないジョークのはずが、なまじまぐれ当たりしてしまい、「勝手にライバル宣言」をされて、もう大迷惑というか、まあ自業自得ではある。
この経験から、関西の男子にとって「笑い」というのは勝負であり、
「笑わされる」
「つっこまされる」
ことは「負け」であり「屈辱」なのだから、そんなもん、こっちが舞台でなにやっても笑うはずがありません。
たまさか、うまくいってひと笑い取れた日には、逆に地獄。
「敗北感」にさいなまれた彼らは、マツダ君のようにますます意固地になり、
「もう二度と、あんなみじめなことにはならんぞ」
腕組みをして踏ん張るのだ。
『泣いてたまるか』は渥美清の名作だが、「笑ってたまるか」は、だれも幸せにならないド根性である。
だからもう……土下座でもするから帰ってください、と……。
そんな彼らの心をつかむ方法もないことはなくて、ひとつは「毒舌か下ネタ」。
彼らにとって笑いは「勝負」であり、そこでは「過激な話にちょっと腰が引ける」というのは「負け」になる。
「オレ様は、この程度の毒ではまったく動じないね。それどころか、余裕をもって笑えるよ」
そうアピールしたいから、がんばって笑ってくれる。
もうひとつは「マニアックな小ネタ」
やはりこれも「勝ち負け」で、一般ウケはしなさそうなセリフなんかに、
「こういう素人さんには難しいネタにも食いつける、オレ様のお笑い知性」
をやはりアピールしたいから、これまた必死に笑ってくれる。要はプライドを刺激すればいいわけだ。
でも、それでウケてもなあ、というのも正直なところ。
こういうのって、勝ち負けじゃなくて、どっちも楽しんでってのがベストだと思うし。
昨今のヤング諸君はどうか知らないけど、「ダウンタウン世代」のわれわれの青春時代は、こんな感じでした。
松ちゃんの
「結局、笑いのセンスがあるヤツが一番エライ」
という価値観は、芸人の地位(とビッグな態度)を格段に上昇させたけど、ものすごい数の「カン違い男子」も生んだのであった。
いやほんと、「若いときの笑いのセンスの自意識」=「ほぼ内輪ウケと女子への好感度」だからなあ。
私の経験では、ホントにすごいヤツって、意外とみなに知られてない在野にいるもの。
みんなが「暗い」とか「ヤバい」とか「そんなヤツいたっけ?」って言いがちな子の中に、人と違う発想やセンスが転がっていたりするのだ。
だから今でも、私は人気者より、そういうかくれた人材を発掘するのが好きだ。
あと、ここでは「関西の」と言ってますけど、それこそダウンタウンの影響で今では日本中が「オレ様」男子であふれていることでしょう。
リア充系男子諸君は、ちょっと気をつけていただけると、「男前特権」に関係ないわれわれにはありがたいです、ハイ。
前回(→こちら)の続き。
男が文化祭の公演などで、全然ウケてくれないのは、演者の力量もさることながら、彼らが
「自分は笑いのセンスがある」
自負しているから。そのため、そこには「勝ち負け」「ヒエラルキー」がからんできてややこしい。
今は知らねど、私がヤングのころの関西男子は「おもしろいかどうか」がスクールカーストの選考基準になっており、ところがそれはスポーツや勉強のような客観的数字で結果が出ないため、とかく「自己申告」で決まりがちだ。
なので、必然クラスの人気者が根拠もなく「オレが一番」と君臨し、お笑い養成所でもないに日々「勝負」がくり広げられ、その格付けもほとんど「女子人気」と「身内のノリ」が重視されるからハタの者は困りものだ。
その例として、高校時代のクラスメートであるマツダ君をあげてみるが、彼はいわゆる
「特におもしろいわけではないが、明るい性格と顔がいいおかげで女子から無条件の笑いをゲットできるため、自分のことを『笑いの才能がある』と、ややカン違いしている関西によくいる男子」
なのであるが、「お笑いセンスのある」彼は女子相手ならともかく、「顔がいいから」という理由では好意的にはならない我々男子にも、同じノリでボケてくるのが玉に瑕。
「シャロン君、キミ昨日遅刻してきたやんなあ。ちゃんと先生に電話した? でも《電話に出んわ》とかいったりして。今のおもろいやろ、アッハッハ」
なんて言って女子から
「いやーん、マツダ君めっちゃおもしろーい」
などとウケを取っているわけだが、こちらとしては「そうでっか……」としか答えようのない状況だ。
まあ、私もそこは和を重んじる日本男児なので「なんでやねーん」なんて、いつもは笑顔でつっこんでいたのだが、あるとき少々めんどくさくなって、ちょっとした「仕掛け」をしてみることにしたのだ。
彼の「遅刻して、電話に出んわ」というボケに対し、
「いやあ、天気は関係ないねん。ただ、ちょっと2時間くらい宇宙人に誘拐されてただけやから」
目には目をなハムラビ法典的「つまらないボケ返し」をしてみた。
自分としてはこれは、あえてこれをかますことによって、
「キミのやっていることも、この程度のことなんだぞ。どうだ、迷惑だろう。青年よ、今キミがあるのは、周囲の愛と思いやりで成り立っていることを、たまには自覚しても損はあるまい。一度、これを機会に自己を振り返ってみてはどうか」
という理解をうながす、そんな意図を持った、
「友としての、遠回しで思いやりある啓蒙活動」
のつもりであった。
要は「おもんな!」と思っていただいたのちに、「ということは、オレのギャグも……」と、「人の振り見て我が振り直せ」になってくれればいいかな、と。
ところが、これが思わぬ方向に転がることとなった。マツダ君はふと真顔になって、
「なんやそれ。宇宙人なんか、おるわけないやんけ!」
そう、つっこんできたのだ。
これだけなら、クラスメート同士の罪のないじゃれあいであり、高校生のくだらないやりとりだが、そのツッコミを発した瞬間のマツダ君の表情はそんな能天気なものではなかった。
その「おるわけないやんけ!」のあとすぐ、彼は「あ!」と小さく声をあげた。
そうして、5秒ほど呆然としたように、私の顔を凝視していたのだ。
その気の抜けたような顔には、ありありとこう書かれてあった。
「し……しまった……」
それを見て当時17歳の私は、同じように思ったのだ。
「こっちこそ……しまった……」
(続く→こちら)