







パリといえば思い出すのが、こちらを威嚇してくるイカついドーベルマンであった。
貧乏で、オシャレでもないバックパッカーだが、一番好きな街はパリである。
というと、すぐさま、
「似合わねー」
「見栄張ってるんじゃね?」
「とりあえずフランス人と、せしぼんたさんに謝ってください」
などといった失笑や罵倒の声が聞こえてきそうだが、こればっかりは本当なのだから仕方がない。
で、その輝かしき花の都とのファーストコンタクトこそが、殺意むき出してにらみつけてくるドーベルマンなのである。
はじめてパリに行ったのは、今からもう20年近く前。まだユーロが導入される前で、通貨がフランだったころのこと。
テニスのフレンチ・オープンを観戦するためであったが、せっかくヨーロッパまで出かけるのに、パリだけというのももったいない。
そこで、バイトでせっせと貯めた金をかき集めて、物資が底をつきるまでヨーロッパを放浪することにしたのである。
そこでまず、なぜかベルギーを出発点にフランス入りすることに。
ブルージュから電車でパリ東駅に到着した私は、これ以上ないくらいに期待で胸を膨らませていた。
なんといってもパリである。華やかなフランスの首都、花の都パリだ。
ルネ・クレールの映画やスタンダールの小説で美しく描かれた街。大好きなヨーゼフ・ロート『聖なる酔っぱらいの伝説』の舞台でもあるのだ。
さあパリよ、思う存分その美しさを我に味あわせたまえ!
勇んで電車を降りて、まず旅人を迎えてくれたのは、豊穣なワインの香りでも、美しきパリジェンヌの姿でもなく、迷彩服姿に身を包んだ軍人の銃口であった。
兵隊と銃。
いきなり、ハードすぎる出迎えである。
あれ? なんかメチャクチャ警戒されてるんッスけど……。タラップを降りた途端、若い兵士がしごく高圧的に、
「ヘイ! お前だれやボン、どこからきて、フランスでなにするか、とっとと言えビヤン!」。
フランス語なんでサッパリわからないが、旅行者のカンと経験で、たぶん荷物とか身分証明のチェックを求めているだろうことくらいはわかる。
ニセ者の可能性もあるので、たとえ相手が警察などでも、財布やパスポートをうかつに出すのは禁物だが、警戒するこっちにかまわず、軍人は居丈高に「パスポール!(フランス語で「パスポート」のこと)」をくり返す。
勢いに押されパスポートを取り出すと、今度はかたわらにいたドーベルマンに命じて、バックパックをクンクンさせるのである。
またこの犬が命令ひとつで、すぐにでもこちらのノド首にかみついてきそうな、なんとも迫力のあるヤツであった。きっと「フューリー」とか「ファルシオン」とか「ストームブリンガー」みたいなトガッた名前がついているにちがいない。
ガチの兵士、銃、ドーベルマンの3点セットに、こちらもビビりまくりである。少なくとも、日本ではなかなか経験できないメンツだ。
しかも、この兵隊さん、ピストルではなく銃身の長いライフルを右手に装備しており、それも日本の警官のようにホルスターに収まっているわけではなく、堂々のむき身。
どころか、よく見ると右手の指はずーっとトリガーにかかっているのだ。
おいおい、すぐにでも撃つ気やないかい!
まさか、さすがにすぐ額をぶち抜かれることはないと思うけど、うっかりバナナの皮ですべったりしたら、その途端に指に力が入ってバーン! ということにならないか。イヤだぞ、そんなエスプリな死に方は。
そういや、ミュリエル・スパークの短編に『バン、バン! はい、死んだ』ってのがあったっけと、こちらが尿をちびりそうになっているのをよそに、お犬様の鼻クンクンは続いている。
どうやら麻薬犬のチェックらしい。
のちにわかるのだが、当時ユーロ導入に向けて国境でのパスポートチェックをなくした西ヨーロッパ諸国だったが、それによる麻薬の流入を防ぐべく力を入れていた時期だったそうなのだ。
まあ、それなら安心だ。私はだらしないバックパッカーだが、麻薬の類はノータッチなので、堂々と犬に荷物をかがせて、すぐさま無罪放免。
ちなみに、これものちに聞いたのだが、兵隊さんの銃にはちゃんとトリガーに安全装置がかかっており、銃からも基本的には弾が抜いてあるそうな。
本気で撃つ気はなく、最初から威嚇目的の装備なのだ。これなら、バナナでスッテンも問題ない。転び放題である。
なーんや、それならなんてことないやん。竹光でおどかしよってからに。ビビって損したで。
なんて余裕をかましていたら、私の後にチェックされていた人の中には、どこがどうアヤシかったのか、ガンガン犬にプレッシャーをかけられている人もいたから、けっこう笑い事ではなかった。
まさにエッフェル塔より凱旋門より、如実にリアルな「ようこそパリへ」という洗礼を受けた格好。
このような先制パンチを食らっては、もうパリに関してはテニス見たらさっさと出た方がええかもなあと、いささかテンションが下がり気味。
まさかその後、旅行日程の大幅な変更を余儀なくされるほど長くこの街に居続けることになるとは、このときは予想もしなかったものであった。
前回(→こちら)の続き。
「エロのジェダイ」こと友人タカイシ君のおすすめで、スカトロ動画の上映会をした、我が母校大阪府立S高校のボンクラ男子生徒たち。
グロがダメな私は早々にギブアップを宣言したが、そこで感じたことというのが、
「自分と違う人間というのはいるものだ」
と同時に、
「でも、それはそれで尊重すべきなんやろうなあ」
たしかに、私自身にスカトロ趣味はなかった。正直、ひいた。
でも、その趣味を持っている人を、どうこうしようとはならない。とも思ったわけだ。
そりゃ、その嗜好を押しつけられたりしたら困るし、もし好きになった女の子に「飲んで」とか言われたら、どうしたもんかと頭を抱えるだろう。
けど、それでもだからといって、差別したり、迫害したり、検閲や禁止をしようとも思わない。
そういう趣味なら好きにやって、なんの問題もないのである。
当然、私も自分の好きなものは、他の人がどう言おうと好きにやらせてもらう。
それはスカトロのようなマニアックなものだけでなく、私が嫌悪感を抱いたり密かにバカにしているものでも、すべて同じ。
「嫌い」「イヤ」「理解不能」となっても、「差別」「迫害」「禁止」はしない。
多様性って、きっとこういうことなんじゃないだろうか。
別にイヤならイヤでいい。理解する必要もない。かといって、排除する必要もない。
ここでのポイントは「多様性の尊重」とは
「自分と違う人のことを理解しよう」
ということではないこと。
そんなことを掲げてもハードルが高いし、またそういうことを言いがちな「善良な人」ほど、うまくいかなかったり、「放っておいてほしい」とか反応されると、
「こちらが努力しているのに、むこうが応えてくれない」
「信じていたのに裏切られた」
最悪なのは「改心」させようとしたり、あげくには勝手に盛り上がって「アンチ」になってしまったりと(「善良な人」はときに自分の善を絶対視するもので「独善」とはよく言ったものです)、めんどくさいケースが多いのだ。
大事なのはたぶん、
「自分と違う人のことは、《そういうもの》として放っておく」
ということなんだけど、人はこの一見簡単そうなことが案外できないらしく、
「理解しようとして失敗から逆ギレ」
とか下手すると「悪」「不道徳」「不謹慎」と認定して石を投げるとか、迷惑なアクションを起こしてしまう。
「おたがい様」かもしれないのにだ。
そもそも、「自分の不快」でなにかを抑圧したら、自分が好きなものが、
「オレ様が不快だから」
と、やり玉にあがったとき反論する「道義的権利」を失うのに。
それだったら「わからないまま、じっとしてる」方が、よほど世界は平和なんだけど、人はどうも、
「自分と違うもの」
「理解の範疇を超えているもの」
これを放置するストレスに耐えられないようなのだ。
あと、
「自分から見て少数派だったり、《下》と判断した者たち」
これが楽しそうにしていることに、無条件でイラッとするものもあって、それが相乗効果を生んだりもする。
「○○のくせに生意気だ」
とかね。
まったくもって不条理に余計なお世話だが、これもまた理屈では割り切れない人の業なのだ。
翻訳家でありスティーブン・ミルハウザーやポール・オースターの名訳で知られる翻訳家の柴田元幸先生は、あるエッセイでこんなことを書いている(改行引用者)。
スチュアート・ダイベックという作家が僕は大好きで、短編集を一冊訳してもいるが、彼の描くシカゴの下町では、おばあちゃんの真空管ラジオはいつもポルカ専門の放送局に合わせてある一方、孫たちはロックバンドを組んでスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのシャウトを真似しあったりしている。
どっちが正しいか、正しくないか、といった話はいっさい出てこない。両方が、別に意識して仲よくしようと努めたりせず、ただ併存している。
おばあちゃんのラジオも、何せ古いから、ときどきチューニングがポルカからずれて、違う音楽が紛れこんできたりする。こういう方がずっといい。
―――柴田元幸「がんばれポルカ」
バリバリの「ロック世代」である柴田先生だが、その通りではないだろうか。
ポルカもロックもスカトロも、その価値はすべて並列上にある。えらそうにする必要もないし、卑下する意味もない。
「え? そこをアップにするんですか?」
「そんな【カクテル】とか、ムリっすよ!」
放送室で悲鳴を上げた若き日の私だが、柴田先生も言う通り、独善なんかより「こういう方がずっといい」のである。
「多様性とはなにか」ということを、スカトロ動画から学んだ。
と、はじめると、なんだかわけがわからないうえに、私がスカトロジストのような印象をあたえそうだが、そういうことではなく、今から説明してみたい。
高校生のころ、クラスメートだったタカイシ君は皆から「ジェダイ」と呼ばれていた。
ジェダイとはもちろん『スターウォーズ』のそれで、彼がなにゆえにそのような尊称で語られるのかと問うならば、なにをかくそう、それは
「エロのジェダイ」
なのであった。
健康な高校生にとって、エロというのは勉強や、将来の展望を鼻息プーで吹き飛ばす最重要科目である。
でもって、「ジェダイ」タカイシ君はネットのない時代、そのカナメともいえる「アダルトビデオ」にメチャクチャくわしかったのだ。
そんな男なので、彼の周囲には
「ジェダイよ、われにナースもののAVをあたえよ!」
「マスター、桜木ルイの新作をお願いします!」
という迷える子羊たちが、常に群がっていたのである。
私はそちらに関しては「活字派」で、あまり映像作品にはくわしくなかったが、あるとき彼と話していて、
「シャロン君はどんなんが好きなん? よかったら、ええのん用意するで」
ソムリエか、ポン引きのように誘われてしまったのだ。
そこで、ふつうのを観てもおもしろくないということで、なかなか見る機会のないマニアックなものをどうかと頼んでみると、用意してくれたのがスカトロ動画なのだった。
スカトロジーとは、要するに糞尿志向というか、お笑いコンビであるリットン調査団の藤原さんの名言を借りれば、
「あー、女子高生のおしっこをドンブリ一杯飲みてえ!」
といったノリであり、まあなかなかにノーマルではない愛の形である。
そんなコアなものをひとりで観るのもなんなんで、放課後、放送部の友人に頼んで機材を用意してもらい、ボンクラ男子が集まってワイワイ鑑賞したのだが、これがインパクト充分だった。
まずは入門編(?)ということで、女優のみなさんが、トイレで排泄する動画からスタート。
和式便器にまたがり、音を立てて女性が放尿し、脱糞する。
「どうや、これがスカトロいうやつや。まずはゆるい感じから、なれてくれ」
笑顔で紹介するタカイシ君だが、情けないことに私はここで、すでに逃げそうになった。
こう見えて、グロはダメなのである。それをモロに見せられては、とても正視できるものではない。
さらにタカイシ君は
「洋式便器の中にカメラを仕込んで見る、放尿脱糞シーン」
こんなビデオをセットし、こうなるとまるで自分の顔面めがけて「ブツ」が飛んでくる気分が味わえる。今でいう「VR」感覚である(ホンマかいな)。
「どうや、ええ感じやろ」
ジェダイは上機嫌だ。
さらには、プレイの幅がもっと具体的になってきて、そろそろあまり言及したくないが「接触」「飲食」が入ってくると、もうグロッキーである。
ヘタレな私は、ここで、
「オレ、もう無理やから」
ギブアップしたが、上映会はその後も続き、ちょっとここではとても書けないようなハードな展開を見せ、最後まで見た友人曰く、
「人の想像力って、限界がないんやなあと感心したわ。ようあんなん、思いつくで。だって、太ったオッサンの脂肪を吸引器で吸ってそれを(以下マジでグロいので略)」
性的興奮や嫌悪感を超えて、ほとんどアートを見る目で観てしまったというのだ。
この上映会を通じて私は思ったわけだ。
「世の中には、自分と違う価値観の人間がいるものだ」
同時に、こうも思ったわけだ。
「違うことは違うけど、それはそれで尊重すべきであろうなあ」
(続く→こちら)