前回(→こちら)の続き。
ミステリー専門チャンネル「AXNミステリー」が開局20周年を祝してやっていた、ある企画を見たときだった。
その内容というのが、
「あなたの好きな名探偵投票キャンペーン」
こういうのを見せられると、小学生のころ乱歩先生の洗礼を受けて以来の玄人のミスヲタである私としては黙っていられないわけで、ここに自分のベストを作ってみるわけである。
というわけで、本日の名探偵はウィルフリッド・ロバーツ卿
アガサ・クリスティーの『検察側の証人』に出てきた弁護士で、原作では特にこれといった印象は残さないが、ビリー・ワイルダーが映画化した『情婦』(いまいちな邦題だ。原作通りのタイトルでよかったのに)の方の彼がいいのである。
名優チャールズ・ロートンが演じているのだが、これが実に味がある。
その巨体からか、とぼけたようで(車椅子のエスカレーターで移動するシーンなど妙にユーモラスなのだ)、それでいて切れ者弁護士であるというギャップがまずいい。
敵か味方かわからない、ミステリアスなマレーネ・ディートリヒとの緊張感あるやりとりなど、いかにも「名画」っぽくて惹きこまれる。
また、名探偵といば「相棒」がつきものだが、ウィルフリッド卿とコンビ(?)を組むエルザ・ランチェスターを配置したのが、シリアスだけでなくコメディーも得意な名匠ワイルダーの真骨頂
実生活でもロートンのパートナーであったエルザは、さすが息の合ったセリフ回しで、内容的にはやや陰惨なこの犯罪劇に、軽やかさを付与することに成功しているのだ。
ミステリ劇は状況説明が多いせいでダレやすいといわれるが、この2人の会話劇だけで、その間がずいぶん緩和される。
ウィルフリッド卿は体を壊しており、彼女はその介護の看護婦役なのだが、尻に敷いているような、仲良くケンカしているような。
でも最後に真相が明らかになったあとの彼女の力強いセリフで、ロートンが立ち上がるところなど、単なるわき役ではなく、物語に強い芯を通す役割をになっている。
その能力的にすぐれることあまねきため、ややもすると孤高の存在になりがちな天才的名探偵には、世俗や生活を代表する「相棒」が時に必須だったりする。
この作品のエルザ・ランチェスターがまさにそれで、手のかかる名探偵の世話をせっせと焼きながら、それでいて彼らが傲慢の罪を犯さないようしっかりと「つっこみ」を入れる。
これこそ「デュパンと《私》」「ホームズとワトソン」から連綿と続く名探偵の王道といえるのだ。
『情婦』のウィルフリッド卿、その相棒のミス・プリムソルとセットで、「名探偵俺ベスト」入りです。
(『シベリア超特急』編に続く→こちら)
★おまけ ガチでおもしろいミステリ劇『情婦』の全編は→こちらから
「あなたの好きな名探偵」と聞いたら、黙っていられないぜ!
そう快気炎をあげたくなったのは、先日、ミステリー専門チャンネル「AXNミステリー」が開局20周年を祝してやっていた、ある企画を見たときだった。
その内容というのが、
「あなたの好きな名探偵投票キャンペーン」
大ヒットした『SHERLOCK』をはじめ、『刑事モース』『刑事フォイル』など、ミステリを題材にしたドラマが好調ということもあってか、1万3000票も集まる盛り上がりを見せたそうだ。
こう聞かされては、子供のころ「将来の夢」のアンケートに「野球選手」でも「総理大臣」でも「世界征服」でもなく一貫して
「名探偵」
と書き続けた阿呆としては、じっとしていられない。
「オレならこれを入れる」「いや、わたしはこっち」と居酒屋でカフェのテーブルで、ミスヲタ仲間とキャッキャ言い合うと、もう時間のたつのも忘れるほどなのである。
というわけで、今回はかくいう私が好きな名探偵について語りたいが、その前に、本家「AXNミステリー」のランキングを見てみると、こうなっているそうで、
1位 シャーロック・ホームズ
2位 金田一耕助
3位 エルキュール・ポワロ
4位 コロンボ
5位 浅見光彦
6位 明智小五郎
7位 ミス・マープル
8位 三毛猫ホームズ
9位 モース
10位 ブラウン神父
10位が「ブラウン神父」とは、実に渋めというか、まず古典がランクインとは。
こいつは相当にガチなアンケートではないかと一瞬思ったが、おそらくはドラマ版の影響であろう。
じゃないと、モースがなかなか9位には入らないよなあ。
ポアロ(私はハヤカワで読んでいるので、こっち表記)やジェーンおばさまも、本よりドラマの印象が強いのかもしれない。
その証拠に、濃い目のミスヲタ相手なら絶対に出て来るはずのエラリー・クイーンがランク外なのだ。
「画で見せないといけないので、ミスディレクションがしにくい」
「探偵の謎解きシーンが冗長になりがち」
などの理由で、
「ミステリは映像作品に向かない」
という話を聞くけど、エラリーのような「本格」は、ますますその傾向が強いのかもしれない。
うーん、でもうまくキャラを生かせば、それこそ女性ファン受けしたりしそうだけど。
パパとラブラブだし、女の影も希薄だし、そういや最近出てる新訳版の表紙は、いかにもそれっぽい。
次のドラマ化はこれだな。
私が選ぶ「俺ベスト」となると、江戸川乱歩、コナン・ドイル、アガサ・クリスティーから乱読バリバリという道を歩んだ身としては、明智、ホームズ、ポアロにミス・マープルは別格として、次に来るのがJ・J・マローンとベイジル・ウィリング博士。
少年探偵なら「百科事典」ロイ・ブラウンに、マガーク探偵団。
エーミールとカッレ君ってのもありだな。カーステアズ姉弟とか、「ジャンジャラ探偵団」のめぐと千夏。
女探偵はハードボイルドな葉村晶。主婦探偵ならジェーン・ジェフリイ。
少女探偵なら、11歳のじゃじゃ馬化学者フレーヴィア・ド・ルース。
おっと、忘れてはいけない大乱歩先生からは花崎マユミが黙ってない。
あと個人的に好きなのがカップル探偵。
トミーとタペンスのベレズフォード夫妻に、サスペンスからはクィン・ウィリアムズとブリッキー・コールマン。
ニックとノラの「おしどり探偵」も、はずせない。
ジェークとヘレンのジャスタス夫妻に、ビル・スミスとリディア・チン。
嗚呼、快活で行動的な探偵趣味の女と結婚したい。
なんだかもう、探偵と出演作の名前を書くだけで、いつまででも話していられるこの話題。
まだまだ尽きないので、次回から何人か、今度は少し変わり種な「わたしの好きな名探偵」を紹介してみたい。
(続く→こちら)
前回(→こちら)に続いて『名人に香車を引いた男 升田幸三自伝』の話。
才能に恵まれた者は、自分の好きな道で生きていけると同時に、どこまでも子供のまま、一時期はやったフレーズで言えば
「ありのまま」
というスタイルで生きていけるという特権を持つことができる。
それはたとえば、升田と木村義雄名人とのある論争などにあらわれている。
升田幸三のライバルといえば弟弟子の大山康晴であるが、先輩格では木村義雄名人であった。
様々な事情から木村を最大の敵と見なし、まるで親の仇をねらう素浪人ごとく、執念をもって名人の背後を取ろうとする升田。
そのふたりが、あることで大激論になったのだ。
当時の将棋界最強の二人が、大一番の対局後に論を戦わす。
それはこれからの将棋界の在り方についてか、それとも戦術戦形における読み筋や美学のことなのかと問うならば、そのテーマというのが、
「豆腐は木綿と絹ごしの、どっちの方がうまいか」
知らんがな。
そんなん、その人の好みとしかいいようがないが、これを
「木綿だ」
「いや、絹ごしだ」
朝までキャンキャンやりあっていたというのだから、なにをやっているのかという話だ。
名人位を争うふたりが、豆腐で大げんか。まるで子供である。
今なら、竜王戦の感想戦で羽生善治竜王と広瀬章人八段が、
「鍋のシメは雑炊かうどんか」
みたいなことでとっくみあいをはじめるとか、まずありえないわけで、これこそが昭和の天才エピソードであろう。
升田といえば、将棋が強いだけでなく、その独特の創造性も羽生善治竜王をはじめ、棋士やファンにリスペクトされている。
それにくわえて人間的にも華があり、なおかつ話術もメチャクチャに巧みであった。
今でいう「キャラ立ちまくり」の人で、読みながら、そら人気も出るわと感心しきりだったが、そんな升田の舌鋒がもっとも発揮されたのが、かの有名なGHQとの
「将棋とチェスの違い事件」
大東亜戦争でボロ負けした日本は、剣道や柔道など「好戦的」とされるものを、一時、占領軍により禁止の憂き目にあった。
当然、擬似戦争ゲームである将棋もやり玉に挙がり、GHQに呼び出された升田は、米軍将校にこう聞かれる。
「将棋は取った駒を、自軍の戦力として再利用する。これは捕虜の虐待ではないのか」
屁理屈というか、はっきりいってただのヤカラであるが、アメリカからすると、ここで将棋界のエースを言いくるめてしまえば、後の仕事がやりやすくなると思ったのであろう。
ところが、相手は一筋縄ではいかない男であった。
升田は臆することなくビールをカッパカッパ呑みながら、
「冗談をいわれては困る。チェスでは取った駒を使わないが、これこそ捕虜の虐殺である」
バスっと一発カマすと、
「一方、将棋は駒が全部生きている。能力を尊重し、それぞれに働き場を与えようという思想だ」
さらに続けることには、
「しかも敵から登用しても、金なら金、飛車なら飛車と官位も変わらない。これこそが本当の民主主義ではないか」
理屈である。
なんだか、日本将棋がずいぶんとかっこよさげだが、一応筋は通っている気がしないでもない。
まさか敗戦国が反論を、しかもこんなに堂々と返答してくる男がいるなどと思いもつかなかったのであろう米軍将校があっけにとられていると、
「チェスなんぞ、大将が危なくなったら女を楯にして逃げようとする」
反撃の一発を繰り出し、
「おまえらは日本をどうするつもりだ。殺すというなら、おれはどこかの国の飛行機をぶんどってきて、それでおまえらに突っこんでやる」
もう戦争は終わってるのに、なんちゅうことを言うのか。まるで、『魁! 男塾』の江田島平八塾長である。
こうなってくるともう升田の名調子はとどまることを知らず、最初は「あなた方」と呼びかけていたのが、次第に
「おまえら」
になり、ついには
「おんどれら」
と、どんどん崩れていく。
通訳があわてて「その、《おんどれら》とはどういう意味か」とたずねると、
「《おんどれら》とは《大あなたさま》という最大級の敬称だ」
うそぶき、その場を煙に巻く。もう言いたい放題。
とどめには木村義雄名人の名前を出し、
「戦争中はあの男が海軍大学などを講演して回ったが、おかげで日本は負けた。オレが代わりにやってたら、日本は勝っていた。おんどれらにとっちゃ、あの男は大恩人だぞ」
大嫌いな最大最強のライバルをディスって終了。
最後はブランデーのおみやげも断って(ホントは超ほしかったらしい)颯爽と帰宅。
このとんち、じゃなかった見事な演説が効いてか、戦後の混乱期も日本将棋界は再出発をゆるされることとなるのである。
こんな痛快なエピソードが、調子の良い升田節で語られる本書は、なんとも愉快。
そのまんま、少年マンガの原作になりそうな話がゴロゴロ出てくる。
ちょっと元気がないときなどに読むと、てきめん効果があると思われる。オススメです。
『名人に香車を引いた男 升田幸三自伝』を読む。
タイトルの由来は、升田が将棋指しを志し、幼少期に、
「名人に香車を引いて勝つ」
定規の裏に書き付けて家を飛び出したという伝説によるもの。
将棋を知らない人には、ちょっと意味がわからないかもしれないが、香車を引くとは勝負の際に盤の隅にある「香車」の駒を無しでプレーすること。
いわばハンディ戦であり、サッカーでいえば一人足りない10人で戦うようなもの。
しかも相手が将棋界最高位である「名人」だというのだから、幼少期の無知ゆえのこととはいえ、なんともスケールがでかいではないか。
さらにすごいのは、升田少年はその後、晴れてプロの将棋指しとなり、本当に時の名人相手に「香車を引いて勝」ってしまったことだ。
そう、それが将棋界の大レジェンド、升田幸三の伝説なのである。
本書はそんな昭和のスーパースター升田が、将棋を始めたころから引退までを語り尽くすというもの。
「ゴミハエ問答」
「高野山の決戦」
「無敵の三冠王時代」
などなど、将棋ファンにはおなじみの事件が、その本人の口から伝えられるのだから、これがおもしろくないわけがない。
升田の口の達者さもあってか、パクパクとページをめくっているうちに一気読み。私の知らない「古き時代の将棋界」にどっぷりと浸かれる一冊であった。
もう全編興味深い逸話だらけで、あれもこれもと引用したくなるが、さりげなくシブい一文にこういうのがあった。
「(四段選抜登竜戦にむけて)身ぶるいするような緊張を覚えたもんです。昭和11年といえばあの二・二六のあった年で、まだ世の中ざわついとったが、こっち頭の中には将棋に勝つことしかなかった」
さりげなく歴史の大事件がからんでくるが、升田にとってはそんなことは、きっとどうでもいいことだった。
それよりも、ただ目の前の敵を倒すのみ。俗世間のことなど、そのへんの無粋な役人か兵隊にでも、やらしときゃいいと。
団鬼六先生もおっしゃっていたが、才能に恵まれ、自分の好きな道で生きていけるということの特権は、金でも地位でも名誉でもない。
このときの升田のように浮き世の俗から、どこまでも自由でいられることなのだ。
つまりは、いつまでも中2病のままで生きることが、ゆるされる。
よく、スポーツ選手なんかがスキャンダルを起こしたときなど、
「せまい世界で生きているから、世間を知らないんだ」
などと嘲笑する人がいるが、よく聞くと彼らの言う「世間」とは「会社」とか「学校」とから。
あとはせいぜいが「地元」「日本」くらいのことだったりする。「オレの経験では」とかね。
なんだか、彼らこそまさに
「世間というせまい世界」
しか知らないのではと、首をかしげたくなる。
自分がそこしか知らないし、出ることもかなわないから、違う場所に生きる人を、ことさら指さしておとしめようと、するんじゃないのかなあ。
どっちにしても「せまい世界」で生きるなら、私は自分で選んだ道を歩く人にあこがれるし、尊敬もするけどね。
ライバルであり弟弟子でもある大山康晴に大きな戦いで敗れることの多かった升田は、よく
「悲運の棋士」
などと呼ばれたが、本人によれば、それはまったくの的はずれであるという。
たしかに「高野山の決戦」の後遺症や健康状態のせいで落とした星は多かったが、それでも三冠王になり、名人に香車を引いて勝つという、途方もない夢を実現させた自分は幸せなのだと。
経済的に苦しい時期もあったが、名人、王将、九段のタイトルを独占したことにより、借金などもすべてきれいにできた。
そう、あとがきで書いているように、
「これで文句を言ったら、バチが当たる」
これのどこが「悲運」なのだろう、というわけだ。
才能に恵まれ、子供のころからの夢を果たし、最後まで自分のやりたいよう天衣無縫に生きた。
「将棋指しになって良かった」
これ以上なくシンプルだが、なんというステキな言葉だろうか。
もちろん升田の魅力はその言動や生き様だけでなく、将棋の内容そのものにもある。
今度の冬休みは、合わせて買ったマイナビ出版の『升田幸三名局集』をじっくりと並べて、その妙技を堪能したい。
(続く→こちら)
前回(→こちら)の続き。
タイはチェンマイの象トレッキング・ツアーで、ゲイのカップルと同行することになった私。
白人ジェイムズ君と褐色の肌をしたサルマンさん(それぞれニックネーム)は、ちょっとめんどくさい(『ヒカルの碁』に出てきた三谷君みたいな感じ)ジェイムズ君を、大人の雰囲気のサルマンさんが世話するというパターンの仲のようだ。
その様子が仲睦まじく、無駄に好奇心だけは旺盛な私は、ちょっと声をかけてみたくなった。
とわいえ、なんだかおもしろがっているように思われたら失礼だし、どうしようかなと迷っているところに、なんと、むこうから誘い水かかかったのだ。
ツアーの昼食時のこと。ビュッフェ形式のレストランで、タイ風焼きそばをまりまり食べていると、
「ここ、空いてますか?」
皿から顔をあげると、くだんのカップルであった。
声の主はサルマンさん。
ジェイムズ君はあいかわらずブスッとして、こちらと目を合わせようとしない。相変わらずの、不機嫌ぶりである。
ま、それはいいとして、タイミングを計っていたら、むこうから飛びこんでくるとは幸運であった。
もちろんのことオーケー。どうぞどうぞ、一緒に食べましょう。
思わぬ成り行きのランチタイム。会話はサルマンさんとすすんだ。
ジェイムズ君はしゃべらないどころか、スープだけ飲むと、さっさと出て行って煙草を吸っていたようだが、そんな子供じみた態度にサルマンさん、
「なんか、ウチのがすいません」
苦笑いして、あやまっていた。
ふたりはやはり、ルーマニアとフランスの国際カップルであった。くわしくは訊かなかったけど、おそらくは今時らしく、ネットで知り合ったのだろうか。
こういうとき、どういう訊き方をすればいいのか、よくわからなかったので、とりあえず、
「彼とは友人?」
そう投げかけると、サルマンさんは、
「はい、恋人同士なんです」
ハッキリと、そう言ったのであった。
そんなストレートに伝えてしまっていいんだろうか。
こちらに偏見があって「ゲ、マジか。気持ちわりぃ」みたいな態度を取ったら、どうするのだろう。
一瞬、私も「同類」と思われたのかなとも思ったが、このときの同行者は女性だったので、それはないなと考えをあらためる。
まあ、向こうはかなりオープンだったし、私もボーっとした男なので、
「こいつやったら、おかしなことも言わんやろ」
と判断したのかもしれないし、まあこっちが自意識過剰なだけかもしれない。
理由はさておき、めずらしい相手とランチをともにするというのは、なかなかに貴重な体験である。
サルマンさんは旅行好きで、ヨーロッパやアジア、日本なら東京や京都も行ったことがあるという。
そんな中でも、一番いいのはどこの街ですかとたずねると、
「タイがいいけど、全般的にアジアはどこでも快適です」
ふーん、やっぱヨーロッパ人は暑いところが好きなんやなあ。むこうは寒いもんなあ。
なんてボンヤリ考えていると、サルマンさんはこうつぶやいたのである。
「タイは、フリーですから……」
そのときの彼は笑顔であったが、そこにはさっきまでの「日本はいい国です」と言ってくれていたときの、素直な快活さに、やや影がさしている気がした。
一瞬どういっていいかわからなかったが、気をつかってくれたのか、サルマンさんはおどけたように両手を広げ、すぐフレンドリーな彼に戻った。
彼の言う「フリー」とは、単純にアジアの気候などによる開放感のことか、それとも自分たちの文化に対して「フリー」だということか。
なんとなく、聞くタイミングを逸してしまった。
それからも我々はチェンマイのおすすめスポットや、おいしいタイ料理などについて語り合った。そのあともツアーは続き、楽しく象にも乗った。
エレファント・ライドのあと、乗っているところを撮った写真を買えるのだが、ジェイムズ君がそっけなさそうに選んだものを、サルマンさんがニコニコしながら購入していた。
その様子を見ながら、やはり思ったものだ。
こないだも言ったが、彼らはその愛の対象がわれわれと違うだけで、他は別にふつうの人なんだよなあという、ごくごく当たり前のことだ。
それでもやっぱり、あんなさわやかな人なのに、それこそサルマンさんなんかも、まだまだいわれなき偏見の目にさらされてしまうこともあるのだろう。
思い出すのは、さいとう克弥さんと小野まゆらさんのマンガユニット「さいとう夫婦」の名作『バックパッカー・パラダイス』のエピソード。
ジンバブエの首都ハラーレで、強盗につけねらわれた、克弥さんとまゆらさん。
と、そこに親切な黒人のおじさんがあらわれて、それとなく助けてくれたのだが、おじさんが南アフリカ共和国の人と聞いて、現地を訪れていた旅行者からアパルトヘイトのえげつなさを聞いていたまゆらさんは、
「ぶっそうな夜の街で、いかにもカモな日本人を宿まで送るなんてなかなかできる事じゃないよね」
しみじみしたあと、
「あんなりっぱな人でも(南アの黒人だから)理不尽にプライドを傷つけられる事があるんだろうなあ」
似たようなことを私も思ったのだ。
サルマンさんみたいな、明るくていい人でも、「フリー」じゃないところでは、理不尽にプライドを傷つけられることもあるのだろうか。
私は善人ではないし、世のあらゆるマイノリティーにまったく偏見がないかといえばそんなこともないだろう。
差別をしてないつもりでも、自覚せずに誰かを傷つけていることも、きっとあると思う。
でもやっぱり、今さら正義漢ぶるつもりもないけど、もしどこかで昼飯をともにしたサルマンさんが、なにかで嫌な目にあっていたとしたら、どうだろう。
「そういうことは、あってはならない」
これは、心からそう言える。
私ごときが世界を変えることはできないし、そもそもそれだけのすぐれた人間性もない。
だからせめて、
「《違う》人に対して、偏見を一回なくしてフラットに接してみる意思」
「なくせなかったら、せめてそれを失礼な形で外に出さない気づかい」
そしてなにより、
「自分が《正しい》《ふつう》《常識》と思いこんで、無自覚に加害者になる可能性に無頓着であること」
に注意すること。
それくらいのことは、常に頭の片隅には入れておこうと思う。
サルマンさんが、多くいるツアー参加者の中で、なぜ私たちに声をかけてくれたかはわからない。
おそらくたまたまなのだろうけど、もしそこに、ほんの少しでも、私たちが彼らのことを、「理不尽にプライドを傷つけ」たりしないだろうと、踏んでくれたとしたら。
私はその判断を、少しばかりうれしく思うのだ。
海外でたまにゲイの人と出会うことがある。
前回(→こちら)はトルコのパムッカレで、
「世界遺産」&「ブーメランパンツのオランダゲイカップル」
という、やたらとアーティスティックなコラボに遭遇した話をしたが、こういった風景はアジアでも見られることがある。
ヨーロッパではオランダがゲイ文化に寛容といわれているが、アジア代表といえばやはりタイであろう。
西原理恵子さんの『鳥頭紀行』シリーズを愛読していたため、なんとなくは知っていたけど、たしかにタイの、特にバンコクのような都会では、日本人がイメージするような「夜の住人」ではなく、比較的フラットに街にいたりする。
アジアは同性愛に寛容なのか、それとも国教である仏教に関連があるのか。
もちろん、まったく偏見がないわけでもないだろうが、他の地域や国よりも圧倒的に受け入れ態勢が整っているらしい。
そんな同性愛ゆるゆる国タイには、当然のことそういった人々も遊びに来るよう。
パッポンのような繁華街で遊ぶ人もいれば(両側ずらりと並ぶオープンカフェみたいな店に、山盛りのゲイカップルがすわっていた通りに遭遇したときは壮観であった)、ごくごく普通に観光にくる人もいる。
タイ旅行の際、北部の街チェンマイに遊んだ。
古都チェンマイはタイ第2の観光都市で、寺院巡りをするもよし、トレッキングなどアウトドアあり、少数民族の村を訪れたり。
タイ北部の料理を味わうなどなど、楽しそうなイベントが満載だが、中でも人気なのが象とのふれあいであろう。
タイといえば象であり、ミッシェル・ガン・エレファントのファンである私としては、やはりここははずせない(そうなのか?)。
さっそく旅行代理店に飛びこんで、象トレッキングをふくむチェンマイ・アウトドアツアーに申し込んだ。
出発日の朝。7時にホテルの前で待っていると、ツアーバスがやってきた。
安いツアーなので、バスというよりも、でかいバンみたいな車だが、片道1時間程度なのでこれで充分であろう。
オフシーズンであったが、値段のリーズナブルさがよかったのか、客は盛況。メンバーは欧米人と中国人が半々くらい。
ガイドを務めるタイ人のチャーリーが、象のほかにいかだの川下りや、牛車体験などもあると説明するが、こなれた彼の説明よりも、どうにも気になるところがあったのだ。
それが、ななめ前にすわっている二人組である。
ひとりはひょろ長い背丈にメガネをかけ短髪の白人男性。
映画『フルメタル・ジャケット』に出てくる、ハートマン軍曹に「ジョーカー」と名づけられてた、ジェイムズ海兵隊員みたいな風貌。
もうひとりは褐色の肌で、アジアか中東の血が入っているのであろう。インド映画の俳優サルマン・カーンによく似た男であった。
なにが気になるのかといって、その雰囲気が双方男なのに明らかに「恋人同士」なのだ。
別に目についてイチャイチャしているわけでもないのだが、なんともいえない両想い感が濃厚なのだ。仲よさそう。
まわってきた出席簿みたいなシートを見ると、ジェイムズ君はルーマニア人。
サルマンさんは(こっちのほうが大人びていたので「さん」づけ)フランス人であった。もちろん性別は男だ。
こりゃ、あきらかにつきあってますやんと、一応同行者にたずねてみると、
「あ、やっぱそう見えた? 言おうかどうか迷っててん」
やっぱ、素人が見てもわかるもんやなあ。
まあ、本人たちが隠す気もないというのもあるんでしょうが。
しかも、バスを降りたところでさりげなく観察すると、ジェイムズ君はマッチョに白のタンクトップ。
サルマンさんはぴちぴちな、フトモモもあらわなホットパンツ姿。
これはもう、決まりといっていいであろう。モロなファッションである。
うーむ、やはり同性愛天国といわれるタイ。そういう人が自然に集まってくるのだろうと、感心しながらツアーははじまった。
私と件のカップルは申しこんだ番号が近かったのか、エレファント・ショーの席なども近く、ちょいちょいと観察する機会にも恵まれた。
力関係としては、ジェイムズ君がちょっと子供っぽいというか、あまり象に興味がないのか、ツアー中も妙に不機嫌。
言葉はわからないがおそらく
「疲れた」
「来たくなかった」
「ノドかわいた」
などとブツブツいうのを、サルマンさんが「まあまあ」と笑いながらなだめて、あれこれ世話を焼く。
対等というより、世話焼きの姉と、甘えたな弟みたいなバランスであるようだ。
なんだかその様子がほほえましくて、ちょっと声をかけてみたいような、でもからかい半分って思われたら失礼だし(それが考えすぎなのかもね)、どうしようか。
なんて逡巡していたところに、思わぬところから二人とコミュニケートをとる機会が降ってきたのであった。
(続く→こちら)
海外で会うゲイはオランダのイメージが強い。
オランダはゲイに寛容といわれ、実際私もアムステルダムでゲイをモチーフにしたアートイベントを見学して、そのことを体感したのだが(→こちら)、ヨーロッパのみならず他の場所でも、オランダ男子カップルを散見することがある。
トルコを旅行したときのこと。
「石灰華段丘」という、世界遺産にも登録されている不思議で美しい丘で有名な、パムッカレという町に滞在することとなった。
石灰華段丘とはどういうところなのかと問うならば、文字通り石灰が岩肌から染み出して、山肌を白く染めている。
それはまるで雪におおわれた冬山のようで、実に幻想的で美しい。
そこを軽いトレッキングのように登っていくのが、パムッカレ観光のハイライトだが、石灰のカーペットを傷つけないために、はだしで行かなければならないのが特徴。
なもんで、登山の途中では、世界中の旅行者が素足で
「痛い、痛い! 岩肌、荒くて痛いがな」
「でも、石灰がツボ刺激して健康にいいらしいで」
「ホンマかいな、あーでも、なれたら気よちよくなってきたかも」
なんて、楽しそうに笑いながら、カップルや家族連れがせっせと歩いている。
でもって、頂上に達し、真っ白い大地の頂上で見るトルコの夕陽は、それはもうたとえようもなくウットリすような光景。
トルコを旅行するなら、ぜひ訪れてほしいおススメスポットである。
そんな世界レベルの観光地パムッカレだが、そこにいたのが、やはりオランダ人のゲイカップルであった。
識別できたのは、やはりゴッゴッゴッゴと、のどから発音していたオランダ語のおかげだが、彼らが目を引いたのは、そのあからさまなスタイル。
ゲイといっても我々がテレビで見ているような、オネエタレントのようなキャラが立った人ならともかく、普通に生活している人はパッと見で、それがわかるとは限らない。
それこそ、ディズニーランド・パリで見たカップルなど、イチャついていなれば、ごくどこにでもいそうな友達同士にしか見えない。
ところが、ここパムッカレでは、見た瞬間「やろうな」と思わせるカップルがいたのである。
見た目は、ふたりとも長身で眼鏡、坊主頭といったインテリ学生風なんだけど、彼らが服を着ていなかった。
石灰丘では山肌を傷めないため靴を脱げと登山前に注意されるが、別に服まで脱げとはいっていない。
それを、堂々の裸の大将。
しかも、なかなかに引き締まったいいカラダである。
細マッチョというやつか。男の私が見ても、「おお」と、うなるほど。
裸といっても、さすがに人がいるところなので全裸というわけではなく、パンツだけはしっかりとはいているのだが、そのパンツというのが、ピチピチのいわゆるブーメランパンツ。
ブーメランパンツ。
そんなわかりやすくていいのか。股間にぐいっと食い込んで、中におさまった「ゴールデンボーイ」の形状もくっきり見える。
もう一目で「やろうな」である。
ほええ、さすが白人のはグレイトやなあ。
なんて感心してどうするという話だが、この一面白の大地で、幻想的な夕陽を浴びながら、ここにブーメランパンツのカップル。
お互い、ひきしまったカラダを堂々の露出。
周囲はふつうの観光客かトルコ人の家族連ればかりの中、なんともミスマッチな光景である。
あまりに堂々とブーメランなので、トルコ人観光客も全然、違和感を感じていなかったようだ。
私すら、オランダ語のインパクトで目が行ったけど、最初は素通りしそうになったものなあ。
それくらいに、彼らのふるまいが自然であり風景に溶けこんでいた。
芸術的な絵といってもよかった。なんか、ギリシャ時代の彫刻みたいだ。
ただあの美しい光景に、細マッチョブーメランは、やはり相当なインパクトであった。
それ以来、私はパムッカレをはじめ、それこそ札幌の雪まつりやアラスカのオーロラの貴重な映像のような白が美しい光景を見たりすると、彼らのことを思い出して、なんだか不思議な気分になるのである。
(続く→こちら)
海外でたまにゲイの人と出会うことがある。
前回(→こちら)は私や、ユースホステルで出会ったワイルドトラベラーであるキタバタケさんが、ヨーロッパで男にナンパされた話を披露した。
その舞台は両方ともパリであったが、欧州でゲイといえば個人的にはフランスよりも、圧倒的にオランダの印象が強い。
たとえば、ディズニーランド・パリで見かけたゲイカップルはオランダ人であった。
有名なシンデレラ城を見学していると、うしろでキャッキャ騒いでいるカップルがいたのだ。
まあ、こういう場なのではしゃぐのは全然かまわないのだが、ひとつ気になるのが二人の声。
どっちも、妙に低音なのである。
まさかと思って振り向くと、はたしてそれは男同士のカップルであった。
それもいわゆる、マツコ・デラックスさんのような「わかりやすい」感じではなく、ぱっと見、サッカーの香川真司選手みたいな、どこにでもいるボーッとした感じの(失礼)青年同士。
けどこれが、ふたりで腕を組んで、片方は女子っぽくシナを作りながらお互いのほっぺをつつきあったりしているんだから、これはもうどうみても万国共通の恋人同士のちちくりあいである。
おそらくは
「いやーん、シンデレラ城って超ス・テ・キ!」
「ふふ、でもキミの美しさにはかなわへんがな」
「キャー、もうダーリンったら恥ずかしいやん!」
みたいなことを言い合っているのであろう。
言葉の意味はわからんが、これがもうバシバシ伝わってくる。勝手にやっとれと。
で、そのカップルというのが、オランダ人だった。
なぜわかったのかといえば、オランダに旅行したときに、たまたまオランダ語を習っている外大生と仲良くなって、簡単な蘭語の初歩を教えてもらったことがあるから。
オランダ語は、まあ英語とドイツ語を足して2で割ったような言語なんだけど、一番特徴的なのは「G」の発音で、これがのどの奥から「ゴッ!」とか「コッ!」と濁音をしぼりだす独特のもの。
鼻がつまったときに出る「ブタ鼻音」みたいなもんだけど、それが特徴的で、聞けば素人でも一発で「あ、オランダ語や」とわかるのだ。
ひとつ例としてあげると、オランダの観光地といえば「アンネ・フランクの家」が有名だが、この中ではフランク一家などをかくまっていた、ミープ・ヒースさんのインタビューを収録したビデオが流れているコーナーがある。
ミープさんは英語でしゃべっているにもかかわらず、なぜか画面には英語の字幕が出ていて、なんでやろと思っていたのだが、外大生さんによると、
「あれ、オランダなまりが強すぎて、英語できる人でも聞き取るのが難しいんです」
そう、あのビデオのミープさんはたしかに「ゴッ、ゴッ」て言っておられるのだ。
あー、あれって風邪でもひいてるのかと思ったら、オランダ語のなごりやったんや。
そのカップルも、「好きや」「ウチこそ愛してる」なやりとりの間もゴッゴゴッゴいっていたので、「あー、オランダ人か」と判別したわけですね。
彼らを見て思ったのは、当たり前のことだけど、ゲイといえども別に我々ノンケとたいして変わることろはないというもの。
ごくふつうに生活して、ディズニーランドも楽しんで、ただ愛する人の性別が多数派(だと推測される方)とちがうだけ。
それだけのことなのだ。
そりゃ、そこに違和感はないことはないし、子供のころなんかは、そういうことにガサツでデリカシーのない発言をしたこともある。
けど、今はそれを恥ずかしく思っているし、大人になれば、誰が誰を愛そうが、どうということもなくなる。それを理由に、アレコレ言おうとも思わない。
オレらも彼らも彼女らも、好きに生きればいいじゃん。
最近、わが大日本帝国が国連人権理事会の
「《同性愛行為が死刑の対象になること》に対して非難する決議」
に反対したそうだけど、なんでそうことになるんだろうか意味がわからないし、けっこうガッカリなニュースでもあるなあと感じるのは、あのとき楽しそうにディズニーランドを歩いていた、オランダ人男性カップルを見たからかもしれない。
あと、
「LGBTは異性愛者よりも自殺率が6倍もある」
と笑った議員がいるそうだけど、そんなひどいことになるのは、
「アンタみたいな態度で接する人がいるからなんじゃね?」
とも思ったものだ。
別に、だれがだれを好きになろうが、どっちでもいいじゃん。
雑誌『旅行人』の編集長だった蔵前仁一さんは、ニュージーランドの同性婚を認める法案のスピーチを聞いて、こんなことを言われた。
選択的別姓結婚を認めることは、当事者からすれば素晴らしいもの。残りの我々からすれば昨日と同じ日々が続くだけです。核戦争をやろうって話じゃない。
本当に、その通りだと思う。ゲイにかぎらず、人はみな、自分が生きたいように生きたらいいんだ。
なんでそれを、邪魔しようとするんだろう。
蔵前さんの言うように、ただ「昨日と同じ日々が続く」だけだというのに。
(続く→こちら)