前回(→こちら)に続いて、石井邦生『我が天才棋士・井山裕太』を読む。
「天才井山」というよりも、どちらかといえば「弟子にメロメロな石井先生かわいすぎ!」という、若干タイトルにいつわりありな本書だが、もちろんそこには幼少期の井山六冠王の興味深いエピソードもたくさん紹介されている。
6歳でテレビ出演し、大人をごぼう抜きした当時、裕太少年はまだまともな算数もできない小ささだった。
囲碁や将棋、チェスなど盤上ゲームに長けている人は、たいてい計算力や図形認識力、パターン把握など理数系に強いが、そもそも計算がまだ出来ない幼児が碁を打てるというのが、石井九段からするとありえないのだそうな。
この一点だけでも、井山少年のおそるべき才能が知れるというものだが、私が気になったのは、そういった天才エピソードの数々の中に秘められたこんなお話。
囲碁や将棋などは、その世界を知らない人が想像するよりも、実は体力を必要とする競技だ。
一局打ち終えると、まず体重が2キロくらいは減るというし、特に2日制の棋聖戦や本因坊戦では、終局後の消耗は半端ではない。
トップ棋士ともなれば、移動と対局に追われるハードスケジュールのこなしかたも勝負の一つである。中国や韓国の棋士たちは、研究の中にランニングなど体力作りも必修で取り入れているという。
なので、井山君にも当然体力作り的な調整法も求められているのだが、基本的に弟子の育成に関しては、
「師匠がいらぬ口出しをしない」
という、のびのび教育で向かった石井先生。
ゆえに、体作りにおいても「健康に気をつけなさい」と言っておく程度だったらしいだのだが、そこで井山君が選んだ体力増強法というのが、なんとビリーズ・ブートキャンプ。
ビリーズ・ブートキャンプ。
そう、一時期ダイエットなどの特集で有名だったアレ。元アメリカ陸軍連兵軍曹のビリー・ブランクスが考案したトレーニング。
むくつけき黒人男ビリー(なぜか大阪人)がワンツーワンツーいいながら、むちゃくちゃハードなエクササイズを行い、挫折率は間違いなく100%近いであろう、あのDVDである。
それを井山裕太がやっていた。この本の中で一番インパクトがあったのが、彼の早熟ぶりでも名人戦での戦いぶりでもなくこれであろう。
井山君、キミ、ビリーズ・ブートキャンプやっとったんかい!
これには思わず「うーん」と腕を組んでニンマリしてしまった。似合わない。井山君とビリーズ・ブートキャンプという組合わせが似合わなすぎて、思わず笑ってしまう。
というと失礼な話だけど、それはしょうがない。そもそも囲碁とハードなエクササイズというのがミスマッチだし、あのおとなしくてかしこそうな井山君が、家でガンガンにトレーニングしまくっていたって想像すると、なんだかかわいらしくって頬がゆるむのだ。
だって、井山君の風貌はアメリカ兵というよりは、
「超秀才私立高校のクイズ研のエース」
って感じだし。それがビリーと踊ってたら、そら気になるよ!
と、そんなこと言ってると、「またアホなことを……」とあきれられそうから、ちょっとグッときちゃったシーンについても言及しておくと、それは巻末に収録された対談シーン。
そこで井山君は『ヒカルの碁』の原作者ほったゆみさんと話をしているだのだが、その締めくくりが良かった。
「今後のヒカルはどうなるのでしょう」
という井山君の質問に、ほったさんの答えというのが、
「井山さんの将来、未来が、そのままヒカルの将来、未来ですよ。だから、井山さんをずっと見てたいですね。
もし誰かに「『ヒカルの碁』に続きはないんですか」と聞かれたら、「あ、続きは井山さんを見ていてください」と答えます(笑)。
井山さんが負ければ、ヒカルも負けるんだ。まだまだ無理なんだ、ということですし、井山さんが勝てば、ああ、ヒカルも勝てていくんだ、ヒカルやアキラもがんばって、きっとこういうかたちを作っていけるんだ、と思うでしょう。井山さんはヒカルやアキラ、そのままだと思います」
さすがは名作マンガの原作者、ええこというやないの。
そう、井山裕太はまさにマンガの中からでてきたような天才でありスーパーヒーローなのだ。多くの伝説を背負って現れた、リアル進藤ヒカルでありリアル塔矢アキラだ。
井山君が勝てば、ヒカルたちも勝つ。負ければ、ヒカルたちも負ける。『ヒカルの碁』の続きを読みたい方は、マンガでそれはかなわないなら、今すぐ井山裕太に注目するべきなのだ。
原作者も認める続編の主人公がここにいる。私も一ヒカ碁ファンとして、「いいこと聞いた」とうれしくなってしまった。
ちなみに、井山君は『ヒカルの碁』の中で好きなキャラは伊角さんだそうな。なんでも苦労しながらもがんばっているところがいいとか。
たしかに、階段を一足飛びに上がっていってるヒカルやアキラよりも、自分の弱いところを試行錯誤しながら克服していこうと努力する伊角さんは、プロから見ても共感できるキャラクターなんだろう。実際、彼にかぎらずプロ棋士の多くが伊角さんの苦闘にリアリティーとシンパシーを感じているという。
井山君も伊角さんのごとく悩んだり迷ったりしながらもがんばって、七冠を、そして世界を目指してがんばってほしい。
石井邦生『我が天才棋士・井山裕太』を読む。
ここ数年、囲碁界の話題といえばもっぱら「井山裕太、夢の七冠王なるか」に集まっていた。
2年前、井山裕太は棋聖、名人、本因坊、王座、天元、碁聖の六冠を保持し、七冠への道を着実に歩みつつあった。
ところが、勝負の世界はそんなに甘いわけでもないようで、最後に残った十段戦の挑戦者決定戦で高尾紳路九段に敗れ、その後も天元と王座を失い四冠に後退。一時は試合終了かと思われた。
さらには棋聖戦で山下敬吾挑戦者に出だし3連勝しながら、そこから3連敗して剣が峰に追いこまれたときは、七冠どころかここからずるずる落ちていくのではと心配されるも、第七局をしっかり勝って防衛すると、そこから本因坊、碁聖、名人をたてつづけに防衛。返す刀で王座戦、天元戦も挑戦者になり奪取、見事六冠に復帰。
そしてとうとう、先日の十段戦の挑戦者決定戦を制し、七冠制覇が現実のものとなりつつある。最後の刺客である伊田十段を倒せば(と今行われている棋聖戦を防衛すれば)、ついにドラゴンボール、じゃなかった囲碁界の七大タイトルがすべて一人の男のもとに集まることとなるのだ。
となれば、おそらくは世間で「井山フィーバー」が起こることはまちがいあるまい。2年ほど前から囲碁を覚えはじめ、テレビの『情熱大陸』などで特集されているのを見て井山ファンになってしまった私だが、ここは飲み屋などでも、
「まあな、井山も最近はがんばっとるみたいやけど、オレが育てたようなもんや」
などとブイブイいわせられるよう石井先生の本を手に取ってみることにしたわけだ。
本書はそんな井山君の少年期からトップ棋士になるまでの経緯を、師匠である石井邦生九段がつづったもの。一読これでもかと伝わってくるのは、とにかく師匠である石井九段の弟子に対する深い愛情。
タイトルからして、ふつうに読めばスポットを浴びるのは当然のこと井山棋聖であるはずだが、実際にページを繰ると、そうじゃなくて、主人公は間違いなく著者の石井先生。
なんたって、本人自らが、
「親バカならぬ師匠バカだが」
と、何度も書くくらいに、弟子の井山君を溺愛しており、しかもそれを隠そうともしないのだからむべなるかな。
テレビの『ミニ碁一番勝負』で、当時まだ6歳(!)の裕太少年と出会ってから、弟子にするといっては
「この天才を、自分なんかが預かっていいのか」
と悩み、家が遠いといえば知恵を絞ってネット碁と電話で指導対局をし、プロ入り後も裕太君の大一番ともなれば自分の対局中でも気もそぞろ。
終局と同時に検討もそこそこに弟子の対局を見に行き、勝てば祝杯をあげ、負ければやけ酒を飲む。
果ては、井山君が名人戦で張栩名人に惜敗したときには、傷心の弟子の心中を思うとかわいそうで仕方がないと、なんと大盤解説場でお客さんの前で涙を見せるという。
もう全編を通して、
「もうな、ウチの裕太がかわいいてしゃあないねん!」
という、裕太ラブラブパワーが全開。
でもって、そんな石井先生がかわいすぎるという、タイトルから想像できる「天才棋士井山の軌跡」というよりも、どう見ても読みどころが「孫をかわいがるおじいちゃん萌え」な一冊なのである。もう、BGMは大泉逸郎で決まりですなあ。
もう読み進めながら、
「石井先生、理想の老後を送ってはるなあ」
なんだかうらやましいような気持ちにもなるわけだが(いや、石井先生はまだ現役の棋士なんですが)、もちろんのこと石井先生も自分のことばかり書いているわけではなく、中身的にはこれからの囲碁界をリードしていく井山裕太という男の幼少期の興味深いエピソードも盛りだくさんなのである。
(続く)
前回(→こちら)の続き。
フエコちゃんという女の子に恋した我が後輩バンバ君。
好きなら告白すべしと私は思うのだが、こういってはなんだが、このふたりはあまりつりあっているとは言い難かった。
ずばり、フエコちゃんはかわいくて人気者だが、バンバ君は悪い子ではないがいかんせんイケてない。
たとえるなら、フエコちゃんがAKBのまゆゆとすれば、バンバ君は漫才コンビ「馬鹿よ貴方は」の新道さんのイメージ。
その「格差」は歴然であった。
そこで告白するにしろせんにしろ、とりあえず事前調査は必要であろうと、好奇心も手伝って私が出動。機会を見て、
「ねえフエコちゃん、好きなタイプの男の子ってどんなん?」
うっかり私こそが気があるとカン違いされないよう、そこは気を使ってそれとなくたずねてみたのである。
「彼氏にしたい子身近にいてないの? ほら、たとえば○○君とか□□君とか、あとほら、バンバ君とか」
するとフエコちゃんはそれまで和気あいあいと話していたのが、スッと無表情になって、
「別にいないですけど。とくにバンバ君は全然タイプじゃないですね」
一刀両断であった。あらら無念バンバ君と、
「そっかー、やっぱ近くにおると、案外友達としてしか見られへんもんかなあ」
さりげなくフォローを入れると、やはり氷のような表情のフエコちゃんは、
「いえ、友達とも思ってませんけど」。
このあたり女の子というのは実にシビアである。取りつく島もないとはこのことだ。しかも、ダメを押すように
「シャロン先輩、もしその件で向こうになにか言いたいことあるっていうんなら、なんとか止めてくださいね」
うーん、見破られている。
まあ、私がどうこう言う前から、女子はカンが鋭いからある程度は感じるところはあったのだろうが、そうまで言われては終了である。
そう、前も言ったが、女子にとって無謀な告白は無用なストレスであって、本当に、心の底から迷惑なのだ。
彼女がそう念を押すのは、責められないところはある。
バンバ君もかわいい後輩だが、私からすればフエコちゃんだって、またかわいい後輩なのだ。できれば、いらぬ苦痛はさけさせてあげたい。
これにてバンバ君の恋の行方は「はい、消えた」である。
なれば私の仕事は口八丁手八丁で彼の「カミカゼ」を阻止し、なあなあですませて世界平和をはかる。
ミュンヘン会談におけるネヴィル・チェンバレンのごとき宥和政策が求められるのだ。
だが、そこで頭をもたげてくるのが、私の告白哲学である。
「好きなら告白したほうがいい。後悔を残すな。男なら、いや女でもどーんとその想いを伝えんかい!」
それが、100%勝ち目のない戦いならどうなのか。
フラれるのは、傷つくのはわかっている負け戦にもかかわらず、あえて行くべきなのか。
私の答えはこうだ。
「行きなさい。想いを伝えなさい」
ボーンと背中を押してあげた。
やはり、好きだったら、告白した方がいい。
無理とわかってても、結果泣くことになっても、やっぱり伝えたほうがいい。
女の子が迷惑なのもわかる。勘弁してくれと思うことだろう。
実際、フエコちゃんにはあとでコンコンと「だから言ったのに」と諭された。
でもゴメン、私はやっぱ男の子であるゆえ、男子の味方なんですわ。
『キャプテン翼』の岬太郎君も言っているではないか。
《お父さん、やらずに悔やむより、やって悔やめだよね》と。
そう、青春に悔いを残してはいけないのだ。当たって砕けろ、そしてダメだったらオレの胸で泣けばいい。
というのは建前でホントは
「その方がネタ的におもしろい」
というNHK『ようこそ先輩』ならぬ『ようこそひどい先輩』なのだが、まあ本気で好きなら告白した方がよいとは本当に思ってはいる。
なので、どの選択肢が正しいのかどうかは知らないが、私としてはそう言うしかない。
しこうして、下馬評通りけんもほろろにフラれたバンバ君。
予想通りとはいえ見事な轟沈に言葉もない私に、傷心のままポツリと、
「やって悔やむより、やらんと悔やむほうがよかったです……」
もうね、このときはお兄さん、心の中で100万遍さけびましたよ、「ごめんよー!」って。
ああ、切ない。でもね、そうやって傷ついたりすることもきっと悪くないんだ。
一度傷ついた経験があれば、その分他人の痛みを理解できるようになる。
人の気持ちを今よりちょっとだけわかれるようになる。それを「成長」っていうんじゃないかなあ。
というのは打ちひしがれているバンバ君には聞こえようもない。
元気出しなよ、きっと他にいい子いるよ。失恋の痛みをいやすには、次の恋をすればいいのさ。
女なんて星の数ほどいるし。時がたてば、これも思い出だし。
という「正解」は、フラれ虫にはなんの意味もないことは、私も経験上わかっている。
「でもボク、今はフエコのことしか考えられないッス……」
「忘れりゃいーじゃん」で忘れられたら世話ないよな。
それしかないけど。恋の痛手に、論理というのは、かくも無力なのだ。
こういう男子の姿を、私は幾度となく見てきたわけだ。
そのたびに私は、自らの考えが正しいかどうか悩むわけだが、かといって告白しなくて結ばれぬ恋だけは受け入れがたいし。
みなさん、どうしたもんでしょう。私はけっこう真剣に正しい答えを模索しているところです。
前回(→こちら)の続き。
好きになってしまったら告白すべきか、せざるべきか。という難題に、
「好きになったのなら、告白しなさい」
どのようなシチュエーションでも、かならずこう回答する私。
ほとんど、大槻教授のなんでもかんでも「これはプラズマです」のごとき告白原理主義的回答だが、これは私自身の過去の経験がベースになっているのでしょうがない。
それが求める答えではないなら、他の窓口へ並んでもらうしかないのだ。
ではそれが、「フラれる可能性が高い」状況でのことだったらどうか。
それでも行くべきかどうか、悩ましいところである。
「○○さん(私の本名)、ちょっと相談があるんすけど……」
神妙な表情でそう切り出したのは、当時まだ高校生だった後輩バンバ君であった。
「実は、ボク、好きな子がいるんですけど、この想い、伝えたほうがええですかね……」
私はこう見えて、ときどき恋愛相談を受ける。
と言うと誰もが「それ相談する相手間違ってるやろ」と爆笑するのだが、その反応はまったくもって正しい。
たいしてモテもせず、恋の手練手管にもくわしくない私に恋愛相談するなど、うさぎにチョップでカワラ20枚割をさせるようなもんである。根本的に注文する部署が間違っている。
ではなぜそんなボンクラ兄さんに声をかけるのかといえば、それは相談者もやはり全体的にボーっとしたボンクラ少年青年であり、モテる男に相談すれば、
「え? そんなの普通に声かけたらいけんじゃん」
などと参考にならないうえにプライドも損傷する返答が返ってくる可能性は大。
そこで、そんな「上から目線」な発言ができるほどはイケてないが、ボンクラのわりには一応はそれなりに人生経験を積んでそう。
かつ、恋愛に発展するわけではないが(しそうになっても見事な空振りを披露する)、女の子とまったく接点がないわけでもなくふつうに女子の友達もいるから、まあコイツくらいに訊いてみっか、と。
一言でいえば、相談相手として「ちょうどいい」のだろう。
そんな二丁拳銃の漫才のごとき「ちょうどええ」男をチョイスしたバンバ君が恋した相手は、フエコちゃんという女の子。
彼女は私の後輩でもあり知っているのだが、笑顔のステキなかわいらしいお嬢さん。
明るい性格だが控えめなところもあって、男女問わず好きにならずにはいられないような子であった。
そんな子を好きになるとは、バンバ君もお目が高いというか、
「イケてない男子ほどクラスの一番かわいい女の子を好きになりがち」
という「シャロンの法則」にぴったりのケース。
なぜモテない男子ほど「一番かわいい子」に目をつけるかといえば、そういった子は女の子と接する機会がないから、どうしても人を「見た目」でしか判断できない。
それゆえに、ただでさえモテないのに自ら選択肢をせばめ、ますます女性と縁遠くなる。まさしく、デフレスパイラル。
その一方で、ふつうに女の子と話せる子は見た目以外の性格やその他のファクターでも女の子の魅力をはかれる。
それにより、ぐっと視野と選択肢が広がる。それゆえに、恋人もできやすくなるのだ。
なので、バンバ君の選択には苦笑いと同時に、「まあ、しゃあないよな」と理解もするわけだが、ここに私の哲学を当てはめるなら、当然答えは
「好きなら告白しなさい」だ。
だが、ことはそう簡単ではない。
というのも、バンバ君と私、そしてフエコちゃんはおたがいに知った者同士だ。
これだと、うまくいけば問題ないのだが、そうでなかった場合、何かとしこりのようなものが残ってしまう。
せっかく今だと「同じグループの友人同士」という位置をキープできているのに、それを失ってしまうという可能性もあるのだ。これは気まずい。
結果はどうあれ、その後もせまい世界で人生は続くのだ。
会社や部活などで、似たようなことで迷われた人も多いのではないだろうか。
さらにいえば、私はこの恋の結末を知っていた。
実のところ、この私自身うすうすバンバ君の気持ちに気づいていた。
コイツ、身の程も知らん……じゃなかった、健気にもフエコちゃんにホレとるのう、と。
好きになるはいいが、そこはなんせ、血気盛んな10代だ。もちろんのこと、告白するとかせんとか、そういった話になるのは目に見えている。
となれば、私も多少はかわいい後輩のために尽力しよう……というのは表向きで、ホントのところは単なる野次馬根性から、リサーチを試みることにしたわけだ。
で、その結果というのが……。
(続く→こちら)
好きになってしまったら告白すべきか、せざるべきか。
というのは、人類開闢以来答えの出ない問いである。
もうすぐバレンタインデーとあって、同じような思いに煩悶する人は多いのではなかろうか。
私の場合この問題には答えが決まっていて、
「好きになったのなら、告白しなさい」
この一点しか用意していない。
それは私自身がかつて、好きな女の子と両想いだったにもかかわらず、ちょっとしたすれちがいやら何やらあり。
で、お互いに告白せずにいて、結局は恋が成就しなかった経験があるから。
なんのかのあった後に決死の思いで告白したが、時すでに遅く、
「好きだったのに、どうしてあのとき言ってくれなかったの?」
放課後の部室で、こう返されたときには、生まれて初めて腰が抜けた。
ひざから崩れ落ちるという体験をしたのは、あとにもさきにも16歳のあのときだけである。
だから私は結果にかかわらず、恋の相談にはこう答えるのだ。
どっちも好きなのに、その想いが交差せず、ザルに流しこんだ水のごとく受け止められることなく消えていく、そんなことはあってはならない。
だから、好きなら行きなさいと。
この話は、一応それなりに支持は受けることはできる。
「言うたほうがええよな」と語ると、男女問わず、それぞれに若き日の思い出が喚起されるのか
「たしかにな」
「後悔するほうがつらいもんな」
「モヤモヤするより、そっちのほうがええよ」
ただし、問題がないわけではない。
いや、自分でいうのもなんだが、場合によってはかなり問題だらけでもある。
まあ、私の場合はいいだろう。
おたがいに想いあっていたのだから、それがうまくいかなかった結果からみれば「告白すべし」だ。
「あんとき告白してれば」の答えが「どうにかなっていた」のだから、当然の帰結である。
では「別に両想いではない」パターンならどうか。
フラれるかもしれない可能性が十分すぎるほどあるというのに、それでも告白すべきか。
さらにいえば、「確実にフラれることがわかっている」ケースでも突撃すべきなのか。
100%無理でも、のちに後悔を残さないために、ダメでもそれを吹っ切って次の恋に向かうためにも、ケジメをつけるべきか。
さあ、ここからが難しくなってくる。
ここでハッキリ言っておくが、フラれるというのはつらい。
これから恋を打ち明けようかどうかと迷っている若き男女にこんなことを言い切るのは気が引けるが、フラれるという行為は想像以上に厳しい。
つらい、悲しい、泣く、死にたくなる。いや、マジで。
特に、告白からのフラれ方はコタえる。
同じフラれるでも、恋人同士が気持ちがさめたりして別れる場合もある。
まあ、それもつらいけど、そこは一応つきあえたわけだし、それなりにいい思い出もあるわけで、心は痛いにしろ、まだ多少はなぐさめようもある。
それとくらべると、告白からのフラれはフォローの余地がない。
こっちはそれこそ魂を焦がすほどに好きなのに、向こうは冷徹なNOをかましてくるのだから、その救いのなさったらない。
それどころか、向こうははっきりと
「知らん異性に対して、ものすごく傷つくことを宣言しなければならない」精神的苦痛
を強いられるわけで、もうこれははっきりと迷惑行為なのだ。
女の子に訊いたら、ホント興味ない男からの告白は迷惑以外なにものでもないそうです。
うれしいとか自尊心がくすぐられるよりも、とにかく「勘弁してくれ」と。
私も「告白→即No」といったストレートな形こそないが、一応はそれなりにフラれたこともある。
そのときのショックや喪失感は、かなりの部分で共感できる。
つらいよなあ。ホントに、内臓と、魂のもっとも敏感な部分をナイフでえぐり取られるような痛みと苦痛がある。
それが、何日も、何週間も、何か月も続くことがある。河にでも飛びこんだろうかしらんと思ってしまう。
もちろん、そういうのは時が流れれば自然に癒えていくわけで、大人になればそれはわかる。
だから、つい若い失恋者には
「時間が解決してくれるよ」
なんてありがちなことをいってしまい、心の中で
「ケ! んなわけあるかい!」
なんて毒づかれるんだけど、まあそれも事実だからしゃあない。
とまあ、私の無責任(?)な「好きなら告白しなさい」は、一部支持は受けるし、ある意味で唯一無二の正解でもあると思うのだが、こうした大きな障害が幾多存在するわけでもある。
それでも告白すべきか。To be or not to be。
そこで次回は私の「絶対告白指令」に見事殉じた、ある青年の話をしたい。
(続く→こちら)
前回(→こちら)の続き。
打ち切りになった「発掘! あるある大事典」に出演することになった、ライター兼窓ふきバイトの三ツ矢スージーさん。
「ブロッコリーはストレスに効く」がテーマだったが、窓ふきつかまえて、『「高いところは初めて」という設定』とか、そこかしこがウソ、もとい「演出」だらけの番組制作。そんないいかげんな台本だったが、もっともヒドイのは、実験結果が出たあとのこと。
スージーさんいわく番組側は
「思う結果が出なければシナリオを変えると言っていた」。
おいおい、ちょう待てである。
ここまでぶっちゃけてええんかいな。そこはマイナー雑誌の強みというか、「普通の人は知らない」メディアだからこその強みともいえる。どうせだれも読んでないんやから(蔵前編集長ゴメンナサイ)、みんなが空気読んで書けへんホンマのこと書いたれと。
それにしても、「思う通りにいかんかったら、台本変えたらええやん」とは恐れ入る。
いっそさわやかな風が吹くがごときのインチキ宣言。なんとなく予想はできていたにしろ、そうはっきり言われると、苦笑いするしかないではないか。つっこむのも野暮である、とすら思わせられる勢いだ。
スタッフも、まさか出演者の中にライターがいるとは思いもよらなかったのだろう。
『旅行人』においては前川健一さんも、ある番組でタイ人にスティックのりを見せ、「これはなんですか?」とたずねるというシーンに苦言を呈しておられた。
そこでタイ人が「スティックのりですね」と答えているのに、テロップでは「なんだろうこれは、口紅かな」みたいな全然ちがう訳を出し、あたかもタイ人が間違った答えを言ったかのように見せた「演出」を紹介されていた。
まあ、たわいないといえばそうかもしれないが、カラクリがわかってしまうと、あまりいい気分はしないことはたしかだ。邪推かもしれないが、そこはかとないアジア蔑視も感じられなくもないし。
まあこういったヤラセなどは駐車違反と一緒で本音は「みんなもやってるやん!」であり、「見つかったやつが不運」くらいの感覚なのかもしれない。
私としては、別にバラエティーのヤラセ自体はたいした害もないので好きにすればと思うけど、その結果誰かに失礼だったり、明らかに学問的に間違った知識をまき散らすような(疑似科学とか陰謀論とか)、その手の「演出」は勘弁してほしいのだが、いかがなものでしょうか。
「やらせ」というのはどこまでゆるされるのか。
というのは、なんとも難しい問題である。
情報化の進んでいなかった昭和のように「おおらか」な番組作りが問題視される昨今、ネットを中心に「あのドッキリはやらせ」とか「あの局はニュース番組の街頭インタビューに役者を使っていた」とか「AKBじゃんけん大会は八百長」などといった論議でかしましいことがある。
まあ、「ドキュメンタリーは嘘をつく」という言葉もあるし、番組をまとめるには多少の「台本」が必要であろうことは、大人の知恵として理解できなくもないが、ものには程度というものがあるし、そもそもでいえばやらせ自体よりも、
「そのことを当然のこととしてことを進めているマスコミ人の傲慢さ」
こっちのほうが視聴者は腹が立つのだろう。
「どうせあいつらはテレビ(新聞や雑誌などでも可)でやることは、なんでも信じよるねん。阿呆な大衆やからな。嘘でもなんでも、情報操作は思いのまま。ワシらは第4の権力やからなダッハッハ!」
みたいなこと、陰では言うてるんやろ! と。
先日も、「ぶっこみジャパニーズ」という番組で、スコットランドのラーメン屋が
「ディレクターの指示にしたがって、実際にはメニューにない変な料理を用意した」
なんてことをFacebookでしれっと語っていたそうだが、こういったやらせ騒動で思い出すのは、「発掘! あるある大事典」である。
番組内で「納豆はダイエットに効果がある」と語られたのだが、その内容はねつ造にもとづいたものであることが発覚し、番組も打ち切りに追いこまれた。
私自身、正直さほど興味はひかれなかったが、なぜかこの番組のことが日本唯一のバックパッカー雑誌『旅行人』のコラムで取り上げられていたので印象に残っているのだ。
それは三ツ矢スージーさんの「窓ヒズム」という連載記事。
ビルの窓ふきをしてお金を貯め世界中を旅行しているというライターのスージーさんは、お台場にあるフジテレビの窓ふきをしていたそうな。
そんなある日、「あるある大事典」に彼女の勤める窓ふき会社のスタッフが出演することが決定した。
その内容というのが「ブロッコリーはストレスに効く」というもので、清掃員に高所作業後胃カメラを飲ませて、その後1週間ブロッコリーを食べさせて再度胃カメラを飲みストレスの状況を比較する、といったもの。
なるほど、そうやってデータを取っていけば、ブロッコリーがストレスに効くのかわかるわけだ。
ところがである、スージーさんによるとこれがかなりいいかげんなものであったらしい。
まず被験者は「高いところは初めて」という設定らしいが、これが大ウソ。というか、窓ふきの人を使っている時点ですでに論理矛盾している。
もちろん、そのことは隠されていたそうだが、なぜ窓ふきの人を使ったのかといえば、推測するに「高いところになれていない普通の人」を使ってはビビったりして、うまく演出等の指示が出せないからという現場の事情ではないか。
だから高所に抵抗ない人を使ったのであろうが、いきなりデータに信憑性がなくなる裏事情だ。ちなみに、出演者は問題なかったが、逆にカメラマンが高所恐怖症でフォローが大変だったそうだ。
さらにはミーティングや作業風景(おそらく実験の)などもスージーさんいわく「すべてヤラセ」。
言いきりましたよ、ヤラセ。「演出」などといった玉虫色の表現はそこには存在しない。「ヤラセ」。現場からの、すがすがしいまでの断言だ。
他にも、なぜか昼休みに被験者が仲良く浜辺で弁当を食べるシーンなど撮りたいと言われたそうだ。スージーさんいわく、
「屋外作業する肉労がわざわざ浜辺でメシなんか食うかよ」
だそうであるが、テレビ局側としては、海を見ながらわきあいあいと食事しているシーンを撮影して、
「ブロッコリーを食べ始めて3日、心なしか、彼らの笑顔が増えたようだ」
みたいなナレーションでも入れたかったのだろうか。
これだけでもたいがいいい加減だが、スージーさんいわく、そこで番組スタッフは一聴信じがたい、とんでもない一言を言い放ったというのだ。
(続く→こちら)
『ドレスデン 運命の日』の支離滅裂なロマンスシーンは「棒読み」であった。
棒読みとはなんのことかといえば、作家の宮田珠己さんが使っていた手。
ジェットコースターの本も書いたこともある絶叫マシンフリークのタマキングは、DVDに出演した際、自分の知らないコースターをあたかも知っているかのように紹介してくれと頼まれて悩むこととなる。
テレビのタレントなら、行ったことのないレストランを「なじみの店」なんて語るのは、おそらくよくあることなのだろうが、素人がそれをやれと言われると、
「そんなん、ええんかいな」
という気になってしまうことは想像に難くない。
そこで宮田さんが取った方策というのが、自分の知っているジェットコースターについては問題ない。笑顔でよどみなく解説する。
一方、知らないコースターや本当はオススメではないものについては、あえて「棒読み」で解説する。
そうすれば、見る人が見れば
「あー、この部分は棒読みということは、本当は無理矢理いわされてるんだな。じゃあ、話半分で聞いておこう」
とわかるというわけだ。良心とつつがない仕事の進行を天秤にかけたうえであみだした、まさに苦肉の策であり、タマキング曰く、
「棒読みの部分は、3割ぐらいフカしてますので、そのつもりであしからず」
とのこと。これが、私のいう「棒読み」なのである。
では、『ドレスデン』の中で、なにが棒読みなのかと問うならば、それはもうアンナとロバートとのロマンス部分。
これはよく言われることだが、戦争映画で作者が描きたいのは、もう「メカとグロ」なのである。
あとはせいぜいカッコイイ将校とか兵隊。男女の愛とか、だいたいがどうでもいいのだ。
これは、かの名著、相原コージと竹熊健太郎の『サルでも描けるまんが教室』でも言及されている真理である。
でも、売る側としてはそんな「ソ連戦車大好き!」「四肢バラバラ死体サイコー!」みたいな狭いところでなく、普通のお客さんにも来てもらわないと困る。
ということで、「戦火の恋」とか「反戦メッセージ」というのを、入れてくるわけだ。
それが、制作側にはイヤでイヤでしょうがない。オレがやりたいのは、特撮なんや。銃に死体に、中野昭慶ばりの大爆発なんやと。
子供のころからそれを目指して、今でもそこに誇りを持ってやってるのに、なんで金のためにハリウッドの大味な映画みたいな、頭すっからかんなロマンスを入れなあかんねん。やってられへんわ!
そこで棒読みである。
全国の良心的な映画ファンのみなさんはわかるよな、これはロマンスなんかやないねん。ホンマは特撮やりたいのにやらせてくれへんから、ブンむくれですわ!
仕事やから一応やるけど、マジで恋とかどうでもええねん。そこは理解してや!
という、監督の魂の叫び。それこそが「棒読み」なのだ。
そう、この『ドレスデン』のアンナとロバートがバカップルで、見ている人を不愉快にさせ、ネットのレビューでも
「なぜあのふたりが、あんな行動するのかは、正直よくわかりません」
と書かれるのも、これすべて
「やりたくない仕事だから、わざとそれがわかるようにぞんざいに作っている。誰が観ても不自然とわかるように作って、《そこは酌み取ってや》というメッセージを発している」
ということなのである。
ここを読みとらないと、なにも見えてこない。その作り手側の気持ちを斟酌しないと、「よくわかりません」と混乱してしまうことになる。
そこまで見すえてみると、はじめてこの映画の「見所」がよくわかってくる。内容よりも、その裏の人間模様を読み取らなければならない。
そう、この映画の本当のおもしろさは、表にはあらわれない「バックステージもの」の部分を邪推することにあり、製作者たちも、きっとそれを望んているはずなのだ。
なんて話を得々と、同じ映画ファンである友人サンノセ君に語ったところ、彼は映画を見終えたあと一言、
「そんな深読みしなくても、ただ脚本が破綻しただけの、ダメ映画なんじゃないの?」
まあ、それはそうかもしれへんなあ。
『ドレスデン 運命の日』は、あまりにカップルがバカすぎて変やなあと不可思議な気分になってしまった。
そこで熟慮すること数分、なるほどこれは「棒読み」やったんやと了解した。
というと、出ている役者さんたちはちゃんと演技していて、セリフは棒読みではないではないかといわれそうだが、ここでいう棒読みは演者ではなく監督など作り手の方のことなのである。
それにはまず、「棒読み」の意味を説明しなければならない。
作家の宮田珠己さんは、ジェットコースターが大好きである。
日本のみならず、東南アジアやアメリカにも出かけてはせっせと遊園地をめぐり、世界中のコースターに乗りまくる。その顛末は『ジェットコースターにもほどがある』という本にまとめられた。
そんな経歴のあるタマキングは、流れでジェットコースターの仕事がときどき来ることがあり、テレビやDVDに出演して、最新コースターに試乗したり、オススメのマシンについて語ったりもしているという。
そんな作家的役得を享受するタマキングだが、ひとつだけ困りものの仕事があった。それは、
「知らないジェットコースターのことを、あたかも前から知っていたかのように紹介してほしい」
という指示。まあ、はっきりいえばヤラセである。
昨今のスレた視聴者からすると、この程度のことはヤラセの範疇には入らないかもしれない。
芸能人が呼ぶ「友達」が全然お互いのことを知らなかったり、「趣味は○○」です、なんていってもそれはあくまで「ビジネス趣味」だったり。
アイドルが「わたし、イケメンとか逆にダメなんですよ」というのも、ただの好感度稼ぎなことも、まあ「そういうもんや」と受け入れてはいる。
だが、素人はいざ自分がやるとなると、これが存外できないのだ。
バンドマンである大槻ケンヂさんは「芸能人になる条件」として、
「大してうまくもない料理を、満面の笑みでもってほおばれること」
「全然おもしろくない大御所のズッコケ話に、手をたたいて大爆笑できること」
というのをあげておられたが、
「知らない知識を、あたかも既知のようにスラスラと語る」
ことも、その中に入っていることであろう。要するに、タレントの仕事というのは「笑顔でウソをつけ」ということだ。
これが、簡単なことのようでいて難しいらしい。オーケン曰く
「テレビにでる人は、それをやりとげるという《覚悟》がちがう。ボクはできなかったなー」
とのことであり、たしかにいざとなると、
「ファンをだますのはいやだ」
「好きなジャンルだからこそ、ウソを吹聴したくない」
なんていうちっぽけなプライドが邪魔して、思ったよりやりきれないものらしい。
なんたって「覚悟」というくらいだが、それはきっとこちらの予想以上に「魂を売る」行為なのだろう。
当然というか、「そんなことできませんよ」と断ったタマキングだが、そんなことをいっていたのではスムーズな番組制作に支障をきたすのもたしかである。現場からすれば、
「わかったから、もう、ちゃっちゃとやっちゃってください」
てなもんであろう。こっちの気持ちも、まあわからなくもない。
ウソはつきたくない、でもここでゴネても仕事が遅れるだけ。
誠実と現実の板挟みになったタマキングが、そこで次善の策で取った手こそ「棒読み」なのである。
(続く→こちら)
「ドイツ映画『ドレスデン 運命の日』は、ドラマシーンがスットコである。
運命の悪戯から敵同士恋に落ちた、ドイツ人看護師アンナ(婚約者付き)と英国空軍パイロットのロバート。
このふたりの恋の道が見ているこちらには、ちっとも感情移入できないのだ。
ストーリーの流れとかガン無視で、とにかくムチャクチャにエゴい。もう好き勝手にやりまくり。
アンナの方は最初はそれはそれは献身的に仕事に従事していた。医師からも患者からも頼られる、模範的、いやそれ以上の看護婦さんだった。
ところがどっこい、ロバートと出会ってからは、それまでの白衣の天使もどこへやら。婚約者のこともほっぽって、男とイチャイチャしまくり。
それまで、あれほど病院で苦しむ患者に献身的だったのが、いきなり
「ロバート、もう仕事のこととかどうでもええねん。ウチと一緒にドイツから逃げたって」
堂々の逃亡宣言。
おいおい、戦争の犠牲者であるけが人や病人見捨てるんかい!
見捨てるのである。病院は医師も薬も足りず、四肢を失った少年兵や逃げようにも逃げられない赤ん坊、老人もいるというのにである。
これには上司であり医師であり婚約者のアレクザンダーもブチ切れ。
「このクソアマァ! おどれ、なに考えとんねん!」
とは、彼もやさしいというかボーッとしてるからいわないけど、「そりゃないよ」と頭を抱える。
アレックスの気持ちは分かる。最愛の彼女を寝取られた上に、この非常時中の非常時に豪快に職場放棄して、
「ウチは、これからは恋に生きるねん。彼と逃げるから、あとヨロシク!」
なんて寝言をいうとるのだ。そら、怒りたくもなりますわな。
しかもロバートと出会う以前には、
「ドレスデンももう危ない、家族でスイスに逃げよう」
そうアレックスがいうのを、
「病院で苦しんでる人たちがいるのに、わたしたちだけで逃げる気なの? この卑怯者!」
となじっているのだ。アレックスからしたら、もう全速力で納得がいかないだろう。お前が言うかと。
さすがにこのときは温厚な彼も、
「あのなあ、オマエがここで白衣の天使ごっこができるんは、オドレの親父が金持ちの特権階級やからや! 戦争でみんなが飢えてるときに豪華ディナー食ってるお嬢さまが正義感ぶりやがって、貧乏人バカにすな!」
そう大激怒してますが、彼はまったく正しい。
特に物語前半では、アンナは献身的な看護婦、一方のアレックスは頼りない小心な男として描かれているから、よけいに彼の倫理的正当さが際立つ。ある意味、見せ場だ。
ところがどっこい、アンナのほうは婚約者の言葉などどこ吹く風。一応ショックは受けるものの、
「ま、それはそれとして」
特に呵責もなく
「やっぱウチ、恋に生きるからバイバイ。入院している人のこととか、あとヨロシク」。
おーい、話聞いてへんのかーい!
こんな、バカ丸出しのアンナに加えて、お相手のロバートがまた全然共感できん男。
ドイツに降り立って、「豚」ではない現実のドイツ人を見たところで、さほど感慨があるわけでもなく、ちっとも成長も葛藤もないどころか、あとでアレクザンダーと口論になったときも、
「ナチども殺して、なにが悪いんや!」
相変わらずのセリフ。
なんちゅう底の浅いやっちゃ。ようこんなヤツ主人公に据えるわ。こんなアホに自国の女取られるのをみすみす観ないかんとは、ドイツ人も相当なドMです。
きわめつけが、この二人が結ばれるシーン。
ロマンス映画に情熱的なベッドシーンはつきものだが、アンナとロバートが初めて抱き合うところというのがどこなのかと問うならば、これがなんと病院の大部屋の空きベッド。
もちろん、他のベッドでは負傷兵や病気で死を待つばかりの子供や老人が寝ているのだ。中には涙を流し、「お母さん、死にたくない……」とうめき声を上げている者もいる。
その同じ部屋で、アンナとロバートはよろしくやっているのである。
地獄のような野戦病院。みなが死と隣り合わせで病やケガ、飢えと戦っている横。そこで働く看護婦さんが、敵兵とちちくりあってるのだから、もうなにをかいわんや。
これはもう、松田優作ならずとも「なんじゃこりゃあ!」といいたくなるではないか。
なんなんや、この展開は。ドイツ映画なのに、ドイツ人をバカにしてるのだろうか。
あまりのことに開いた口がふさがらない状態だが、しばらくそんなバカップルの狼藉を見ていて、熟慮すること数分、謎が解けたのである。
なるほど、これは「棒読み」というやつか。と納得したわけだ。
というと、おいおい棒読みってなんやねん。
別に映画の出演者は演技が下手とか、そういうことはないではないかという意見はあるかもしれないが、ここでいう棒読みは演者のことではなく、「作り手側」の棒読みのことなのである。
一体、その「棒読み」の正体はなんなのかといえば、それについては次回(→こちら)に。
ドイツ映画でドレスデンをあつかうといえば、これしかあるまい、第二次大戦時における無差別空襲。
日本において、忘れられることのない戦争の悲劇といえば広島と長崎への原子爆弾投下だが、ドイツでそれに当たるのがドレスデン。
1945年2月13日から15日にかけて連合国によって行われたこの爆撃は4度におよび、街の8割以上が破壊されるという凄惨なものとなった。
「エルベ河のフィレンツェ」と呼ばれる美しい古都であり、高射砲すらない「丸腰」だった街を、路上にひしめく非戦闘員である避難民たちもろとも(一説には死者10万人を越えるともいわれる)焼きつくしたのだから、まさにおそるべき大破壊といえる。
カート・ヴォネガットの『スローター・ハウス5』はドイツ軍の捕虜としてドレスデンに運ばれ、「味方から」この空襲を受けた作者自身の体験が反映されている。
そんな悲劇をあつかった『ドレスデン 運命の日』は、第二次大戦末期のドイツの古都を舞台にしたロマンス映画。
ドレスデンで看護婦として働くアンナと、イギリス空軍のパイロットであるロバートとの数奇な運命が主題となっている。
ドイツ東部空襲の命令を受けて出撃しながらも、運悪く撃墜されたロバートが、命からがらたどりついたのが、ドレスデンであった。
そこで働くアンナに助けられたロバートは彼女に恋心を抱き、アンナもまた彼に惹かれるが、お互いは敵同士、しかもアンナには親が決めたアレクザンダーという婚約者もいて……。
といった内容で、禁断の恋に、大破壊の前のドレスデンを再現したミニチュアワークやCG技術、最新特撮技術による空襲シーン。
戦争映画、歴史映画好きには大いに期待できそうな感じなのだが、どっこいこれが、見てみるとなんとも妙な気分になる映画なのである。
どこがおかしいのかといえば、ドラマシーンの不自然さ。
まあ、かのバカ当たりした『タイタニック』やスピルバーグ渾身の『プライベート・ライアン』も、その目を見張るような特撮のすばらしさと比較して、ドラマ部分はダメダメだったけど、この映画はそのさらに上をいくシロモノ。
一体どこがおかしいのか説明する前に、第二次大戦におけるドイツ人女性と、イギリス兵の恋といえば、まずみなさま自身はどのような展開を想像されるであろうか。
敵同士の二人は、本来ならば結ばれてはならない禁断の恋。まさにロミオとジュリエットである。
アンナからすれば、目の前の男は敵である英国空軍のパイロット。看護婦である彼女にとっては、治療する民間人や負傷兵を傷つけてきたのは、まさに彼の操縦する爆撃機。憎きかたきである。
しかも、彼女にはともに働く医者の婚約者がいる。たとえ恋に落ちたとしても、あっさりと彼に身を任せられるはずもない。
一方ロバートも苦悩するはずである。それまでの彼は、兵士として出撃し、燃える街と無差別に殺される民間人を見下ろしながら、
「見ろ、ナチの豚どもが丸焼きだ!」
歓声をあげていたのだ。
ところが、いざ撃墜されて、ドイツの地を踏んでみるとどうだ。
彼が「下劣なナチ野郎」として、なんの良心の呵責もなく焼き殺してきた人々は、自分やその友人、家族たちとなんら変わるところのない同じ人間ではないか。
「殺して当然」だった彼らと身近にふれたとき、初めてロバートは戦争の大義に疑問を抱く。
自分のやっていることは、本当に正しいことなのか。もしかしたら、戦争には正義なんてどこにもないのかもしれない。アンナ、教えてくれ、答えはどこにあるんだ……。
……みたいな、まあこんな感じに話が転がっていくのではないかと。素人の私は、だいたいこんなところを想像するわけである。
ところがどっこい。このアンナとロバートの二人は、そんな感傷などどこ吹く風。たいして気にすることもなく、どんどん自分らのペースで走り出す。
(続く→こちら)
前回(→こちら)の続き。
「爆笑問題の太田さんがここを読んでるらしいですよ」
ある女性から届いた、一件のこんなコメント。
これはいわゆる、「あのアイドルの極秘画像が流出!」などといった件名で興味をひき、メールやリンク先を開くとウィルス感染とかになるというアレではないか。
まったく、いくら無視してもこの手の仕掛けはなくならないもので、先日も、
「この間のステキな夜が忘れられない罪な女です。また会いたいので連絡ください」
というメールが届いたのだが、ひっかかる以前に、
「そういや、女性との《ステキな夜》なんて、もう何年過ごしてないやろうな……。これを開く人は、心当たりがある体験があるってことなんやろうな。ひっかかるのは阿保やけど、ある意味勝ち組か……」。
なんて、そっち方面でブルーになってしまったものだ。ウィルスよりも思わぬところでメンタルにダメージである。
そんなわけなので、とっとと読み捨ててしまおうと思ったが、くだんのコメントにはまだ続きがあった。
「コレは本当です。その証拠に、新潮社から出ている『yomyom』の創刊号を読んでみてください。ばっちり書いてあります(笑)」
しつこいヤカラである。すでに見破られているというのに、往生際の悪い奴だ。
なんとも辟易したものだが、雑誌を読めというのは気になるところであった。電脳空間ならともかく、ネットと『yomyom』にどういう関係があるのか。
というわけで、ヒマな日を選んで、すみやかに同書を立ち読みしてみたところ、あにはからんや、これが本当に太田さんが私の書いたものを読んでくれていたことが証明されたのであった。
経緯を簡単に説明すると、雑誌のコラムの中で、太田さんはSF作家のカート・ヴォネガットについて語っておられた。
太田さんが、自らの事務所に『タイタン』と名づけるほどのヴォネガットファンであることは有名であるが、コラムではその愛について切々と語っておられる。
曰く、本やネットなどでヴォネガットについて語っている人を見ると、名前も顔も知らないのに親近感を持ってしまう。つい最近も、あるブログでヴォネガットのことにふれてる人がいた。自分はまたも、他人であるその人に強いシンパシーを抱いた。
ところが、その人の文章にはオチにこんなことが書いてあったのであった。
「近所の本屋の『タイタンの妖女』のPOPに《爆笑問題の太田光も絶讃》とあるんだけど、安易にタレントの名前とか使われるとチョー冷めるんですけどぉ、マジ勘弁」
太田さんからすれば、「おお、この人も同志か!」。なんてテンションがグッと上がったところへ持って、自分の悪口がオチに使われていたわけである。
まさに二階に上げてハシゴを降ろされるというか、せかっくのよろこびに水を差されてさぞやガッカリされたに違いない。それどころか、かなりムカッときたことであろう。
ネット上には、こういった無礼なヤカラがまま見られるのが問題である。顔も名前もわからないのをいいことに、有名人や外国人のことなどを罵倒する。
まあ、こういう人はネット上だけでしか権勢を振るえない情けない存在と相場が決まっている。実生活ではうだつが上がらない分、匿名で暴れてフラストレーションを発散させているだ。
なんという惨めな男であろうか! このような人として最低のクズがいるからこそ、最近の日本はおかしくなっているといっても過言ではない。
そんな妬みとそねみにさいなまれ、人を引きずり降ろすことにしか人生のよろこびを見いだせない、生きるに値しないかわいそうなダメ人間はといえば、それがなんと不肖この私のことなのであった。
あらあら、これ書いたの、たしかにワシですわ。
思わぬところで、自分の吐いたツバを飲む羽目になってしまった。
くだんのコメントをくれた女性というのは、この最後の嫌ごとをグーグルで検索して、当ページにたどり着いたのである。しかも、太田さんは丁寧に当該センテンスを一字一句正確に引用してくれたので(おそらく興味を持った人が検索しやすいようにであろう)、他にもいくつか、
「『yomyom』読みましたよ」
といったものや、中には、
「こらー! 誰だ、あたしの愛する爆笑問題をバカにするヤツはー!」
といった、ファンの方からの熱いコメントまでいただいたりして恐縮したものだ。これには反省すると同時に、
「あー、ネットってすごいなあ」。
すっかり感心してしまったのである。
いや、ホンマに有名人が自分のブログを読んでたりする、そんなことがあるんですねえ。太田さん、変なこと書いてすいません。悪気はなかったんです。
オチが思いつかなかったもんで、たまたま本屋で見たPOPの文言を使わせてもらっただけなんですけど、まさか本人が読むとは思いもしなかった。
ちなみに、太田さんの文章は「オレを中傷するクズがいる!」みたいな怒りの表明ではなく、本来なら不愉快に感じるであろう私の言葉すら、オチに使って笑いに転嫁する見事な背負い投げを披露された、完成度の高いエッセイとなっている。
そのあざやかな返し技には感心させられたものだ。なるほどー、これが「玄人の芸というやつかあ」と。
いやホント、プロってすごいです。これ以来、私はすっかり爆笑問題のファンになってしまった。さて、更新も終わったし、年末に録画しておいた検索ちゃん見ようっと。
「爆笑問題の太田さんがここを読んでるらしいですよ」
まだこのブログをはじめたばかりのころ、ある女性からこんなコメントをいただいたことがあった。
インターネットというのはたいしたもので、ブログやツイッター、フェイスブックなどで、これまでなら絶対にコミュニケーションなど取れないはずであった遠方の人や有名人とも交流することができる。
すごい時代である。私の周囲でも、嫌いな芸人に嫌ごとコメントを送って怒られたり、好きなアイドルに自作のポエムを送ってキモがられたり、政治的な論争をやっているうちに炎上が止まらなくなったりと、各地で盛り上がっている。
そんな中、いよいよ私も有名人とコミュニケートデビューである。
それも爆笑問題の太田さんといえば、お笑いの世界でもトップクラスのスター。さすがは私、やはり在野にいてもその才は隠せないようだ。
彼のような、見る人が見れば、「こいつはモノがちがうぞ」と、どうしても目をひいてしまうのだろう。プロも認める、あふれくる才能と将来性をもった私だ。まったく、たいした男であるといわざるを得ない。
などという中2病じみた妄想におちいりそうな内容であったが、同時に私の中の危機管理センサーも敏感に反応するのであった。
「これは罠ではないか」
よくあるではないか、パソコンやケータイに届くアレだ。
「女子高生です、最近困っているので援助してください」
「さみしい人妻です。愛人になってくれませんか」
「アイドル○○のマネージャーです。彼女が最近悩んでいるようです、相談にのってあげてください」
なんてタイトルで目をひいて、うっかり開くとウィルスだったり架空請求が来たりしてノートン先生に怒られるというアレ。
まあ、私の場合はそのような誘いにのせられるようなトンマではないので、引っかかったのはこれまで、せいぜい25回程度のことだが、また性懲りもなくその手のブービートラップである。
そもそも、あまりの人の少なさで、周囲から
「残され島」
「そして誰もいなくなった」
「川崎球場のロッテvs南海戦」
などと揶揄されているこんな過疎地帯に、芸能人などくるわけがないではないか。
よくブログやツイッターをやっている人が、
「誰も見てくれないから、心が折れました」。
なんて、更新をやめてしまうことがあるが、そんなのは当たり前である。
私もかつては友人とミニコミを作ったり自主映画を撮ったりしていたものだから、この世界における絶対真理である、
「世間の皆さまは、誰も知らん素人が書いたり創ったりした小説やマンガやコラムなど、カケラも興味などない」。
ということは身にしみてわかっているのだ。もうね、一所懸命やってるのに、信じられないくらい人って来ないもんですよ。
クレバーな私は瞬時にそのトラップを見破り、
「おい、オレのブログ爆笑問題が読んでるねんぞ」
などと吹きまくって後で、
「うっそぴょーん。だまされやがって、やーいやーいベロベロバーカ!」
そんな、どんでん返しを食らって赤っ恥という展開は回避することができた。
こちとら、そんなドッキリにかかる素人ではない。フッフッフ、見よ、この読みの深さ。
おそらくこんなことを仕掛けてくるのは、私の台頭におそれをなすNASAかユダヤ・フリーメーソンといった巨大な組織の陰謀であろうことは想像に難くない。どこのどいつか知らんが、私をハメようなど100億万年早いのである。
悪の組織敗れたり! 私にケンカを売ろうなど愚か極まる。みそ汁で顔を洗って出直してきなさい。
なんて一発カマしてスルーしようとしたのであるが、この怪しげなメールにはまだ続きがあったのであった。
(続く→こちら)