戦慄の人気アイドル地獄変 吉田豪『元アイドル!』 その2

2017年11月30日 | オタク・サブカル

 前回(→こちら)に続き、『元アイドル!』を読む。

 吉田豪さんの文体のせいか一見軽く読めるが、あらためて内容を抽出してみると、

 「そんなん、全然笑えませ~ん

 なエピソードばっかり。

 とにかく、アイドルというお仕事の大変さが、よくわかります。

 胡桃沢ひろこさんは、お父さんがかなり激しい人だったらしく、彼女がちょっと男の子と仲良くしたのに激高し、強烈な回し蹴りを食らわせてきたとか。

 親父、娘に問答無用のスピンキック

 平手打ちならまだわかるが、足技とはガチである。

 それも、これが見事、腹部にクリティカルヒット。

 アバラへし折り彼女は激痛に耐えながら番組出演するはめに。

 胡桃沢さん笑いながら、

 

 「コルセット巻いて、大変でしたよ」

 

 ……って、それで済む問題ではない気がするが、どうか。

 この胡桃沢パパのすごいところは、その後なんの前触れもなくいきなり蒸発

 音信不通になるが、一度だけ葉書が送られてきて、そこには一言、


 「裏切り者は殺せ」。


 ひとり芸能界でがんばる娘に、まさかの殺人指令

 どんなパパからの手紙だ。もはや、アイドルとか全然関係ない修羅場である。竜牙会か。

 そんなハードな本書だが、中には妙に笑えたり、ほのぼのするいいエピソードもなくはない。

 あるとき、宍戸留美さんに「一緒に、舞台やろうよ」と誘ってきたのが、声優であり『新世紀エヴァンゲリオン』のアスカ役で有名な宮村優子さん。

 仕事自体はうれしいのだが、ひどいことに、当時の宍戸さんはドラマの撮影でセクハラを受け、それがトラウマになって仕事ができない状態だった。

 やむを得ず、事情を話して断ろうとすると、そこでみやむーはドーンと胸を叩いて、こう言い放ったという。


 「私が守るから大丈夫!」

 

 くわー、みやむーカッコええー

 そういえばどこかで、



 「宮村は女として見たら、顔はやけど、もし自分が女で、みやむーがやったら絶対ほれるわ」



 という意見を聞いたことがあるが、なるほどたしかに男前やなあ。空手の達人だし。

 ちなみにそのトラウマというのが、16歳のころ撮影現場で大物俳優Kにさわられたというもので、


 吉田豪「あれ、あの人ってホモなんじゃないんですか?」

 宍戸「とりあえず、カツラをかぶっていることはたしかですね(笑)」



 って、この会話も因果がすぎるというものだが。

 前回紹介したような、笑顔もこわばるキツイ人もいるようだが、やはりファンあってのアイドルである。その愛は邪険にはできまい。

 ふたたび、胡桃沢ひろこさんの場合、熱心なファンがいきなり彼女の前に土下座

 あわてて、「なぜ?」と問うならばファン氏は


 「胡桃沢という名前は運勢が悪いので、本名に戻してください! それまで僕は土下座し続けます!」。


 といわれても、リンダならぬ、ひろこ困っちゃうであろう。

 そのファン氏が、本当に心から誠実な想いでもって、やっているのは痛いほどわかるが、まあ本当に痛いのもわかる。

 「し続ける」ってところが熱い。もう、どないせえというのか。

 まあ、アイドルファンといえば、たしかに業の深い人もいるし、アイドル自身に迷惑をかける人もいるが、実際のところはこういうな人たちに支えられている一面も、あるのであろう。

 大変な仕事だが、日本のアイドルとは「宗教なき国の」であるため、その仕事が過酷なのは、ある程度は仕方がないのかもしれない。

 人の罪を背負って十字架にかけられたイエスキリストのように、男子のリビドーを一身に背負って、満身創痍で走るのがアイドルである。

 死なない程度に、がんばってほしいものだ。



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戦慄の人気アイドル地獄変 吉田豪『元アイドル!』

2017年11月29日 | オタク・サブカル

 『元アイドル!』を読む。

 プロインタビュアーであるサブカルライター吉田豪さんが、おニャン子クラブ少女隊、ドラマ『スケバン刑事』の風間三姉妹。

 などなど、かつて一世を風靡したアイドルたちから、今だから語れるその時代の真相を、鋭く聞き出していくというもの。

 登場するのは、杉浦幸新田恵利中村由真宍戸留美花島優子、その他いろいろ。

 私はあまり芸能界というものに興味がなく、また時代的にもややズレがあり、彼女らのことは名前くらいしか知らない場合も多かった。

 が、これがまあなんというか、読んでみると、実に因果なおもしろさがあって引きこまれたのである。

 常に人目にさらされる芸能人というのは、素人が想像するだけでも、なんとも大変そうな仕事。

 中でもアイドルというのは、その虚構性の強さと宗教的な崇拝と同時に、ファンのストレートなリビドーの対象であるという業の深い存在であることから、その心身へのストレスはハンパではないようだ。

 無茶な仕事に、暴力セクハラおかしな関係者とか、本当にもう大変。

 それにより、円形脱毛症になったり、突然失踪したり、精神科通いで幻覚を見たり、入院して生死の境をさまよったり。

 吉田豪さんもインタビューの中で、


 「アイドルやってると、自殺を考えるくらいまで追いこまれる人も結構多い」


 何度もそう言っているが、お話を聞いていると、「そら、そうなるわ」と、あきれるような事件が目白押しであった。

 『ヤヌスの鏡』で有名な杉浦幸さんは、仕事がキツすぎてがおかしくなったとか。

 苦痛な仕事というのはさまざまであり、握手会で「こいつだけは勘弁」というファン相手でも、笑顔で対応しなければならないという本音は、まあこちらも想像はできる。

 よくいわれる、「体液的なもの」と一緒に握手をしてくるファンというのは、やはりいらっしゃるようで、それでもニッコリ天使の笑顔。

 本人も地獄であるが、とばっちりなのは、その後に並んだ男子たち。

 あるアイドル曰く、


 「次の人の手で拭きました(笑)」。


 いやいや、(笑)やないー! 怖いー! やめてー!

 ほかのアイドルも負けてなくて、


 「封筒を開けたら、猫の死骸が入っていた」

 「マネージャー抜きで海外に行かされておかしいなと思っていたら、その場で『脱げ』とおどされた」。

 「いきなりスカイダイビングさせられて、勝手に生命保険に入られていた」

 「事務所の社長が、タレントに借金を押しつけて蒸発




 全然、笑えない話のオンパレード。

 スカイダイビングといえば、若手時代のたむらけんじさんが、まったく同じ目にあったそうであるが(受取人はもちろん吉本興業)、売れっ子アイドルが下積み時代の芸人と同じあつかいとは……。
 
 同期アイドルと対談の仕事で、「枕営業、あるみたいよ」といわれて「どうしよう……」と頭をかかえたというエピソードには豪さんも


 「やっぱり、枕営業はあるんですか?」。


 つっこんで訊くと、


 「人によるんじゃないですか? 自分からやろうと思えばいっぱいあると思うし」

 「噂ほどあるわけでは絶対ないけど、過去には……」


 なんとも微妙なお答え。

 まあ、あるんでしょうなあ。

 こんなことばっかりやってたら、そらなんぼ気の強い子でも壊れます。

 杉浦さんも、とりあえず周囲の気にくわない奴を散弾銃でもって、


 「こいつらみんなぶっ殺してやりたい!」


 いつも思っていたそうな。意に沿わない仕事や、現場でのいじめで追いつめられ、


 「ビルの屋上から飛んだら気持ちいいだろうな……」


 ……と、茫然と過ごす毎日。そら乱射したくなりますわな。

 とまあ、とにかく全編「芸能界は、おそろしいところや」という内容でございまして、アイドル志望の娘さんは必読かも知れません。

 読後はもう、テレビを見ていて、



 「あんな笑顔を見せてるけど、あの子もウラでは……」



 邪推ノンストップ状態になってしまい、なんだか切なくなります。

 とりあえず将来、娘ができても、絶対芸能界には行かしたくなくなりますねえ。


 (次回に続きます→こちら




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なんてステキな「日本イジリ」の北朝鮮お笑い事情 雨宮処凛『悪の枢軸を訪ねて』 その2

2017年11月26日 | 

 雨宮処凛悪の枢軸を訪ねて』がおもしろく、前回(→こちら)は北朝鮮プロパガンダ標語のセンスがなかなかという話をしたが、今回はお笑いの世界について。

 彼の国ではサーカスなどエンターテイメントに力を入れており、命綱なしで危険なアクロバットに挑戦したり、レスリングがあったり、お手玉の代わりにハンマースパナを使ったジャグリングなど(共産国ですから)、なかなかの充実っぷり。

 そこでは、芸人によるコントも披露される。

 そのコントはやや辛口で、そういうテイストであるなら、もちろんこと「エスニックジョーク」も満載である。


 「ポーランド人が電球を代えるには何人が必要か」

 「ヒトラーとゲッベルスとゲーリングが乗っていた飛行機が墜落した。
  助かったのは誰か?」


 といった定番のネタは各国にあるものだが、彼の国がやっつける民族といえば、もちろん我々大日本帝国臣民である。

 まず日本人役で出てくる役者の衣装というのが、

 

 「着物」

 「七三の髪形」

 「千鳥足のだらしない酔っぱらい」

 

 この三点セットであるという。

 「酔っぱらい」以外はハリウッド映画などに見られる日本人の典型であり、



 「うむ、やはり『外国人が見た間違った日本人』はこうでなくてはな」



 納得させられるものであったが、そこからの展開がなんともイカす。


 「韓国を搾取する欲深日本人を、北朝鮮の実直な若者がギャフンと言わせる」

 
 みたいな、一昔前の日本で言えばアメリカ人をやっつける

 

 「力道山、怒りの空手チョップ」

 

 みたいなわかりやすいものもあれば、ショーのクライマックスではドラムロールとともに軍服姿の男が落ちてきて、着地と同時にバックスクリーンにデカデカと、

 

 「自爆精神」



 おまけに、もうひとり落下してきて今度は、

 

 「肉弾精神」



 とどめに金正日総書記ドアップがドドドーンと映し出されて会場大拍手で終了というものも。

 なんだか笑ってほしいのか、どうしてほしいのか、これ以上反応に困るお笑いライブというのもあるまい。

 の日本なら三四郎小宮君

 

 「絶望的な活舌だから察してくれよ!」

 

 と声を荒げたとたんに、「人間魚雷」の文字がスクリーンに映り、

 

 「ボケだから異常であれ!」

 

 と諭すと「爆弾三勇士」の文字。



 「終わりでーす」

 

 と漫才が終了すると、そこに大音量君が代が流れ、浩宮様の特大写真がアップになるようなものか。

 リアクションが難しすぎるネタだが、なんたって独裁国。それでも拍手せなしゃあない

 どんなエンターテイメントなのか。おもしろすぎるではないか。

 かくのごとく、日本ではなかなか知ることのできない北朝鮮の、中でもお笑い文化を知ることができるのは、おもしろいところ。

 昨今、日本のお笑い芸人も、ヨーロッパでライブをやったり、「アメリカでデビューしたい」なんて人もいるが、やはりここはひとつ、



 「北朝鮮で政治ネタに挑戦」



 という選択肢も、あっていいのではないか。

 昨今ネットで叩かれがちな「日本ディス」なネタも、ここなら堂々とできるというか、それしかできないのも困りものだけど。




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北朝鮮って「大日本帝国」なの? 雨宮処凛『悪の枢軸を訪ねて』

2017年11月25日 | 

 雨宮処凛悪の枢軸を訪ねて』を読む。

 ミュージシャンであり作家としても活動する著者が、アメリカのブッシュ元大統領により「悪の枢軸」と命名された、北朝鮮イラクを訪れるという内容。

 企画のトガリ方もさもさることながら、著者も反米愛国パンクバンド「維新赤誠塾」のボーカリストをつとめるなどといった活動から「ゴスロリ右翼」の異名を持つとなれば、中身はは相当に過激なものとなっているのではないか。

 なんて少々腰が引けながら読んでみたのだが、一見「イロモノ」な印象を持たれそうな著者紹介からは意外(?)とも思える、きちんとした読み物であった。

 視点も冷静で文章も読みやすく、学術的興味の観点からはやや軽いかもしれないが、なかなか実態の伝わりにくい国のことを知るにはいい本である。

 かなりシリアスな提言などもされている、経済制裁下のイラク編もさることながら、やはりネタ的に充実しているのは北朝鮮の旅行記。

 監視役のガイドさんなしではどこもいけないことや、やたらと観光させられること。

 また、どこへいっても朝から晩まで金親子礼賛チュチェ思想の宣伝されるというプロパガンダ責めにあって、頭がヘロヘロになるという話は他の本や報道でもよく聞くが、なるほど実際に行ってみると聞きしにまさる偏りっぷりのようである。

 世界で孤立して国体維持に汲々としている国というのは、その必死さと、閉鎖性による視野狭窄、さらには劣等感とその裏返しの優越感が混ざり合って、ついつい

 「おもしろ国家

 になってしまいがちだが、こういう国というのは、まず言語センスが独特である。

 旧共産圏の国が、どの通りも広場も

 

 「カール・マルクス広場」

 「エンゲルス公園」

 

 という名前にしてしまったように、北朝鮮のネーミングセンスもふるっている。

 歩道橋などには、

 

 「自力更生」

 「強生大国」

 「自爆精神」

 「全人民総武装化」

 「全国要塞化」 


 などといったプロパガンダワードが、これでもかと掲げられている。

 さらに地下鉄の駅名がまたふるっていて、

 

 「勝利」

 「栄光」

 「復興」

 「楽園」

 「戦友」

 「革新」

 「戦勝」


 などなど、まー勇ましいったらありゃしない。とりあえず、こんな暑苦しい沿線には住みたくないと思いますわな。

 大時代的というか、はっきりいってほとんどギャグだが、もちろんのこと我々にこれを笑う資格などありはしない。

 そう、うちらの大先輩も、同じようなことやってましたから

 

 「鬼畜米英」

 「一億火の玉」

 

 とかとか。

 というか、よく



 「《北朝鮮》という存在の元ネタは《大日本帝国》」



 といわれるけど、そのことが、よくわかるセンスとボキャブラリーです、ハイ。

 まあ、いくら嫌いといっても歴史的経緯を考えたら、そりゃ影響は受けるだろうし、それがなくとも全体主義国家のセンスって、だいたい似たようなノリになりがちではある。

 うーむ、こうして反対側から見るとよくわかるが、自意識はともかくとして、昔の我が国も神の国とか自称してたけど、世界的には「おもしろ国家」あつかいだったのか。

 「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」とか「神風」とか、よそさんから見たら、



 「おまえ、マジか? www」



 てなもんだったんだろうなあ。

 陰でイジられてたんだろうなあ。ちぇ、勝手に言ってろよ。こっちはそれこそ今の北と同じく、大マジメで本気も本気だったんだよ!

 嗚呼、敗戦国はつらいでヤンス。人のことは笑うもんじゃない。

 というわけで、ここだけでも充分におもしろいのだが、さらに深みを感じたのは北朝鮮のお笑い事情。

 外国といえば、本や映画などで文化を知ることはできるが、「笑い」の観点から見ることによってわかってくる国民性というのもある。

 果たして北朝鮮のお笑いとはどういうものか。


 次回(→こちら)に続きます。



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人生はすべて「結果論」? レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』 その3

2017年11月22日 | 

 前回(→こちら)に続いて、レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』を読む。

 入学試験において、ほとんど実力の変わらないはずの受験生が、どこでふるいにかけられるのか。

 勉強量? の良さ?

 大前提として、それはそうだろう。

 でも、「倍率72倍」の受験生は、そんなもん同じだけの蓄積を持っている。



 「ちゃんとやることやってれば、7割取れる」

 

 というのが、当時の大学受験というものだった。

 で、当落上の数点差で、合否が分かれる。

 「がんばって」「努力して」上限が7割

 なら、そこから1~4点抜け出るにはどうしたらいいかといえば、あと勝負のカギは、



 「自分が得意なジャンルが、その年の問題に出た(不得意な問題が出てなかった)かどうか」

 「カンで書いた答えが、当たっていたかどうか」

 

 なんか、そんなもんとかでがつくのだ。

 まさに、ランダムネスで勝負が決まる。

 徹頭徹尾に「公平」で「不公平」と言える、神様の気まぐれなサイコロ遊びで決まるのだ。

 これはもう、常に関関同立ラインの、

 「真ん中から下の方の合格圏内」 

 に位置していた、秀才ではない「ひと山いくら」な自分には、ものすごくリアルに感じられた真理だ。

 ぶっちぎったヤツ以外は、そんな紙一重で人生が決まる。

 よく、マンガなどで、ボンクラ生徒がテストの答えをエンピツ転がしで決めたりしているが、あれは正しいやり方なのだ。

 得意ジャンルの話でも、私の代では、当時関大国語の名物だった


 「漢字」

 「古文のマニアックな文法知識」


 という変則問題が出題されず、オーソドックスな読解問題に、大きく内容が変更されていたこともあった。

 これには古文が大の苦手だった(半分捨ててた)私にとって僥倖という言葉を越えたスーパーラッキーだった。

 けど、まじめに過去問を精査していた受験生は、ビックリしたことだろう。

 出題側は、なんの気まぐれだったか不明だが、もしこれがなかったら、私はもっと国語で苦戦していたハズ。

 むしろ、ちゃんと関大対策をしていた受験生こそ釈然としなかったろう。


 「あんたらの、かたよった悪問に照準合わせたのに、こんなフェイントかよ!」



 あれは、あんまりな仕打ちだった。

 だから私は、学歴社会にかぎらず、あらゆる「結果」は信用できないとは言わないけど、


 「それだけで判断はできんよな」


 とは思っている。

 だって、一発勝負は相当な数の、私のような、



 「たまたま《エンピツ転がし》で結果出しただけの人」



 を生むのだから。裏を返せば、



 「実力はあるのに、たまたま結果が出なかった人」



 これも山のようにいるわけだ。

 それの、どっちが偉いかっていったら、どっちなんでしょう?

 私には、わからない

 こんなもん、ペーパーテストで数点の幸不幸に過ぎないのではないか。

 実際、「たまたま」私が合格して入学式に出たとき、高校時代の友人ワカエがいて、おどろいたことがあった。

 彼は3年間優秀な成績で、皆に慕われ学級委員や部活のキャプテンまで務めた男だが、第1志望である国公立の大学に「たまたま」合格できなかった。

 そのため彼にとっては「すべり止め」の同じ学校に、籍を置くことになった。

 ちなみに私は3年間ロクに学校に行かず、成績は279人中279番ビリで卒業。

 追試すらサボった「仮卒業」という、超絶劣等生

 同じ浪人でも、



 「宇宙工学を学びたいため、どうしても第1志望をゆずれない」



 と合格していた私大を蹴った彼と、追試の数学で中学生レベルの問題も解けず、



 「こんな簡単なものを白紙答案とは、もしかして偏差値編重教育に対する、お前なりのレジスタンスなのか?」



 メチャクチャにアクロバティックな邪推をされた、大バカ三太郎とでは、もう志も人間のレベルも、貴族と乞食くらい違う。

 また、われわれの入学を歓迎してくれた友人イワタ君は、やはり3年間学年トップ5をキープする超優良生徒だったが、基本的にガツガツしたところがなく、



 「べつに、あくせく勉強してまで良い大学行く気もないしなあ」



 などと呑気なことを言って、指定校推薦で関大に入学していた。

 彼は「たまたま」組の私を見て、



 「こういうたらなんやけど、ボクとシャロン君が同じ大学って、絶対おかしいよなあ」



 なんてケラケラ笑っていたけど、ホントだよね。

 これは本当におかしいよ。数年前の頂点底辺が、履歴書だと同じ位置

 絶対にだって。

 この経験があるから、私は今でも、



 「結果って、なんなのさ」



 という疑念がぬぐえない。

 私は高校時代の自分も、ワカエ君も、イワタ君も知っている。

 その3人が、知らない人には同じ経歴になる。

 人間性も、の良さも、おそらくは勉強量も、将来への展望可能性意志も、まちがいなく彼らの方が「」なのに。

 そんな「結果」が、信用できるの?

 このとき私は、つくづく「たまたま」「偶然」「ランダムネス」の怖ろしさを思い知らされた。

 なんという冷徹なサイコロ遊び。

 そこにはなんら、エモーショナルなものはない。えげつないほどに公平で、不公平だ。

 この件に関して私は「たまたま幸運」だったのだから、素直によろこんでおけばいいのだろうけど、簡単に割り切れないなにかが残ったことは、たしかだ。

 もちろん、私だっていつ理不尽に「たまたま不運」なことが起こるかだって、わかったものでもない。

 だから私は「たまたま」の影響力を見くびっていないし、


 「結果がすべて」


 という考え方にも、ちょっとばかし懐疑的だ。

 少なくとも、「ぶっちぎり」以外は。

 「いい人」「優秀な人」でも、運に恵まれないこともあるということも、このとき学んだ。

 だから私は、そういう人を「失敗したな」と蔑んだり、「勝った」なんて慢心したりなどしない。

 逆に、自分に結果がともなわなかったときも、必要以上に卑下しない

 ベストを尽くしても、「そういうこともある」からだ。

 もちろん「結果」を軽視するわけではないし、人生のすべてが「たまたま」で決まるわけでもない。

 そもそも、人のことなんて深くは理解できないんだから、なんらかの「結果でしか判断できないわけだけど、


 「それだけじゃないよね」


 
 という思いが、どうしてもぬぐいされないのだ。

 まあ、受験にかぎらず、この世界はありとあらゆることがそうなのだろう。

 釈然としないといえばそうだけど、逆説的には、だからこそ「結果を出す」ということが大事なのかもしれない。

 みなさまの未来にも、幸運な偶然のご加護を。




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人生はすべて「結果論」? レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』 その2

2017年11月21日 | 

 前回(→こちら)に続いて、レナード・ムロディナウ『たまたま日常に潜む「偶然」を科学する』を読む。

 世界に起こることは、すべて「偶然」で生まれる。

 という、正しいんだろうけど、ある意味では味も素っ気もない論を展開するこの本は、



 「運命は自分で切り開く。努力は必ず報われる」



 といった、マジメな人には不評であろう。

 実際、周囲でも努力家や、能力の高い人ほど一様に、本書をすすめる私の声に否定的だった。


 「それって、成功できなかったことに、予防線張ってるだけじゃねえの?」

 「運がどうとか。結局、自分が努力をしないためのいいわけなんでしょ?」。

 「人生は、そんな偶然なんかで決まらないよ、決められてたまるか」。


 そりゃ、できる人や、がんばってる人からしたら、

 「人生において、そんなことは『誤差の範囲内』で大勢を決定するのは『偶然』」 



 と言われたら、そら、おもしろくはないであろう。

 人によっては、能力や努力の不足をのせいにした、「言い訳」「逃げ」にも聞こえるだろうし。

 わかる。いいたいことは、とても理解できる。

 でもね、自分の経験でも、またいろんな人の話を聞いたり、成功者の人生を追っていくと、


 「それだけじゃない」


 ことも、よくわかるところもある。

 だから、私自身は、その能天気な性格もあろうけど、レナードの言うように


 「人生は自分でコントロールできない」


 ことに、首肯できるところはなのだ。

 そう感じてしまう理由についていえば、話はまだ私が19歳、大学受験のころまでさかのぼる。

 私は1年間の浪人生活を経て、志望大学に合格することができた。

 第一志望に受かった。

 もちろんこの結果は良きことであり、そこは素直に「よっしゃ!」とよろこんだのである。

 が、そのとき同時に、しみじみと思ったことは、


 「これで春から大学生!」

 「キャンパスライフで青春を謳歌するぞ!」


 といった高揚ではなく、


 「人生というのは、運の要素が大きいんやなあ」。


 さらに言えば、


 「私が合格したのは『たまたま』にすぎず、この結果はある意味、非常に不条理なもの」

 「今回はラッキーだったけど、今後成功するも失敗するも、やっぱりこの巨大な『たまたま』の手からは逃れられないのだ」


 という、真理というか諦観というか。

 逆にいえばいっそ気楽というか、そういう


 《巨大なランダムネス


 に対する、畏怖の念のようなものであったのだ。

 そう感じた根拠としては、まず受験時の倍率が上げられる。

 少子化の今は、大学側も受験者数減少におびえているようであるが、昭和後期の偏差値つめこみ教育全盛の時代に育った我々は、とにかく数が多く、競争も激しかった。

 必然、その倍率は高くなり、私が受けた年の、もう今回は名前を出しちゃいますが関西大学文学部のそれは「7.2倍」であった。

 つまりは7人受けて、1人以下しか通らない。

 そんなもん、ふつうに考えて、受かるわけがない。

 そりゃ、すべりどめみたいに学力的に下駄をはかせてもらっているなら別だが、第1志望となれば、ほとんどが同じくらいの学力で挑んでくるのだ。

 その証拠に、関大を「すべりどめ」で受ける子や一部の「記念受験」の子をのぞけば、多くの受験生がボーダーラインである「正解率7割」で並ぶという。

 そこでは、本当に1点勝負のギリギリの戦いが行われている。

 しかもみな模試では「」とか悪くても「B」判定の猛者だから、何百人という受験生が線上でひしめきあう。

 そして彼ら彼女らは、はっきりいって、実力で言えばほとんど同じくらいなのだ。

 私がさっき「受からない」といったのは、自分の偏差値や努力が、不足していたから言うのではない。

 むしろだ。「能力×努力」の結果はじき出された数値が同じメンバーで戦う。

 その中で7人のうちの1人になるには、そりゃ実力以上の何かが必要ではないか。

 ライン上で競う受験生たちは、実際のところ、どれくらいの差でフルイにかけられるのかと言えば、ほとんどが数点差

 実際、私が不合格だった立命館大学の文学部では、わずか4点差くらいで落ちていた。

 つまりは、ほとんどの受験生が7割プラスマイナス5点とか、そのあたりで固まっていることになる。

 では、この差はどこから生まれるのか。

 頭の良さ? 勉強時間?

 ちがう。もう一度言うが、みな同じくらいのことをやって、同じくらいの偏差値なのだ。

 その差はあっても、たかがペーパーテストで数点差

 人生を生きるにおいて、誤差の範囲内にすらならない微差なのだから。

 そうなると出てくるのは、おそろしいことに「たまたま」というワードなのだ。


 (続く→こちら



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人生はすべて「結果論」? レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』

2017年11月20日 | 

 レナード・ムロディナウ『たまたま日常に潜む「偶然」を科学する』を読む。

 この本は世の人々が「常識」とか「必然」と、なんとなく思いこんでいることを、確率統計を使って冷静に、



 「いや、それはすべて『たまたま』の偶然です」



 と分析していくもの。

 一読すると、世界がいかに


 「必然のように見える偶然


 というものに支配されているかが見えてきて、目からウロコが落ちます。

 人はだれかが成功したり、失敗したりすることに、どうしても「法則」を見い出しがちだ。

 曰く、


 「常に険しい道を行くから成功するのだ」

 「勝つ者はリスクをおそれないのだ」

 「彼は生まれながらに『持っている』のだ」



 ちがいます。

 これすべて「偶然」の出来事なのです。

 資産家が巨額のを築くのも、ハリウッドの映画が全米大ヒットするのも、ある本がベストセラーになるのも。

 それは決して、

 

 「茨の道を選択するから」

 「リスクをおそれない」

 「持っている」

 

 からではなく、下手すると

 

 「すぐれたコンテンツだから」

 

 ですらない。

 これすべて「たまたま」。

 織田信長が桶狭間で勝てたのも、戦後の日本が経済大国になれたのも、世にはびこる

 「成功の法則」

 というのはすべてこれであり、それを語るのは

 「後づけの結果論

 そのことをレナード・ムロディナウは冷徹に精査していく。

 実際、ハリウッド映画のプロデューサーは、当たる映画、ハズれる映画を、まったく予期できないという。

 そこには、ランダムネスの介入する要素が大きすぎて、とても法則化などできないからだ。

 同じくベストセラーもそう。

 世界的に売れた本と言えば『アンネの日記』があげられるが、これは元々出版社にボツを食らいまくっていた原稿だったのは有名な話。

 売れたのには理由はなく、「たまたま」売れただけのこと。

 あえていえば、



 「売れた本だから、そのままさらに売れた」



 それだけのこと。

 もちろん『アンネの日記』が、すばらしい本であることは間違いないが、同レベルの内容のものや、宣伝をした本が、同じように売れるとは限らないのだ。

 いや、それどころかアンネより才能のある作家が、まるで日の目を見ず、アンネの足元にもおよばない凡人の本が売れまくることだってある。

 で、その理由もまた、「たまたま」なのである。

 世界の大きなうねりの中では、人のちっぽけな努力才能など、ランダムネスの大海にあっと言う間に飲みこまれる。

 もちろん「運も実力のうち」だろうが、残念なことに偶然は自分の能力で、左右させることはできない。

 その意味では「運」は、決して実力ではないのだ。

 能力あるものや、がんばっている者でも、恵まれないことが多々という意味では、絶望的なほどに不公平

 また逆に言えば、阿呆でも降ってくるかもしれない面では、恐ろしいほどに公平であるともいえる。

 宝くじを当てるのに努力や人格は関係ないわけで、それでいて人生とは、壮大なる「くじびき」の連続と、そこから生まれる予測不能の連鎖のようなものなのだから。

 そこが、おもしろいのだが、逆に言えばこれはなんとも冷たい事実のようにも思える。

 これも本書でふれられているが、人はその「理不尽」に、どうやら耐えられないらしい。

 我々は自分の人生を、自分でコントロールできないことを受け入れられない。

 かの天才アインシュタインですら、量子論に接したとき、さけんだのだ。



 「神はサイコロ遊びをしない」





 そう、我々は自分の人生が気まぐれで、なんら人の意志の介入を認めないサイコロゲームなんかで、決定されることを認められない。

 かつて、宮部みゆきさんは『取り残されて』という短編の中で、



 「運命が変えられないなんて戯れ言だ。それじゃあ、生きる価値もない」





 そう登場人物に語らせたが、運命は変えられる。

 いや、勝手に変わるのだ。

 我々の意志も、努力も、才能も、も、思想も、人間性も。

 すべてを、冷たく無視して。

 もちろん、人生において「努力」や「行動」「才能」が無意味でないのは事実である。

 だが、この本や、クリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズによる『錯覚の科学』にあるような、


 「人は《偶然》の価値をあまりにも低く見積もりがち」


 なことも真理であろう。

 特に日本人は

 「運が悪かった」

 ことを「逃げ」「言い訳」と解釈する傾向が強く、ちょっとそれはきびしすぎるのではと思うことも多いし。 

 私などいい加減な人間なので、世界がランダムに動くことに関して、
 
 「そんなもんかあ」

 と茫洋としているけど、



 「運命は自分で切り開くもの。努力はかならずむくわれる」


 
 といった、タイプの人には、テンションを下げるので、おすすめできないかもしれない。

 どっちにしろ、そんなことは、どうでもいいのだが。

 「たまたま」は、そんなわれわれの想いも斟酌せず、今日もどこかで不可視のサイコロ遊びを続けているのだから。


 (続く→こちら



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世界の激辛メニューを食べまくれ! タイのチェンマイ地元屋台編

2017年11月17日 | B級グルメ
 辛いものといえば、チェンマイである。
 
 辛いもの好きの私は、前回まで「トルコ唐辛子」「ラオス屋台飯」に食らった、強烈な「キック・アス」(でもおいしい)を紹介したが(→こちらから)、世界にはもっと様々なホットフードが存在する。
 
 今回紹介したいのは、タイのチェンマイで食べた激辛について。
 
 タイというのは、もともと辛い料理のイメージがあり、「カオパット」(タイ風焼飯)や、「パッタイ」(タイ風焼きそば)が主に白人旅行者人気なのは、唐辛子を使ってないものが多くて食べやすいのが理由であろう。
 
 私自身、バンコクなどで食べたタイ料理はさほど辛味を感じず、
 
 「タイ飯怖るるに足らず」
 
 なんて粋がっていたのだが、そこに刺客として飛びこんできたのがチェンマイ料理であった。
 
 チェンマイはタイ北部にある、首都バンコクに続く第2都市
 
 常夏国タイの中では比較的涼しく、また大学があるせいか文化レベルも高い。少数民族との交流も盛んなどあって、旅行者にも人気の街である。
 
 タイ旅行の際、当然のごとく私もおとずれたのだが、ここの思い出は歴史ある街並みでもツアーでもなく、
 
 「とにかく辛いチェンマイご飯」であった。
 
 タイにかぎらず、アジアの街は屋台食堂が充実していて、食うことには困らない。
 
 なので、食べ歩きしているだけでも楽しいのだが、こういうとき大事なのはやはり
 
 「地元民でにぎわっている店」
 
 観光客向けのレストランなどは、日本語メニューなどもあって便利だが、お値段も張るし、なにより味が外国人向けにマイルドになっていることが多い。
 
 それはそれで食べやすいのだけど、なんとなく物足りないところもある。やはり、せっかく外国にきたのだから、フラットな現地の味を食べたいもの。
 
 そこで、北門近くに宿を取っていた私は、おいしそうな地元向け屋台や食堂が集まる、スタジアム近辺の地域に出かけたのだが、これまさに「地雷」であったのだから、人生とは何が起こるかわからないものだ。
 
 くだんの場所では、5種類くらい店が出ていた。
 
 メンありご飯あり中華あり、デザートのフルーツも充実していて、仕事帰りのオジサンだけでなく、若い子などもキャッキャいいながら、都会の長い夜をエンジョイしていた。
 
 おお、モロに地元店だ。しかも、どのテーブルも満席である。
 
 期待値はマックスまで高まった私は、一通りいろいろ食べてみようと、タイ風うどん焼肉ぶっかけ飯、さらには手羽先の盛り合わせなども注文してみた。
 
 タイは一皿の量が少ないので(その代わりに、一日に5回くらい食事をする)、こういうときたくさん頼めて便利だ。料理が出そろったところで、さて一口とパクリと行くと……。
 
 そう、辛かったのである。
 
 それはまあ、すでに語っていることだから、別に意外でもなんでもないのだが、ビックリさせられたのが、その強度だ。
 
 辛いのはわかっていた。ここチェンマイに来る前は、ラオスビエンチャンをおとずれていて、そこでたらふく辛いものはいただいてきたのだ。
 
 だからあなどっていた。あのラオスのデッドゾーンをクリアした私が、少々のことではビビるはずもないと。激辛マスターなめんなよと。
 
 もう一度言おう。そう、私はあなどっていたのだ。チェンマイのメシがいくら強烈といっても、ひるむほどではないと。
 
 ここに告白する。チェンマイは辛かった。予想以上であった。どれくらいか。
 
 泣くくらい。とんでもなく辛い。ただ立ち尽くす辛さ。なすすべもなく辛い。
 
 体中からが噴き出す。あまりの衝撃に、脳裏に、「シカゴ大火災」「ゼットン火の玉」「地獄の業火」「核の脅威」。
 
 果ては「地球最後の日」というワードがグルグルこだまする。目にも止まらぬ辛さ。
 
 このときは、しみじみ、「嗚呼、タイって異国なんやなあ」と思いましたね。
 
 だって、絶対にないはずなんですよ、日本でこの辛さは。なのに、周囲のタイ人、みんなおいしそうにハグハグ食べてるの。
 
 おまえら、辛くないんかい!
 
 まさに異文化。私が「2回くらい死んだ」という辛さが、こちらでは「ふつう」なのだ。なんという落差。
 
 もうひとつおどろいたのは、これだけエグいのだから、きっと次の日は気持ち悪くなったり「」になったりするんではとおそれたものだが、それがまったくそんなことはなかった
 
 一晩寝たら、口の中も胃もスッキリで、むしろすこぶる快調なくらいだったのだ。
 
 「強度」はともかく、相性はよかったのか。そんな激辛を味わいたい人は、ぜひチェンマイ地元屋台へどうぞ。
 
 
 
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世界の激辛メニューを食べまくれ! ラオスのスパイシー屋台編

2017年11月16日 | B級グルメ

 辛いものといえば、ラオスである。

 前回(→こちら)、トルコ唐辛子に食らった、強烈な「キック・アス」(でもおいしい)を紹介したが、世界にはもっと様々なホットフードが存在する。

 ラオス料理というか、そもそもラオスという国自体、日本ではマイナーだが、バックパッカー的には、


 「なにもなくて、いいところ」

 「今、どんどん開発が進んでいるから、早めに行っておいた方がいいよ」


 との評判は聞いていたので、数年前におとずれたのだが、そこで食べたものが、とにかく辛かったのだ。

 ラオス料理といえば、事前の調査ではもち米を軸に、「ラープ」というひき肉料理

 フランス植民地時代の名残であるバゲットサンド、あとはフォーのようなメン料理といったところであった。

 まあ、イメージとしてはタイベトナム中華が混ざったものかな。

 みたいな、実にアバウトなものだったのだが、そこに「激辛」が入ってくる余地があるとは、ガイドブックなどでも、さほど強調されていなかった気がする。

 そんなド素人旅行者は、首都ビエンチャンで、いきなりやられた。

 最初はよかったのだ。「カオニャオ」というもち米は、まさしくモチモチしており、おかずはもとより、プレーンでもいける。

 他にも、たこ焼きのような皮の甘いお菓子や、中華風の餃子生春巻きも、見た目通りの味で大いにイケた。

 ここまでの印象では、

 

 「ラオス飯、クセも少なくて、日本人の舌にも合うなあ」

 

 温泉気分でグルメを満喫していたのだが、

 「そろそろ肉気でも」

 と思ったところからバトルがはじまった。

 米やスイーツもいいが、アジアといえば屋台

 そして屋台といえばやはりB級グルメ。Bグルといえば、ジャンクで味が濃くて腹がふくれるもの! 

 ということで、舞台はラオス的「おかずゾーン」に突入するのだが、まず焼き鳥が辛かった。

 串に刺した鶏肉はコンビニから夜店まで買い食いの定番だが、これを一口ほおばったとき、口からが出た。

 それも、並みの火ではない。たき火かキャンプファイアーくらいの火力がある発火である。

 こ、これは……辛い……。

 事前調査が甘かったのか、思わぬ辛味攻撃にビビる私。

 そこからも、串焼きにラオス風ソーセージ

 タイでも見た「ソム・タム」というサラダに大盛の焼きそばと、これがもう全部激辛だったのだ。

 しかも、辛さというのは御多分にもれず、から効いてくる。

 最初は「これくらいは」と調子に乗っていると、しばらくあとにグンとくる。

 口はヒリヒリ、頭はカッカ、胃は悲鳴を上げ、舌はを求めてさまよう。

 しかも、困ったことに、ラオス料理がこれウマいんだ。

 だから、どんなに辛くてもやめられない。

 こうして、すっかり「激辛ラオス飯」にハマってしまった私だが、さすがに食べ続けてたら他の味も知りたくなって、



 「辛くないものはないのか」



 とたずねてみると、ラオス料理人たちは笑顔で、



 「あるけど、辛い方がおいしいよ」



 いや、それはわかってますねん。

 でも、ワテは軟弱日本人やから、ちょっと内臓とベロが疲れてまして……。

 みたいな顔をすると、

 

 「いやいや、またまたあ」

 「ナイスジョークだね!」

 

 みたいな苦笑いをされてしまう。

 他の屋台でも、こちらが旅行者とわかると、



 「スパイシー? ノースパイシー?」



 とむこうから訊いてくることもあるんだけど、ここで

 

 「ノースパイシー」

 

 というと、やはり困ったような苦笑い。

 その顔には、こう書いてあるのだ

 

 「そんなことが、ありえるのか?」



 いやいや、どう考えても辛すぎるし、現に白人旅行者などかなり食い気味



 「ノースパイシー! ノー! ノー!」



 などと全力拒否宣言をしているのだ。そこをわかってくれよ!

 ラオスの基準は、世界レベルより辛いんだよ! これを「ふつう」と思うなよ!

 なんて、こっちもフルボリュームで辛さをのけようとするのだけど、ラオス人はどうしても納得いかないらしく、温厚な彼らはニコニコしながら、



 「ホワイ? スパイシーじゃないとおいしくないよ。辛くないと、本当のラオスを味わったことにならないよ」



 そう押してきて、それはまったくもって正論なのだ。

 日本でいえば

 

 「さび抜きの寿司」

 「ポン酢をつけない湯豆腐」

 

 みたいな

 

 「それでもいいけど、ホントはそうじゃない」感

 

 があるのだろうけど、そこは私や白人旅行者の、



 「これ以上辛いと、もう乙女のように泣いてしまうんや!」



 くらいの勢いの「ノースパイシー!」宣告から、その苦渋の選択ぶりを読み取ってほしいのに、大人はわかってくれない。


 (続く→こちら


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世界の激辛メニューを食べまくれ! トルコの唐辛子ピクルス編

2017年11月15日 | B級グルメ
 辛い食べ物が好きである。
 
 カレーキムチ鍋麻婆豆腐トムヤムクンなど、できるだけ辛めのほうがおいしく感じるクチだ。
 
 そんな私がおすすめする辛物が、トルコ唐辛子
 
 トルコ人は唐辛子が好きだ。
 
 羊肉サンドイッチピクルスにはたいてい入っているし、家庭料理でもトマトの煮こみやのスープをいただきながら、唐辛子やタマネギのままポリポリかじる。
 
 日本人の感覚では、ちょっとという気もするが、トルコは野菜がおいしいので、これでいけるのだという。
 
 かくいう私も、彼の地ではハマッたクチ。
 
 イスタンブールのケバブ屋でつけ合わせに出てきたのを、漬け物感覚でポリポリやっていたら、これが辛くてウマイ
 
 ちょっとヒリヒリするけど、ただ辛い調味料を大量に入れただけの下品な味ではなく、マイルドまろやかに、それでいて口全体に辛さが広がる。
 
 これが後を引いてクセになり、かっぱえびせん感覚で、やめられないとまらない。
 
 気がついたらスーパーで瓶詰めを買いこんで、ホテルの部屋でレストランへの持ちこみで、毎食毎食つけあわせとして大活躍したのであった。
 
 あまりにも病みつきになって、日本へのおみやげに大量に買いこんだほど美味な辛さであったが、ひとつ問題であったのが、その後のひき方
 
 さすがいい唐辛子だったせいか、が荒れたりといったことはなかったけど、「来た」のは上でなくの方。
 
 びろうな話でもうしわけないが、である。
 
 そこが四六時中を持ってカッカしているのだ。食べると、その後1週間くらいずーっと痛く、ヒリヒリして、むずがゆい
 
 油断するとヒクヒクとけいれんし、トイレに行くと、出す際には思わず「!」という声にならない声を上げてしまうことになる。
 
 なにかこう、「いけない気分」にさえなりそうなのだ。
 
 そんな、思わずめくるめく耽美な別世界につれていかれそうになったトルコの唐辛子は、それくらいワイルドな辛さで美味であった。
 
 機会があれば、ボラギノールを用意したうえで、また食べたいものだ。
 
 
 (ラオス編に続く→こちら
 
 
 
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飛んでケーニヒスベルク 吉田一郎『世界飛び地大全』

2017年11月12日 | 
 吉田一郎『世界飛び地大全』を読む。

 世界史と旅行が好きなので、この手の「国もの」の本はよく読むが、『国マニア』で

 「マルタ騎士団」

 「中華人民共和国のユダヤ人自治州」

 など世界のマイナー国家をあつかった著者が、次に目をつけたのが「飛び地」。

 「飛び地」とは本土からポッカリと切り離されて、周辺を外国の土地に囲まれるか、もしくは海しか出口がないような場所のこと。

 たとえば、ドイツが東西に分かれていたころは、東ドイツの中にガッチリ存在していた「西ベルリン」。

 西ベルリンは西ドイツ領ではないので正確には「飛び地のようなもの」だが、ドイツつながりでは哲学者カントの生まれ故郷ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)がわりと歴史的にも重要な飛び地。

 旅行者の間で「世界一美しい」と賞賛され、『魔女の宅急便』の舞台のモデルとなったといわれるドブロブニクも、実はクロアチアの飛び地。

 土地だけでなく、便宜的に外国を走るオーストリアの「回廊列車」や、人口数十人の小さなものまで、様々にユニークな物件をあつかっているのが本書の特長だ。

 一口に飛び地といっても、そのできあがった経緯やは様々で、歴史的に数奇な運命をたどったものから、戦争や民族分布でうまく分割できなかったり、中には「なんとなくそうなった」みたいな、いい加減なものも。

 ドイツのコンスタンツのように、周囲を囲むスイス人が

 「スイスより物価が安うて、コリャ便利」

 と買い物に行くような平和なケースもあれば、ガザみたいに世界のホットゾーンとも言えるややこしいところもある。

 国同士の「大人の事情」もあり、スペインがモロッコに持っていたイフニなど、土地としての価値はまったくないのに、かたくなに固持していたりする。

 「じゃあ、いらんわ」とウッカリ言ってしまったら、同じくモロッコにある飛び地のセウタとメリリャも返せとせまられるからという理由だが、世界にはこういうめんどくさい飛び地が結構あるのだ。

 中には「ほお」とうなるものもあって、たとえばロンドンにあるクラリッジスホテルの212号室は、一瞬だけユーゴスラビアの飛び地になったことがある。

 なぜにてホテルの一室が、外国の領土になったのかといえば、第二次大戦中にユーゴ国王がロンドンに亡命した際、そこで出会って結婚までした王妃が産気づいたのだ。

 ここで問題なのは、ユーゴ王室の決まりで、国内で誕生した者にしか王位継承権が認められなかったこと。

 このままではあとあとめんどいことになると、当時英国首相だったウィンストン・チャーチルが、とっさにこう宣言したのだ。

 「出産の日だけ、212号室を領土としてユーゴに割譲する!」

 機転が利いているというか、ほとんど「一休さんのトンチかよ!」とつっこみたくなるが、まあいい話ではある。

 もっとも、戦後ユーゴスラビアはパルチザンの英雄チトーによって統一されたため、王室は廃止され、残念なことにチャーチルの機知はムダになってしまったんですが。

 こうした、正史に埋もれがちなちょっとした歴史のアヤが、たっぷりと盛りこまれているのが本書。

 1エピソードが短く文章も読みやすいでの、適当なところをパラパラめくって、トイレや眠る前の読書にも最適。








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名作映画に「の」をつけると、なぜかB級作品っぽくなるという法則 新加勢大周編

2017年11月09日 | 映画

 「ヒマつぶしには、タイトルに《の》をつけて、勝手にB級映画制作がいいよ」。

 そんな提言をしたのは、ある昼下がりの病室だった。

 前回、入院した友人のヒマつぶしのために、

 「名作映画のタイトルに勝手に《の》を入れて、バカ映画っぽくする」

 という遊びを紹介したが(詳細は→こちら)、もうひとつお気に入りのヒマつぶし脳内ゲームに、こういうのがある。

 「新加勢大周の登録商標予想」。

 というと、健全なる読者諸氏には端から端までなんのこっちゃといったところであろうが、その発端はナンシー関さんの『小耳にはさもう』というコラム集を読んだところにある。

 ナンシーさんといえば、テレビや芸能界をあつかった文章を主な仕事としていたが、その中で「新加勢大周デビュー」に言及したものがある。

 新加勢大周。今のヤングたちに説明すると、昔々、加勢大周という若手俳優さんがおられまして、90年代に大人気。

 織田裕二さん、吉田栄作さんとともに「御三家」と呼ばれ、ドラマや映画で大活躍。それはそれはブイブイいわしていたんである。

 が、そこにミソがついたのは、事務所とのトラブル。くわしいことは忘れたが、たしか勝手に独立しようとしてもめたとか、そんなだったはず。

 今でも能年玲奈さんが干されたとかあったけど、あの類のことだ。

 加勢さんは独立こそ果たしたものの、事務所側は

 「加勢大周という芸名はこちらのものなので、勝手に名乗ることまかりならん」

 と、やはり能年さんと同じようなイチャモンをつける。そのまま裁判沙汰となり、加勢さんは勝訴するが、おさまりのつかない事務所側は、

 「好きにせえ! でも、《加勢大周》いう名前はうちのもんやから、これからも使わせてもらうで」

 ということで、突然見たこともないアンチャンを連れてきて、「新加勢大周」としてデビューさせたのである。

 なんなんだそれは。今で言えば、解散騒動のあったSMAPがバラバラになったあと、ジャニーズジュニアから、「新香取慎吾」「新稲垣吾郎」がデビューするようなものであろうか。

 そんなドタバタ劇があったわけだが、のちに坂本一生となる「新加勢大周」の「なんか、よくわかんねっす」とでもいいたげな、困ったような表情だけはよく覚えている。

 で、ナンシー女史は当時の騒動を「ちょっといい」話としてコラムで取り上げたわけだが、ここに史曰く「拝みたくなるくらいありがたいネタ」が飛びこんでくることになる。

 それは、「元祖」加勢大周の事務所が、加勢側に「加勢大周に似た名前」を新しい芸名をつけることを封じるため、「新加勢大周」をはじめとして、計36個の「加勢大周みたいな名前」を登録商標とすべく申請していたことだ。

 ただでさえ、若干マヌケ感がただようこの事件に、さらにいい味な新情報である。これにはナンシー女史ならずとも、36個のすべてが知りたくなるではないか。

 ナンシー女史は「居てもたってもいられないので」さっそく、その36個がどんなものなのか予想してみたという。

 「きっと八割は当たっていると思う」

 というその名前とは、東京加勢大周、続加勢大周、正調加勢大周、加勢大周1号、加勢大周2号、真加勢大周、日本加勢大周、男加勢大周、加勢大周A、ヤング加勢大周、加勢大周さん、加勢大周jr……etc

 といった調子で、36個の予想がずらりと列記されているが、これがもうツボに入って笑った笑った。

 あー、こらおもろい。このおもしろさは、もしかしたら加勢大周騒動を知らない平成のヤングたちにはピンとこないものかも知れないが、「新加勢大周」というセンスにお口あんぐり&大爆笑した同世代人には、多少はわかっていただけるのではないか。

 加勢大周スペシャル、俺加勢大周、加勢大周王国、あかん、笑いがとまらん! 息が詰まる! ダーハッハッハッハッハ! 笑い死ぬわ、もうナンシー関天才!

 と、すっかりナンシーマジックにずっぱまりしてしまった私は、このコラムを読んで以来、ヒマがあるとこの、

 「あったかもしれない新加勢大周」

 について考えてしまうのである。

 銀行の待ち時間に加勢大周、トイレの中で加勢大周、入浴しながら加勢大周、夜布団の中では、羊の代わりに加勢大周を数えることとなる。

 そんな「マイブームは新加勢大周」な私も、ナンシー女史にならって思いついた予想の数々を、最後に書き並べてお別れとしたい。

 よろしく加勢大周、グレート加勢大周、キング加勢大周、加勢大周USA、侍加勢大周、ジェットストリーム加勢大周、加勢大周Z、加勢大周ジャイアント、ブラック加勢大周、加勢大周バンバンビガロ、ワイルド加勢大周、加勢大周ボンバー、加勢大周大統領、加勢大周ノンストップ、加勢大周マグナム、加勢大周レジェンド、加勢大周隊長、特急加勢大周、加勢大周ブロンソン、加勢大周ホームラン、日本加勢大周化計画、スマッシュ加勢大周、加勢大周ブルース、時をかける加勢大周、加勢大周の歩き方、加勢大周スカイハイ、加勢大周タイガー、スーパー加勢大周大戦、加勢大周レボリューション、キャプテン加勢大周、メガ加勢大周、加勢大周さわやか野郎、加勢大周維新、加勢大周オデッセイ、シュレディンガーの加勢大周、加勢大周番長。

 以上36個。八割くらいははずれていると思う。




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名作映画に「の」をつけると、なぜかB級作品っぽくなるという法則

2017年11月07日 | 映画
 「ヒマつぶしには、タイトルに《の》をつけて、勝手にB級映画制作がいいよ」。

 そんな提言をしたのは、ある昼下がりの病室だった。

 先日、友人が入院することになった。見舞いにかけつけると、体調はそんなに悪くなく、しばらく寝ていれば問題ないそうだが、困っているのは時間のつぶし方だという。

 私はまだ経験はないが、入院というのは退屈なものらしい。スマホは使いづらいし、雑誌やテレビは飽きるし、なにより検査の待ち時間とか点滴のときが、本当に無聊をかこつのだという。

 簡単にできて、脳内で30分くらいの時間つなぎとなると、基本はエロ妄想か。

 翻訳家の岸本佐知子さんのような「ひとりしりとり」、ダジャレを考えたり、あとはちょっと凝って「山号寺号」とか川柳を読むとかいろいろあるけど、私がやっているのは、冒頭のような《の》のゲームだ。

 「タイトルに《の》をつけると、どんな名作映画もB級っぽくなる」という法則が存在する。

 洋画のタイトルにはときに、「〇〇の」と枕詞がつくケースがあり、


 『ウッディ・アレンのバナナ』

 『ゴダールの探偵』

 『メル・ブルックスの大脱走』

 『トリュフォーの思春期』

 『ポランスキーのパイレーツ』

 『ヒッチコックのファミリー・プロット』

 『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』

 『オーソン・ウェルズのフェイク』

 『ヤコペッティの残酷大陸』

 『ジョン・ランディスのステューピッド おばかっち地球防衛大作戦』


 などなどだが、こういったタイトルは、妙にまのびしてマヌケに感じてしまうのだという。

 元ネタは『映画秘宝』だったか、みうらじゅんさんの本だったか忘れたが、それこそ『メル・ブルックスの大脱走』『ヒッチコックのファミリー・プロット』のような、そこそこの佳作でも、なんだか安っぽいイメージになる。

 実際、ヒッチコックなどはその後『ファミリー・プロット』のみに改題されているし、おそらくはタイトルにメジャーな製作者や俳優名を入れることによって、安易に宣伝しようとする姿勢が安さを生むのだろう。

 たしかに、ジョン・ランディスはともかく、他は『ドラキュラ』『フェイク』『探偵』『大脱走』で充分だもんなあ。

 とまあ、こんなトホホな「B級映画《の》の法則」だが、これが自分的にヒマつぶしの種になっている。

 ルールは簡単。思いついた映画のタイトルに、監督か主演俳優の名前を入れるだけでアラ不思議。

 あんな名作傑作が、ビデオ屋で(それもVHSで)投げ売りされてそうなB級作品に早変わりしてしまうのだ。


 『スピルバーグのジョーズ』

 『レオナルド・ディカプリオのタイタニック』

 『コッポラのゴッドファーザー』

 『リドリー・スコットのブレードランナー』

 『新海誠の君の名は。』

 『スタローンのロッキー』

 『イーストウッドのダーティーハリー』

 『キャメロンのターミネーター』

 『ガイ・リッチーのホームズ』



 おお、なんかどれも微妙におもしろくなさそうだ。映画館というよりも、休日の昼下がりにテレビ大阪で見るくらいが、ちょうどよさそうというか。

 こういうタイトルを勝手に考え、

 「なんか、どの映画にもレスリー・ニールセンが出てそうやなあ」

 なんて一人で笑っていると、けっこう時間がつぶれます。

 あとこれをやっていると、ふと、観ていて違和感があった映画に《の》をつけるとしっくりくることを発見したりして、


 『ローランド・エメリッヒのインデペンデンス・デイ』

 『バーホーベンのインビジブル』

 『ブルース・ウィリスのアルマゲドン』


 なんて、もとの邦題よりも全然こっちの方が雰囲気出ているような気がする。

 M・ナイト・シャマランなんて、観る人によっては、

 「あんな、おもしろそうな映画やのに、なんでこうなるの!」

 とズッコケることもあるが(私はかわいくて大好きですが)、これはもう絶対タイトルに名前を入れるべきで、『アンブレイカブル』『サイン』『ヴィレッジ』だとそうなるけど、これが、


 『シャマランのアンブレイカブル』

 『シャマランのサイン』

 『シャマランのヴィレッジ』



 だと、「あー、そうそう、そんな感じの映画やった」となるのではなかろうか。ぜひ、おためしを。


 (続く→こちら


 
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決戦! 東映ロボットvs円谷怪獣 『パシフィック・リム』こそ、燃える最強怪獣映画だ!

2017年11月04日 | 映画
 『パシフィック・リム』を見る。

 この作品、いわゆる「怪獣映画」(作中でもちゃんと外国人が「Kaijyu」と呼称している)なのだが、もともと周囲の映画好きや怪獣ファンからも

 「あれはすごい」

 「評価するにしてもせんにしても、一回は見といたほうがええ」

 と多大なる推薦をいただいていた。

 そこまで言われれば燃える特撮野郎の身としては見ずばなるまいと、DVDで鑑賞してみたわけだが、

 「とにかく、最初の20分は神がかってるで!」

 と友たちもほたえるように、たしかに導入部はすばらしかった。

 怪獣の造形やアクション、特撮部分の作りこみやテンポの良さ、カメラワークまで、ほぼ完璧というか、おおげさでなく

 「怪獣映画の究極系」

 を見せられた思いだった。

 スピルバーグの『宇宙戦争』を見たときもたいがい、

 「ハリウッドの怪獣映画は、ここまで来てるのか!」

 感嘆したものだが、これはその上を軽く行く衝撃だった。

 すげー! かっこいいー! おもしろーい!

 もう絶賛の嵐。まさにスタンディング・オベーション級の映像だったのである。

 いやもうなんかね、「私はこの映画を観るために生まれてきた」とか、下手すると、

 「そもそも映画という文化自体が、私にこの作品を鑑賞させるために誕生したものだった。『第三の男』も『七人の侍』も『風と共に去りぬ』も、すべてその布石程度のものにしか過ぎないのだ」

 なんていう、アーサー・C・クラーク的、壮大なる妄想にとらわれるほどの狂喜体験であった。

 そんな「星1個から5個でいったら、星100億万個!」などと興奮しまくっていると、

 「へー、そんなにおもしろいなら、ちょっと見てみようかな」

 そんなことをおっしゃる方もおられるかもしれないが、まあそこは早まってはいけない。

 これはあくまで、私のようなスットコ怪獣野郎だからこその星1兆光年個というわけであって、あまりそのへんのことに興味のない、それこそ映画といえばデートで行くものという人には、さほどというか、むしろ絶対におススメできません。

 なんちゅうてもこの映画、怪獣バトルシーン以外は、まあホントどうでもいい映画だから。

 まず、脚本がダメダメ。怪獣とメカの戦闘シーンは、とにかく燃えるのだが、それをひっぱるストーリーがサッパリ。

 どこがダメなのか具体的にいうのは難しい。だって、ストーリーが「ない」から。

 いにしえのギャグである「ないようがないよう」と思わずつぶやいてしまう空虚な脚本。偏差値でいえば38くらい。頭が悪いというか、スカスカ感がすごい。

 特に象徴的なのは、あの最後の戦いにむかう演説。

 あんな超見せ場で、あんな盛り上がらないもんなの?(苦笑) 

 じゃあ、アクションだけを楽しめばいいではないかといわれれば、それがそうでもなくて、今度はその戦闘シーンが濃厚すぎる。

 映画『トランスフォーマー』シリーズへの提言として、

 「メカがガチャガチャ動きすぎて、見ていてしんどい」

 という意見がよく聞かれたけど、『リム』のほうはあの

 「目が痛い」

 「酔う」

 「もううっとうしいから変形すな! じっとしとれ!」

 と館内に罵声が飛んだ『トランスフォーマー』の20倍くらい濃い味付け。

 もうステーキの上にベーコンの脂とフォアグラとラードをごってり乗せて、仕上げに、「一杯やろうぜ」と、ジョッキに日清オイリオをなみなみとついで、ドンと出された感じ。

 つけあわせには、3日くらい置いた悪いオイルであげた大量のポテトとコロッケ。もう、重すぎて倒れるわ、と。

 それくらいに、バトルシーンは中身がぎっしりで濃い。

 いや、それ自体はすばらしくカッコイイんだけど、それをあの濃度で2時間以上やられると、もうお腹はタプタプです。

 ライムスター宇多丸さんは、この映画に「ひとつ欠点がある」としたうえで、


 「それは短すぎること。あと100時間分は見たい!」


 と熱くおっしゃられていて、まさに「しかり!」なのだが(「とんでもなくおもしろい大河ドラマのラスト2話だけ見せられた感じ」という意見多々)、実際それをブッ通して見たら、間違いなく次の朝死体になってます(笑)。

 それはきっとただの死ではなく、「殉死」とか「腹上死」というのだろうが、とにかくデカ盛り。

 間違いなく、映画館出たときには、なにも食べてないのに5キロは体重増えてます。そんなん、素人さんはよう見んでしょ。

 そんなわけで、怪獣ファン大興奮、一般客ポカーンな超絶人を選ぶ映画『パシフィック・リム』。

 特撮マニアの友人シュクイン君によると、

 「あれって、最高に金と才能と手間をかけた『ウルトラファイト』やねん」

 アハハハ! そうかも。

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ハンブルク1945 ウーヴェ・ティム『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』 

2017年11月01日 | 
 ウーヴェ・ティム『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』を読む。
 
 かつてドイツ語を勉強したことがあるせいか、ドイツ小説映画を見つけると、とりあえずチェックする、クセのようなものがある。
 
 中でも、1933年ヒトラー政権奪取の前後から、終戦までをあつかったものは、ドラマ的にもわかりやすいせいか、よく手に取ることになる。
 
 
 デイヴィッド・クレイ・ラージ『ベルリン・オリンピック』
 
 皆川博子『総統の子ら』
 
 須賀しのぶ『神の棘』
 
 クラウス・コルドンの『ベルリン三部作』
 
 
 映画なら
 
 
 『スターリングラード』
 
 『橋』
 
 『ドイツ零年』
 
 
 などで、その系列に、『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』も存在している。
 
 舞台となるのは第二次大戦末期、ドイツ降伏直前のハンブルク
 
 主人公であるレーナ・ブリュッカーは40代の中年女性。夫は去り、息子たちは戦地や勤労奉仕にかり出され、一人で暮らしている。
 
 なかば廃墟と化した街で、物資の不足に悩まされ、ジャガイモ入りの買い物袋を持って歩くドイツ軍大尉の姿を見て、
 
 
 「まちがいない。この戦争は負けだ」
 
 
 などと考えながらも、淡々と静かに銃後の日々を送っている。
 
 そんな彼女が、ひょんなことから出会ったのが、ヘルマン・ブレーマーという若者。
 
 脱走兵である彼をかくまっているうちに、つかの間の愛人関係におちいる。
 
 ドイツ降伏のニュースがもう流れていたにも関わらず、レーナはブレーマーを手放したくないばかりに、
 
 
 「戦争はまだ終わっていない」
 
 
 そうをついて、引き留める。
 
 まだ戦争が続いているなら、前線から逃げ出したブレーマーは、見つかれば即射殺だからだ。
 
 そうして、なし崩し的に、ふたりの少々ゆがんだ同棲生活はだらだらと続くのだが、やがてそれも突然に終わりを告げて……。
 
 そういう、まあ言ってしまえば戦争の悲哀もの。
 
 ただこの小説、設定はドラマチックに見えて、実のところかなり地味な物語である。
 
 戦争ものだがドンパチがあるわけでもなく、ナチと反体制分子の人間ドラマや、反戦メッセージも、うったえかけてはこない。
 
 悲哀ものと紹介したが、レーナとヘルマンのやりとりが、あまりにも淡々とし過ぎてて、胸の高鳴りを誘発しない。
 
 もちろん、レーナはレーナなりにヘルマンを「愛して」はいただろうが、あらすじから想像できるような「戦火のロマンス」があるかといえば、そういうことでもないのだ。
 
 作者の言葉を借りれば、これは
 
 
 「その物語には英雄はいない」
 
 
 だから、ことさら刺激的な展開や文句は存在しないのだ。
 
 ではこの本は退屈なものなのかといえば、もちろんそんなことはない。
 
 物語の根幹を支えるのは、おそらくはレーナの「強さ」だ。
 
 といっても、その「強さ」は
 
 
 「逆境にもめげない」
 
 「不条理と雄々しく戦う」
 
 「苦しくてもユーモアを失わない」
 
 
 などといった、たくましさを想起させるものではない。
 
 それはたとえば、夏目漱石の『坊ちゃん』における「」とか、『赤毛のアン』におけるマシュウ・カスバートのような、そういった普段はただ黙々と働くだけがとりえのような人だけど、にもかかわらずというか、だからこそというべきなのか、地に足の着いた確固たる存在とでもいうのか。
 
 『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』に出てくるレーナ・ブリュッカーは、そういった、あえて大仰に名付けるなら
 
 「聖なる生活者
 
 とでもいうような存在なのである。
 
 レーナは女性としても物語の主人公としても、さして魅力的ではない。
 
 訳者あとがきの言葉を借りれば、
 
 
 「無骨とさえいえる現実的で実直な人柄」
 
 「不器用だがしたたか、現実主義だが決定的なところで情にもろく、正義感が強いが決して聖女ではない」
 
 
 要するに、「どこの時代にでもよくいる、その辺のおばさん」なのである。
 
 だが、それこそが、この物語のキモだ。
 
 敗戦というマクロな衝撃や愛人に逃げられるという個人的な悲劇まで、わりとダイナミックな出来事にさらされている彼女なんだけど、案外と動じないのが、まさに「生活者」であるレーナの強み
 
 たとえ明日世界が滅ぶとしても、人は今日、口に入れるものを手に入れてこなければならない。
 
 こういう達観のようなものを持っている者は、少々のことでは崩れないのかもしれない。
 
 カレーソーセージがどこでにでもあり、簡単に作れるがゆえに、皆から軽く見られながらもすたれないように、歴史的事件も日常の悲しみも、地道に生きる彼女を束の間ゆるがしても、それはそれとして受け入れることもできる。
 
 だからこそ、物語の最後でベルリンから逃げてきた(おそらくそこでこの世の地獄を体験した)リーザが、カレーソーセージを食べて、感極まったように言うのだ。
 
 
 「これだよ、人間に必要なものはこれなんだ」
 
 
 きっと作者は、この一文が書きたいために、この物語を完成させたに違いない。
 
 レーナは主人公としては決定的に地味だ。だが、「人間に必要なもの」を作り出せる女性でもある。
 
 ただそれだけのことが「レーナの物語」であり、なにもドラマなど盛り上げないのに、私はこんなにも惹きつけられるのだ。
 
 
 
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