ボンクラ学生のための、楽できる(かもしれない)第二外国語選択講座 フランス語編

2018年02月28日 | コラム

 前回(→こちら)に続いて第二外国語履修のお話。

 前回は「まえがき」として、



 「外国語学習は大変だし、大学の授業はスカが多いから、単位の取りやすいものを選べ」



 という大原則を紹介した。

 本当に勉強したかったら、講義なんかより大学図書館に通いましょう。 

 では、今回から具体的に何語がおススメか、そうでないかを語っていきたい。

 まず学生時代を振り返ると、私の通っていた千里山大学(仮名)ではドイツ語フランス語スペイン語中国語ロシア語から選択できた。

 これらをひとつずつ検討していくことにすると、まず1番最初に言えることは、



 フランス語は取っちゃダメ



 これは、ドイツ語選択でドイツびいきの私が、ライバルをくさして言うのではない。

 周囲にいた、多くのフランス語履修者がうったえる、血の叫びなのだ。

 なんたって、自らの意志で仏語を選んだ本人たちが言うのだから、間違いはない。

 100パーとはいわないが、まあ8割くらいは試験の季節になると、死んだ魚のような目になって言うのだ。



 「フランス語なんか、取らんかったらよかった……」



 失敗の巻である。

 ではなぜ彼らが、一様にフランス語選択を後悔しているのかといえば、まあ単純に学習するのにむずかしい

 他の言語(たとえばラテン語とか)とくらべて、格別難解ということでもないはずが、まあ英語に苦戦したのと同じくらいには、またしんどい思いはしなければならない。

 他の選択肢があるのに、あえてわざわざ、フランス語を取る意味はない。もっと楽な道はある。

 にもかかわらず、なぜ彼らはフランス語を選んでしまうのか。

 それはズバリ、



 オシャレそうだから」


 
 フランス語選択者は、まあたいていが、この理由で選んでいる。

 もちろん、「サルトルやカミュを原語で読みたい」みたいな殊勝な人はいるかもしれないが(いないか)、そういう人は元々仏文科に行くであろう。

 先も言ったが、外国語学習というのは大変である。

 英会話学校のCMのように、

 

 「趣味感覚で」

 「外国の人に道を聞かれたときに困らないように」

 

 くらいのモチベーションでは、まず続かないといっていい。

 語学学習に必須なのは、「大変」の壁を超える「必要」か「好き」。

 これが、すべてなのだ。

 勤勉で教育レベルも高い日本人が外国語を苦手なのは、学校教育がどうとか以前に、この「モチベーション」に劣るところがあるから。

 ここを解消しないかぎり、授業をどういじくっても大同小異。

 元大阪市長の橋下徹さんが、

 

 「大阪府民の英語力アップ」

 

 をさかんに喧伝してたけど、「うまくいかんやろうなあ」と思ってて、実際そうだったのも、たぶんここに根本がある。

 「必要」も「好き」もない人に、こんなめんどくさいことをやらせる、というのに無理がある。

 これを英語でなく

 

 「大阪府民の物理学力アップ」

 「大阪府民の図形問題証明力アップ」

 

 に言いかえると、文系の人なら、そのゲンナリ感がわかるだろう。

 よく「買い物するのに微分積分はいらない」という数学嫌いがいるけど、それは語学も同じなのだ。

 「外国人に道を聞かれたとき」のために、人はTOEIC高得点を目指さない。

 英語だろうがフランス語だろうが、

 

 「今のところ、日本で日常生活を送るのに、まったく必要がない困らない

 

 という現状がある以上、政治家がほえようがオリンピックをやろうが、そんなに変わらないと思う。

 かように、モチベーションなきところに、楽しい外国語学習なし。

 それを「フランス語はオシャレ」で2年もやらされた日にはアータ、待っているのは苦難の道である。

 こうしてフランス語選択は学園生活に大きな被害をもたらし、楽しいキャンパスライフの大きな重しになるのである。

 もう一度言うが、大学の勉強で役に立つのは、教授やカリキュラムじゃなくて「自主性」と「図書館」。

 あとネット環境があれば、いつでもだれでも勉強はできる。

 そのためにも、「必要」「好き」でないかぎり(逆に「ある」なら、どんなに大変でも迷わず選びましょう)、無駄にしんどいフランス語はやめておきましょう。

 実際にフランス語やってた連中が、軒並み言ってるんだから、まず間違いなし。

 フランス語の先生方すいません、正直あんまりおススメできません。



 (ロシア語編に続く→こちら



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ボンクラ学生のための、楽できる(かもしれない)第二外国語選択講座 

2018年02月27日 | 海外旅行

 第二外国語は、なに取ったらええんですか」。



 あるとき、そんな相談してきたのは後輩ノダくんであった。

 何年か前のことだが、めでたく大学に合格したノダ君が、やれうれしや、これからは遊びまくりの4年間だ。

 ……という前に、まずしなければならないのが、第二外国語の選択。

 フランス語ドイツ語などなじみのない言語を選ぶというのは、よくわからないところも多い。

 そこで、頼れる先輩である私に相談してきたというわけだが、この選択はまったく正しい

 というのも私は学生時代、文学部に学んでいた。

 でもって、ドイツ文学科ドイツ文学専攻。

 当然のごとく、専門的にドイツ語をビシバシ習っていたのだ。

 そんな私は、いわば第二外国語そのものが専攻といっていいわけで、その道の玄人。よくぞ聞いてくれました、といったところであろう。

 そこで今回から数回にわたって、春から新入生になる若者諸君、中でも外資系で働きたいとか、キャリアアップになどではなく、



 「なるたけラクチンに人生をわたっていきたい」



 というボンクラ学生たちに向けた、第二外国語選択術を語っていきたい。

 なんせもう10年以上前の経験談で、現在の大学のシステムに合っているかはわからないが、言語の難解さなど自体は普遍なので、多少は参考になるのではないか。

 ではまず、具体的にどの言語がどうという前に、大前提として知っておいてほしいことはコレ、



 「外国語学習というのは、なかなかに大変な作業である」



 みなさまも学校の英語の授業や、受験勉強で身にしみていると思うが、外国語を学ぶというのはしんどいことも多い。

 なので、私のような

 

 「そもそも自らの意志で、外国語を学びたい」

 

 もしくは

 

 「外国語が必須の学科しか受からなかった」

 

 という人以外には、とにかく「単位取りやすさ」を優先していただきたいのだ。

 というと、



 「そんなん、あたりまえやん。だれが好き好んで、卒業の足かせになるような授業選ぶねん」



 といった返事が返ってきそうだが、それがそうでもない。

 学生には、とくに

 

 「大学ではしっかりと学びたい」

 

 と気合をいれているまじめな子や、第一志望の学校に見事合格して、マックスに浮かれまくっている子などは、ついテンションが上がって、



 「これを機に、外国語がしゃべれるようになりたい!」

 「ぬるま湯に甘んじず、きびしい先生のもとで本当教養を身につけたい!」



 なんて、無駄なチャレンジ精神に燃えるものが、後を絶たないのだ。

 いわゆる「四月病」というやつだが、ゴールデンウィーク明けにはその熱も冷めるし、さらには日本の大学の授業のつまらなさや、教授のやる気のなさなどに失望し、



 「ノリと勢いで履修しまくった、単位を取るのにめんどくさい授業ばかり」



 という借金が残ることに。

 こうなると五月病まっしぐらで、そのときの返済負担を少しでも減らすためにも、第二外国語のハードルは下げておくことをおススメするのだ。

 正直、高性能の自動翻訳機が出る時代になったら、語学もいらなくなるかもしれないしね。

 というと、学校の先生やマジメな学生の中には、



 「そんなばかりしてどうするの? だから日本の大学生はバカばっかりって言われるんだよ!」



 なんてお怒りになるかもしれないが、私は別に楽をして「遊べ」と言っているわけではない

 ただ、先も言ったが、ハッキリ言って日本の大学の授業は役に立たないものが多い。

 だから、そんなものはできるだけ、鼻息プーの楽勝で取れるものを選んでおいた方が心身に負担が少ない。

 これは断言できるけど、本当に「勉強したい」と思ったら大学なんて頼ったらダメ

 必要なのは「充実した図書館」と、今ならネット環境。

 「頭が良くて尊敬できる友達」がいると、なおベスト。あとはやる気次第です。

 で、その「やる気」が日本の大学には決定的に欠けている(少なくとも私の時代はそうだった)のだ。

 だから、「勉強するために大学に行く」は、ナンセンスとは言わないが、実戦的ではない。

 どうしても出たい授業なんか「もぐり」で受ければいいし、外国語だって、どうせテキストをダラダラ読むだけのことも多いから、そんなもんに時間と労力つかうより、スマホでNHK語学番組でも聴いたほうが、なんぼか役に立つ。

 そう、勉強は大事だけど、その労力は「学ぶ」ことに費やすべきで、「単位を取る」ことに浪費すべきではない。

 そのためにも、講義などできるだけ出ず、自前でやるほうがいいのだ。

 実際、海外旅行先で出会った外国語をしゃべれる人で、「大学の授業でマスターした」なんて人に外大生以外に会ったことないし、某超一流大学を出て英語圏で仕事をしている知人に、どういう勉強が役に立ったか訊くと、



 「なんのかの言っても、NHKのラジオ英会話かな」



 そういうもんである。

 以上、まず私がいいたかったことといえば、


 外国語学習はけっこう大変だし、加えて大学の授業はつまらないし、役に立つことも少ないから、単位の取りやすいものを選んで、勉強したい人は、節約した時間と余力で、自分でやりましょう。


 ということ。

 「第二外国語はしろ」というのは、それでサボれということではなく、



 「単位修得のための勉強」



 という本末転倒を避けてほしいからだ。

 それは結局、語学へのアレルギーや苦手意識を増幅させるだけで、労多くして益が少ない。

 学びたければ図書館へ。ゆめゆめ大学なんかに幻想をもって「四月病」にかからぬよう、お気をつけなされよ。

 まずそれが、この講座のキホンのキ。

 では次回は、もうちょっと具体的に、フランス語のお話へ進みたい。


 (続く→こちら



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一神教を理解には、橋爪大三郎『ふしぎなキリスト教』と東直巳『ライダー定食』を併せてどうぞ その2

2018年02月24日 | 
 前回(→こちら)の続き。

 橋爪大三郎『ふしぎなキリスト教』を読んだ後、東直巳『ライダー定食』を読んだら、その「食い合わせ」が悪くておどろいた。

 なにが悪かったのかといえば、この『納豆箸牧山鉄斎』は、「納豆をかき混ぜる」ためだけに買ってこられた安物の箸が主人公。

 その過酷な運命(らしい)にほんろうされる彼に、箸仲間たちが同情と友情の涙を流し、不条理な世の中に対して雄々しく立ち向かうという、それはそれは熱い物語なのである。

 というともうおわかりだろうが、これはコメディーである。

 箸たちの、ほとばしる情熱が熱ければ熱いほど、「けど、お前ら箸やんけ」と笑いが起こる。

 そのどこが食い合わせが悪いのかと問うならば、この運命の不条理に嘆く箸たちのディスカッションというのが、完全無欠にキリスト教などの神学論争のパロディになっているからである。

 箸たちは、「我々は想像主である人間を愛する」と口をそろえる。


 「ではなぜ、人間は我々に納豆かき混ぜ専用箸という試練をあたえるのか」


 天に向かって問うが、人間は答えを与えてくれない。

 そらそうだ、だもん。

 そこから箸たちは、


 「この試練は、人間が我々を試しておられるのだ」 

 「それでも人間を愛さなければならないのか」

 「なぜ沈黙なされるのです、人間よ」


 と悩みに悩むのだが、これは「箸」を「人」に、「人」を「神」にスライドさせれば、まんま神学者たちの議論になるんですね。

 これが、すごいうまい。読んでいると、

 「あー、そうか。神はなぜ残酷か、気まぐれか、遠藤周作先生が言うように《沈黙》するのかって、こういうことなんやあ」

 大げさでなく蒙が開けた気がする。一神教の不条理さが今ひとつ理解できない人は、この短編を読んでみるといい。

 すごくモヤモヤしたところが、クリアになります。

 神はなにを思うのか、答えはそうだったんだ、

 「だって、箸やもん」。

 でもって、これがたまさか、その前に『ふしぎなキリスト教』を読んでいたために、その内容がぐわわわわんとシンクロして共鳴したのである。

 おかげで、それ以来真面目なキリスト教の本を読んでも、「神とはなにか」みたいな命題が出てきて、それについてえらい人たちが語れば語るほど、三位一体も精霊の御名もどれもこれも、すべてが「納豆かき混ぜ箸」の言葉に聞こえてしまい、

 「神はなぜ我々に、このような不条理をお与えになるのか」

 とか言われても、そらウチらが100均で買った箸が折れたりしても、なんとも思わんわけで、迷える子羊のなげきも重厚な神学論もこれすべて、

 「だって箸やもん」

 の一言で議論が終わってしまうこととなり、昔読んでおもしろかったシェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』も、もう下手するとギャグとして読んでしまうかもとか、頭をかかえたのであった。




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一神教を理解には、橋爪大三郎『ふしぎなキリスト教』と東直巳『ライダー定食』を併せてどうぞ

2018年02月23日 | 
 「食い合わせが悪い」ものというのがある。

 うなぎに梅干し、天ぷらにかき氷と特段根拠はないというが、気にする人は気にするものである。

 私も昔、昼ご飯を食べながらヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んでいたら、あまりにくらーい内容に、せかっくおいしくいただいていたアツアツのマカロニグラタンが、すごーく不味くなってしまい閉口したことがあった。

 食事のおともに、青春の蹉跌的陰気くさい文学は合わない。

 こないだ食い合わせが悪かったのは、宗教と納豆。

 といっても、なんのこっちゃわからないであろうから、ここに説明すると、先日『ふしぎなキリスト教』という本を読んでいた。

 社会学者の大澤真幸氏が、橋爪大三郎氏に質問をぶつけるという形で、キリスト教について解説していくというもの。

 内容的にはおもしろいのだが、本域のキリスト教徒からすると「間違いだらけ」「的はずれもはなはだしい」と、ネットの書評などで悪く書かれているケースもある。

 私はキリスト教徒ではないので、そこまで間違っているのかは判断できないし、個人的には橋爪先生がそんないいかげんな人のようには思えないけど、どうも怒ってる人は多いようだ。

 自分自身、将棋やテニスなど、そこそこ深くファンをやっているジャンルだと、専門でない媒体や、そんなにくわしいわけでもない著名人が取り上げてくれた際、たとえそれが好意的であっても、

 「うーん、そこはちょっとちゃうなあ」

 と感じることも多いから、クリスチャン側が(そこまで厳しく批判するかどうかは別にして)違和感をおぼえる気持ちも理解できなくもない。

 要するに、「オタクは専門分野に関して口うるさい」というのは、ジャンルを問わないということか。

 だが、それを置いてもこの本には正しい間違っている以前に、

 「本として、ものすごーく、おもしろい」

 という圧倒的なアドバンテージが存在するわけで、たぶんそんじょそこらの「正しい」宗教本よりも、読破率は相当高いはず。

 そこが、考え方のわかれるところだ。

 「正しいが、いまひとつおもしろくない」

 と、

 「多少、間違っているかもしれないけど、かなりおもしろい」

 を天秤にかけると、これは後者の方が支持を集めることが存外に多いのだ。

 かくいう私も、どっちかといえばそう。特に、初心者は正誤よりも「とっかかりがいい」ことが大事だし。

 事実関係については、そこから自分で勉強して修正していけばいいけど、最初が「正しいけど退屈」だと、次のステップがない。

 といっても、「まちがい」の部分があまりヒドイと、そこからもずっとその「まちがい」を前提に思考してしまい、ときには「おもしろさ」を優先するあまり、「トンデモ説」にかたむいてしまったりすることもあり、それはそれで問題である。
 
 橋爪先生の場合、そこまでの心配はないにしても、まあ、こういうことは何事も一長一短であり、世の中あちらを立てれば、こちらが立たないのが世の常。

 そんなわけで、本題のキリスト教よりも、

 「教養とエンターテイメントの両立の難しさ」

 みたいなことを考えさせられてしまった読書体験であったが、次は気分を変えて楽しい物語を読もうと、東直巳『ライダー定食』を手に取った。

 東直巳さんといえば、『探偵はバーにいる』など、ススキノ・ハードボイルドのイメージが強いが、この本はそんな固茹で卵なものとは全然ちがう、「奇妙な味」というか幻想小説というか、実に摩訶不思議な短編がそろっていて、ちょっと驚いた。

 中でも、「納豆かき混ぜ専用の箸」を主人公にすえた、『納豆箸牧山鉄斎』がもんのすごくバカでおもしろくて、もうハラホレヒレと目を回しながら読んでいた。

 こりゃ、2冊連続で当たりを引いたなとよろこんでいたのだが、あにはからんや、なんとこれが食い合わせが悪い2冊だったのである。


 (続く→こちら



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ブラックマヨネーズ吉田さんの『フランケンシュタイン』解釈に一票を投じます その2

2018年02月20日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 『マヨブラジオ』という番組で、映画『フランケンシュタイン』を見て、


 「ただ姿が醜いというだけで、みなから石を持って追われるフランケンはオレと同じなんや!」。


 そう熱く思いのたけをぶつける、ブラックマヨネーズの吉田さん。

 だが、相方である小杉さんは、それを聞くと、「そうか」と同調するかと思いきや、腹をかかえて爆笑したのだ。

 軽くおどろいて、

 
 「え? 今の話の、なにが笑うところあるん?」


 そうたずねる吉田さんに小杉さんは、 

 「あんなバケモンに感情移入して泣いてるヤツ、世界でお前だけやぞ!」

 バシッと、そうツッコミを入れておられ、共演していたアナウンサーの林マオさんも、「そうですよ」とうなずいていた。

 これには、ポカンとする吉田さんの顔に、テレビの前で笑ってしまったもの。

 そう、このおふたりが笑ったのは、おそらく映画自体を観ていなかったからと、あと吉田さんの熱弁を「ボケ」と解釈したからであろうけど、それ以上に両者が、いわゆる「リア充」系の人ということもあるのだろう。

 たしかに『フランケンシュタイン』という映画の根底には

 「醜いゆえ、理不尽にしいたげられた者の悲しみ」

 が存在するが、そういう目にあったことのない人には、なんのこっちゃかもしれない。

 その意味では『フランケンシュタイン』の話を聞いて笑う小杉さんと林アナは「幸せ」といえるかもしれないけど、自らを「虐げられたもの」の立場に置く吉田さんとは、同じ作品を見ても感想が真逆になるのだ。

 それゆえの「あれはオレ」「そんなんお前だけや」のすれ違い。仲のよさそうなブラマヨの2人にして、このわかりあえなさ。

 本当に、物事は見る角度によって、解釈などいくらでも変わるのだ。『ベニスの商人』のシャイロックとか、シェイクスピアの意図はふつうに「ユダヤ人悪役にしたれ」だろうけど、私が読んだときは、

 「このアントーニオとかいうヤツは、商才はないしバカっぽいし、金が要るときはおがみ倒して借金するくせに、自分の失敗で金が返せなかったら『そんなに金が欲しいか! この守銭奴! ユダヤの豚め!』とか逆ギレする最悪のクソ野郎やな」

 と思ったものだ。ポーシャの言い分は一休さんレベルの「とんち」だし、かといってシャイロックが「悲劇の人」っていう解釈も善人ぶりっこというか、

 「こういう捉え方、新しいでしょ? 情感にうったえかけるでしょ?」

 っていう「ドーダ」感がイヤな感じだし、読み終わっても全然スッキリせえへん!

 ということで、「シェイクスピアの代表的恋愛喜劇」という教科書の記述を見ると、「どこがや!」と、いつもつっこんでしまうのだ。

 こういうことって、よくあるよなあ。

 他にも、よくマンガ好きだったり、学生時代運動部だったりした友人が、

 「『タッチ』の南ちゃんみたいな子、あこがれるよなあ」

 なんて言うのを聞いても、

 「あんな、男に『甲子園につれてって』とかいうてる女なんて、主体性もなくて、話してもつまんないやろ。だいたい、部内に彼氏(正確にはそうではないけど)がおるマネージャーって、逆に士気下がらへんか?」

 なんて思ってしまって、

 「えー、なんでやねん」

 「かわいいマネージャーに応援される方が、燃えるやん」

 とイマイチ賛同されない。

 うーん、南ちゃんにかぎらず、私は少年マンガに出てくる

 「男の汚れ物洗ってくれそうなマネージャーキャラ」

 が、まったく魅力的に思えないのだ。

 つきあっても、絶対おもしろくなさそうだものなあ。まあ、私の

 「一番好みの二次元キャラは、『あたしんち』のしみちゃん」

 という意見も、全然賛同されませんけど。

 プロインタビュアーの吉田豪さんや、漫画家の山田玲司さんは、話す相手のことを知ろうとするとき「好きな映画」をたずねるそうだけど、たしかにそれは趣味嗜好というより、

 「その人が、自分をどの視点に置いて世界を見ているか」

 を探るのに有効そうで、相手を知るにおいて理にかなった質問なのかもしれない。



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ブラックマヨネーズ吉田さんの『フランケンシュタイン』解釈に一票を投じます

2018年02月19日 | 映画
 「その映画の観方は、小杉より吉田の方が正しいんとちゃう?」。

 なんてことを思ったのは、ブラックマヨネーズが出ていたあるテレビ番組を見ているときのことだった。

 映画というのは、観る人の立場や性格によって様々な解釈が出てくるのがおもしろい。

 新海誠監督『君の名は。』は一般的には「号泣必至の大傑作」だが、評論家やプロのクリエイターといった玄人筋からは、


 「ムチャクチャよくできた、お涙頂戴」

 「魂を売ったけど、それでちゃんと当てたのは偉い」



 などと、やや世間の温度とは違う。

 映画『第9地区』では、そのおもしろさの反面、ややシナリオに荒いところがあり、映画評論家の町山智浩さんはハッキリと、

 「ちょっとおかしいんだけどね」

 と首をひねっていたけど(映画の内容自体はほめてます)、絶賛派のライムスター宇多丸さんは、


 「あれは作り手側が、観客を信頼したうえで、《あえて》矛盾を残しているんです」

 そう熱くフォローされていた。

 かくのごとく、映画にかぎらず物語は「だれに、どの立場に肩入れするか」によって感想も違ってくるのだが、それが実にわかりやすい形で出たのが、ブラックマヨネーズの2人の会話だった。

 かなり前の話になってしまうが、ブラマヨが司会をつとめる『マヨブラジオ』という深夜番組を見てたら、「好きな映画はなにか」という話題で、吉田さんがこう言ったのだ。

 「オレは『フランケンシュタイン』やな」。
 
 小杉さんとアシスタントの女子アナ林マオさんが「へー、どこがよかった?」と続きをうながすと、吉田さんは、


 「あの映画、フランケンはなんも悪ないねん。せやのに、ただただ醜いっていうだけで、みんなから嫌われてるねん」。


 そこから吉田さんの口調が激しくなり、


 「オレと同じなんや。見た目が良くないからって、なんか怖いとか言われんねん」。


 この時点でかなりアツくなっていた吉田さんは、


 「そんで、孤独に耐えかねたフランケンが、山奥でひとり泣きながら吠えるシーンがあるねんけど、もう気持ちわかるんや。あれ、自分やもん。そこでもう、オレなんか号泣や!」

 
 おおむね、こういった内容のことを熱弁していたのだ。

 バラエティーとしてみると、ブラマヨの漫才でおなじみの、

 「狂った屁理屈を押してくる吉田のボケ」

 のようだが、『フランケンシュタイン』という映画を語るにおいて、これは重要なテーマである。
 
 もともとこの映画、リメイク版は未見なのでわからないけど、元祖のボリス・カーロフ版にしろ、そのオマージュ作品(『シザーハンズ』とか)にしろ、作り手の意図は様々だが、観客側は

 「フランケンシュタイン(正確には「フランケンシュタインの怪物」)がかわいそう」

 という感想をいだくことが多い。

 実際ストーリーを追うと、怪物は結果的に人を殺してしまうものの、それは「事故」であり、彼に悪意や殺意はこれっぽちもない。いやむしろ、子供のような無垢な心の持ち主なのだ(少女殺しは、そのイノセントさが原因になってしまい悲しすぎる)。

 対称的に創造主であるフランケンシュタイン博士ら怪物を追い詰める側は、自分たちの正義を妄信したおそろしい人々のようにも見え、和田誠さんと三谷幸喜さんの対談でも、

 「この映画では、怪物が一番まともなように見えますね(笑)」

 と意見が一致していた。

 このあたりのことは作家の本田透さんも「電波男」系の本で取り上げているけど、そう、

 「フランケンシュタインの怪物がかわいそう」

 という吉田さんの共感は、映画のテキスト的にも玄人の視点からでも、充分に「正しい」といってもいいものなのだ。

 ところが、これに対するリアクションがおもしろかった。

 相方である小杉さんは、吉田さんの熱弁を聴き終えたあと、やおらお腹をかかえて大爆笑したからだ。



 (続く→こちら




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将棋は「打つ」ではなく「指す」だと、ブームを機会に知ってほしい!

2018年02月14日 | 将棋・雑談

 「《将棋を打つ》っていう人に対する反応って、むずかしいよなあ」。

 先日、飲み屋で一杯やっているとき、そんなボヤキを発したのは、友人ミナミモリ君であった。

 きっかけは、昨今の空前ともいえる将棋フィーバーのこと。

 藤井聡太四段(C1昇級を決めて今は五段)の鮮烈デビューからはじまって、羽生善治竜王・棋聖永世七冠達成などもあり、世間やネットで、将棋はかつてない大盛り上がりを見せている。

 これには、長年の将棋ファンである私とミナミモリ君も、大いによろこんでいるのだが、こういった時期にかならず向き合うこととなるのが、

 「将棋を打つ

 という言い回し。

 将棋ファンにとっては、「ああ、あれね」と、たいていは苦笑とともに理解していただけると思うが、将棋は「指す」が正しい。

 けど、これが世間ではあまり浸透していなくて、将棋を知らない人やライトなファンの方々は、けっこうな確率で「打つ」を使うのだ。

 これに対して、どう反応していいのかというのが、毎度悩ましい



 「将棋は《打つ》じゃなくて《指す》が正解だよ」



 と教えてあげるのが、まあ普通なんであろう。

 こういうとき「へーそうなんだ」と納得してくれれば問題はないけど、中にはイラっとされて、



 「いちいち、うっとうしいなあ」

 「どっちでも同じだろ」



 なんて逆ギレされることもある。

 また、ネットやテレビなどで、そこそこ将棋に接している人の中には、



 お前の方こそ間違ってるぞ。

 だって、テレビで羽生さんが《打つ》って言ってたもん。知ったかぶりして、恥ずかしいなあ



 なんて反対にさとされて、どうしたもんかと頭をかかえたりもする。

 なにより、あまりにも「打つ」が幅を利かしている場所だと、いちいち訂正するのもこっちがめんどくさいし、偏屈な人みたいで場の空気を悪くしかねない。

 そういった長年の経験を踏まえての、「むずかしい」という友の悩みになるわけだ。

 ここに将棋ファンとして明言しておくと、将棋をすること、つまりスポーツでいう「play」を意味する言葉は「指す」なのです。

 「将棋を指す」が正解

 「将棋を打つ」は間違い


 まず、この大前提をふまえた上で、ではここに



 「テレビやネット中継では《打つ》を使ってたけど」



 という疑問にお答えするならば、将棋において「打つ」のは持駒の場合のみなんです。

 みなさんも、将棋番組や手元の将棋のを、あらためてチェックしてみてください。

 「打つ」という表記があれば、それは100%、駒台にある持駒を盤上に置くときだけなのです。

 これは絶対にです。


 「敵陣に飛車を打つ」

 「角を打って馬を作る」

 「銀の割り打ち」

 「頭金を打って詰み」

 「香車は離して打て」

 「金底の歩を打つ」



 などなど、そのすべてが持駒使用のときのみなのです。

 それ以外、盤上を動かすのはすべて「す」。ゆえに、


 「先手は初手▲76歩と打った」(×)

 「▲68飛と打って四間飛車を選んだ」(×)

 「▲88玉と打って矢倉に入城した」(×)


 
 これらはすべて、必然的に誤りとなります。

 全部「指す」が正しい。だから、厳密にはチェスも「指す」になるはず。

 将棋を「play」するのは「指す」であり、「打つ」のはその中の

 「持駒を使うとき」

 のみに使う、限定用語とでもいうべきもの。

 スポーツでたとえれば、サッカーをしていて、


 「シュートを打つ」

 「フリーキックを蹴る」
 
 「ゴールを決める」



 と言いますけど、


 「サッカーを打つ」

 「サッカーを蹴る」

 「サッカーを決める」



 とは言いません。野球なら、


 「ボールを投げる」

 「バットで打つ」



 と言いますけど、同じく「野球を投げる」「野球を打つ」とは言わない。

 まあ、意味は通じなくもないけど、間違ってるし、変な言葉でもある。それこそ、


 「オレ、メッシ大好きなんだ。彼がサッカー蹴るときは、絶対見るからね」

 「ワールドシリーズは残念。ダルビッシュはもっといい野球を投げられるのに」


 なんて人がいたら、スポーツファンは「え?」ってなりますよね。少なくとも、

 「どっちでも同じだろ」

 って返されたら、「そうだよね」と、うなずくことはないはず。同じじゃないよ、と。

 「将棋を打つ」

 これはファン以外にはどうってことなくても、こちらからすると、それくらいに違和感のある言葉なんです。

 お笑い好きにとっての「M―1のコント」とか。

 ミリタリーファンにとっての潜水艦が「沈む」とか。

 「アメリカの首都ニューヨーク」とか「ウィンブルドン男子シングル決勝」みたいな、気持ちはわかるけど、聞いた途端ガクッとしちゃうワードなんですよ。

 ということで、この「将棋を打つ」問題は、整理すれば

 「将棋を指す」が正しくて、持駒を使うときだけ「打つ」。

 というだけのシンプルな話なんだけど、これがなかなか伝わってくれず、ひそかな将棋界の課題。

 ただまあ、ここまで説明したところで、あらためて思うことには、間違って伝わるのも、ある程度しょうがない面もあるかもなあと。

 それこそ、親戚のような関係の囲碁は「打つ」が正しいし、ゲームなのに「指す」なんて言葉にもなじみがなさすぎる。

 そして、なによりというか、理屈抜きで、あの駒音の「打つがインパクト充分。

 「ビシ!」でも「パシ!」でも「バシ!」「パチーン!」など、表記は好みでも、あの木と木が触れ合う乾いた音は、「打ってるなあ」という気になるものなあ。

 特にプロが奏でる本式の駒音は、盤と駒の良質さも相まって、耳になんとも心地よく響く。

 これが「打つ」じゃないんだから、言葉ってむずかしい。

 なので、テレビや雑誌など、言葉をあつかう商売の人には一応正しく使ってほしいけど、それ以外に関しては、

 「一応、そういうことなんで」

 としつこくない程度に、伝えておくくらいがいいのかなあと。

 まあ、こういうのはファン歴が長くなってくると、自然と解消されるものなのでしょうけど、一応参考までに知っておいていただけると、うれしいです。


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奇跡のバックホーム 第78回夏の甲子園決勝 松山商業vs熊本工業 その2

2018年02月11日 | スポーツ
 前回(→こちら)の続き。

 熱戦となった1996年夏の甲子園決勝、松山商業対熊本工業戦。

 9回二死から同点ホームランという、これ以上ない劇的な展開で追いついた熊本工業。

 勝負の世界は、追いついた方がそのまま勢いにのって追い越してしまうというのが常。熊工も押せ押せムードにのって、延長戦でもペースをつかむ。

 10回の裏。熊工はヒットと送りバント、敬遠の四球で1死満塁の大チャンスを作り出す。

 ヒットはもちろん、外野フライやスクイズ、エラーでも熊本工業が悲願の初優勝。

 この絶体絶命の場面で、松山商業のベンチが動く。

 マウンドは2年生エース新田から、3年生の渡部にゆずられている。新田はライトに回っていた。

 監督はなんと、そのライトの新田をベンチに下げ、矢野選手と交代させたのである。

 この采配、私にはにわかに意味がわからなかった。

 守備固めということであろうが、ここまで追いこまれてからでは遅い気がしたし、新田投手を下げてしまっては、もしこのピンチをしのげても、万一そのあと渡部投手にアクシデントがあったらどうするのか。

 それと、失礼なことに、「もう負けは決まってるのに、往生際が悪いなあ」という思いもあった。

 同点の延長戦の裏で満塁。ふつうに考えれば、もう決まったも同然だ。男なら、死ぬときは小細工なんてせずに静かに斬られんかいと、そんなことすら考えていた。

 そして数分後、そんな自分の不明を恥じることとなるのである。

 この最後の最後の交代劇が、奇蹟を生むことになろうとは、我々はもとより、監督も矢野選手すら思いもしなかった。

 なんたってすでに、スタジアムは「熊本工業優勝おめでとう」といったムード一色に染まっていたのだから。

 私とハヤシ君は「思い出代打ってのはよくあるけど、思い出守備固めなんてめずらしいね」などと、呑気なことを言っていた。

 交代のアナウンスも終わり、バッターボックスには熊本工業の本多選手。

 こんなもん、勢いからして初球から打つのが男の子というもの。フルスイングした打球は、高々とライトに飛んでいった。

 なんという皮肉か。それはそれで、まあいい思い出か。

 最後のボールが、代わったばかりの矢野選手のところに飛ぼうとは。

 1塁側の大歓声、3塁側のため息をのせて飛ぶ大飛球は、ライトの深いところへ。犠牲フライには充分すぎる飛距離である。

 少し後退した矢野が、バックホームにそなえて前進しながら取る。3塁ランナーはタッチアップ。矢野が全力で投げる。

 私はこの時点でもまだ、矢野選手のことを「往生際が悪い」と思っていた。「でもまあ、最後の思い出に、全力で投げたくもなるわな」と。

 こういう冷めたヤカラは、土壇場で奇跡を起こせないのであろう。

 バックホームの球はカットに入ろうとしたファーストの頭上を越えて、ものすごい勢いで本塁へ飛んでいく。

 さっきは目の前をホームからレフトに放物線を見たが、今度は反対側でやはり反対に放物線を描いているのが見える。

 ボールがミットに収まる、ランナーが飛びこむ、キャッチャーがタッチする、そして審判ののども裂けよというコール。

 「アァァァァァウトォォォォォォォォ!」。

 甲子園が爆発したような大歓声。スリーアウトチェンジ。

 沢村選手のホームラン同様、私はこのときも、一瞬なにが起こったのかわからなかった。

 ライトに打球が上がった時点で、もう試合は終わったものと思いこんでいたからだ。電車混む前に帰ろうかと。

 そこにこの大歓声。スコアボードの10回裏に「0」の文字。ようやく理解できた。奇跡が起こったのだ。あらまあ。

 延長は11回に入った。結果的に見て、試合はもうここで終わっていた。

 前回、野球はドラマを起こした方が勝つといい、沢村のホームランはまさにそれだと言った。

 だが、この矢野選手のバックホームはそれらをすべて帳消しにするほどの、大大大大その後さらに大がつく、特大のファインプレーであった。

 矢野選手本人が、

 「もう一度やれと言われても、絶対にできません」

 と認めるような、まさしく万にひとつ、億にひとつのプレー。

 選手交代の妙や、9回の同点劇時におけるアピールプレーのアヤなど細かい要素もはらんでの、絶対に再現不可能な一連の流れがそこにはあったのである。

 11回の表、攻守ところを変えた松山商業が、機嫌よくせめまくって3点を奪う。

 その裏、熊本工業は反撃の気力もなく無得点。

 6-3で松山商業が優勝を決めた。

 松山商業の校歌を聴きながら、私とハヤシ君はただただ「すごかったなあ」「こんなこともあるんやねえ」と、間の抜けた感想を言い合った。

 勝つために必要なものとは、努力とか根性とか技術とか色々あるんだろうけど、たぶん最後の最後の本当の決め手になるのは「運とめぐり合わせ」なんだろうなと思った。


 おまけ ※9回裏同点ホームラン→こちら

     ※奇跡のバックホーム→こちら




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奇跡のバックホーム 第78回夏の甲子園決勝 松山商業vs熊本工業

2018年02月10日 | スポーツ
 甲子園で「奇跡のバックホーム」を生で見たことがある。

 というのが、ひそかなる自慢である。

 先日、春のセンバツ出場校が発表されたが、甲子園といえば観戦もさることながら、過去の名勝負についてあれこれ語るのも楽しみのひとつだ。

 私は現実の高校野球よりも、どちらかといえば野球マンガの方を好むタイプなので、地元大阪代表といえば大阪桐蔭や履正社よりも、南波か通天閣に御堂筋学院。

 「延長18回の熱戦」といえば、箕島対星稜よりも、「出島対宮野農業」といったノリになりがちだが、縁あっていくつか、あれこれと語り草になる試合を観戦したこともあるのだ。

 その試合とは、冒頭の「奇跡のバックホーム」といえば、高校野球が好きな人なら「ああ」とうなずいていただけるだろう。

 そう、第78回大会。1996年夏の甲子園の決勝戦、松山商業対熊本工業。あれを球場で直に見たことがあるのである。

 きっかけは野球好きの友人ハヤシ君に「甲子園行けへん」と誘われてのこと。ふだんなら1日に4試合みられる大会前半に行くのだが、このときはスケジュールの都合で決勝戦のみになった。

 金払って1試合しか見れへんって損やなあと思ったものだが、これが思わぬケガの功名になるのだから、まったく人生とはわからないものだ。

 試合は松山商の先攻ではじまった。

 1回の表、熊本工業は決勝のプレッシャーからかピッチャーの制球が定まらず、押し出しなどで3点を献上してしまう。

 熊本工にとっては痛い3点であったが、ここから持ち直して、試合は決勝戦らしい、しまった展開になっていく。

 松山商も攻めるが追加点は取れず、一方熊本工は2回と8回にそれぞれ1点ずつ返して、じわりじわりとにじり寄る。

 プレッシャーをかけられる松山商だが、そこはさすが決勝まで来たチーム。巧みな継投策で反撃を封じ、試合は9回の裏、二死でランナーはなしというところまで進むこととなった。

 どうやら、このまますんなりと終わりそうだ。私とハヤシ君は「なかなかいい試合だったね」なんて言いながら、閉会式を見るか、それとも帰り道が混む前に一足早く出て飲みに行くかを相談していた。

 われわれは3塁側の松山商業サイドの席で観戦していたのだが、そこに試合途中から、

 「51回大会の、延長18回の試合の関係者の方はいらっしゃいませんか」

 とダンボールに大書して歩いている男性がいた。

 あの伝説の、三沢高校との延長18回の死闘のことだ。私も本で読んだことがある。太田幸司さんが、アイドルみたいにキャーキャー言われてたらしい。

 松山商業のOBか、それともスポーツ記者なのかもしれないが、どちらにしてもその後集まって、打ち上げでもやるのであろうか。

 もし松山商が勝ったら、どれほど盛り上がることか。9回になってもその男性はいたが、すでに優勝を確信しているように余裕の表情を見せていた。

 そんなとき、ドラマが起こったのである。

 夏の甲子園も、いよいよクライマックス。バッターボックスに向かうのは、1年生の沢村選手。

 ここまで熊本工は2者連続三振と手が出なかったが、沢村は松山商業の2年生投手である新田の初球をフルスイング。

 打球は私のいた3塁側スタンドの前をスーッと通って、レフトのポール近くに吸いこまれていった。

 瞬間、なにが起こったのかはよくわからなかった。

 というのも、スタンドインのその刹那、巨大な甲子園球場が一瞬、水を打ったように静まりかえったからだ。

 いや、実際はそんなことあるわけがないし、今当時の映像を見直しても静寂などありえないのだが、体感では本当にスッと時が止まったように感じられたのだ。

 なので私はファールだと思った。なんや、いい当たりやのにおしいかったなあと、グラウンドに目を戻して、なにかがおかしいことに気づいた。

 沢村は2塁ベース付近を周りながらガッツポーズをしている。新田投手はマウンド上でペタンとへたりこんでいる。1塁側から割れんばかりの歓声。

 そして、スコアボードの9回裏には「1」の文字。

 ここでようやっと事態が把握できた。あの目の前の放物線は、ファールどころか、沢村が放った乾坤一擲にして起死回生の、同点ホームランだったのだ。

 終わっていたと思った試合に、とんでもないドラマが待っていた。まったく油断をしていた。

 よく「野球は筋書きのないドラマ」なんていわれるが、実際には試合をリードしている方が順当に勝つのがゲームというものである。筋書き通りなのだ。

 希少価値があるからこそ、ことさら「筋書きのない」などと強調される。

 そのドラマが、まさか目の前で起こるとは。ハラホレヒレ、こんなことって、あるの?

 現金なもので、劇的と知ったあとになってみれば、あのホームランは今でも目に焼きついている。

 カンという乾いた音とともに、吸いこまれるとしかいいようのない軌道を描いてスタンドに飛びこんだ。

 俗に「アーチをかける」なんていうが、なるほどホームランというのは美しいものであるなあと、今さらながら知ることとなった。

 これで3-3の同点でだが、流れからいえば圧倒的に熊本工業が有利である。

 先も言ったが私は野球マンガが好きだ。その世界では9回2死からホームランで追いつくようなチームは、かならず逆転勝ちを収めるのだ。

 もちろんまだ試合は終わってないが、少なくとも私が松山商業の選手なら、もうやる気をなくしていることだろう。

 ここまで来てやり直しなんて、あんまりだ。とっとと家に帰りたいよ。

 果たして、試合はまさかの延長戦にもつれこむこととなる。栄冠に手を触れかけたところで揺り戻された松山商業、一方押せ押せの熊本工業。

 だが、勝負の神様はこの延長に、さらにすごいドラマを用意して我々をおどろかせることになるのだ。



 (続く→こちら



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小島剛一『トルコのもう一つの顔』で読む、「単一言語民族国家」幻想の危うさ その2

2018年02月07日 | 
 前回(→こちら)の続き。

 小島剛一『トルコのもう一つの顔』によると、トルコという国は自らのことを「単一民族で、単一言語の国家」と位置づけている。

 だが言語学者である小島氏によると、それは現実を無視した、そう思いたいだけの欺瞞であるという。

 世界のあらゆる国や民族は、スキあらば自分たちに心地の良い、かたよった歴史を語ろうとし、そのこと自体は心情的に理解できなくもないが、問題となるのはそのファンタジーと矛盾する存在を、ときに非人道的手段で「なかったこと」にしようとしてしまうことだ。

 ナチスによる「背後からの一突き」理論や、アヘン戦争に対するイギリスの態度に、アメリカのインディアン迫害。

 カティンの森、ヴィシー政府に天安門事件、わが国でも南京事件をはじめ、認めたくない負の歴史の数々など、この手の話は枚挙に暇がない。

 「あんなものは、なかったんだ」と。

 トルコの場合は先も出た、ザザ、ラズ、イスラムのマイナー一派であるアレウィー教徒のような、「単一民族国家」にはあってはならない少数民族。

 トルコ政府は彼らの文化や言語を迫害し、それに反した者を逮捕投獄。ときに残忍な拷問をくわえる。

 実際、小島氏もそういった危機におちいっている。そう、氏がやっている「トルコ少数民族言語の調査」は、単なる反論を越えて、大トルコ主義ビリーバーな人々にとって完全無欠にタブーの抵触になるからだ。

 このあたりの展開は、あたかも冒険小説のごとき緊迫感であって、知的興奮とともにサスペンスフルな興味からどんどん読み進めてしまうが、そうして読書を楽しみながらも、同時にトルコの持つ「もう一つの顔」にショックをかくせない。

 私も子供ではないから、世の中に完璧な人などいないくらいわかっているつもりだが、それにしても、本書はその重い内容と同時に、トルコ旅行の際に親切にしていただいたトルコの方々の顔が思い浮かんで困ったものだ。

 それはおそらく、小島氏も同じだったろう。これが物語に出てくる独裁者のような、わかりやすくイメージできる「悪」だったらなんということもないが、なまじトルコという評判のいい国だけに、「もう一つの顔」のギャップは下腹のあたりに、ズッシリとのしかかる。

 何より怖いのは、これは外国の話で他人事のようだが、我々だって知らずに似たようなことを日々の生活でしているかもしれないということだ。

 多くのトルコ人も、自分たちが「もう一つの顔」を持っていることを、さほど意識していないに違いない。

 なぜなら彼らは、学校で「トルコはトルコ人の国」と教えられ、素直にそれを信じている、もしくは「愛国心」からそれを信じたいと願っている。

 そもそも、疑う理由もきっかけもないのだ。だとしたら、我々も、彼らと同じような欺瞞におちいっていないと、いったいだれが言えよう。

 『トルコのもう一つの顔』はもしかしたら、同時に『日本のもう一つの顔』をもあぶりだしかねない、おそろしい一冊かもしれない。

 本書には長らく続編が望まれていたが、諸処の事情で封印されていた。

 ところが2010年に、本書に感銘を受けた雑誌『旅行人』の元編集長である蔵前仁一さんの尽力によって、20年ぶりに沈黙が破られることとなる。

 『漂流するトルコ 続「トルコのもう一つの顔」』では、『トルコのもう一つの顔』のラストで著者がトルコを国外追放されたところから物語がはじまり、前作以上のサスペンスフルな展開がくり広げられる。

 2冊セットで、ぜひどうぞ。

 
 

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小島剛一『トルコのもう一つの顔』で読む、「単一言語民族国家」幻想の危うさ

2018年02月06日 | 

 本日は小島剛一『トルコのもう一つの顔』という本を紹介したい。

 トルコというのは、日本ではあまりなじみはないが、私のような旅行好きにはすこぶる評判の良い国である。

 イスタンブールの街並みやカッパドキアの奇岩、古代の遺跡の数々、物価も比較的安価で食事も美味しい。

 そしてなによりも親切でフレンドリーなトルコ人との出会いと、旅を楽しむのに必要な要素がこれでもかと(旅行者をねらったボッタクリ店や詐欺師をのぞけば)詰まった国なのだ。

 だが、そんな旅行者のパラダイスとも言えるトルコに知られざるもう一つの、それも外からは絶対にうかがい知ることのできない、暗黒面ともいえる怖ろしい顔があることを著者は本書であばいてしまうのだ。

 言語学者である小島剛一氏は、やはり私と同じくトルコとトルコ人の魅力に取りつかれ、毎年のように彼の地をおとずれ言語学的フィールドワークにはげんでいた。

 綿密な調査を送る中、小島氏はトルコ政府の言語教育が極めて偏ったものであることに違和感を抱くようになる。

 専門的な話は本を読んでもらうとして、ここでざっくりと説明すれば、トルコ政府の見解ではこうなっているという。

 「トルコはトルコ人単一民族の国であり、言語もトルコ語しか存在しない」

 これはおかしいと著者は言う。

 彼の国の奥地まで潜入して調査している氏にとって、トルコにはトルコ語を母語としないラズ人、ザザ人といった少数民族が存在する。

 そもそも世界情勢にうとい私だって、トルコには「クルド人問題」というのがあることくらいは知っている。にもかかわらず、

 「トルコが単一民族、単一言語国家」

 と押すのは無理があろうというのは、素人でもひっかかるところだ。

 だが、トルコ政府の言うことには、

 「あれはすべてトルコ人で、彼らが話す言葉はすべて《トルコ語の方言》にすぎない」

 これに専門家である小島氏は「ちょっと待て」と。そのような乱暴なうえに手前勝手な理屈は我慢ならん。

 そんな説などトルコ国内だけでしか通用しない、世界の言語学者がだれひとり認めていない妄想に過ぎないと大反論。

 専門家の意地にかけて、あらゆる論理と実証からトルコ人を次々論破していく小島氏の迫力は読み所だが、一方のトルコ政府はそのような意見を一顧だにしない。

 いや、できないといっていいだろう。というのも、トルコ政府は自国が「多民族国家」であることを認めると、少数民族のナショナリズムに火がつき(実際クルド人などは各地で激しい抵抗運動を行っている)国体維持が難しくなると怖れている。

 さらにトルコには、今は零落したがかつての「オスマン帝国」のプライドがいまだ捨てられず、「とにかくトルコが偉い」という証拠を(仮にそれが妄想や捏造でも)ぜひとも探したい。

 その「大トルコ主義」によれば中央アジアから果てはジンギスカンまでが「トルコ語をしゃべるトルコ人」ということになる。だからトルコは偉いのだ、と。

 ここまでくれば小島氏ならずとも「んなアホな」であろうが、ちょっと鏡を見てみれば、我が国もさほど人のことも言えまい。

 国や民族というのは自分たちのプライドを満たす(特に経営がうまくいってないときは)ためには、「嘘でもいいから偉いと言いたい」因果な存在なのだ。

 日本やトルコだけじゃない。あの国も、この民族も、地球上すべての人間がそう。

 世の歴史書を読めば、世界の国々が、いかに「自分たちに心地よい歴史」を語りたくて必死か、滑稽なほどによくわかるときがある。

 問題はその「自分の心を守るための嘘」ために、そこに内包された欺瞞を(自ら望まずとも)暴いてしまう存在が、迫害されることがあることだ。


 (続く→こちら




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ブルネイではサッカーの試合に皇太子殿下が出ます 佐藤俊『越境フットボーラー』 その2

2018年02月03日 | スポーツ

 前回(→こちら)に続いて、佐藤俊『越境フットボーラー』を読んだおはなし。

 この本では香港ヴェトナム、はたまたアルバニアといった、日本ではまず知ることのないサッカーリーグのことが語られている。

 そのカルチャーギャップに、選手たちが戸惑いながらも立ち向かっていくところが読み所のひとつだが、中でもユニークなのが、伊藤壇選手がプレーしていたブルネイ

 ブルネイといえば豊富な天然資源でもって、その王族は世界一金持ちなどといわれている。

 大金持ちといえば、野球やサッカーに競馬など、スポーツのオーナーになったりするというのがひとつの定跡であるが、ブルネイの場合はさらにふるっていて、なんと試合に出場してしまう。

 世界の成金王族や独裁者といえば、そのありあまるでもって、バカでかい宮殿みたいなのを造ったり、国中に自分の銅像を建てたり、そういう、わりとトホホなことをしがちなところが、腕の見せ所(?)。

 ブルネイの王族もその御多分にもれず、不労所得を使ってマイケルジャクソンを呼んだり、やたらとでかい遊園地を造ったり、やることが変というか、実に独創的でユニークなのだ。

 莫大な天然資源マネーで造るのが、ゆかいな遊園地!

 ステキである、としか言いようがない。

 そんな庶民派(?)王族のブルネイだが、ビッグマネーの力で試合に出てくるのは、なんと皇太子殿下

 しかも、オープニングのスピーチとかではない。本当に選手として登場するのだ。

 それもエキシビションではなく、本式の公式戦でである。マジか。

 以前クロアチアでは、テニスのウィンブルドンチャンピオンであるゴーランイバニセビッチが、



 「どうしてもプロサッカーの試合に出たい!」



 ワガマ……ファンとして熱く要望し、なんと本当にクロアチアリーグの公式戦に特例で出場したことがあったけど、それ以上のご乱心である。

 日本でいえば、なでしこジャパンの試合に、愛子様佳子様が出場するようなもんか。

 なんとも、おおらかなリーグであるが、この天覧試合ならぬ天出試合とでもいうのか、これが当地では、なかなかの盛り上がりを見せるのだという。

 なんといっても、試合でプリンスが良いプレーを披露すると、ゴキゲンになって選手にボーナスが出るそうな。

 それも、さすがは世界の大金持ち。

 金一封なんてセコイことは言わずに、ドーンとベンツ一軒家

 当然のこと、みなプリンスにナイスシュートを決めてもらおうと、必死のパッチでアシストにつとめる。

 そらそうだ、これ以上効率の良い「出来高制」もあるまい。シュート一本、即ベンツ

 また、プリンスが、万一ケガなどされては大変なので、敵チームも下手なことはできない。

 ゴール前など、普通なら激しくタックルやチャージを決めるところを、そっと触れる程度。

 いわば、シューティングゲームの「無敵」状態なので、伊藤選手はいつもさりげなく、プリンスの近くでボールを追っていたという。

 そうすれば、自分もけずられないし、スペースが空いて、のびのびプレーできるからだ。

 昔、子供同士で鬼ごっこをやっていたときに、小さい弟とか妹がまじると、タッチしても鬼にならない「ごまめ」というルールがあったが、それを思い出してしまった。

 うーん、なんていい加減なという気もするが、これはこれで楽しそうである。

 フーリガンが暴れるとか、そんなギスギスしたゲームより、こっちのほうが全然健全かもしれん。

 なにより、このやり方だと、押しつけがましい愛国教育なんかよりも、よっぽど王族に親しみが持てるではないか。

 日本も取り入れてみればどうか。




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アルバニアやインドネシアのサッカーリーグってどんなの? 佐藤俊『越境フットボーラー』

2018年02月02日 | スポーツ

 佐藤俊『越境フットボーラー』を読む。

 日本人のサッカー選手といえば、Jリーグでプレーするのが夢であり目標だが、この本では海外で活躍する選手を追いかける。

 というと長友佑都香川真司といった、イタリアドイツという「本場」に挑んだ男たちかと思いきや、そうではないい。

 主にアジア中南米。

 またヨーロッパでも、マイナーな国でプレーする選手に、スポットを当てているところが、本書のユニークなところだ。

 たとえば、星出悠選手は社会人選手としてプレーしていたが、そこでチーム再編という事態に巻きこまれてしまう。

 社員として残るか、それとも安定した身分を捨ててでも、サッカーを続けるかの選択をせまられる。

 悩んだ末に渡米し、そこでプレーした後、紆余曲折あってトリニダートトバコリーグに所属することに。

 CONCACAFチャンピオンズリーグ(北中米カリブ海のクラブチームによる大会)に出場するなど、大活躍を見せた。

 中村元樹選手は、子供のころから海外でプレーすることを夢見ていたが、資金の問題などで断念。

 そこで、地道に日本でやっていくことを決意するが、なんと進学先の高校にはサッカー部がなかった

 やむをえずフットサル部に入るも、正規ルートからの、Jリーグへの道は閉ざされることに。

 だが、そこでくじけなかった中村選手は、単身ドイツに渡り、ヨーロッパやアジアのチームとも交渉。

 アルバニアリーグでプレーすることが決まり、現地メディアで

 

 「アルバニアで初めてゴールを上げた日本人」

 

 大きく取り上げられることとなった。

 酒井友之選手は、ナイジェリアで行われたワールドユース準優勝メンバーだが、その後所属したヴィッセル神戸から、戦力外通告を受けてしまう。

 エリートがまさかの挫折だが、サッカーへの想いは絶ちがたく、インドネシアに飛んでプレーを続けることに。

 インドネシアリーグなんて、日本では想像もつかないが、行ってみると待遇面は、下手なJリーグのチームより良かったそう。

 また収入面では落ちるものの、物価を比較すればむしろ日本にいるよりも余裕のある生活が出来るというから、なんでも聞いてみないとわからないものである。

 このように個性的な面々が登場する本書では、香港ヴェトナムインドといった、日本ではなかなか知ることのできないサッカー事情もかいま見えて、非常に興味深い。

 本書を読むと、そういった未知の世界に触れることができると同時に、世の中には「様々な生き方がある」と感じさせられる。

 もちろん、彼らもなじみのない外国では、言葉カルチャーギャップなどで苦労することも多く、



 「やっぱりJリーグでやりたいし、環境的な面では日本が最高」



 口もそろえるが、それでもインドネシア香港マレーシアなどは、下手に日本でくすぶるよりも、金銭面でも待遇面でも充実しているというのは、何度も出てくる話。

 また、人脈という点では、国内だけでは絶対に出会えないようなツテができたりもする。

 なにより、ひとりで当たって砕けて、「自主独立」の精神が、鍛えられるではないか。

 子供のころからサッカーやって、ユース高校選手権、Jリーグ、海外。

 というのがエリートの基本パターンであろうが、世界にはその道一本だけではない、他にも様々なルートや可能性が存在する。

 そのことが、教えられる。

 そうなんだよなあ。

 沢木耕太郎さんも『深夜特急』でいってたけど、日本では

 

 「進学→就職→出世コース」

 

 みたいな、正規ルートの人生からはずれてしまったり、自らの意志で降りたりした人、いわゆる「ドロップアウト」からの選択肢が少ないと。

 中には、ちょっと変則的な道を歩んだだけで「負け犬」とか「あいつは逃げた」などと、決めつける人もいる。

 ややもすると、スポーツの世界で体罰や、非人道的なしごきなどがはびこりがちなのは、この「正規ルート」を権力者側が「人質」に取っているから、という面もあるのではないか。

 でも、実際のところは人の生き方なんて千差万別だし、今のご時世、ドロップアウトせずに「逃げ切る」ことは難しいかもしれない。

 だとしたら、我々はこういう敷かれたレールからはずれた人の話に、もっと耳を傾けても、いいのではなかろうか。

 むしろこれからは、こういう生き方を出来る人こそが、生き残れるのかもしれないではないか。

 たとえ何が起ろうと人生は続くのだ。

 この本を読めば、たとえ一度はつまずいたりしても、やる気と工夫と努力次第では、なんなりとやりようはあるかも、と教えられる。

 進路で悩んでいる方や、自分が目指していた道から、ちょっと回り道してしまったという人にも、ぜひ読んでみてほしい一冊。

 少し視界が広がって、力がわいてくること請けあい。

 

 (続く→こちら




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