2016全仏オープン 錦織圭vsリシャール・ガスケ戦なんて、とてもまともに見られるわけないだろ!

2016年05月31日 | テニス
  「昔はよかったなあ」。

 そう深くため息をついてしまうのは、ここ数年のテニスと錦織圭を見ているせいである。

 などと切り出すと、

 「昔はよかったって、もしかしてアンチ錦織か?」

 とか、

 「いるんだよなあ。最近のテニスについていけなくて『道具の進化で勝つのはおかしい。木のラケットに戻せ』とか『フィジカルに頼りすぎる今のテニスは退屈』とかいう老害が」

 なんて、それこそため息をつかれそうだが、私は別にそういう懐古趣味者ではないし、もちろんのことアンチ錦織でもない。

 むしろその逆。日本の至宝である錦織圭の活躍を大いによろこび、「すごい時代になった」と心を震わせているからこそ、それゆえに深い、それこそマリアナ海溝よりも業の深いため息を、しみじみとついてしまうのだ。

 「嗚呼、昔はもっと、勝っても負けても錦織圭の試合を気楽に見られたのに」。

 錦織圭という選手がすばらしい才能の持ち主であることは、ジュニア時代から話には聞いていた。

 1995年全日本選手権から日本男子テニスとその低迷期を見てきた私にとって、その名前は大きな希望であった。

 この男が、今の閉塞状況を破ってくれるかもしれないと。

 それは期待通り、いや期待以上、いやいや以上どころか、はるか彼方までぶっ飛ぶ大爆発で、日本の、いやさ世界のテニス界はとんでもないことになってしまった。

 これはテニス雑誌にも書かれていたので、けっこう古参テニスファンの実感だとも思うが、錦織圭の大活躍は、

 「想定よりも速すぎる」

 というと、今の「スーパー圭」状態を見ているファンからは、

 「そうなの? 彼ほどの才能なら、これくらいは行けるっしょ!」

 そう納得されるだろうが、情けないことにファン歴的に「玄人」のはずの私は、正直ここまでとは思っていなかったのだ。

 もちろん、錦織圭が世界の上位で戦えることくらいは考えていた。18歳でトップ100に入り、デルレイビーチでツアー初優勝、着実にランキングをあげ、デ杯のナショナルチームでもエースとして君臨。

 まあ、そこくらいまでは範囲内だった。

 すべてが計算外になったは、もちろんのことあの、2014年USオープン、準決勝でジョコビッチを破っての準優勝だ。

 グランドスラムの決勝進出。こんなことが現実に起こっていいのだろうか。

 告白するが、今でも私はあの決勝戦が信じられない。

 別に錦織君の能力を疑っているわけではない。彼の実力だったら、あってもおかしくはない出来事だ。

 だが、それにしたって過去20年以上世界のテニスと日本男子の差を見せつけられてきた身からすると、どうしても実感できない。

 今でもあれは、壮大なドッキリかヴィシュヌ神が見ている長い長い夢ではないかと思えてしまうくらいなのだ。

 「予想はずし」ついでに書いてしまうと、錦織圭が世界46位という松岡修造さんの壁を超えたとき、「圭はどこまでいけるか」を想像してみたことがある。

 目標はグランドスラムでシードがつく30位以内に入れれば。

 ツアーはマスターズは難しくても、がんばれば3、4勝はいけるかな。500の大会をひとつ取れればいいなあ。デ杯では1度でいいから、悲願のワールドグループ進出。

 グランドスラムでの目標はベスト8に2、3回くらい。1回くらい、まぐれでベスト4に入ってくれたら御の字。

 キャリアハイでもトップ10は厳しいけど、一瞬くらいは15位以内に入ってくれたら、もうなにも思い残すことはない。泣いちゃうよ、オレ。

 くらいに考えていたのだ。これは周囲のテニスファンも、「それくらいかなあ」とプラマイ少々の差はあれ、似たような意見だ。

 当時としては、かなりリアルなラインだったと思う。

 それが、再びいうが、あの全米決勝からすべてがおかしくなった。いや、もちろんいい意味でだが、歯車が狂ったのはたしかだ。


 (続く→こちら




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全仏オープン2016 3回戦 錦織圭vsフェルナンド・ベルダスコ

2016年05月28日 | テニス
 「あああああ!!!!! くっそあぶなかったあああああ!!!!!」。

 週末、大阪の夜空に、そんな少々品のない叫びがこだましたのは、言うまでもなくテニスのフレンチ・オープン3回戦のせいである。

 自他ともに認める優勝候補(なんだよな、マジで)であり、このクレーシーズンを充実しまくりの内容で戦う錦織圭をむかえうったのは、スペインのフェルナンド・ベルダスコ。

 32歳のベテランで、世界ランキング50位台の選手とはいえ、玄人のテニスファンならそう簡単ではないと、いやむしろ「やっかいな相手だ」と心中おだやかでなかったのではあるまいか。

 そう、なんといってもフェルナンドはテレビの実況でも何度も語られていたように、世界ランキング元7位の選手。

 グランドスラムでも、過去には全豪オープンでベスト4に進出。

 準決勝ではラファエル・ナダルと5時間越えのマラソンマッチを戦い、敗れはしたものの、ナダルはその後の決勝戦を棄権寸前まで追いこまれたという死闘だった。

 そしてなにより、彼はいわゆる「クレーのスペシャリスト」。

 スペイン出身ということで、土のコートはお手の物。ツアー通算7勝のうち5勝がクレーコートでゲットしたものだ。

 粘り強く、強烈なフォアハンドでエースもとれる、まさにクレーを知り尽くしたプロ中のプロともいえる存在。相当に負かしにくい相手だ。

 そんな懸念通り、錦織圭は苦戦を強いられた。第1セットこそ2ブレークで先取するも、フェルナンドの重いストロークをもてあまし気味な印象。

 それは第2セット以降さらに顕著になってきて、マドリードやローマで見せてきたテンポの良いラリーやウィナーがあまり登場しない。

 逆にフェルナンドは深いショットと一発のあるフォア、サウスポーから打ち分けるサービスと徐々にいいコースに決まりだし、相手のお株を奪うようなドロップショットも披露。

 リードこそ奪っているものの、内容的にはやや押され気味なのだ。

 特に第2セットは、よくぞ取っておいたもの。まだかろうじて主導権こそ渡していなかったものの、ちょっとしたズレがあったら、スコアは逆になっていてもおかしくなかった。

 結果的にはここが勝負の分かれ目となった。第3、第4セットの竹内映二さんいうところの「サンドバッグ」状態を考えると、あそこで追いつかれていたら、ホントに3-1のスコアであっさり負けていてもおかしくなかった。

 内容うんぬんよりも、ここでの2セットアップという「現ナマ」を得ていたことが大きかったのだ。

 ファイナルセットの修正ぶりはさすがだったが、そこにたどり着くまでに2セットもかかったことをみれば、本当に「貯金」があって助かった。

 危ない、危ない。

 いやホント、負けるかと思ったもの。途中、見ていられなくて、ちょっとだけ『探偵!ナイトスクープ』にチャンネル替えてたもんなあ(おいおい)。

 ダウンタウンの松ちゃんが出てたし。で、しばらくクールダウンしてから戻したら、ファイナルでワンブレークしてて、ようやっとまた見られるようになった。

 そこからは危なげなかったけどさ。はあ、勝ててよかった。

 まったくもって、これだからローラン・ギャロスは油断がならない。

 今年の大会も、序盤からディフェンディング・チャンピオンのスタン・ワウリンカやローマ国際でジョコビッチを破って優勝したアンディー・マレー、昨年ベスト4のジョー・ウィルフリード・ツォンガが格下にフルセットまでねばられてバタバタしているが、この大会は実力があるだけでは勝ち上がれないタフさがある。

 ところで、上記の面々を苦戦させたメンバーというのがなかなか面白い。

 ラデク・ステパネク(対マレー)、ルカシュ・ロソル(対ワウリンカ)、マルコス・バグダティス(対ツォンガ)。

 なんだか、思わずニヤリとしてしまうメンツだ。なんというのか、ベルダスコも入れて、「くせもの」ぞろいというか、いかにもシード勢をヒヤッとさせそうなチョイスやなあと。

 なんにしても、勝ててよかった。次は「元苦手」のリシャール・ガスケ。

 ガスケはきれいなストロークを打つから、ラリーからゲームメイクする錦織君的にはやりやすいだろう。

 今年はガスケから2勝して、内容的にも押してたけど、プレー自体は双方ともに美しいというか、結果関係なく見ていて楽しい試合だった。

 4回戦もそんな魅せる試合を見せてほしいもの。でもって、今度はできればササッと勝ってほしい。

 こんなしんどい試合が続いたらまた、今度は日曜日だから「船越英一郎 京都の極み 京漬物」とかにチャンネル替えちゃうぞ!


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イケメンと美人はなぜ「退屈」なのかについての考察 その4

2016年05月27日 | モテ活

 「男前や美人は退屈



 という偏見の具体例として、前回(→こちら)まで、



 「聞こえていないギャグですら、笑いを取れる」



 という「男前パワー」の、すさまじさを見せてくれた、クラスメートのタカツ君の話をした。

 見た目のいい人気者は、女子が「彼をたたえたい」から、なんでも笑ってくれる。

 世に数多(最近では関西以外でも)いる

 

 「オレはおもしろい」

 「自分には笑いのセンスがある」

 

 と信じている男子諸君は、一度自分がウケているのが、果たして実力か、それとも「地形効果」によるものか、検討してみるのが吉ではないか。

 さて、ここまではの特権階級の盲点について語ってきたが、もまた真なりというか、これは女性側にも当てはまることは多い。

 そう、美人は退屈な人が多い。

 私は美人が苦手である。

 というと、

 

 「ブス専ってこと?」

 「好感度を上げようと無理するなよ」

 

 なんてつっこまれそうだが、単純にしゃべっても、あまりおもしろくないからだ。

 理由も、男と同じ。

 ビジュアルというアドバンテージがある子というのは、周囲から必然ちやほやされる。

 おそらく、それはイケている男以上の、持ち上げっぷりであろう。

 となると、わざわざ自分からアクションを起こさなくても、周りが蝶よ花よと、全部やってくれる

 そのおかげで、

 

 「自分は別に、人にサービスしなくてもいいのだ」

 

 という姿勢に、自然となってしまっているのだ。

 男も女も、顔がいい人というのは

 

 「思ったことを、ありのまま言う」

 

 ということが通じやすい。

 賞賛の声も、単純な物欲も、笑ってほしいギャグも、趣味嗜好に、その他もろもろの多くが、

 

 「かっこいい」

 「かわいい」

 

 だけで、ストレートに通りやすい。

 だから、世の中のことを

 

 「いわれたまま」

 「素直」

 

 に受け取って、疑問に思わない人が多い。

 彼ら彼女らは、世界に祝福されて育つのだ。人生の「シード権」を、手に入れているといってもいい。

 ゆえに、そこにひねりや、工夫はいらない。

 いやそもそもが、そんなものが必要とは、思いもつかないのだ。

 それを「リアルが充実」と取るか、「棒球しかなくて退屈」と取るかで、大きく評価が分かれるのだろう。

 これはもう個人的嗜好としか言いようがないけど、やはり私は素直な人より、ちょっと屈折屈託がある人が、好きなんです。

 クラスで目立たないけど、話してみたら、映画とか音楽とかに無茶苦茶くわしくって、放課後実はバンドやってたり。

 マンガ描いてたりとか、ラジオのハガキ職人だったり、詰将棋作家だったり。

 

 「え? おまえって、そんなおもしろいヤツやったん? 教えといてくれよー」

 

 なんて、おどろかされる子、みたいな。

 もちろん美人は、見るだけなら眼福だが、そこが第一条件にはならないというか、

 

 「見た目がよくて、普通のことを言う人」

 

 になると、これは苦手となってしまう。

 実際、学生のころバイト先で、ファンクラブができるくらいに、かわいいお姉さんが、働いていたことがあった。

 幸運なことに、一度2人だけで、お昼ご飯を食べる機会を得たことがあったのだが、これがおどろかされた。

 席に着いたとたん、ニッコリとしただけで、一言もしゃべろうとしないのだ。

 それは嫌がらせとか、こちらに退屈しているとかではない(それだったら話はわかりやすい)。

 彼女のまぶしい笑顔には、ただただ邪気なく、



 「さあ、これからの食事の時間、あなたはあらゆる努力でもって、わたしを楽しませてくれるのよね?」



 そう書いてあったのだ。その、

 

 「もう、おはじめになっても、よろしいですのよ」

 

 とでもいいたげな笑みに、私はただただ、苦笑するしかなかった。

 モテる女って、すげーなー、と。



 「美人は性格が悪い」

 

 という人は、こういう態度にムカッとくるのだろうけど、悪気まったくないのである。

 こちらとしては、嫌いとか腹が立つとかじゃなく、ただただ、

 

 「もう帰らせてください」

 

 といったところでした、ハイ。

 歯が抜けるくらい、つまんなかったよ、マジで。

 以前あるテレビ番組で、お笑いコンビロザンさんが、



 「新垣結衣ちゃんねえ、ボクからしたら70点なんですよ」



 と発言し、出演者や客席から「なんでー?」とブーイングを食らっていたことがあったけど、その理由というのが、



 「だって、一緒におっても、なんにもしゃべることないでしょ、あの子」



 これには、ガッキーのファンである私も、深く

 

 「わっかるわあ」

 

 うなずいたものであった。

 絶対そうだよなあ。

 あんなかわいかったら、わざわざ知恵をしぼって、ツイストの効いた発言しなくていいもの。

 なので、私は昔から「リア充」な男女が、どうにも苦手。

 若いころは「ねたんでるからかなあ」と思いこんでたこともあったけど、今は、

 

 「刺激がない」

 

 からなんだろーなーと、単純に理解している。

 


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イケメンと美人はなぜ「退屈」なのかについての考察 その3

2016年05月26日 | モテ活

 前回(→こちら)の続き。

 クラスの人気者タカツ君のギャグに、大爆笑するタナコちゃん。

 これに対して彼女の友人セリコちゃんは

 

 「どんなおもしろいことを言ったのか」

 

 当然そこを問うわけだが、その答えというのが、思いもかけないものだった。

 タナコちゃんは、大口を開けたまま首を振ると、

 

 「わからん、うるさくて、なに言うてるか、聞こえへんかってん」



 これを耳にしたとき、私は大げさでなく、座っていたイスから転げ落ちそうになった。

 な、な、なんやてえ?

 なにをいっているのか、聞こえてないのに、

 「めっちゃ、おもろい」

 と爆笑。まさかの展開。

 あまつさえ、セリコちゃんの問いを受けて、



 「ねえねえタカツ君、さっきなんてギャグやったの? 聞こえなかったから、教えてよ



 そこでもう一回、「ギャグ」を再現してもらって

 「あらためて笑い直す」

 という行為をするにおよんでは、これはもう、ヤングの笑いというのが、センス理屈じゃないことは、火を見るよりも明らかである。

 そう、彼女らにとっては、男子のギャグがどうとかトークがどうとかは、心底どうでもいい

 タカツ君はなにをいっても、それこそ「布団がふっとんだ」でもいいのだ。

 きっと、それでも山をも揺るがすくらいに笑ってくれる。

 聞こえなかったギャグで爆笑し、もう一度確認しなおして、笑いなおすくらいやもの。

 なんてシュールな光景なんや……。

 男前ならどんなギャグでも、果ては、

 

 「聞こえてなくてもOK」

 

 なのだ。まるで達人が放つ、空気投げみたいではないか。

 当時はそんな言葉なかったけど、これには思わず


 「リア充おそるべし」



 うなったものである。

 かように、男前というのは、笑いに対するハードルが、凡人やブ男よりも相当に低い

 愛があるから、なんでも笑ってくれる。

 そこで生まれるのが例の、



 「オレは、笑いのセンスがある」



 という、関西でありがちなカン違いである。

 よく、非関西圏の人らが、



 「関西人は、自分のことをおもしろいと思っているのがウザイ」



 なんて眉をしかめることがあるけど、これはまったくその通り。

 同じ関西人でも、しんどいときが多いのです。

 特にダウンタウン出現以降は、



 「結局、笑いのセンスがあるヤツが、一番カッコイイ」



 という価値観が支配的になったので、そのめんどくささも倍増だ。しかもこれは、今では関西以外にも伝播したくさいし。

 そのカン違いに「男前特権」が、大きく貢献していることは間違いないだろう。

 なんでもOKになると、その人のポテンシャルは育たない。

 野球でいえば、棒球しか投げないのに、それをチームメイトが

 「ナイスボール!」「今日も走ってるよ!」

 しか言わなければ、それ以上のボールを投げる必要もない。

 そこを「実力」とカン違いした男子は、目も当てられない。

 お笑いコンビ、キングコング西野さんや、関西で一時期あった「小劇団ブーム」のときの中島らもさんは、人気絶頂のときに



 「なにを言っても爆笑する女子」



 に悩まされてきたそうだが、こういう人たちはそれが「幻想」であることが、理解できる知性の持ち主だ。

 一方で、「甘やかされた」男前の人気者は、このような事情があって、ずーっとおもしろくないまま成長してしまうのだ。

 今田耕司さんはかつて、男前でさわやかで、なんのてらいもない人気者だった、若手のころの石田靖さんを見て、



 「一番、この世界に入ってきたらアカンやつや思った」



 とおっしゃっていたが、いいたいことはよくわかる。



 「だれもつっこまない」

 

 ことによって、レベルが低いまま、という意味では、彼らのやることは「オヤジギャグ」と並列の存在。

 それをそのまま「男前特権」の効かない、それどころか、多くはマイナスに作用するわれわれ男子にぶつけられると、もう地獄である。

 でも、スルーすると女子から



 「顔がいいのをねたんで、あえて笑わないなど、なんと醜い心の持ち主なのか!」



 とか責めたてられたりして、もうどうしたらいいのやら。


 (続く→こちら

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イケメンと美人はなぜ「退屈」なのかについての考察 その2

2016年05月25日 | モテ活

 前回(→こちら)の続き。



 「男前や美人は退屈



 との偏見の例として、高校時代のクラスメートである、タカツ君を例に挙げてみた。

 彼のおもしろさに不自由したギャグが、女子に死ぬほどウケるので、ねたんでいるのか。

 それとも自分こそが、天才のセンスに気づかない、愚昧な男なのかと疑心暗鬼におちいったほどだが、その疑惑が晴れたのが、ある月曜日の朝のことだった。

 朝礼前の時間、タカツ君は教室の前に立ってコントを披露していた。

 これは当時うちのクラスの恒例行事であって、タカツ君とその仲間たちが、おもしろコントを披露し、爆笑をとるのだ。

 といっても、さすがにオリジナルを考えるのは大変なよう。

 ちょうど、ダウンタウンの『ごっつええ感じ』が大ブームだったこともあって、前日の夜に松本人志さんが言っていたセリフを、そこで再現することで代用していたのだった。

 余談だが、彼らは文化祭の出し物でも『ごっつ』の完コピを披露していた。

 私が全力で、クラス活動から逃亡したのは言うまでもない。

 こういうのは、まあ、

 

 「そんなの関係ねえ!」

 「ルネッサ~ンス」

 「ワイルドだろ~」

 「ラッスンゴレライ」

 

 など、みなさまも学校の昼休みなどに、やっていた記憶はあるのではないか。

 今から見れば、人気番組や流行語大賞にノミネートされそうなギャグをコピーするなど、おおおよそ

 

 「オレは笑いのセンスがある」

 

 と自認する者ならば、絶対にやってはいけない行動だが、これを

 

 「いたたまれない」

 

 と取るのは我々サイレントマイノリティーだけで、もう女子の笑いを、ドッカンドッカンかっさらう。

 一番衝撃的だったのは、ちょっと遅刻して教室に入ってきた、タナコちゃんという女子の反応。

 入室するなり彼女は、タカツ君らのパフォーマンスを目にし、すぐさま笑いだした。

 さすがは爆笑王である。というか、本家のダウンタウンより、全然ウケている。

 それを見て、仲間たちも



 「おいタカツ、オマエもう、吉本行くしかないで。絶対売れるわ」



 などと、合いの手を入れ、女子も

 

 「キャー、じゃあサインちょうだーい」

 

 などとノリノリだ。

 その光景は今でいう「リア充」だが、はた目には「地獄絵図」でもある。

 とそこに、やはり遅れて入ってきたのが、タナコちゃんの友人セリコちゃん。

 彼女は、涙を流して腹を抱えている友人に、


 
 「ねえねえ、なにが、おもしろいの?」



 それに対して、タナコちゃんは



 「うん、またタカツ君が、メッチャおもろいこというてん」



 やはり、タカツ君のファンであるセリコちゃんはパッと期待に目を輝かせて、

 

 「なんていうてたの?」



 それに対するタナコちゃんの答えというのが、エラリィ・クイーンもビックリの、強烈なサプライズ・アタック。

 教室じゅう……はそうでもないけど、私をふくめ「非イケてるチーム」の面々が、騒然となる一撃だったのであった。



 (続く→こちら



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イケメンと美人はなぜ「退屈」なのかについての考察

2016年05月24日 | モテ活

 男前や美人は退屈である、という偏見が私の中にはある。

 なんて言ってしまうと、全国の「おもしろい」ハンサムや美女たちから、



 「出たよ、嫉妬だ。これだから、顔がいいと損なんだよなあ」



 失望のため息が聞こえてきそうだが、私がここで言う「退屈」は単なる「ねたみそねみ」ではない

 まあ、そういうのもゼロではないのだろうが、経験則に基づいた、それなりには根拠のある思想なのであり、特に若いときは、さらにその傾向が広がるといってもいい。

 ギャグや、おもしろトークを展開したとき、人はどうして笑うのか。

 それはもちろん、発信者の腕やセンスが大きいのだが、それ以上に大事なのは、

 「その人自身

 これに、どれだけ影響力があるか。

 クラスの「おもろいヤツ」の地位を確立できるのは、たいていがまず



 「『おもしろい』とから認識されている子」



 これは実際には、おもしろくなくてもいい。

 あくまで、そう思われている、という「キャラ」の問題。

 それともうひとりは

 「男前のモテ男

 これに、二分されることになる。

 男前はウケる

 これは、学校生活における、絶対普遍の法則である。

 クラス笑いを取れるのは、オリジナルのネタを書ける奴ではなく、絶妙の間でトークを展開する子でも、大喜利のうまい人でも、リアクション王でもない

 それらはすべて、



 「男前がやれば、女子はなんでも笑う」



 という、フランツ・カフカも裸足で逃げ出す不条理劇に、敗北を余儀なくされる運命なのだ。

 これは高校2年生のころ、身にしみて知った真理。

 そのことを教えてくれたのは、クラスメートのタカツ君であった。

 当時、私の所属していた2年B組は、そもそもが「イケてる男子」の集まるクラスであった。

 野球部バスケ部といった花形クラブの面々や、ハンサムでオシャレな生徒が多く生息しており、私のような「趣味は読書」といった、地味めな子は少数派だった。

 タカツ君は、その中でもバレー部のエースで、顔は今でいえば亀梨和也君に似た男前

 しかも、とにかく明るくてフレンドリー。

 性格もいい子ときて、ただでさえイケてるクラスの、さらにナンバーワンの人気者なのであった。

 しかしてこのタカツ君が、得意とするものがあった。

 それが「ギャグ」。

 よく、オリジナルのギャグを考えては、



 「なあなあ、新しいギャグ考えたから、聞いてくれへん?」



 休み時間に披露したりして、笑いを取っている。

 たとえば、彼の持ちネタの中に「プリーズ」というのがあった。

 プリーズとは聞いての通り、英語の「お願いします」だが、彼は日常会話でも、これをまじえてトークする。



 「宿題忘れた、写させてプリーズ」

 「部活あるから掃除当番サボらせてプリーズ」

 

 そういった使用法だ。

 これがおもしろいかどうかは人それぞれ感想も違うだろうが、ひとつだけハッキリしていることは、これを

 「新ギャグを考えたから聞いてくれ」

 などと披露した日には、間違いなく裁判もなしにギロチン台送りになることだろう。

 陪審員12人が、問答無用で「有罪」に票を入れるのは、想像に難くない。
 
 いや、実をいうと、実地で試してみたこともある。場所はとなりのC組と、クラブの部室とで。

 結果はもちろんのこと、「どう?」とたずねる間すらあたえられず、銃殺の刑場に連行されることとなった。

 非常にキビしい。財津一郎もはだしのシビアさである。

 ところが、タカツ君がやると、これがウケる。

 めちゃくちゃにウケる。もう信じられないくらいウケる



 「いやーん、プリーズやってぇ、タカツ君めっちゃおもろい~」



 と、女子に爆笑につぐ爆笑

 エンタツ・アチャコやチャーリー・チャップリンでも、ここまで笑いを独り占めしたことはないのではないか。まさに、現代の喜劇王である。

 なぜこんな、不思議なことが起こるのか。

 それはもう、いうまでもあるまい。彼がハンサムなモテ男だからだ。

 タカツ君がいい奴であることは周知の事実で、私もあまり、こんなことはいいたくない。

 だが、あの小学生レベ……少年の心を忘れないシンプルな「ギャグ」で爆笑なのは、それはもう彼の(と性格)のよさ、このおかげに他ならない。

 いや、もはやギャグが、おもしろいかどうかなどは、どうでもいい。

 クラスの女子は、みなタカツ君が好き。

 だから、「彼がなにをいっても」笑う。

 もっといえば「笑いたい

 イケてるわけでもない「男子」の私はクールにそう考えるわけで、一応それが正解とも思う。

 とはいえ、これがあまりにもウケまくるので、ときには自分でもわけがわからなくなって、

 


 「もしかしたら、冷静に分析しているフリをして、その実タカツ君の人気に嫉妬し、彼を『つまらない』と、おとしめようとしているのか」

 「つまらないというのは、私の勘違いと傲慢で、もしかしたらタカツ君のギャグこそが『センスあふれる』ものなのか」

 「つまりは自分の貧弱なアンテナでは理解できていない、21世紀型の笑いなのでは」



 なんて疑心暗鬼におちいることもあったくらいだ。

 それほどに怖ろしいウケっぷりの彼のギャグだが、ある日その被害妄想が晴れる、驚愕の事件が起こったのであった。


 (続く→こちら


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「全仏オープン」って、どう読みますか?

2016年05月21日 | テニス

 「全仏オープン」という表記は、どう読めばいいのだろうか。

 もうすぐ、テニスのフレンチ・オープンが開幕する。

 通を気取りたい人は、ウィンブルドンのように会場名をとって

 「ローランギャロス

 と呼称することもあり、実際、英語嫌いのフランス人はそう呼んでほしいらしいけど、日本では「全仏」が、一番通りがよいだろう。

 ではこの「全仏」を、どう発音するのが正しいのかと問うならば、これはもうほとんどの方が、



 「決まってるやん。『ぜんふつ』でしょ」


 そう答えることであり、あっさりいえば、それが正解でもある。



 「ぜんふつおーぷん」

 

 これ以上の解答など、日本語には存在するはずもないのだが、ここにその「常識」に果敢に挑んだ男がいたのである。

 友人エビス君と、電話で話していたときのこと。

 ちょうどこの時期、フレンチ・オープンの放送がはじまる時間だった。

 そこで、

 

 「ゴメン、テニス見たいから、そろそろ切るわ」

 

 と伝えると、エビス君は、



 「え? 今、テニスなんかやってるの? テレビ欄に、そんなん載ってたかなあ」



 エビス君は、あまりスポーツを見ないタイプの男子なのだ。

 そこで、地上波やなくてWOWOWやで、と教えてあげると、



 「あー、これか。たしかに、やってるなあ」

 


 納得していただけたところで、友は続けて、



 「へえ、奈良に、こんな大会あったんや」



 唐突に、珍妙なことを言い出すのである。

 奈良

 いったいどこから、そんな単語が出てきたのか。

 フレンチ・オープンって書いてあるんだから、フランスに決まってるだろうが。

 なぜそれが奈良なのか、地理弱すぎだろうと問うならば、



 「だって、『全仏オープン』って書いてあるやん」



 これには、受話器を持ったまま、スココココーンとコケそうになった。

 字面で書くと、なぜにて私がスッ転んだか伝わりにくいが、そのからくりをここに解くならば、彼は「全仏オープン」を「ぜんつ」ではなく、

 

 「ぜんつおーぷん」

 

 と読んだのである。

 なんで「ぶつ」なのか、「」といえば奈良に関係あるんかいなと、勝手に「超解釈」したのであった。

 ちがーう! それは仏様の「ぶつ」じゃなくて、仏蘭西の「ふつ」やー!

 思わず受話器に大声を出してつっこんでしまったが、全ホトケって、そんなぶっ飛んだ読み方されるとは、恐れいった。

 6代目バルタン星人ではないが、まさしくお釈迦様でもご存じあるめえ、だ。

 なんともアクロバティックな読み方であるが、ここに一応友のよしみでフォローすると、エビス君のカン違いも、理解できるところはある。

 漫画家小田空さんも、中国留学から帰国した際には日本の雑誌を読んで「仏料理」という表記に、



 「ホトケ料理ってなんだあ? 精進料理のことか?」



 しばし、首をかしげたそうだが、似たような話ではあるのだ(ちなみに中国語でフランスは「法国」)。

 「仏」といえば、まあ普通は「ホトケ」であろう。

 それ以外だと、「大仏」は「ブツ」。

 「仏像」も「ブツ」。

 「仏陀」も「ブツ」。

 単純に例をあげるだけでも、「ブツ」の方が素直に思い浮かべられる。

 「フツ」って、なんか使うところあるっけ?

 「仏印」とか「仏文科」とかか。

 フランスを仏。あんまし、日常生活で使うことはないなあ。

 その流れでいえば「全仏」は「ぜんぶつ」であるよなあ。

 なにかこう、「論理的に正しい」気がするではないか。

 少なくとも「仏」を「フランス」と読ませるよりは自然だ。

 最初はのけぞりそうになった「ぜんぶつ」だが、検討してみるとこっちのほうがむしろ「正解」のような気がしてきた。

 言葉の響きも、「オールブッダ」となれば、むやみとスケールがでかそうだ。

 おお、いいではないか。全仏(ぜんぶつ)オープン。

 いつの間にか、すっかりこっちにオルグされてしまった。うん、エビス君、私は君を支持するぞ!

 というわけで、冒頭でも述べた通り、大会主催者側は



 「英語ではなく、『ローラン・ギャロス』といってほしい」



 と望んでいるフレンチ・オープンだが、そんなこと知ったこっちゃなく、かつ「正しい」日本語を愛する私としては断然、



 「ぜんぶつオープン」



 という呼称で通し、わがままなフランス野郎を、さらにな気持ちに、させてやりたいところである。

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ラジオ・エレバン出版局『週刊世界のマイナー独裁者』

2016年05月18日 | うだ話
 『週刊世界のマイナー独裁者』を読む。
 
 エレバン放送出版局から出た本書は昨今の歴史ブームの波に乗り、なかなかの売れ行きだという。
 
 この手の企画の先がけだったのはデアゴスニーテの『週刊世界の独裁者』だったが、ラインアップがヒトラースターリン毛沢東といった王道の人選だったのに、やや物足りなさを感じた読者は多かった。
 
 そもそも世界史好きは、独裁者といえばハンで押したようにババリアの伍長殿の名前が挙がるのにはウンザリしている。
 
 いくら一番メジャーとはいえ、ちょっと強権的な政治家やビジネスマンが出てくるたびに、
 
 
 「まるでヒトラーのよう」
 
 「○○は現代のナチス」
 
 
 とかいわれると、「他ないんかい!」とつっこみたくなる。
 
 ましてやワイドショーの司会者やニュースのコメンテーターが、
 
 
 「独裁者の末路はかならず哀れなものになる」
 
 
 なんてありがちなコメントをした日には、
 
 
 「いやいや、スターリンも毛沢東も、まあまあ天寿を全うしてますけど」
 
 
 反論したくなるではないか。
 
 そらナチさんがわかりやすいのはわかるけど、みんなひねりなさすぎや! 独裁者は、まだまだおもしろい人がたくさんいるよ!
 
 それに対し、こちらのほうは、創刊号の「人食いイディアミンをはじめ、「独裁者なのに安定感は抜群」と星新一も評価していたフランシスコフランコ(名前のゴロもいい!)。
 
 ポルトガルアントニオサラザールや、国民に質素な生活を要求しながら自分は裏で高級車別荘を満喫していた東ドイツ代表エーリッヒホーネッカー
 
 
 「口パクで歌うことを禁止」
 
 「メロンが大好きだから《メロンの日》を制定」
 
 
 とか、変な決まり事で有名なトルクメニスタンサパルムラトニヤゾフ
 
 マリオバルガスリョサが『チボの饗宴』で取り上げたドミニカトゥルヒーリョ、地味にものすごい数の人を死なせているベルギーレオポルド2世などなど、なかなかに味のある面子がそろっている。
 
 私もページをくりながら、
 
 
 「終身大統領って単語は、《独裁者あるある》だよなあ」
 
 「猪木との一戦が、もし実現してたら、きっと歴史は……まあ、あんま変わらんかったかもな」
 
 
 なんて楽しい時間をすごした。こういったスケールの「手の平サイズ感」が、マイナー独裁者の魅力でもある。
 
 またこの本で人気を集めているのが、「独裁者フィギュア」など各種のおまけ
 
 私はコレクション趣味がなく、ガンダムや美少女を部屋に飾ろうとはあまり思わないが、
 
 
 「アゴを撃ち抜かれて瀕死のロベスピエール」
 
 「チャウシェスクが逃げるのに使ったヘリ型のミニドローン(銃殺されたチャウシェスク夫妻付)」
 
 「一千億ジンバブエドルのレプリカ」
 
 
 といったあたりのアイテムを出されると、それはぜひ欲しくなるもの。
 
 レアアイテムとして用意されているフィギュアが「ベンツィーノナパロニ」というのも、またナイスなチョイスである。
 
 大いに楽しませてくれた本書だが、出版社もこの成功に味を占めたのか、続編もすでにスタンバイしているという。
 
 次号の特集は『週刊世界の金の亡者』。刮目して待ちたい。
 
 
 
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ピート・サンプラス ローラン・ギャロス制覇への挑戦 1996年全仏オープンの軌跡 その2

2016年05月15日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 灼熱の砂漠越えのような長く苦しい戦いの末、はじめてフレンチ・オープン準決勝に進出した1996年大会のピート・サンプラス。

 そうしてむかえた準決勝、対カフェルニコフ戦は、優勝に向けての最後の関門であった。

 これが事実上の決勝戦ではというのが、周囲の大方の声であった。もうひとつの山に残っているのは、ドイツのミヒャエル・シュティヒとスイスのマルク・ロセ。

 ロセはスイスのナンバーワン選手だが、サンプラスとははっきり格がちがう。またシュティヒはウィンブルドン優勝経験もあるオールラウンドプレーヤーだが、クレーは得意というサーフェスではない。

 もちろん簡単ではないが、それこそトーマス・ムスターのような体力勝負のクレーのスペシャリストよりは、よほど戦いやすい相手であろう。ついにXデーは間近だ。

 という期待は、試合開始すぐに裏切られることとなった。

 それは、第1セットのサンプラスの戦いぶりを見ていればわかった。彼は明らかに精彩がなかった。

 動きは鈍く、いつ足が止まるのかと危惧しながら、おそるおそるプレーしているのがわかった。

 その理由は明かであった。そう、彼は疲れすぎていた。

 ブルゲラ、マーチン、クーリエという強敵相手にフルセットの戦いを連続で強いられ、すでに心身ともに限界が来ていた。サンプラスはすでに、このベスト4進出までに、すべてを出しつくしてしまったのだ。

 本来ならば決勝戦の最後の最後に出すべき「ゴール前のいい足」を、クーリエ戦の最終セットで使わざるを得なかったのが計算違いだったろう。無情にも、すでにしてガソリンはタンクに一滴も残っていなかったのだ。

 そんな状態で、ロシアのスーパーエースであるカフェルニコフに勝てるはずもない。

 それでも第1セットはタイブレークに持ちこみ、このセットを先取できればもしやとも思わせたが、ここを失ってすべてが終わった。

 それでもまだ、テレビを見ながら私はかすかな希望にすがっていた。

 なぜなら、この大会の主役はまちがいなくサンプラスだったからだ。

 スポーツ漫画やドラマでは、優勝するチームはすべからく強豪ひしめく山には入り、そして何度もドラマチックな勝利を披露し勝ち上がる。

 明訓高校も、南葛中学も、そしてピート・サンプラスもそうだった。その主役が、決勝にも残れずにこんなところで消えるはずがない。それが物語というものだ。

 だが、その想いはむなしかった。もっとも、今考えれば、仮に最初にリードを奪えても、カフェルニコフには勝てなかっただろう。

 それくらいにサンプラスは疲弊していた。

 33度を超える真夏日の気温がそこにとどめをさした。この日は、すべての目がサンプラスの裏へ裏へと出るようになっていた。負ける時というのは、そういうものなのかもしれない。

 そのことはスコアを見ても一目瞭然であった。6-7のあとは、0-6・2-6と、まったく抵抗できないままカフィの軍門に下った。

 あれほどに完璧なテニスを見せ、タフな戦いにも耐え抜く根性すら発揮したサンプラス。

 この内容で優勝できないなら、いつ勝てるんだというくらいに見事な仕上がりを見せていたが、それでも勝てなかった。

 それはドロー運のせいだった。

 テニス選手としてすべてを手に入れた彼であったが、ことフレンチに関してだけいえば実力うんぬんではなく、「持っていなかった」のだ。

 一度でいいから勝たせてあげたかったとテニスファンなら皆が思ってたろうが、これもめぐりあわせか。

 実力だけではどうしようもないこともある、それが勝負の妙というものなのだろう。




 ■おまけ 1996フレンチ・オープン サンプラスとブルゲラの死闘【→こちら




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ピート・サンプラス ローラン・ギャロス制覇への挑戦 1996年全仏オープンの軌跡 

2016年05月14日 | テニス
 ピート・サンプラスはフレンチのタイトルだけは取ることができなかった。

 そこで前回(→こちら)まで、彼が全仏で優勝できなかったのは、実力よりも「周囲の信用」がなかったせいだと語ってみたが、実は一度だけ大きなチャンスがあったのである。

 それは1996年の大会。

 この年はよほど調子がよかったのか、それとも本気で狙ってマトをしぼってきたのか、土の上でもその攻撃的なプレーが発揮されていた。

 試合内容を見たかぎりでは「これは、ひょっとするとひょっとするぞ」と期待させるだけのものはあり、おそらく世界中のテニスファンも、

 「一度はピートをパリで優勝させてあげたい」

 という判官びいきもあったと思うが、そこにテニスの神様は大きな試練をあたえたもうたのである。

 それは、強烈に厳しいドロー。

 トーナメント戦ではあたりの運不運というのがあるが、96年のピートはまちがいなくハードラックの方であった。それも頭に「超」をつけたくなるほどの鬼みたいな当たりだから、たまらない。

 まず、2回戦の相手がセルジ・ブルゲラというのがすさまじい。

 すでに全盛期の力はなく、ノーシードでの出場となってはいたが、クレーコートでは異常な力を発揮するスペシャリストで、1993、94年の大会チャンピオン。

 早いラウンドで戦うには、あまりにもタフな相手である。

 ピートの攻撃力なら、芝やハードコートの上ならストレートであっさり勝てる相手だが、土の上となると勝手はちがう。

 こっちだと、むしろ8・2くらいでブルゲラ乗りだ。それくらいコートの相性というのは勝敗を左右する。

 だが、このときのピートは強かった。要所要所で得意のサービスが火を噴き、かつてのチャンピオンをフルセットの末に振り切った。放送時間の関係で最後までは見られなかったが、かなり良い内容の勝利であったようだ。

 ところが、休む間もなく3回戦で当たったのが、アメリカの同僚トッド・マーチン。

 こちらもノーシードからの出場だが、94年のオーストラリアン・オープンでは準優勝している強豪。これまた、こんな早いところで当たる相手ではない。

 この試合も、マーチンの長身からくり出されるサービスに手を焼き、もつれにもつれ、連日のファイナルセットに突入。

 苦しんだが、自力で勝るサンプラスが最後は突き放した。これでようやっと4回戦進出。とりあえず、ベスト16でシードは守ったことになった(当時は16人がシード)。

 4回戦は、オーストラリアのスコット・ドレイパー。

 これまでの相手とくらべると、ようやっと楽な相手が出てきた。ここは力を発揮して、ストレートで退ける。

 ついにベスト8。そろそろ頂上が見えはじめるころだ。

 だが、そこにさらに大きな山が立ちはだかる。準々決勝の相手は、第7シードのジム・クーリエ。

 サンプラスの前の世界ナンバーワン。オーストラリアン・オープン2回、そしてこのフレンチ・オープンも2連覇している強敵中の強敵だ。

 正直、勘弁してよと言いたくなったことだろう。次から次へと大ボスクラスが立ちはだかる。

 今でたとえれば、2回戦でフェレール、3回戦でベルディハ、準々決勝でマレーくらいのイメージか。無茶苦茶にきっつい山なのだ。

 過酷なクレーでこの当たりは、今のジョコビッチでも泣くよ。ジャンプのマンガか、それもとドラクエのダンジョンか。しかも、勝つにはこれを乗り越えて、さらにまだ2つあるのだ。

 サンプラスはクーリエには相性は良いイメージであったが、いかんせん相手は「土の王者」。下馬評ではクーリエ乗りの声が多かった。

 果たして試合はその通りに進んだ。サンプラスもせいぜいがんばったが、クーリエのストロークが随所に決まり、7-6・6-4と接戦ながらも2セットを奪う。

 サンプラスの奇蹟の進軍もここまでか。

 さすがに、このドローじゃあなあ。これだけ仕上げてきたのに、こういうときにくじ運が悪いとは、まさに縁がなかったとしかいいようがない。

 とシメに入ろうとしたところから、ピートの逆襲が始まった。

 第3セットからストローク戦で主導権を握りだし、リードしてゆるんだか、クーリエがヨレ出したこともあって形勢は急接近。

 2セットを奪い返してセットオール。ゲームは大会3試合目のフルセットに突入した。

 そこからも、どちらが勝つかわからない激戦が続いたが、最後は毛ほどの差でサンプラスが抜け出して2セットダウンからの大逆転勝ち。

 今大会のベストマッチともいえる修羅場を切り抜けて、自身初のフレンチ・オープン準決勝進出を決めた。

 この試合を苦しみぬいて勝ったときには、さすがいつもは「土のサンプラス」を冷笑気味にながめていた我々無責任なファンも色めきだった。

 これは、ついにそのときが来るのではないか。パリでは無惨な敗北を喫することが多かったピート・サンプラスが(前年度など、聞いたこともない選手に1回戦で負けているのだ)、とうとうこの鬼門を制する日が近づいているのでは。

 残るは2つ。奇蹟の準備は整った。準決勝の相手は、ロシアのエフゲニー・カフェルニコフである。

 (続く→こちら


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ノバク・ジョコビッチとピート・サンプラス グランドスラム達成への道 その4

2016年05月11日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 ピートサンプラスが全仏オープンで優勝できなかったは「信用」がなかったのが原因ではあるまいか。

 将棋の大山康晴名人の説では、勝負師は「強い」と思われたら、それだけで勝てるし、逆もまたしかり。

 王者として君臨していたロジャー・フェデラーが一時期深刻なスランプにおちいったのは、心身の衰えとともに、これまでビビッてくれたはずの相手から、

 「今のロジャーなら勝てる」

 そう思われはじめたこと。

 にらみつけると、目をそらす代わりに、にらみかえしてくる。

 評価が下がった。なめられた。

 これまで無敵のチャンピオンとして恐れられたオレ様が、今や完全に「ターゲット」にされている。向かい合った時点で相手が自信満々。舌なめずりしながら、

 「ロートル相手なら勝てるかも」「いや、勝てる」「明日は一面だ」「名をあげるチャンスにしたい」

 なんて思われていたら、もう勝てるものも勝てなくなる。

 それどころか、不遜な若手選手なら、

 「楽勝だ」「賞金いただき」「体力温存できてラッキー」

 くらいに思っているかもしれない。そういった屈辱的な視線こそが、ロジャーをゆるがし、スランプに追いこんだのではあるまいか。

 こうなると、かつての王者もつらい。リードされると「ほら、やっぱり!」とカサにかかられるし、不利になっても簡単にあきらめてくれない。どんなに追いこんでも、

 「長引かせればチャンスはある、いつか崩れるはずだ」

 という姿勢でねばりまくられたら、ただでさえ衰えを自覚しているのだ。もう勘弁してくれと悲鳴をあげそうになることだろう。

 そうして実際に勝ちきれず、ますます自信を失うことになる。フェデラーほどの男ですら、そこを乗り越えるのに2年近くの歳月がかかった。「アンダードッグ」になるのは、かくもみじめなのだ。

 この「信用の失墜」こそが、ローラン・ギャロスで苦しんだサンプラスの敗因だったのではあるまいか。

 USオープンやウィンブルドンでは当たった瞬間「おつかれッス」な男が、その場所をパリの赤土に変えるだけで、「ボーナスステージ」と化してしまう。

 ジルベール・シャラーも、ラモン・デルガドも、ガロ・ブランコも、アンドレア・ガウデンツィも、おそらくピートと当たった時点で「しまった!」とは思わなかったのではなかろうか。むしろ、

 「一発入れてくるか」

 くらいに感じていたのかもしれない。

 そうなったときすでに、ピートはチャンピオンのアドバンテージを失っていたのだ。それが彼の、クレーへのアジャスト以上の敗因だ。

 かくのごとく、トッププレーヤーというのは全盛期を過ぎると心身の衰えとともに、この「信用」ポイントの目減りに悩まされる。

 昨年度、まさにこれに苦しめられていたのが、ラファエル・ナダルであろう。

 2015年度を通じて、かつての王者が軽んじられていた。今年はモンテカルロやバルセロナを制し復調の気配を見せつつあるが、ここ数年のラファエルは、周囲の「あいつはもうおしまい」という視線に悩まされていたはずだ。

 苦しい、くやしい、だが体はそれをはね返す力を失いつつある。

 昨年度、ラファは無敵を誇ったローラン・ギャロスをついに取れず、錦織圭の前にも初めて屈したが、我々はさほどその結果に驚きはしなかった。

 「やろうな」と。

 そういうことである。

 その点でいえば、ノバク・ジョコビッチというアスリートのすばらしさが理解できる。

 ノバクは2011年に大爆発するまで、完全に「永遠の2番手」だった。厳しい言い方をすれば、ロジャー・フェデラーとラファエル・ナダルにうまみをすべてかっさらわれて、残った「おあまり」をもらうような立場だった。

 あの怒涛の41連勝まで、私をはじめ多くのテニスファンにとって彼は

 「実力はあるがトップにはなれない」

 「フェデラーやナダルの咬ませ犬」

 という評価だった。はっきりいって、「このまま終わる男」だと思われていた。

 だが、彼はそれをくつがえした。一度ははっきりと「格付け」がなされた関係を破壊し、ものすごい勢いで借金を回収し、今では鬼の取り立て側に回っている。ここ数年はすっかり、かつてのフェデラー並みの独禁法違反男だ。

 ジョコビッチのすごさはテニスの実力もさることながら、このかつて失われたはずの「信用」を見事に奪い返したことにあると思う。これは杉山愛さんも感嘆しておられて、

 「あの2強時代に、心を折らせずに浮上できたことがすごい」

 まったくその通り。ノバクのすごさはフットワークでもストロークの正確さでもない。

 はっきりと「負け下」と断ぜられたにもかかわらず、愚痴らず、すねず、あきらめず、ヤケになることもなく、じっと息をひそめて「ねらっていた」精神力なのだ。なんと強靭で、なんとしたたかなのだろう!

 これがパリでのサンプラスはできなかった。彼がローラン・ギャロスで一敗地にまみれたのは、クレーのスペシャリストたちに「なめるなよ」とにらみ返せなかったせいだ。

 もしなにかのきっかけで、「クレーでのピート、今年はまるで別人だぞ」と思わせることができていれば、きっとサンプラスはそのハッタリだけ、全仏のタイトルを手にできていたことだろう。

 それだけの実力は、間違いなくあったのだ。そんな彼でも、「信用」を失うと勝てない。勝負の世界は、かくも繊細かつシビアなのだ。


 

 (サンプラスのパリでの苦闘については→こちら

 


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ノバク・ジョコビッチとピート・サンプラス グランドスラム達成への道 その3

2016年05月10日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 全仏オープンが苦手で、ついに一度も優勝できなかったピートサンプラスだが、彼が勝てなかったのはクレーが苦手という要素のほかに、もうひとつ問題があったと推測される。

 それは対戦相手に対して、心理面のアドバンテージを積み上げることができなかったこと。

 かつて将棋の世界で無敵を誇った大山康晴十五世名人は、「勝負に大切なことは?」との問いに、こう答えたという。

 「信用です」

 これこそが、サンプラスの敗因だったのではあるまいか。まさにピートには、クレーでの信用がまったくといっていいほどなかった。

 ここでいう信用とは人格のことではなく、その人の実力に対するそれ。

 たとえば、あなたが大会の1回戦でノバク・ジョコビッチと当たることになったらどうだろうか。

 まあ、普通に考えれば「しまった!」と思うだろうし、ゲンナリするだろう。くじ運悪すぎやろ、と。人によってはコーチに、「次の日の航空券押さえておいて」と伝えるかもしれない。

 こういう「信用」のある選手は楽なのだ。

 先にリードを奪えば「やっぱりな……」とむこうが勝手に戦意を喪失してくれるし、逆に善戦されても相手は最後まで、「この人相手に勝てるわけとか……」と疑心暗鬼とプレッシャーにさいなまれる。それをはねのけて金星をつかむのは、容易ではない。

 将棋の世界では「羽生ブランド」という言葉があり、羽生名人が指した手は、たとえどのような悪手疑問手に見えようとも(そして実際にミスでも)、対戦相手が、

 「あの羽生さんが、こんな悪い手を選ぶはずがない」

 「こちらが気がつかない、すごい返し技を用意して待ちかまえているかもしれない」

 などと勝手に深読みして消耗し、ときには自滅してしまうことがある。

 もちろん、そうなるのは他の局面で散々、

 「相手に悪手と思わせた手が、実は羽生以外誰も気づかなかった盤上この一手の絶妙手」

 という、はなれわざを、何度も演じてきているからだ。

 そのダメージとトラウマが、「あの時みたいに……」と次以降の対戦でも効いてくる。こういった格の違いを見せつけることが、「信用」を生むのだ。

 こうして、強いものはただでさえ強いのに、さらに「信用」の力でもって相手をすり減らしていき、戦わずしてますます勝利を積み上げる。まさに正のスパイラル。

 一方、「信用がない」もしくは「落ちた」選手は苦しい。

 かつて無敵の王者として君臨したロジャー・フェデラーは、一時期格下相手に取りこぼし、優勝が当たり前だったグランドスラムのベスト8くらいで止まってしまうという、深刻なスランプに見舞われていたころがあった。

 これは、肉体的精神的おとろえもさることながら、それにより「信用」がゆらいだことが大きかったのではなかろうか。

 全盛時代のロジャーはまさに史上最強だった。あらゆる相手にあらゆる大会で勝ちまくり、まさに独り舞台。すべての栄冠を独占する選手であった。
 
 それがラファエル・ナダルの台頭から少しずつ「常勝」とはいかなくなり、やがて「限界」「引退」の声もかしましくなっていった。

 ジョコビッチやマレーといった2番手集団の逆襲をゆるし、それどころかかつてならありえなかったような、無名の選手に不覚を取るケースもあった。

 そこで皆が感じはじめたのだ。

 「今のロジャーは強くない」と。

 スランプ時のフェデラーは困惑したことだろう。それまでなら、ネットをはさんでひとにらみすれば、すくみあがっていた対戦相手が、「あーん?」みたいな顔でにらみ返してくるのだから。


 (続く→こちら





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ノバク・ジョコビッチとピート・サンプラス グランドスラム達成への道 その2

2016年05月09日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 「グランドスラム達成」を逃したチャンピオンにも、「おしかった」選手と「やろうな」と納得されてしまう選手に分かれる。

 前者にはイワン・レンドルとステファン・エドバーグ、後者はボリス・ベッカーとマッツ・ビランデルであるが、中でも「やろうな」感バリバリなのはピート・サンプラスだ。

 ウィンブルドン7回優勝を筆頭に、4大大会14度の優勝を誇るサンプラスだが、ついにローラン・ギャロスのカップだけは頭上に掲げることができなかった。

 ビッグサーブを軸とした攻撃的プレーヤーであった彼は、スタイル的にクレーコートが苦手ではあったが、特にパリの赤土とは決定的に相性が悪かった。優勝どころか、決勝進出もままならず、時にはまともにシードも守れずに早期敗退をくり返す。

 たとえば1995年の全仏では、1回戦で敗退している。

 しかもその相手が、オーストリアのジルベール・シャラーという選手。こういっちゃあなんだが、「誰やねん」な相手であり、ファイナルセットまで引きずりこまれた末に敗れた。

 私が初めて読んだ『テニスマガジン』がこの大会の特集だったから、よく覚えている。記者会見でガッカリしたピートの写真が掲載されていたものだ。

 世界ランキング1位が見事な1コケ。

 普通の大会なら、会場が騒然となるところだが、ことフレンチのサンプラスに限っては、むしろこれが「標準装備」という感じだ。「やろうな」と。

 ベッカーもフレンチでは初戦敗退を食らっているが、このときの相手は若手バリバリのゴーラン・イバニセビッチだったから、まだ情状酌量の余地もある。

 シャラーはあかんやろ、シャラーは。

 96年は好調で準決勝まで進出したが、97年大会は、1回戦で「魔術師」ことファブリス・サントロを引くという(しかも地元選手だ)微妙に嫌なくじ運。

 そこは突破し、2回戦もフランシスコ・クラベットに快勝するも、3回戦で売り出し中の若手で、3年後この大会で決勝に進出するマグヌス・ノーマンに敗れた。

 98年は、1回戦でトッド・マーチンを引くというタフドロー。

 ここはなんとかクリアするも、2回戦でパラグアイのラモン・デルガドに敗れる。

 ラモンは最高ランキング52位という中堅選手。南米出身ということでクレーに強いのだろうが、それにしたってここで負けてはナンバーワンの名が泣く。

 99年大会は1回戦で、コスタリカの中堅選手(最高ランキング55位)フアン・アントニオ・マリンにフルセットまで食いつかれ大消耗。

 たしか試合後の記者会見では、

 「ようこそパリへって試合だったね(苦笑)」

 とヘロヘロの状態で語って、ちょっとした笑いを誘っていたが、なんとか冗談を言えたのもそこまでで、2回戦では準優勝するアンドレイ・メドベデフと当たってしまい沈没。

 2000年大会は、いきなり「スカッド」ことマーク・フィリポーシスとぶつかってしまう。

 マークもクレーは得意ではないが、グランドスラム2度準優勝の男と一発目に当たってしまうというのは、いかにもつらい。

 ファイナルセット6-8の激戦の末、またも1コケ。

 2001年は1回戦で、これまた無名のセドリック・カウフマンにファイナル8-6までねばられての辛勝。マッチポイントを3つもしのいでの、ギリギリの勝利だった。

 すでに全盛期の力はないうえに、やっとこさ1回戦でトッドやマークじゃない楽な相手を引いたら、この有様ときては、もはや期待などしようもない。

 予想通り、2回戦では過去ベスト8進出の実績もあるクレーのスペシャリスト、ガロ・ブランコにやられた。

 最後のエントリーとなった2002年は相当に気合を入れて挑んだようだが、初戦でイタリアのアンドレア・ガウデンツィに完敗。

 実力者ガウデンツィ相手に思うようなプレーができなかった彼は、いらだちをかくせず、ボールを観客席に打ちこむなどクールな王者のキャラクターからは考えられない醜態も披露。

 夜の9時までかかったこの試合は最後観客もまばらで、なんともさみしい結末となってしまい、ここに彼のローラン・ギャロスへの挑戦は終わりを告げた。

 こうして振り返ると、無敵の王者だったサンプラスも、ことローラン・ギャロスに関してはほぼノーチャンスだったと感じられる。

 楽なドローを引けば、たいていファイナルセットまで引きずりこまれ、よしんば勝てても次の相手がノーシードの中での強敵でやられてしまう。

 もしくは、そもそも「なんでやねん」といいたくなる、冗談みたいなタフな相手を引いて、そのままサヨナラ。

 これじゃあ、上位進出など望めそうにない。つくづく「持ってない」としかいいようがない。

 それともうひとつ、ピートのフレンチでの苦戦を振り返ってみると、コートとの相性やくじ運以外に、もうひとつ大きな要素があったと考えられる。


 (続く→こちら


 ☆おまけ シャラ―とサンプラスの戦いの一部はこちらから





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ノバク・ジョコビッチとピート・サンプラス グランドスラム達成への道

2016年05月08日 | テニス

 ピートサンプラス全仏のタイトルだけは取ることができなかった。

 テニス界では、

 

 オーストラリアン・オープン

 フレンチ・オープン

 ウィンブルドン

 USオープン

 

 この4つの大会で優勝することを「グランドスラム」と呼び、たいそう名誉な記録とされている。



 ロジャー・フェデラー

 ラファエル・ナダル

 アンドレ・アガシ

 

 といった名プレーヤーが、その偉業を達成する一方

 

 ステファン・エドバーグ

 ボリス・ベッカー

 イワン・レンドル

 マッツ・ビランデル

 

 といった「あとひとつ」で逃してしまった選手もいる。

 現在だとノバクジョコビッチがグランドスラム達成まで、あと全仏のタイトルのみとリーチをかけている。

 今年は年始の全豪を制したことから年間グランドスラム、いやリオ五輪もあることから、これを取れれば

 

 「ゴールデンスラム」

 

 の可能性も存在し、達成できれば大きな話題となることは間違いない。

 では、ノバクはグランドスラムを完成させることができるのかといえば、それに関しては、



 「充分にやれそう」



 というのが衆目の一致するところであろう。

 そもそも彼はクレーコートの試合が苦手なタイプではなく、ローランギャロスでも3度決勝に進出しているし、他のクレーの大会でもタイトルを取っている。

 優勝できないのは、ラファエルナダルという怪物がいることと、あとはまあ「たまたま」であり、実力的にもデータ的にも、いつ勝ってもおかしくはない選手なのだ。

 ここでおもしろいのは、

 

 「グランドスラムまであとひとつ」

 

 となった選手の中でも、

 

 「おしかったよなあ」

 

 ため息をつかれそうな者と、

 

 「まあ、無理やったんやろうな」

 

 素直に納得させられる者に分かれるということ。

 たとえば、ステファンエドバーグフレンチのタイトルだけ取れなかったが、一度決勝まで行っている。

 相手がまだ新人マイケルチャンだったことを考えれば、相当に大きなチャンスであったといえる。

 また、ウィンブルドンだけ取れなかったレンドルも、苦手なストローカーながら二度ファイナリストになっている。

 86年ベッカーはまだしも、翌年決勝パットキャッシュに負けたのは痛恨だといわれている。

 サーブボレーヤーマッケンローフレンチでは一度決勝まで行き(全豪も優勝してないが、基本的に不参加だったから)、レンドル相手に2セットアップまで押して優勝目前だった。

 これくらいやってくれれば、負けたとしても「おしかった感」が感じられ、評価できるところはある。

 一方、「やろうな」チームの方はといえば、まずボリスベッカー

 彼はフレンチだけ取れなかったが、こちらは納得の結果かもしれない。

 なんといっても、ボリスはローランギャロスどころか、そもそもクレーコートの大会で一度も優勝したことがないという記録(?)を持っている。

 象徴的だったのは、1995年モンテカルロオープン決勝

 当時のクレー王者(その後全仏オープン決勝でマイケル・チャンを破って優勝)トーマス・ムスター相手にとって、すばらしいテニスを披露したベッカー。

 第4セットでマッチポイントをつかみ、しかも自分のサービスというところまで追いつめる。

 おお、ついにベッカーが長年の呪縛を破ってクレーで優勝するぞと誰もが確信したところ、ボリスはいちびって(というわけではないだろけど、まあ結果的に見て)時速200キロのセカンドサービスでエースをねらいにいってダブルフォルト。

 なんとそこからムスターの巻き返しを食らって、見事な大逆転負けを喫してしまうのだ。

 これにはガッカリするやらあきれるやらで、まあトーマスもねばりが身上のファイターだから、そういうこともあろうけど、それにしたってあんまりな負け方である。

 ここまでやって勝てなければ、そりゃ本番の全仏でも難しいわなと苦笑するわけだが、それでもボリスは何気にローラン・ギャロスで3度準決勝まで進出している。

 またウィンブルドンだけタイトルのないマッツ・ビランデルも、3度ベスト8入りはしている。「やろうな」といわれながらも(まあ、私が言ってるだけかもしれないけど)、それなりに結果を出しているのは偉い。

 そうなると、「やろうな」チームの中で突出して「やろうな」感のある人といえば、この人にとどめを刺すことになるであろう。

 そうピート・サンプラス。

 彼もまたフレンチのタイトルだけは手に入れることができなかったが、その歴史を見てみると、こちらの想像以上に「やろうな」感が感じられて、もうしわけないが少々笑ってしまうのである。

 果たしてピートはどのようにパリの赤土でおぼれたのか。

 次回は具体的にドローを見ながら検証してみたい。



 (続く→こちら


 
 ☆おまけ ムスターとベッカーのモンテカルロ決勝の模様はこちらから




 

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