音楽教師・草壁信二郎先生の指導のもと、廃部の危機を回避すべく日々練習に励むチカとハルタだったが、変わり者の先輩や同級生のせいで、校内の難事件に次々と遭遇するはめに―。
化学部から盗まれた劇薬の行方を追う「結晶泥棒」、六面全部が白いルービックキューブの謎に迫る「クロスキューブ」、演劇部と吹奏学部の即興劇対決「退出ゲーム」など、高校生ならではの謎と解決が冴える、爽やかな青春ミステリの決定版」。
「もし明日世界が終わるとしたら、最後の一日何してすごす?」
飲み屋の話などで、たまに出てくる話題である。
これには様々な意見があろう。
「家族とすごしたい」
「最後の瞬間は愛する人と抱き合って終わりたい」
「特になんということもなく、いつも通り生活します」
などなど。
このテーマにはたくさんの作家が、エッセイなどで答えている。
中島らもさんは「最後の晩餐」というお題を与えられたエッセイに、
「最後の夜は、辛口の日本酒で一杯やりながらすごしたい。肴には、おこぜのぶつ切りを、白菜と固いお豆腐で小鍋立てにして、そんなもんで充分」
と、粋なことを書いておられた。
また、将棋のプロ棋士である先崎学九段は「あと一週間で死ぬとしたら、どうすごすか」というストレートな質問に、
「以前同じ質問を、つきあっていた彼女にしたことがある。彼女は少し考えてから、『今まで出会ってきた人と、もう一度会いたい』と答えた。 僕は彼女のことをかしこいと思った。だから僕もそう答えたい」
この回答は、非常に印象に残った。
私はさみしがり屋でもないし、「人生いろいろあるけど、結局、人なんだよね」みたいな、ありがちな意見にもくみしないけど、この答え自体は映画『舞踏会の手帖』みたいで、ちょっとシャレてるではないか。
それにあやかっていえば、自分なら、
「もし明日死ぬとしたら、これまでに出会ってきた旅行者たちともう一度会いたい」
と答えるかもしれない。
私は旅行好きである。同時に旅行者と話をするのも好きである。
ふだんはさほど社交的な方ではないけど、旅行中だけはやたらとフレンドリーになるという性質があって、旅は道連れとばかりに、仲良くなることもままある。
特に安宿やユースホステルに泊まっているような旅行者は、気のいい連中が多いし、長期旅行をしているような人は個性的でおもしろい人がたくさんいるため、自然と話も盛り上がることになる。
また、旅行者同士の関係は、あっさりしているのもいい。
みんな、どれだけ仲良くなっても、出発の予定日が来れば
「じゃ、行ってきます」
と去ってゆく。それを我々は
「お気をつけて、よい旅を」
と見送るだけ。簡単なもの。これは、どれだけ仲良くなろうと、たいして変わることはない。
もちろん、私も「そろそろ行こうかな」と思ったら、あいさつだけしてさっと出て行く。
「ハロー、グッドバイ」。この薄情さが心地よい。
だから最後の日は、パリでもバンコクでもアムステルダムでも台北でもカイロでもNYでも、どこでもいいからバックパッカーが集まる宿に泊まろう。
そして、「あの遺跡は素晴らしかった」だの「あの店はボるから気をつけろ」なんていう旅の話をツマミに、朝までバカ話。
わーっと盛り上がって、疲れた者から順に落ちていって、いびきかいているうちにドカンとおしまい。サヨナラバイバイ。
それはそれは、想像するだに、愉快で楽しい終末の日ではあるまいか。
前回(→こちら)に続き、鳥越規央『9回無死1塁でバントはするな』を読む。
「高校野球はバントしすぎでは」
という積年の疑問に対して本書が、
「試合の中でのどんな場面でもバントは損」
という冷徹な数字で解答をはじき出してくれた話をしたが、そこで思い出したのが、昔読んだあるスポーツノンフィクションのこと。
『スクイズ、フォーエバー』と題したそれは、『江夏の21球』で有名な山際敦司さんの作品。
主人公は、北海道にある東海大四高の野球部元監督、三好泰宏さん。
三好監督の采配には、ある特徴があった。それは、
「スクイズのサインを出さない」
いや、スクイズのみならず、そもそもどんな局面であれ、いっさいバントのサインは出さないのだ。
監督曰く、
「あそこでスクイズをしていれば」なんて評論家はいうが、選手はそんな後ろ向きなことは考えてはいけない。
スクイズの成功率は良くて50%かそれ以下で、失敗するとダメージも大きいし、選手もつらい。
取れるのはたった1点だし、1死もあげてしまう、チャンスでスクイズなんかしてて長い人生やっていけるのか、第一バッターは打たせればホームランを打つかもしれないではないか……。
そう聞くと、三好監督の思想は、まあ正しいように思える。
ただ、山際さんの筆は
「理屈である」
「間違ってはいない」
としながらも、どこか三好采配に懐疑的である。
それを証明するかのように、出してくる例は、たとえば昭和53年の春のセンバツ、対広陵高校戦。
この試合で2-4とリードされた8回表、無死1、2塁のチャンス。バッターは2番。
そこで強打を選択した東海大四は、凡打の後ヒットが出るも1点止まり。いわゆる、
「送っておけば同点でしたね」
解説者が、よく残念そうにいう場面だ。
一方、その裏広陵は1死からランナーを確実にバントで進め、だめ押し点を奪う。
9回、東海大四は同点にし、さらに1死満塁のチャンスで強打して無得点。
スクイズしとけば……と、言葉にはならずとも、言っているようなものですね。
意地はらずに、バントしとけよ、と。
さらに山際さんの筆が意地悪なのは、翌56年の春、対延岡工業戦。
ここで東海大四は、打力に自信のない延岡工業のバント、バント、スクイズ、スクイズ、スクイズという「5連続犠打」など、徹底したバント作戦に1-8という大敗を喫する。
それでも、
「せめて甲子園に出てきたときぐらいスクイズなしで思い切ったプレイを展開してほしい」
と語る三好監督に山際さんは、
「かたくななまでに、監督は自分の野球感を変えなかった」。
クライマックスは、春のセンバツをかけた秋の大会1回戦。
1点ビハインドの苦しい局面。ランナーを3塁に置いたところで、苦悩の末とうとう三好監督が、スクイズのサインを出してしまうというところで物語終わる。
なんとか逆転勝ちをおさめたあと、それでも「バントなんて」とこだわる監督。
「こういう監督が一人くらいいてもいいじゃないか。なあ……」
つぶやくようにいってみた。
誰にも聞こえなかったようだ。
返事はなかった
とあるのだが、ここまで言えば私がこの作品のことを思い出したわけが、もうおわかりであろう。
ここで山際さんは、三好監督のことを、
「自分のこだわりや哲学に準じて損な生き方をしている、ガンコな昔気質の職人」
として描いているのだが、ちょっと待ってくれと。
そう、セイバーメトリックス的に言えば、三好監督の采配は別に間違っていなかったのである。
損な生き方どころか、ランナーが出たら「確実なバント」をせずに打たせるというのは、「かたくな」どころか、むしろ合理的な選択。
勝つために、確率の高い作戦なのだ。
もちろん東海大四は広陵に負けた、延岡工業のバント作戦の前に屈した。
でもそれは、多くある試合のうちの、たまたまそれが甲子園の舞台にあらわれてしまっただけで、単に一発勝負の勝ち運がなかっただけかもしれない。
データ的には、采配のせいで負けたわけではない。
ベストを尽くしたのに負けることもある。でも、それはあくまで「時の運」。長期的な視野に立って見れば、
「バントより強打」
こそが、確実に得点を上げる方策なのだ。少なくとも確率的には。
それを、「高校野球はバント」という「常識」に皆がとらわれていたばっかりに、結果的にとはいえ、合理的でクレバーな考え方をしていた人が、
「融通の利かないガンコなお人」
みたいにあつかわれる。たった2試合の敗戦に、なまじインパクトがあっただけに。
全然ちがうやん!
むしろ、スクイズよりも強打を優先させたからこそ、東海第四は何度も甲子園の土を踏むことができたのかもしれない。
それはわからない。いろんな世界の「成功の法則」や「勝利の方程式」が、
「ランダムネスに支配されまくった、壮大なる結果論」
であることは、統計や心理学、経済などの本を読めば、よく書いてあることだ。だから、どっちが「正しい」かは判断できない。
ある意味、だからこそ賛否両論あれ、セイバーメトリクスの価値があるともいえるし、逆に「数字の問題じゃない」ともいえる。
ランナーが出たらバントで送るべし、3塁にいったらスクイズ、強打は「かたくな」。
という「正解」をあらかじめ設定し、そこにすべてを合わせて書かれた山際さんの文は、今の視点で見ると、また別の解釈も可能だ。
前回(→こちら)続いて、鳥越規央『9回無死1塁でバントはするな』を読む。
「高校野球、バントしすぎではないか」
という、昔からの素朴な疑問を解決するために、マイケル・ルイス原作の映画『マネーボール』で有名になった「セイバーメトリックス(野球統計学)」を使った本書を手に取ったわけだが、これによるとバントという作戦の損得が、数字でわかりやすく表されることとなり興味深い。
たとえば、
「後攻チームが、1点差で負けている状況での勝利確率」
の欄を見ると、「無死1塁」のほうが、「1死2塁」よりも確率が高い。
これが9回なら前者は「32、1%」だが後者は「28、4%」。
これは1~8回まででも、数字は違うが、無死1塁のままの方が数パーセントずつ勝ちやすい。
1点ビハインドでの送りバントは、ハッキリと損。
つまり、わざわざ作戦を立てて、勝利の確率を下げていることになる。
これは「同点での勝利確率」でも同じ。送りバントをすると、全イニング勝率が下がる。「2点差以上」でも同じ。
唯一、犠牲バントで勝率が上がるのが、
「同点で後攻チームが無死2塁のとき」
のみだが、これが高校野球にかぎると、ほとんど変化がない。
これは3塁にランナーがいると、「犠牲フライ」による得点ケースが増えるんだけど、高校生には確実にそれを打つ技術がないことが多いから、と推測されている。
ということは、なんと高校野球では、考えられるあらゆるケースで送りバントは意味がないどころか、確実に損ということになってしまう。
ましてや、大量リードされてて、「まずはバントで1点返す」など、愚の骨頂ということだ。
ちなみにこれは、田中将大、菊池雄星といった「怪物」クラスの投手相手でも似たようなものらしい。
「どう考えても打てない」ケースでも、バントよりはマシ。
こうして、はっきりと数字で出されると、思っていた以上の結果におどろかされる。
もちろん、スポーツは数字だけではかられるものではなく、「勢い」とか「カン」「心理戦」みたいなものも大事であろうが、それにしたって、ここまであからさまに「損だよ」と見せられたらショックも大きいではないか。
ではなぜ、こういうことが起こってしまうのかといえば、まず、
「さかしらなデータなど、聞きたくない」
こういった心理があるのだろう。
『マネーボール』に出てきたメジャーリーガーや監督も「素人の進言」にイラッとしてたけど、スポーツ選手ではない私でも、感覚的にわかるところはある。
現場に出たことないけど、理屈だけは達者なスタッフが来て、
「それはデータ的に損です」
とか、自分のやってることや「伝統」にケチつけられたら、それは愉快ではあるまい。
つまるところ、情報というのは「プレーヤーのテンションを下げることがある」のだ。
現に、私が昔読んでいたスポーツ漫画では、データを駆使するチームというのは例外なく、
「データで測れない意味不明の馬鹿力」
の前に、みじめな敗北を喫するのだ。『キャプテン』の金成中しかり、『一球さん』の恋ヶ窪商業しかり。
私もスポーツは最後のところは根性だと思うけど、ただ、このかたよったあつかいはあんまりではと、子供心にも思ったものだ。
情報って、それなりに大事なんなもんなんちゃうの? と。かつての旧日本軍も、そのへんを軽視して負けてしまったわけだし。
それともうひとつ、犠牲バントというのは「日本人の琴線に触れる」というのもあるのだろう。
「個を殺して大儀に尽くす」
という考えに、日本人は弱かった。
そこにピッタリと、あつらえたようにはまるのが、犠牲バントという概念なのかもしれない。
本の中で鳥越さんはバントのやりすぎについて、
「高校野球が(勝利にこだわらない)教育の一環であるというなら話は別だが」
そうではないなら、もう少し考えてみてはどうかと、苦言を呈しておられるが、私が見るに過剰な犠牲バントというのは教育というよりも、もうちょっと情緒的な理由があるような気がしてならない。
(続く→こちら)
鳥越規央『9回無死1塁でバントはするな』を読む。
野球の世界では「バッティングの基本はセンター返し」や、「左打者には左投手」といったセオリーがある。
この本は、そういった「常識」が本当に正しいのかどうか、マイケル・ルイス原作の映画『マネーボール』で有名になった「セイバーメトリックス(野球統計学)」によって検証していくというものだ。
本書を手に取ったのは、野球に関して、昔から不思議に思っていたことがあるからだった。
それは、「高校野球、バントしすぎではないか」。
私はとりたてて野球好きというわけではないが、子供のころは夏休みのヒマつぶしに、甲子園の試合などテレビで観戦することがあった。
そこで気になるのが、バントである。
とにかく高校野球ではバントをする。ランナーが出れば送りバント、バント、バント、バント。
これが、いつも不思議であった。いくらなんでも、バントしすぎではないのか。
『和をもって日本となす』のロバート・ホワイティングさんのように、
「バントはつまらない。日本野球はバント禁止令を出したらどうか」
とまではいわないけれど、それよりも根本的に、
「この場面でバントって、どう考えても損なんじゃね?」
と、つっこみたくなるケースが、多々あるのだ。
たとえば、ノーアウトのランナーが出る。すかさずバントで送る。これはまあ、いいとしよう。
これが1死でランナーが出ても、バントさせる。
そりゃ、スコアリングポジションにランナーを進めたい気持ちはわかるが、当然ツーアウトになるわけで、それって得なのかいな?
時には4番バッターにもさせる。打率3割とか4割とかでも、平気で1打席捨てさせる。
しかも、9回裏の負けているときとかにも。なんてもったいない!
これが1点を争うシーソーゲームならまだしも、高校野球の場合はそれ以外のケースでも送りバントを行う。
中盤くらいで大量リードをされていても、バントするのはどうなのか。そんな悠長なことで間に合うのか。
私が見た甲子園での試合では、6点リードされてる試合とかでも、ノーアウト、ときにはワンアウト1塁でもバッターはきちんとバントしていた。
どう考えても利敵行為だと思うが、解説の人は、
「いいですね。まずは1点ずつ返すことですよ」
感心したように語っていた。
まずは1点って、そんなの全然遅すぎる気がするし、ワンアウトをタダであげて相手は楽ではないか。
27アウトの「寿命」を減らしてるってことだと考えると、ずいぶんとリターンが少ない気がする。
そもそもバントしたからって確実に点が入るとは限らないし、1点返した次の回で2点取られたら(だいたいが今負けているんだから、その可能性も大いにある)いつまでたっても追いつけないし、それってホンマにええ作戦なんかいな。
実際、その試合では、バントで返した1点など焼け石に水で、その後も点を取られて、12-2くらいで負けていた。なんだか、見ていて物悲しいものがあった。
などなどといった、私のような素人が思いつくような基本的な疑問を、本書ではわかりやすく解き明かしてくれる。
「先頭打者にヒットと四死球ではどちらが悪いか」
とか
「ノーボール2ストライクで1球はずすべきか」
などの、やはり「昔から気になっていた」お題も、データを見ると「あー、やっぱそうなんやー」と興味深い話が多いが、ことバントに関してもやはり……。
(続く→こちら)
4番連夜の鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』サーガ。
前回(→こちら)まで「超・訳者」である黒岩涙香先生の、フリーダムすぎる翻訳人生について語ったが、今回お伝えしたいのは、内田魯庵先生。
魯庵先生は明治時代に活躍した翻訳者だが、先生が訳した作品の中に、トルストイの『復活』がある。
大正期、ツルゲーネフが初めて日本語に訳されてから、ちょっとしたロシア文学ブームがあった。
魯庵先生もその多分にもれず、ドストエフスキーに耽溺。
『罪と罰』を三日三晩、不眠不休で一気読みして、ぶっ倒れたというのだから、すさまじい。
勢いにのって『罪と罰』を日本語訳し出版。
商業的にはふるわなかったものの、「名訳」として今なお評価が高いそうな。
そんな魯庵先生、ひょんなことからトルストイの『復活』を訳して、新聞に連載するという仕事を受けることになった。
「彼のような作家は前後1000年はあらわれない」
とまで言い切るドストエフスキー好き好き大好きの魯庵先生だが、残念ながらトルストイとは、どうもそりが合わなかったよう。
そうはいっても、引き受けた以上、紹介はせねばならない。
そんな魯庵先生の心情が、連載第一回目の前書きにあらわれており、以下その文。
「『復活』の翻訳を連載するに先立ちこの小説について一言言っておきたい」。
ここから続けてが、すごい。
「この小説は、おもしろくない小説である」。
いきなり、それはないだろ!
連載初日の開口一番に、おもしろくない。
言い切ってますよ、魯庵先生。
新聞小説史上前代未聞、空前にして絶後の前書きであろう。
そこからも、
「小説の体をなしていない」
「ストーリーが単純すぎる」
「説教くさい」
「ここまで退屈な話もめずらしい」
ハードパンチを連発。あまつさえ
「新聞小説に向いていない」
自らのレゾンデートルすら完全否定。
ここまでいってもいい足りないのか、魯庵先生はさらに連載第二回目には
「読む前の心得」
として「この小説はおもしろくない」とさらに強調した上で、
「この作品は長編であり、後半はそこそこ読めるから最初の15、6回は辛抱して読んでいただきたい」。
こうまで「つまらない」と書かれると、かえって読んでみたくなりそうなくらいである。
辛抱するのが「15、6回」というのも、すごいぞ。こういうのは、まだしも「せめて2、3回くらいは」とか書きそうなものだが。
15回もガマンして読まないよ、普通は。
そしてとどめには、
「小説としてではなく、ロシアの風俗習慣を学ぶ本として読んでいただきたい」
「文学性」を完全否定。
ダメ出しここに極まれりである。そりゃ、あんまりだ。
そんな完全にじゃみっ子あつかいの『復活』だったが、皮肉なことに連載中は大好評で、トルストイの代表作として、大いに評価されることとなった。
まさかの展開に、魯庵先生も、さぞや砂を噛む思いであったことだろう。
前回に続いて、鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』を読む。
明治大正期、黒岩涙香先生は外国のオモシロ小説を日本に紹介する、いわゆる「翻訳者」であった。
ただ、先生の翻訳の仕方というのが、実に独特であり、凡百のそれとはまったくちがう。
たとえば、涙香先生が「翻訳」した『法廷の美人』という探偵小説の前文がすごい。
余は一たび読みて胸中に記憶する処に従ひ自由に筆を執り自由に文字を駢べたればなり、稿を起こしてより之を終わるまで一たびも原書を窺はざればなり、
和文和訳するならば、
「オレ様は一回原書を読んだら、その記憶をたよりに、本文を参照することなく適当に書く」。
それ「翻訳」って言わねーよ!
といっても涙香先生、けっしていいかげんな気持ちで、そんなことをしていたわけではない。
先生からすると、本文に忠実で緻密な訳文よりも、
「オレが書いた方がおもしろい」
という作家魂が炸裂してゆえのことである。
「こんなおいしいネタを、さらりと流すなんてもったいない」
「もっと、おもしろく、できそうだけどなあ」
たしかに、小説や映画などでイマイチなものに出会うと、そんなことをいいたくなるときもあるけど、それにしても堂々としたものだ。
もちろん、翻訳者としての良心や著作権からして、決してほめられた行為ではない。
当然、批判の声も上がるわけだが、そこは涙香先生堂々としたもので、
「たしかにこれは「翻訳」ではないかもしれんが、訳だといわないと盗作だと怒られるので、訳ということにしてある」
あまりにあまりな赤裸々大人の事情、というか子供のいいわけ。さらには、
「ワシは翻訳者ではない」
ステキすぎる開き直り。
およそ作家というのは「オレ様」な人が多いといわれており、また、そうでないと、きっとつとまらない職業のだろうが、ここまでパンチの効いている人も、なかなかいまい。
大先生のみに、ゆるされる狼藉である。よう言うたなあ。
かつて、原作を少々の意訳には目をつぶって、リーダビリティ優先で訳す「超訳」というものが流行って、論議を呼んだことがあった。
原作を読みやすく「うすめる」主旨だった超訳と違って、むしろおもしろいよう「濃くする」涙香先生のサービス精神は熱い。
鴻巣氏いわく、
「黒岩涙香には「超訳者」という称号を贈りたい。「超訳・者」ではなく「超・訳者」である」。
「超・訳者」。
さすが本業の翻訳者は、いい言葉を思いつくものである。
たしかに、涙香先生の生き様には「超」がふさわしい。
まあ、今だったら超がつくほど、怒られますけどネ。
(続く→こちら)
前回に続いて、鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』を読む。
黒岩涙香先生は自らの本棚に「読破書斎」という、シブすぎる名前をつけていたというエピソードを前回は紹介したが、そんな探偵小説の開祖であり、ミステリファンなら足を向けて眠れない涙香先生。
この『ワンダーランド』によると、先生のすてきなエピソードが、さらに満載で楽しい。
涙香先生は作家であると同時に、海外(西欧)の作品を日本に紹介する翻訳家としての顔も持っていた。
先生の翻訳には、大きな特徴があった。
たとえば、代表作であるアレクサンンドル・デュマの『鉄仮面』。
ストーリーは、ルイ14世にひどい目に合わされた騎士「有藻守雄」(当時は外国の話でも登場人物を日本名にするのは普通だった)が、フィアンセである男装の麗人とともに、復讐を誓うところからはじまる。
それを邪魔する裏切り者「鳥居立夫」。
そこにさらに、あやしげな女占い師や王党派のスパイなどがからみあう、豪華絢爛な一大スペクタクル。
山あり谷あり、どんでん返しの連続連続また連続で、全編エンタメ魂がこれでもかと盛りこまれた娯楽作に仕上がっているという。
後半など、もう怒濤の展開で、
死んだと思っていた主人公が実は生きていたどころか、その死体は実は鳥居立夫のものだが、この鳥居も本当はまだ息があって埋葬されそうになったところを脱出して、じゃあ主人公はどうなったのかといえば別の場所で殺されており、話は終了かと思えば、それはなんと腹心の部下が身代わりになったものであり、その犠牲をともないながらもバスチーユの牢獄から劇的に脱出し、クライマックスでフランス・オーストリア国境でヒロインと劇的再会を果たし、フランスへと向かい見事復讐をやり遂げ幕を閉じる。
改行もなく、一気に書ききってしまって
「読みにくいし、展開わかんないよ!」
そうつっこまれる方も、おられるかもしれないが、安心してほしい。
書き写している私だって、ちっともわからないのだから。
ともかくも、日本の昼ドラも真っ青の、ドラマ、ドラマ、またドラマという、『鉄仮面』は「ご飯特盛り」な壮大な物語ということになっているのだ。
さすがはデュマである。これだけの活劇をひとつの物語に詰めこむのは、ただものではない。
そう感心した鴻巣氏は、職業的好奇心から、
「他の人の訳だと、どうなのだろう」
現代語訳のものを読んでみたのであったが、ここでひっくり返ることとなる。
それは物語後半部分。
涙香先生の訳では、
「途中で主人公は死んだ、と見せかけて実は生きていました」
という、どんでん返しがあって、読者はアッとなるわけだが、ところがである。
実際にデュマの原作だと、なんと主人公は本当にここで死んでいたのだ。物語はそこで終了。
え? おしまい?
そう、涙香訳ならその後に続くはずの、ドラマチックなバスチーユ脱獄劇、死体の入れ替わりトリック。
ヒロインとの再会、クライマックスの復讐劇、これすべて涙香先生の「創作」だったのである。
ひええええ、そんなことしてええんかいな。
どうも涙香先生、原作を読み終えたとき、
「なんだこれは。主人公が死ぬなんて、娯楽小説の仁義にもとる!」
大いに憤慨。
「オレ様がもっと、おもしろくしてやる!」
勢いのまま筆をとり、後半部を書き上げたそうなのだ。
すごい。まさにこれこそエンターテイナーだ。
読者がよろこんでくれるなら、著作権など風の前の塵に同じ。
納得いかなきゃ、作りゃあいい。なんて男らしい。
しかもその内容も、これでもかという「全球フルスイング」なシロモノ。涙香先生渾身の「翻訳」である。
この涙香先生、根っからのエンターテイナーで、『鉄仮面』連載中に風邪を引いてしばらく休載した時には、熱にうなされながら
「どうしたら、もっとおもしろくできるのか、どう書けば読者はよろこんでくれるのか」
そんな、うわごとをいっていたそうである。
まあ、小説を読んだり映画を観たりしながら、
「おしい、あそこを、こうやったら、もっとよくなるのに!」
なんて、野次馬的に思うことはよくあるけど、本当にそれをやっちゃうのがすごい。というか、怒られます。
やはりここは、涙香先生版『新世紀エヴァンゲリオン』を書いてもらうのがよかろう。
テレビ版のあのラストを見たら、きっと、
「娯楽アニメの仁義にもとる!」
てなって、山あり谷ありの「本当の最終回」を作ってくれるのではなかろうか。超読みたいんスけど。
(続く)
黒岩涙香先生の書斎に、超あこがれる。
黒岩涙香。
明治時代に活躍した作家で翻訳家、ジャーナリストなど、多彩な顔を持つ偉大な人。
原作を大胆に改編する「翻案小説」でも有名だ。
名前は知らなくても、先生のものした
『鉄仮面』
『巌窟王』
『ああ無情』
などといったタイトルならば、聞いたことがある、という人はおられるのではないか。
作家というのはもともとにして本好きなわけだが、この涙香先生もご多分にもれず、すごい読書家。
鴻巣友季子さんの『明治大正翻訳ワンダーランド』という本によると、なんと洋書だけでも3000冊を読んだそうである。
3000冊といわれると、そのへんの読書ジャンキーなら、
「まあ、それくらいは」
といったところで、さして自慢にもならないが、洋書「だけ」でそれというのは、さすがであろう。
そんな先生の口癖といえば、
「紹介するにたる外国小説を一冊見つけるには、百冊は読まなければならない」。
ということは、先生の作品ひとつにつき、その裏にはボツになった物語が100冊近く存在するということ。
すごいものだ。作家というの大変な仕事であるり、作品によっては、それ以外の資料なども、読みこまなければならないそうな。
そうなると1冊の本ができるのに、どれほどのものを読まなければならないのかと、めまいがしそうになる。
そんな先生の家は当然本だらけで、自室を「読破書斎」と名付けていたそうである。
読破書斎。
か、かーっこいいぃぃ!!!!! 本好きならシビレるようなネーミングだ。
さすがは玄人、なにかこう自分の仕事への自負すら感じる、気風のいい言いきりではないか。
同じく読書をこよなく愛する私は、そんな偉大な涙香先生に少しでも近づこうとすぐさま本棚を購入。
若かりしころ買った本を、そこにずらりと並べた。
私は学生時代、ドイツ文学を専攻していたので、そのラインアップは、
トーマス・マン『魔の山』
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』
ライナー・マリーア・リルケ『マルテの手記』
エーリヒ・マリア・レマルク『西部戦線異状なし』
フランツ・カフカ『審判』。
かつて対峙した重厚な書物を収めてみると、私の知性のほどが顕著にあらわされ、実に壮観である。
ただ、ひとつ気になることがなくもない。
こうして並べられた書物をじっとながめていると、どうもこれは「読破書斎」というよりも「挫折書斎」と命名した方がいい気がしてならない。
かつてゲーテの名作『ファウスト』を読んだとき、合わせて上下巻あったのだが、グレートヒェンの第一部はともかく、後半の第二部はとにかく長かった。
しかもこれが、おもしろければともかく、読んでも読んでも書いてあることが意味不明。
何度も泣きそうになった。つまんねーのなんの。
そんな冬山登山みたいな2冊をなんとか読破し、まあ中身はサッパリであったが、こんな歴史に残るような文学作品なのだから、私のような阿呆にはわからぬ深淵なメッセージがきっとあるのだろう。
と解説書をひもとくと、そこには、
「えー、第二部に関しては特に意味とかないんで、めんどかったら、ぶっちゃけ別に飛ばしてもいいって感じッス」
そんな意味のことが書いてあり、これには文庫本を壁にぶん投げそうになったものだ。
なぐったろか、このぼけなす!
ちなみに、上記の本の挫折理由は、上から順に
「長いから」
「長いから」
「辛気臭いから」
「辛気臭いから」
「カフカって合わねー」
となっており、私の知性のほどが顕著にあらわされ、これまた実に壮観である。
ということもあったので、長い小説はよほどリーダビリティーが高くないかぎり、相当なる警戒が必要である。
これではさすがに「読破書斎」の看板にいつわりありということで、本当にちゃんと最後まで読んだ本をチョイスしようと、
杉作J太郎『ボンクラ映画魂』
中岡俊哉『世界の怪獣』
中村省三『宇宙人の死体写真集』
『河崎実大全』
はぬまあん『超絶プラモ道〈2〉アオシマプラモの世界』
などを並べてみた。
が、こちらは本当に読破したにもかかわらず、どうにも涙香先生のような文学的高貴というものが、今ひとつ感じられない雰囲気をかもしだしている。
なにかこう全体的に、
「オレが思ってたのと違う!」
といった雰囲気がバリバリであり、なぜそうなってしまうのか、謎は深まるばかりである。
(続く)