ナスビを使った簡単ストレス解消法

2013年10月28日 | うだ話
 ストレスの解消法は人様ざまである。

 やけ食いする人もいればカラオケで熱唱する、中にはボクシングジムでサンドバッグをたたくなんていう人もいるかもしれない。

 私が色々聞いた中でもっともインパクトのあったストレス解消法というのが、「ナスの呪い揚げ」というもの。中島らもの名著『明るい悩み相談室』で紹介されていた。

 『北の国から』で有名な倉本聰さんが考え出したらしいが、まず野菜のナスに包丁で嫌いな人間、たとえばその人が「雲雀丘花屋敷さん」だったとすると、その名前を包丁でナスに彫りこんで、それを高温の油で、

 「フッフッフ、雲雀丘花屋敷、今からお前を揚げてやるぜ」

 と、ジャーと素揚げするというものである。どんな復讐法なのか。これを、らもさんではなく、倉本さん発案というところに、なんともいえない味がある。

 これは女の子にフラれたときなんかにもいいかもしれない。

 たとえば、会社の同僚のOL梅子を食事に誘って袖にされた夜など、ナスに「梅子」と彫りこんで、油で揚げてしまう。そしたら次の日、会社であったとき「フン」といった態度を取られても、

 「フッフッフ、昨夜オレ様に280℃の油で揚げられたとも知らずにのんきなもんだな」

 と、特に根拠はないが優越感にひたれる。
 
 なるほどこれは、いい方法かもしれない。「油で揚げる」というのが、適度に残虐な感じでSな心を満足させ、「ジュワー」という音も嗜虐趣味を刺激しそうだ。

 なにより、ネットでの中傷やイタズラ電話などとちがって人に迷惑をかけることなく復讐(?)できて気分がスッキリするところが良い。同時に食事の用意もできて野菜も食べられるし一石二鳥も三鳥もあるではないか。

 昨今は、アイドルに熱愛が発覚してネット上で炎上なんてケースもよく見かけるが、そういうときこそこの「呪い揚げ」の出番であろう。

 下手にテンパって「今までまんまとダマしてくれたな、このクソ女が!」などといった、みっともないことをツイッターなどに書き散らして、あとで恥ずかしい思いをするくらいなら、ナスに名前を書いてカラッと揚げてしまい、右往左往する仲間たちを尻目に、

 「フッフッフ、悪いが彼女は昨晩すでに私が揚げさせてもらったよ。もちろん、その後おいしくいただいたがねワッハッハ」

 と余裕をかませれば、気持ちもおだやかに……ならないかな。




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サッカー用語今は昔 その4

2013年10月26日 | スポーツ

 サッカーもずいぶんと様変わりしたものである。

 という出だしから、ここ数回(→こちら)「センターフォワード」が死語になったとか、あのファーンと呑気に鳴っていたチャルメラホーンはどこに行ったのか。

 など、ノスタルジックな話で私だけ盛り上がっていたが、サッカー用語今昔といえば、雑誌など読んでいるときに、

 「たまにおるなあ、こういう人」

 と思う記事を見かける。

 それは、「サッカーを《フットボール》と呼びたがる人」。

 蹴球というと、我々は特に疑問にも思わず「サッカー」と呼んでいるが、正式なというか、本場での呼び方は「フットボール」である。

 日本人のイメージではそういわれると、あのヘルメットや肩当てで武装して、たいていはチアガールとつきあっている(勝手な妄想)アメフトを想像するが、そうではない。

 サッカーの母国であるイギリス英語では、フットボールは断じてサッカーのこと。

 「サッカー」というのは、基本的にはアメリカ英語なんですね。

 これが、一部硬派なサッカーファンやライターの中には、ゆるせないという人がいるのだ。

 まあ、いいたいことはわからなくもない。アメリカといえばサッカー不毛の地といわれているのに、なんでそんな国の言葉で呼んでいるのか。

 本当のサッカー、じゃなかったフットボール好きなら「フットボール」と呼ばんかい!

 実際、他の国でもドイツ語では「フースバルポルトガル語では「フチボウ」、トルコ語では「フトボル」。

 など、まんま「フットボール」を現地語に、まんま訳して使っているところがほとんど。

 だったら、日本でもフットボールといってもいいではないか。

 というの訴えなのであるが、けどまあ、そうおっしゃる方々にはもうしわけないが、それは無理というもんであろう。

 サッカーはサッカーだ。

 今さらフットボールといわれても、「なにそれ?」「だからアメフトでしょ」なんていわれるのが関の山。

 サッカーファンからも「なに気取ってるんだよ」とか鼻で笑われるのではないか。

 かくいう私も、「フットボールねえ」という、むずかゆい感がぬぐえない。

 それは「フットボール推し」派の人もけっこう自覚しているらしく、スポーツライターさんなどでは、かたくなに「フットボール」で押す人もいるが、たいていは



 「長年のバルセロナファンのホアンさんは熱狂的に語った、『やっぱり、フットボールは最高だよ!』と」



 とか、外国人の著作に『欧州フットボール戦記』みたいなタイトルをつけたりして、そこでアピールしている。

 「オレは使ってないよ、でもホアンとか本のタイトルでそうつけてる外国人が言ってるんだから、それはフットボールで仕方ないじゃん! 彼らはサッカーって言ってないもん」

 という、一種のエクスキューズつきの「フットボール」なのである。

 そこまでして使いたいかという気もするが、やっぱ本場のサッカー、じゃなかったフットボールを見ていると、そういいたくなるんだろうか。

 偏見かもしれないが、どうもそこには

 「本当はフットボールであると知らないやつはド素人

 なニュアンスが感じられて、しゃらくさい。

 今回このことをネタにするために、いったい「フットボール」って使ってる記事は実際にはどれくらいあるんだろうと、ちょっと本屋でスポーツ誌を立ち読みしてみることにした。

 サッカー本をパラパラとめくっていたら、ある本の第一行目からどーんと、



 「私はこのスポーツを、サッカーではなくフットボールと呼ぶ国に生まれたかった」



 とあって、思わず笑ってしまった。ど真ん中直球である。

 「フットボールと呼ぶ国に生まれたかった」。

 アハハハハ、そうなんやー。熱いなあ。

 このフレーズからも「フットボール」という言葉に内包された「選民意識」があらわになっている気もして、現にその中身も

 「いかに日本のサッカーファンがミーハーで、オレ様がどれだけ、海外のフットボールに淫しているか」

 という自慢、もとい熱い主張がこれでもかと並べてあった。

 まあ、どっちでもいいといえばいいけど、とりあえずフットボール派の人とサッカーについて語るのは、なんともめんどくさそうだなとは思ったものであった。


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サッカー用語今は昔 その3

2013年10月24日 | スポーツ

 サッカーもずいぶんと様変わりしたものである。

 私が少年団でプレーしていたころとは、使う単語も変わるもので、前回(→こちら)は「センターフォワード」など、今では死語となった言葉の話をした。

 使われなくなった言葉といえば「バナナシュート」なんてのもあった。

 カーブをかけたシュートの軌道が、曲がったバナナみたいということで、その名が付いた。

 「無回転シュート」

 なんていう散文的なネーミングとくらべると、なかなか愛嬌があるといえないくもない。

 今でもあるのに、言葉だけ滅んだのが「自殺点」。

 言うまでもなく「オウンゴール」のことだが、「自殺」という言葉のイメージが悪くて消えてしまったというのは、なんとなく想像できる。

 言葉狩りかよ! と中島らもさんなら怒るかもしれないが、まああんまりいい響きではないなあ、というのも理解はできる。

 でも、インパクトでは断然「自殺点」であろう。

 「オウンゴール」とくらべて、「取り返しのつかないことをした」感では、こちらのほうが圧倒的に上である。

 『キャプテン翼』でも、全国大会の花輪戦で、石崎君が見事な自殺点を決めてしまったときには、チームメイト全員から

 「なんてことをしてくれたんだ!」

 責められまくって、「あー、これは地獄やなあ」と思ったものであった。

 PK失敗と自殺点は、サッカーの裏の花。

 私は幸か不幸か経験はないが、文字通り「死ぬしかない」という気分になるのであろう。

 今調べたら、1994年W杯アメリカ大会で、自殺点かましてマフィアに殺されたコロンビアの選手がきっかけで、「オウンゴール」になったとか。

 なるほど、本当に死者が出たらなんとなく味は悪い。これはしゃあないかもしれない。

 似たようなニュアンスで「サドンデス」も言わなくなった。

 「突然死」。これまたインパクトは充分であろう。

 うちでは私だけでなく、もサッカーをやっていたのだが、中学に上がって「sudden」という単語を習ったときに、

 「suddenて『突然』っていう意味なんかあ、え? じゃあサドンデスって、サドン、デスで『突然死』なんや!」

 なんて、ひとり盛り上がっていたのを、おぼえている。

 そんな印象的なサドンデスであったが、あるときから突然

 「Vゴール

 などという軟弱な名前に変わってしまったのは無念であった。

 なんでや、「突然死」のほうが延長戦でもPK戦でも、ピッタリの表現やんけ!

 憤ったものであるが、やはり「デス」「」というのがイメージが悪いのだろうか。

 ならば、ワールドカップのグループリーグなどで、よく使われる

 「死のグループ

 というのはどうなのか。

 自殺やデスがNGなら、これも

 「強豪国の、順当な予選リーグ突破に不自由しているグループ」

 とか呼ぶべきではないのか。

 あと単語ではないけど、すっかり影をひそめたのが、あのチャルメラみたいなホーン

 トヨタカップなど、今でこそ超満員の観客で、きれいな芝とあざやかな照明のもとで行われるビッグイベントだが、私が子供のころは昼間に、特にマスコミに騒がれたりもせず、行われていたものだ。

 プラティニとか、バレージフリットライカールトファンバステンの「オランダトリオ」といった名選手たちが、サッカー不毛の地で、世界一をかけて試合をしていた。

 そこで聞こえてきたのが、「フアーンフワーン」という豆腐屋のラッパみたいな音。

 あれをなんというのか知らないが、昔のサッカーといえば、あのチャルメラホーンであった。

 なんてことない休日の昼下がり、信じられないような豪華な選手たちと、対照的な世間の無関心

 そこにあの「フワーン」は、なんともいえず、もの悲しくて味があった。

 当時のサッカーのマイナーさを象徴するような、地に足のついていない高い音。

 高校サッカーでもよく聞いたけど、今でも使ってるのかしらん。



 (次回【→こちら】に続く)



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サッカー用語今は昔 その2

2013年10月22日 | スポーツ

 サッカーも、ずいぶんと様変わりしたものである。

 私が少年団でプレーしていたころとは使う単語も変わるもので、前回(→こちら)は「ピッチ」なんて昔はなかったという話をした。

 そこで今回も「浪速のレアルマドリード」と呼ばれたチームでプレーしていた私が、新旧サッカー用語の変遷について語りたい。

 というと、おいおいちょっと待て、お前のチームのどこがレアル・マドリードだ。

 世界最強のスター軍団と、大阪のちょぼこい少年チームでは、差がありすぎるではないかという意見はあるかもしれない。

 たしかに私のチームは「銀河系軍団」ではなかったかもしれないが、休憩時間によく読んでいたマンガが車田正美の『リングにかけろ』だったので「リンかけ軍団」ではあった。

 他にも「こんなん、昔は言わんかったなあ」というのには、「ボランチ」という言葉がある。

 「守備的ミッドフィールダー」という意味だが、これも最初聞いたときは「なんやそれ?」であった。

 我々のころには、そんなものはなかった。

 まあ、あえて言うなら

 「ディフェンシブ・ハーフ

 であったが、そもそも今のヤングたちは「ハーフ」なんて単語を知らないのであろう。

 ボランチとは逆に、私のころには使っていたが、死語になってしまった単語も多い。
 
 「センターフォワード

 といえば、私が子供のころは花形であった。

 かの大空翼君も、師匠のロベルト本郷(なんとブラジル代表の10番をつけていたすごい人)から

 

 「翼よ、ミッドフィルダーになれ」

 

 と言われてポジションを変えたけど、元はセンターフォワード。
 
 また、『コミックボンボン』で連載していたサッカーマンガ『がんばれ!キッカーズ』では、ミッドフィルダーだったデコくんのパパ(スポーツ用品店経営)が、



 「これからも送り迎えや新品のスパイクなどチームをサポートするから、息子をセンターフォワードにしてくれ」



 キャプテン(小学生)に土下座して頼むという、シビれるエピソードがあった。時代であるなあ。

 CFが使われなくなると同じように、サイドの「ウイング」もあまりなじみがなくなった気が。

 そういえば「センタリング」も、いつから聞かなくなったんだろう。

 「ハーフバック」なんてのも、今ではまったく消え去ってしまった言葉。

 バックなんて言ってるが、これは今でいうミッドフィルダーのこと。

 もっとも『キャプテン翼』でも出てこない単語だから、当時でもすでに古かったのか。

 今でも、世代によっては「ハーフ」っていう人はたまにいる。

 やっぱ、なじみがある言葉の方が、使いやすいのだ。

 私も今ではさすがに慣れたが、子供のころは「ミッドフィルダー」と聞くと、なんだか

 「カッコつけとるのう」

 と感じたものだった。

 真ん中がハーフなら、ディフェンダーは「バックス」といってた。単に「バック」とも。

 専門的に守る人は「フルバック」。

 今のように、ディフェンスでも、ガンガン攻撃参加するようなプレーは、あまりなかったところが古い時代だ。

 あと、今ではたぶん、あまり考えられないだろうが、昔は弱いチームではよく

 「下手なやつはバックにまわされる」

 ということがありました。

 かくいうウチのチームもそう。補欠だった(今はサブか)私が、たまに試合に出ると、かならずバックだった。

 一番うまい子がセンターフォワード

 にうまい子がウイング

 センターハーフ

 とにかく主力選手をから並べていくだけの「超攻撃型」布陣。

 「守備が大事」という概念は、まったくなかったらしい。当然キーパーはデブ

 「おまえはバックもできへんグズやから、キーパーでもやっとれ」

 という子が担当していた。今にして思えば、ひどいチームであったなあ。

 そういう言い方すると、ディフェンスの選手が、自分のプレーに誇りが持てないではないか。本当は、すごく重要なのにね。

 ただ、守備の中でもそれなりに評価されていたのが、センターバック

 「スイーパー」と呼ばれていました。

 掃除屋。なかなかシブいネーミングである。

 たいてい、体のデカイ人がやらされる。守備の要。なんたって、ベッケンバウアーのポジション。

 これも、今では滅んでしまった。のちに「リベロ」なんてハイカラな言葉が出てきたが、それを知ったのはサッカーの中継とかではなく、マンガの『リベロの武田』。

 こうして見ると、同じようなポジションでも、名前が変わると役割も違うもので、元日本代表の名良橋選手だったかが、



 「陽の当たらないポジションである、守備的ミッドフィルダーに『ボランチ』っていう言葉ができたことによって、正当な評価がされるようになった」



 て語ってたから、言葉というか固有名詞って大事なのかも。続けて



 「だから、がんばってるのに注目されない、サイドバックも新しい名前がほしい(笑)」



 とおっしゃってました。センスのいい方、だれかお願いします。


 (次回に→【こちら】続く)



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サッカー用語今は昔

2013年10月20日 | スポーツ

 サッカーも、ずいぶんと様変わりしたものである。

 テニスは昔、ラケットを使っていたとか、水泳では水着進化がすごくて記録にバンバン影響が出ているとか、スポーツも時代によって絵が変わるもの。

 その点では、サッカーは元がシンプルなせいか、比較的昔と風景が変わらないように見える競技だが、それでも

 「オレのころとちがうなあ」

 と感じるのは、私が子供のころ実際に、サッカーをやっていたからかもしれない。

 特にそれを感じるのは用語

 私のころは存在もしなかったポジションや戦術が、出現したかと思えば、死語と化したものもある。

 そこで今回は、「浪速のベッケンバウアー」と呼ばれた私が、昔を思い出しながら、古今のサッカー用語のちがいについて語っていきたい。

 というと、おいおいちょっと待て、お前のどこがベッケンバウアーだ。

 あのドイツサッカー界最高のカリスマの名前を軽々しく出すんじゃないという意見はあるかもしれないが、私が子供のころ関西ではよく「皇帝」というラブホテルを見かけたものである。

 小学生のころ2年間、私は隣町のサッカー少年団に所属してプレーしていたが、当時はまだ野球全盛で、今となっては信じられないことに、サッカーなんぞがつくマイナースポーツ。

 ワールドカップでいえば、メキシコ大会でディエゴ・マラドーナが旋風を巻き起こしていたころか。

 『キャプテン翼』がリアルタイムで連載していた、そんな時代。

 今思い返せば、なかなか熱い話題が、目白押しである。

 にもかかわらず、だれもサッカーなんて見向きもしない。

 なんたって、『キャプテン翼』の第一話というのが、翼君がサッカー好きというのが物笑いのタネになっていたという、そんなところからはじまるのだから、思えば遠くへ来たものだ。

 そんな当時とくらべると、サッカーの地位もずいぶんと上がったというか、今では女子サッカーまで盛んになったりして、まったく時代というのはどう転ぶかわからないもの。

 そこまでいけば、競技が多少様変わりするのも当然で、少年時代にプレーしていたときには、

 「そんなん知らんなあ」

 と思うような用語がけっこうあったりして、たとえば「ピッチ」という言葉。

 いつごろから使われはじめたのかはよくわからないが、おそらくはサッカーバブルが本格化した1998年ワールドカップフランス大会くらいからか。

 今でこそ意味はわかるが、最初聞いたときは

 「え? なにそれ?」

 と思ったものだ。

 ピッチ。聞いたことないなあ。

 というと、私が無知なようであるが、おそらくそうではなく、最初の『キャプテン翼』にも一度も出てきたことはない。

 昔は普通に「フィールド」とか「グラウンド」であった。

 というか、「フィールド」でいじゃん! とも思うのだが、おそらくイギリスなどではピッチといっているのであろう。

 「本場」とか「欧米では」という言葉には、どこか弱いのが日本人である。

 これが、違和感バリバリであった。いや、正直なところ、今でもなれていない。

 なんというか、あまりにも唐突に出てきた単語、という印象があるのだ。

 まあ、ピッチならピッチでよかろう。だが使いはじめるなら、まず意味を説明してから使ってほしい。

 誰にことわって、そんな聞いたこともない単語を使うてるんや! オレは知らんぞ!

 ……なんだか

 「あいさつに来ない若手芸人にヤカラを入れる、聞き分けのない大師匠」

 みたいになってしまったが、いまだなれられないのだ。

 特に、私と同世代以上くらいの人が、

 「お、選手がピッチに出てきたぞ」

 なんて言っているのを聞くと、なんだか「ひな壇」とか「回す」とか、そういった芸人用語を、嬉々として使っている若者を見るようで、いたたまれないのである。

 なんや、覚えたてで使いたいんか、と。

 我ながら、

 「なるほど、人はこうして、頭のかたい年寄りになっていくのだな」

 なんて自覚できる話だが、やっぱり使うのが恥ずかしいのが「ピッチ」である。

 なんか、飼ってるインコの名前みたいなんだもの。

 なので、私がサッカーについて話しているときに「ピッチ」という言葉が出てきたら、

 「あー、この人無理して言うてはるんや」

 と思っていただいて、まちがいがないけど、たぶん、一生なれられない気がするなあ。


 (次回→【こちら】に続く)



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大阪の車「なにわ」ナンバーで語る人類の平等論

2013年10月18日 | うだ話
 「人は皆平等ではない」。

 そう喝破したのは、かのアインシュタインである。

 フランス革命は「自由・平等・友愛」を謳ったが、人が真の意味で平等になれたかについては意見が分かれるところであろう。

 世界には不合理な不平等があふれている。機会の不平等、民族差別、階級社会、埋められない貧富の差など、その理想をはばむ障壁は多い。

 だが世の中には、そういった壁を乗り越えて平等を実現している場というのも存在している。

 たとえば、ロックミュージシャンの大槻ケンヂさんは「焼肉屋平等論」を提唱した。   

 オーケンいわく、

 「人は地位や民族や経済差に関係なく、焼肉屋では平等になる」。

 焼肉屋ではたまに「鉄板の肉汁が飛んで、お召し物をよごしてはいけないから」と、紙製の前掛けを用意する店がある。

 そこにはたいてい、その店のマスコットキャラクターであろうかわいい牛の顔がプリントされており、さらには「食べ放題で、モー最高」みたいなフレーズが書かれててあったりする。

 前掛け。この時点で、すでにかなりマヌケだ。 

 どんな偉い政治家であろうと、一流大学を出たビジネスマンであろうと、IT長者であろうとイケメン俳優であろうと、焼肉屋では前掛け。

 しかも、そこには「食べ放題で、モー最高」である。マヌケの二乗だ。それをオーケンは

 「どんなに偉そうにしていても、焼肉屋ではみな前掛けをしている。その姿は赤ん坊が「バブバブ」といってる姿と変わりはない。しかも、《モー最高》である。みな、《マヌケ》という意味で、焼肉屋では平等である」

 と結論づけるのである。  

 私はこれを読んで、まさにひざを打つ思いだった。

 人間には様々な不平等があるが、《マヌケ》において平等になれる。

 なんと深い発見なのか。そして同時に私の地元である大阪にも、同じような「マヌケゆえの人類平等」があることに気がついたのである。

 その正体とは車のナンバーだ。

 大阪の車には「大阪」「堺」「和泉」ナンバーがあり、それともうひとつ、「なにわ」というものが存在する。

 「なにわ」である。マヌケである。

 ただでさえ「浪速」という響きが、いかにも大阪的にもっさりした印象なのに加えて、さらに見た目でもひらがなで「なにわ」。

 この脱力感は、なかなかのものである。

 どんな高級車に乗っていても、外車で左ハンドルでブイブイいわしていても、ナンバーは「なにわ」。

 たとえベンツに乗ろうがポルシェだろうが、フェラーリもシトロエンもBMWもカウンタックもジャンカーもラビットパンダもすべて「なにわ」である。

 なんでも関東の人は「世田谷」とか「湘南」とかいうナンバーにこだわって、「千葉とか埼玉のナンバーなんて、かっこわるいよー!」などとほたえているらしい。

 これにはマツコ・デラックスさんが

 「たかがナンバーでガタガタ言うんじゃない!」

 たいそう怒っておられ、まあ私もおおむね同意だが、こと大阪に関しては多少ナンバーについてこだわる人がいても責められない気はする。

 大阪の一部地域では、どんなにカッコつけて高級車に乗っても、ナンバーは「なにわ」。

 先日も難波で、サングラスをかけて助手席に女の子を乗せ、今どきオープンカーで走り回っている男を見たのだが、そのナンバーが「なにわ」であった。

 これでは、いくらブイブイいわせても、見ている人からすれば

 「ああ、なにわの人なんだ」

 一言で終わらされてしまう。

 あそこまで、イキっておいて、肝心の一番目立つところが「なにわ」本人は気にならないのだろうか。

 オーケンいうところの焼肉屋の法則のごとく、大阪には誰もが等しくズッコケな「なにわ」ナンバーの法則がある。

 ささやかながら、人類の理想実現に尽力できて、地元民として大いに満足である。


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モナコ・モンテカルロのカジノで戦わずして撃沈!

2013年10月16日 | 海外旅行

 カジノは男のロマンである。
 
 そこで前回(→こちら)は、オーストラリアにおけるカジノの失敗談を語ったが、海外のカジノといえば、ラスベガスと並んで有名なのはモナコのそれであろう。

 不肖この私も、モナコに行ったことがある(一泊だけだけど)。

 ならばもちろんのことカジノで一勝負!

 ……といきたいところではあるが、こちらとしてはメルボルンでの失態があるので、やや腰が引けるところではある。

 ヨレヨレのシャツにジャージというバックパッカースタイルでモナコのカジノもなかろう。

 と、いったんはスルーしようとしたのであるが、たまたま現地のユースホステルで仲良くなったハルコちゃんという女の子が

 「モナコといったらカジノですよ!」

 一人盛り上がり、ぜひ行ってみたいので、ついてこいとおっしゃるのだ。

 いや、だから私はメルボルンで大恥をかいて……と辞退したいのは山々だったが、考えてみれば、

 「カジノで女の子とデート」

 というシチュエーションには非常に惹かれるものがある。

 さらには、そこでルーレットなどなどやってみて、ビギナーズラックで大勝ちした日には、もしかしたら、なにかめくるめくふしだらなモナコの夜が待っているやもしれぬ。

 気がつけばエスコート兼ボディーガードとして、ハルコちゃんについていくことになっていた。さすがは私、節操の無さにかけては北半球一の男である。

 とはいえ、オーストラリアと同じ失敗をくり返すわけには、こちらもいかない。なんといっても、今回は女性連れなのだ。ここでミスをしたら、恥も2倍返しである。

 ジャケットを持ってきていたのを幸い、それを着ていくことにした。ガイドブックに「ヨーロッパの夜は冷えることがあるので、上着を用意しておきましょう」とあるのに従ったのが勝因だ。

 一方、ハルコちゃんもバックパッカーとはいえ一応は女の子。手持ちの衣装をやりくりして、さりげなくオシャレな服装を決るところはさすがの女子力である。

 首に100均で買ったというスカーフなど巻いたりして、ちょっとしたお嬢様のようだ。

 完璧とはいかないが、そこそこには形を整えた我々は、このカジノ強奪計画を「ドストエフスキー作戦」と命名。

 大金めがけて、二人でモナコ・モンテカルロのカジノに出動することとなる。

 ハルコちゃんとおしゃべりしながら、道々考える。

 モナコのカジノ。これはなんともシャレオツな響きである。

 しかも女子連れ。日本に帰って友たちに自慢したら、みんなうらやましがるやろうなあ。

 ましてや、この後ポーカーやルーレットで勝ちまくって、勢いでハルコちゃんともどうにかなっちゃったりしたら、あいつら悔し泣きして憤死するかもしれないなあ、イッヒッヒ。
 
 などと、邪悪な笑みを浮かべながら門をくぐると、蝶ネクタイをビシッと決めた黒服アンチャンが、フランス語で「ご入場ですか」と聞いてきた。

 今度はメルボルンとちがい、ジャケット着用である。堂々の凱旋だ。

 「そうである」と威厳を持って答えると、なんとカジノの店員は苦笑いを浮かべながらこう言い放った。

 「あなたがたは入場できません」。

 まさかのエントリー拒否!

 これには、ふだん温厚な私も声を荒らげた。

 おいキミ、それはどういうことかね。これをしっかりと見たまえ。こっちはちゃんと正装し、ジャケットも着てるんだぞ。おかしいところはないはずだ。

 それに、こちらのマダムにも失礼じゃないか。キミはプロとしてのジェントルさが、欠けているんじゃないのかね。

 そんなことだからヨーロッパの経済は停滞するのだぞ、てゆうかコラ、なんか文句あるんかい、このぼけなす!

 などと、セレブともっとも離れた下町育ちらしく落ち着いて伝えると、黒服アンチャンは落ち着き払って、

 「お客さまの足元をご覧ください」

 視点を下げる。その目の先をゆっくりと追っていくと、そこですべてがわかった。

 そう、私とハルコちゃんがはいていたのはサンダルだったのである。

 カジノにサンダル!

 なんとまあ、私とハルコちゃんはカジノにはジャケットとか、ドレスアップとかそういったものが必要というのは知っていたが、それをなんとかしようと汲々しているうちに、足元のことを完全に失念していたのである。

 カジノにサンダル。

 それも我々のはいていたサンダルは、後ろを止めるヒモがあるお洒落サンダルでもなく、歩くたびに、かかとがペタペタ音を立てる、いわゆる「ペタペタサンダル」であった。

 ハルコちゃんにいたっては「海の家」で売ってそうな安いビーチサンダルときたもんだ。

 上はドレスアップ、下はビーチサンダル。

 ファッションには「あえて王道をはずす」というのがポイントとしてあるらしいが、カジノの正装にビーサンはダメだろう。

 意表のスクイズにあせって暴投をかます投手のよう、豪快にはずしすぎである。

 モナコのカジノといえば、沢木耕太郎さんの『深夜特急』で、ちゃんとジャケットを着用して出かけたのに、そのあまりのボロさに、

 「我が国では、それをジャケットとは呼ばないのです」

 慇懃無礼に追い出されたエピソードがあり、私も読んで爆笑したものだが、ビーサンでカジノとは、それ以上の失態であろう。

 どこのトンマがそんな格好でギャンブラーを気取るのか。万全を期したはずの「ド号作戦」はこれにて頓挫。

 こっちは阿呆だから仕方ないにしろ、一応は女子のハルコちゃんには猛省をうながしたいものであった。

 どっちでもええから気づけよ、ホンマ。

 
 

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メルボルンのクラウン・カジノ体験記

2013年10月14日 | 海外旅行

 カジノは男のロマンである。

 私はギャンブルをやらないが、ルパン三世や映画『スティング』の影響で、カジノだったら通ってみたいと常々あこがれている。

 といっても日本はまだカジノが認可されていないわけだが、実を言うと海外で少しだけ雰囲気を味わったことはある。

 はじめて入ったのはオーストラリアでのこと。

 メルボルンで行われるテニスのオーストラリアン・オープンを見に行ったのだが、観戦の合間に出かけたのが当地の名物「クラウン・カジノ」。

 街中のセレブやギャンブラーが集まるこのカジノ。雰囲気があって、実に素晴らしかった。

 まるで映画『華麗なる賭け』のようである。ディーラーが魔術師のような手さばきでカードを切り、ドレスアップした男女がカクテル片手に優雅に賭ける。

 これよ、これこれ。ギャンブルはやらないが、後に『マルドゥック・スクランブル』を何度も読み返す身となる私にとっては、それはそれはシブイ光景であった。

 そんな、高級感あふれるカジノだったが、ひとつ大きな問題があった。

 服装である。

 ふだんなら、黒のモッズスーツにWWLのレザーのネクタイ、そして『地獄の黙示録』のキルゴア大佐のかけていたデザインのサングラスをシブくかける。

 「浪速のチバユウスケ」を自認し、よそさんからは「ブルース・ブラザーズのバッタモン」とかいわれている私であるが、その時の出で立ちは薄汚れたTシャツとジーンズであった。

 オーストラリアは暑いのでこれでいいやと決めこんで、さらにはガイドブックによると

 「クラウン・カジノは気さくなので、普段着でも入れます」

 とあったので油断していたが、入ってみるとみな高価そうなスーツかタキシード、女性はドレスといった装いであり、そこで完全無欠に浮いていしまったのだ。

 場違い感がハンパではなく、セレブな装いの皆様方の中にあって、ひとり難民のようであり頭をかかえたくなった。

 そういえば、ニューヨークでミュージカルを鑑賞した際も、昼の部は若者がラフな格好で入場しており、

 「さすがUSAの人だ。なんてカジュアルなんだ」

 安心して、夜の部も同じような格好で見に行ったら、今度はタキシードとドレスの世界で客層が180度変わっていてビビッたものだ。

 昼は若者がジーンズでコークといったところだが、夜は皆さま高価なシャンパンを飲んでおり、フリマで100円みたいなシャツを着ていた私は全体的に身の程知らず感がすごい豪快な浮きっぷり。

 周囲の、ゴミ虫を見るような視線に耐えながら『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞したものである。

 舞台では「I Have Confidence in Me(自信を持って)」と歌っていたが、こちらは親に見捨てられたストリートチルドレンみたいな格好では、そんなもん持ちようもない。

 やはり劇中歌の「So Long, Farewell(さようなら、ごきげんよう)」が歌われたときには、舞台の出来よりも、はやくこの状況からただひたすらさよならしたかった。

 こういうセレブな場での「ラフな格好でもOKです」というのは、日本のパーティーにおける「平服でお越しください」のような「空気読めよ」感が強い注意書きと同じらしい。

 とんでもない罠である。ちゃんと「スカタンお断り」と書いてくれれば、こちらもいろいろ考えたのに。

 


 (この話題、次回【→こちら】に続きます。


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ウルトラ5つの誓い その2

2013年10月04日 | オタク・サブカル
 前回(→こちら)の続き。

 帰ってきたウルトラマン最終話のサブタイトル「ウルトラ5つの誓い」というのが、なんともかっこよく、

 「で、その誓いって、どんな内容やったっけ」

 と調べてみた友人サカイ君と私。

 きっと、「男なら夢を追い続けろ」とか「自分の幸せより、人類全体の幸せが大事なんだぞ」といった、感動的な言葉が出るかと期待して検索してみたらそこには、

 「ひとつ、腹ペコのまま学校に行かないこと」

 とあって、スココーンとコケそうになった。

 故郷に帰るウルトラマンが我々に残したかった最後のメッセージが、

 「朝メシはちゃんと食え」

 そんな栄養士の本みたいなものでいいのかウルトラマン。お母ちゃんやないんやから、とつっこみたくなったが、続いては、

 「ひとつ、天気のいい日には布団を干すこと」

 うむ、たしかに。布団はマメに干したほうがいい。人体は寝ている間にコップ一杯分の汗を……って、おいおいウルトラマン、なにを語っているのか。

 たしかに布団は干すに越したことはないが、なんだか小冊子「主婦の心得」みたいである。私もこう見えて一人暮らしは長いが、まさかウルトラマンに「布団を干せ」と説経されるとは思わなかった。

 さらに3つ目は、

 「ひとつ、道に出るときには車に気をつけること」

 飛び出しは交通事故につながる。よく気をつけないととうなずきたくなるが、やはりそれは宇宙人よりも地方自治体とかにまかせたらどうなのか。

 で、4つ目が、

 「ひとつ、他人の力を頼りにしないこと」

 おお、ようやくヒーローものっぽいセリフが出てきたではないか。というか、これを最初にいえよ!という気もする。そうそう、こういうのが欲しかったのだ、我々としては。

 ただ、ひとつ気になるのは、他人を頼ってはいけないが、自力で倒せなかった怪獣を、人にもらったウルトラブレスレットでガンガンやっつけるのはどうかとか、そもそも地球防衛をまかされているMATが、脚本を書く市川森一にすら

 「こいつら、超よえーなー」

 とあきれられる弱さで、毎回毎回「解散だぞ」とリストラの危機におびえ、あまつさえ仕事はすべてウルトラマンに丸投げとかは問題ではないのか。

 どうにもやってることに説得力がない気がしないでもない。オレらより、そのセリフはMATに言えよということにならないか。

 最後の5つ目は、

 「ひとつ、土の上をはだしで走り回って遊ぶこと」

 オチではどーんと遊び方の話だ。まあ、子供はよく学び、よく遊ぶのがいいが、ウルトラマンもこれから故郷をバット星人の侵略から守るために帰るというのに、なんとも呑気な話である。

 昨今の子供はしっかりしてるから、そんな人から「遊べ」と言われても、「いや、気をつかって遊びにくいよ!」と思うかもしれない。

 こうして、あらためて見直した「ウルトラ5つの誓い」であるが、なんだか全体的に見て

 「小学校の校長先生が全校集会で話す退屈なお説教」

 といった内容であり、地球のために必死に頑張ってくれた秀樹には悪いが、別にまあ、そんなに誓わなくてもいいのではないかと思ったりした。

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ウルトラ5つの誓い

2013年10月02日 | オタク・サブカル
 「『ウルトラ5つの誓い』って、どんなんやったっけ?」。

 先日、居酒屋で一杯やっているとき、そんなことを言いだしたのは友人サカイ君であった。

 サカイ君は私と同じく特撮ファンである。そこで彼と話すと、往年のヒーロー番組や怪獣のことが議題に上がることが多い。

 そこで出たのは

 「ウルトラシリーズの各話サブタイトルは意外とカッコイイ」

 ということであって、

 『無限へのパスポート』
 『禁じられた言葉』
 『小さな英雄』

 などは文学な短編小説のタイトルのようであり、硬派なSFドラマであったセブンも

 『姿なき挑戦者』
 『闇に光る目』
 『栄光は誰れのために』

 などなど、シブイものが多い。

 こういったサブタイトルなつかし話は、最後に『ウルトラマン80』のサブタイトルである

 『ボクは怪獣だ~い』
 『さすが! 観音さまは強かった!』
 『山からすもう小僧がやって来た』
 『グローブ 落し物にご用心!!』

 といったズッコケものまで行き着いて「やる気があるのか!」とつっこんでオチがつくというのがお約束である。そういったシブイ題シリーズに、帰ってきたウルトラマンの『ウルトラ5つの誓い』というのがある。

 これは帰マンの最終回であり、ウルトラマンの『さらばウルトラマン』セブンの『史上最大の侵略』と並んで、なかなかの名タイトルである。「誓い」という響きが、いかにもヒーローものらしい硬派な響きだ。

 そこに、冒頭のサカイ君の問いだ。そういわれてみれば、「ウルトラ5つの誓い」って、はてどんなんやったっけ?

 なにか5つ、誓ったのである。子供のころ見た『帰ってきたウルトラマン』を思い出してみると、たしか故郷のM78星雲に帰る郷秀樹(ウルトラマン)が、仲良しの次郎君に別れを告げる際、「これからは、ひとりで強く生きていくんだ」と、5つの誓いを教えたのだ。

 空へと消えていくウルトラマンを見上げながら、次郎君は涙をこらえ、何度もその誓いをくり返し暗唱するという感動的なラストであった。

 あれって、どんなんやったかなあ。きっとウルトラマンのことだ、

 「どんなに苦しいときでも、誇りを失ってはいけない」

 とか、

 「弱い者を守るのがキミの務めなのだ」

 といった、そんな胸を打つような内容に違いない。

 こういうとき情報化社会は便利である。さっそく調べてみようと、サカイ君がスマホから動画サイトにアップされた帰ってきたウルトラマン最終話を探し出し再生してみると、次郎君が受けとった誓いのひとつ目というのが、

 「ひとつ、腹ペコのまま学校に行かないこと」

 ………………。

 いや、まあなにがどうということはないが、とりあえず意表はつかれた。

 それまで散々、「マンやセブンはカッコイイよな」という話で盛り上がって、

 「平成ウルトラマンなんて中身が薄いよな、昔の名作とくらべたらたいしたことないぜ」

 などと、嫌なオールドファンぷりを見せていた我々だったが、ここでズコッとズッコケることとなったのである。

 おいおい、そんなライトな内容だったのか、ウルトラ5つの誓いは。

 いや、まあたしかに朝食抜きで学校に行くのはいかがなものかと思う。朝しっかり食べないと、頭はボーッとするし、力も出ない。

 だが、わざわざ宇宙から来てまでヒーローが教えるべきことだろうか。そういうのは「ためしてガッテン」とかにまかせておけばいいのではないか。最近忙しいので「ウィダーinゼリー」とかでもOKなのであろうか。気になるところである。


  (次回【→こちら】に続く)



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