非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について その5

2016年08月30日 | モテ活
 前回(→こちら)の続き。

 色々あった末、「リア充、オレには合ってないわ」という、結論に達した学生時代の私。

 学生の飲み会、パーティーや各種出会いイベント、などなど一通り実地で体験してみて、これはもう強がりでも予防線でもなんでもなく、心の底から、

 「なんか……楽しくない……」

 と思い知らされたのだ。

 こんなんより、地下映画館に通うか、京都の納涼古本市でも行ってるほうが100倍楽しいよ。いやホント。

 こういった、これまた今でいう「イケてるつながり」を最小限にして「イケてない自由」を選択すると、

 「なんでそんな、地味な生活で満足してるの」

 「せっかく学生なのに、遊ばないともったいないよ」

 なんて真剣にアドバイスされたりもしたものだが、こちらは返事のしようもない。

 自分にとってリア充(ここではごく普通の明るい大学生活)というのは、

 「本当はたいして望んでいないこと」

 であって、

 「でも若者らしい焦燥感や損してる感に押されて『やらないといけないかも』という無言の圧

 からくるものであることが、よーくわかったからだ。

 また自分には、そこに乗っからないことによる損失や孤独感が気にならないという「能天気さ」を持ち合わせていることにも。

 だからもう、無理してやんなくていいや、と。

 「リア充」の基準なんて、人それぞれ。世間のイメージするそれなんて、いわば、

 「今の社会におけるマジョリティーな価値観の最大公約数的なもの」

 でしかないわけで、そこに当てはまらないからと言って、別に悲観することもない。

 その人の充実と、自分の充実は、きっと定義が全然違う。

 野球少年にとっては甲子園は聖地だが、他の人にとってはただのでかい球場に過ぎないように、自分が充実してるかどうかは、結局は「自分基準」でしか決められない。

 少なくとも私はそうだと思うわけだ。

 たぶんこの世界をざっくりわけると、

 1「世間的なリア充で十分満足な人」

 2「世間的なリア充に違和感があり、自分で取捨選択した価値観が優先する人」

 3「そのどちらか、自分でもまだわかってない人」


 の3種類が存在する。

 学生時代の私はうっすら2とわかっている3であり、1を体験し「違うな」と感じることによって、2の「正解」に自然にたどり着けた。まあ、健全な流れであるといえる。

 この問題で迷っていたり悩んでいたりする人は、

 「1なのに、その状況や実力に恵まれなかったり、あるいは若気の至りで2であることにあこがれたりしてブレている」

 「2なのに、『自分で選んだもの』が見つからなかったり、あるいは若気の至りで1であることにあこがれたりしてブレている」

 「単純に、まだ3の状態」

 このどれかということであろう。

 私は2番目でブレていた。

 友人ミタ君はどう見てもリア充系の人なのに、自分がいかに「変人」かを必死にアピールしていて不思議だったが、今思うと1で悩んでいたんだろうなとか、まあ多くの人は3だったりと、それぞれに惑っている。

 若いときというのは、そういうものかもしれない。
  
 辺境作家の高野秀行さんが海に遊びに行ったときに、


 「楽しいなあ。若いときは、こういうところでは《女の子を連れてこなくちゃいかん》とか《ナンパしないといかん》っていう義務感みたいなもんに追われていたけど、今はそんなのどうでもいいから気楽で、本当に楽しい」 


 とおっしゃったそうだが、その通り。ヤングというのは、

 「本当に望んでいるもの」

 と、若さと見栄とプライドゆえの

 「遅れを取ってはいけないとあせって、無理に自分に強いているもの」

 の区別がつきにくいのだ。それがわかったのは、本当に大きな収穫だった。

 こういった流れで、第1期リア充時代はここに幕を閉じたのであった。

 とりあえずは、これが私の中でも「リア充」問題の結論。悩めるヤング諸君は、上記のどれに自分が当てはまるかをじっくり考えてほしい。

 ただひとついえるのは、自分が「リア充」でも「そうでない」人でも、もしそこに「あこがれ」があるなら、仮にそれが妄想でも、一度は私のように体験してみたほうがいいかもしれない。

 一回やってみて、「あ、こんなもんか」という実感がないまま

 「オレはリア充なんかじゃないぜ」

 とか、逆に、

 「オレは普通に見えるけど、本当はちょっと変わってるんだぜ」 

 なんて気取っても、どうしてもそこには「すっぱいブドウ」的な強がりがいなめないからだ。

 え? だれがそんなこと思うのかって? 人はそんなに他人のことなんか興味がない?

 そう、これは誰が思うかはあまり関係ない。だれあろう、自分が思うから。

 人間、人のことはごまかせても、なによりも「自分自身」を納得させられないものなんです。

 だったら、一回「留学」して「本当にちがう」ことを証明しないといけないのだ。

 嗚呼、自意識って、なんてめんどくさい(苦笑)。

 「無理してる感」を払拭するためにも、一度は私のように「あがいて」みることも大事かもです。

 こうして「リア充は向いてないッス」と悟り、もうこの言葉とは関わることもなかろうかと充実した非リア充生活を満喫していたのだが、あにはからんや。

 人生とはわからないもので、数年後には再び「これはリア充というやつか」と言いたくなるような時代がやってくるのだ。

 そこでまたしてもブレたり、なんとか私を「あっちチーム」に入れようと親切心で行動してくれる人に罪悪感を感じたり、「リア充は合えへんのに」とボヤくと、「あんたの自慢話にはウンザリなんだよ!」とキレられ、友人の縁を切られたり。

 そんな困惑の時代を過ごすこととなるのだが、長くなるのでまた別の機会があれば語りたい。


 (番外編に続く→こちら



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非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について その4

2016年08月29日 | モテ活
 前回(→こちら)の続き。

 「リア充爆発しろ」。

 この言葉をめぐって、ここ数回私とリア充生活との関係性について語っている。

 前回まで、私があこがれていた「遊んでいる大学生」の生活は、ちっとも肌に合わなかったという話をしていたが、これは本当にそうであった。

 もともとノリが悪い方ということもあるが、それよりもやはり相性であろう。

 前回も言ったように、自分は飲み会でパーッとさわぐよりは、キャンパスのはずれにある丘の上で、馬をながめながら読書したり昼寝したりするほうが幸せを感じる、根っからの昼行燈なのだ。

 その思いにとどめをさした事件がもうひとつあって、食堂で昼飯を食っているときだった。

 新築されたばかりカフェ型の学食で、鶏唐丼などいただきながら本を読んでいると、隣に学生数人がすわったのである。

 男女6人くらいだった彼らは見た目もさわやかで、今でいう「リア充」そのもの。

 会話の内容も「おいしいイタリアン」や「オシャレなクラブ」などが取り上げられ、我々の話題のように「怪獣」「カルト宗教」「ロシア文学」などといった単語は出てくることもない(当たり前だ)。

 「さわやかな子らやなあ。こういうのが世間でいう『ふつうの学生』なんやろうなあ」

 と、クレイグ・ライス『眠りをむさぼりすぎた男』などといったマニアックなミステリを読みふけっていたのだが、そのうち彼らの話題が夏休みの予定になった。

 どうやらカナダ旅行を計画しているらしい。ツアーのパンフレットをながめながら、どこを観光しようとか、スキーがしたいとかロッキー山脈が見たいとか乗馬ができるらしいとかオーロラもいいねとか。

 そんなさわやか度120の会話を聞きながら、そこでポンと結論のようなものが出た気がしたのだ。

 「あー、オレってどう間違っても『あっちチーム』やないなあと」。

 『あっちチーム』という表現は、他にボキャブラリーがなかったからだが、もちろん今でいう『リア充』のこと。

 これやないなあと。

 これはもう、しみじみ、つくづく、感じましたね。

 あー、オレはちゃうわと。

 馬術部の丘ではもっとフワッとした感覚だったが、ここで具体的な形になった。

 これ以降、自分がどういう人生歩むにしても、絶対彼らのようにはなれないんやろうなあと。
 
 なぜななら「こっちチーム」と「あっちチーム」は、ちがうチームだから。

 ほとんど同義語反復だけど、実感としてはこう。
 
 当時この話をすると、周囲からものすごく不思議がられた。

 家族や友人(男女ともに)から、

 「なんでそう思うわけ?」

 「別に、やれるじゃん。その人たちみたいに」

 そう首をかしげられる。

 いや、そうなんである。別にできるよ。私だってカナダに行くだけなら、バイトして旅費稼いで、友達誘って行けばいいのだ。それくらい、できるけどさ。実際、旅行好きだし。

 でも、きっと、そういう問題ではないのだ。

 もし彼らと同じように男女数人で誘い合わせて楽しくカナダ旅行をしても、彼らのようにさわやかな感じにはならないし、楽しくもないし、おそらくはそもそも望んでもいない

 そう、決定的に「価値観」がちがう。そのことをハッキリと理解したのだ。

 さらにいえば、そのことを特に悲しくもさみしくも感じていないということも。

 これは当時、何度説明しても理解してもらえなかったが、今なら

 「いやあ、リア充なノリが苦手で」

 と頭をかけば通じるかなとも思う。

 ともかくも、この「カナダ旅行事件」でひとつの結論に達したのだ。

 「私はリア充ではない」。

 「けど、それはそれで特に問題でもない。だって、やってみたけど楽しくないものなあ」
 
 「ただ、それを世間に説明するのは、ものすごく大変。なぜなら『正義』は向こうにあるから」

 でもって、ついにはめんどくさくなって、

 「ま、別にいいか」

 もう、遊びたいとか損してるかもとか、そういう邪念がすべて、どうでもよくなったのである。

 たぶん私のような「リア充にコンプレックスが少ない」イケてない男子は、たいていこの「つきものが落ちる瞬間」というのがあるのではあるまいか。

 それが私の場合はこの「条件だけなら楽しくないわけないのに、きっと行っても充実感がないだろうと確信できたカナダ旅行」事件だ。

 これは単なる妄想ではない。

 後年「第2次リア充時代」を向かえたときに、どう考えても気のいい、さわやかな友たちとつるんでいて、何度も六甲山のバーベキュー大会に出かけたものだった。

 女の子もいて、どこをどうひねっても楽しいしか考えられないそのイベントだったけど、どうにもしっくりこなかった。

 同じく、彼ら彼女らとの鍋パーティーも、須磨海岸での海水浴も、カラオケも、手作りギョーザパーティーやクリスマスや。

 そういった「絶対楽しいに決まっている」イベントも、違和感をずっと感じていた。

 友人の家で朝まで飲み明かして目を覚ますと、女の子たちが楽しそうにキッチンでなにか焼いていたことがあった。

 なにをやっているのかと寝ぼけ眼で見ていると、目の前に「はい」と焼きたてのホットケーキが出てきたときには、「これは現実の光景か」と目を疑ったもの。

 こんな世界があるんやなあ、と。まぶしすぎて、まともに目を開けていられません。

 同時に、「こんな素敵すぎる週末やのに、それでも《嗚呼、これよりどっかの喫茶店でだれかと江戸川乱歩の話でもしてるほうが、よっぽど楽しいなあ》」と感じてしまったのだから、きっとカナダも同じだったろう。

 いや、わかってるねん。そこはどこをどう転んでも、人間椅子よりホットケーキやろうと。

 でもなあ、やっぱりどこまでいっても、帰りの電車で「あ、もう帰れるわ」って、ホッとした記憶しかないんだよなあ。

 これはもう、因果としか言いようがない。

 というわけで、自分とリア充との距離感みたいなものがよくわかったことを収穫に、以前のような地味な文化系生活に舞い戻ることとなったのである。


 (続く→こちら







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非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について その3

2016年08月28日 | モテ活
 前回(→こちら)の続き。

 「普通の学生のように遊びたい」という、ささやかな野望を胸に、キャンパスライフに望んだ私。

 そこで、数ある遊び系サークルの会合に出席して、飲み会やカラオケに参加することとなった。

 そのノリは、さすが学生らしく、なかなかに軽薄なもので、一気飲みなどが社会問題になりながらも、まだ現場では頻繁に行われていたりしたものだ。
 
 こういった話をすると、周囲からは「チャラいねえ」「やっぱ、学生はええなあ」などといった声が聞こえてきたものだが、当の私はといえば、そこでどう感じていたのかといえば、こうであった。

 「なんか……全然楽しくない……

 何度か通ううちに、だんだんと苦痛になってきたのだ。

 今のヤングたちのことはわからないが、私の20歳のころといえば、飲み会でやたらと流行っていたのが王様ゲームであった。

 くじを引いて、「3番が5番のほっぺにキスする」とか、「2番と6番がタッグを組んで、猪木アミン組とセメントマッチを行う」とか、そういった命令をして遊ぶアレである。

 興が乗ってくると、さらには「せんだみつおゲーム」とか、場が砕けてくると「ポッキーゲーム」(男女がポッキーの端と端から食べていく遊び)のような、どこのお茶屋さんやといった展開になったりして、こうなると、もうついていけない。

 こういった空気が、とにかく全然合わないのだ。もとよりノリのいい子たちは、結構楽しんでいるようだが、自分はどうもダメである。

 誰かが酔って「イエーイ」とはしゃいだり、勢いで流行りの一発ギャグを披露したりするにおよんでは、他人のことながらいたたまれない気持ちであった。

 一言でいえば、軽い地獄である。

 もうとにかく、あれだけ望んでやまなかったはずの「学生のノリ」がまったく楽しくないのである。

 それでも、初期のころはまだ我慢はしていた。そういったノリに合わせられないのは、

 「ノリの悪い自分がいけないのだろう」

 と、感じていたからだ。

 みなさんにも経験がないだろうか。

 たとえば、「全米大ヒット」という映画を観てみたけど、ちっともおもしろくなくて、「しょうもなかったなあ」と言おうとしたら、隣で友だちや彼女が感動して泣いていて、しかも新聞雑誌ネットもこぞって、

 「最高傑作、この作品がわからない奴は人の心がないクズ」

 みたいに絶讃していたりすると、

 「もしかして、この映画をつまらないと思うのは、オレに映画を見る目がないせいなのか?」

 疑心暗鬼におちいるようなことが。

 それと同じように、

 「この状況を楽しめないのは、自分がおかしいんだ。なんたって、周囲の人は『楽しそう』『うらやましいなあ』って言ってるもの。こちらがなにかを改善すれば、きっと変わっていくはずだ」

 などと悩んだりしたもの。

 が、どこをどうひっくり返しても、飲み会で「イエーイ」は、ただひたすら「嗚呼、早く家に帰りたい」という、シベリアに抑留された日本兵のような、切なる願いしか生まないのである。

 こうして、「学生のノリ」にほとほと疲れ果てた私は、時間が空くと、よく大学構内の奥にある丘に批難していた。

 そこには、馬術部の練習場があり、馬術部員とお馬さん以外誰もいないという静かなところで、ひそかに秘密基地にしていた。

 授業が休講になったときなど、図書館で本を仕入れて、よくこの丘に登った。

 そこで木陰に入って読書をし、それに飽きるとボーッと馬たちが駆け回る様子を見学し、気がつけば眠っていたりする。

 ふと目を覚ますと、よく馬がこっちを見ていることがあった。

 馬術部員以外の人間がめずらしいのだろうか、不思議そうな視線をこちらに向けている。

 そうやって目を合わせていると、なんだか馬が

 「ま、よくわからんけど、そんな気にすることないんじゃね?」

 といってくれているような気がした。

 一人で本を読み、時折こうして馬と、らちもない会話していることに、しみじみした心の平安を感じていると唐突に、

 「なるほど、そういうことか」

 と、すべてが腑に落ち、いろいろと納得した私は、それ以降一度も遊び系のサークルに顔を出すことはなくなった。



 (続く→こちら







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非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について その2

2016年08月27日 | モテ活
 前回(→こちら)の続き。

 「リア充爆発しろ」という言葉に、気持ちはわからんでもないが、そこまでの強い共感も感じない「特にリアルが充実しているわけでもない」私。

 では、なぜリア充なるものにそんなこだわらず、「そんなん、どっちでもええやん」と思っているのかといえば、その理由は自分のリア充時代にある。

 それは2回あったのだが、第一次は大学生になったばかりのこと。

 私は1年浪人した末に大学生になったのだが、そのとき心に秘めていた野望というのがあった。それは、

 「学生らしく遊んでみたい」

 中学高校時代の私は、基本的に地味な生徒であった。

 といっても、大槻ケンヂさんの『グミ・チョコレート・パイン』みたいな、

 「イケてる連中は、全員燃やし尽くしてやるんだチェストー!」

 といった、ルサンチマンの発露はなかった。

 理由としてまずひとつは、やってたことは文学とか深夜ラジオとかマイナーだったし、学校はだるくてサボってばっかだったけど、部活はやっていたし、友だちもいたし、恋もしたりして、地味は地味なりにそこそこの学園生活を送っていからであること。

 もうひとつは、もともとが能天気なのか子供のころから「よそはよそ、自分は自分」という意識が強く、あまり「他者からの承認」を必要としないタイプだった。

 だから、そもそも人とくらべてどうとか、「イケてる、イケてない」で人を判断するという価値観もピンとこなかった。

 大事なのは「自分がおもしろいと思うかどうか」。その意味で言えば「イケてるクラスメート」なんて、ノリがよくて流行りものにくわしいだけの、退屈な子たちにしか見えなかったものだ。

 「スクールカースト」という言葉にいまひとつリアリティーを感じないのも、そのせいかもしれない。10代なんて今考えれば、自意識と体力だけはあるお子様だもの。

 そんなせまい世界で、どっちが上とか下とか、ないやん、と。

 そんなわけで、「イケてない生徒」であることに、たいして気にもならなかったのだ。

 そんな私が、なぜ大学生になったら一転、「遊んでみたい」などと思ったのか。そこには、こんな思いがあったからだ。

 「世間的に見た『遊んでいる若者』ではない自分は、損をしているのではないか」

 この「損をしているのではないか」というのがキーワードである。

 実際のところ、私も別に、遊んでモテモテになりたいとか、周囲から一目置かれたいとか、そういったことにはあんまり興味はなかった。

 ただ、10代後半くらいから、わけもなく「そうしなければならない」という気になってしまったのだ。

 「周囲の声とか聞いていると、なんか自分だけ置いていかれてる気がする」

 と、不安になったのかもしれない。このままだと、「損をするぞ」と。

 まあ、今考えれば、何をもって「損」なのかはよくわからなく、わからないからこそ「しなければ」となったのかもしれないが、なんとなく共感していただけるのではないだろうか。

 いわゆる「リア充」の人でもそうだろう。

 特に根拠はないけど、ハロウィンとかLINEとか流行りのパンケーキ屋とか、もちろん楽しくてやってるんだろうけど、そこにはどこか

 「やらないと損するのでは」
 
 という懸念がないか。

 そういう肌感覚である。

 その「損」を取り返すには、キャンパスライフというのは、これ以上ないお膳立てである。

 イメージは原秀則さんの『冬物語』。はじけたとはいえバブルの残り香のあったわが青春時代は、若者というのはあのマンガのように遊ぶもの、いやむしろ「遊ばなければならない」という義務感すら感じたものだった。

 そんな下地があったので、入学当初はよく、イベントサークルの会合に顔を出したものである。

 同じ大学に入学した同志たちが、昔の志のままに「プロレス研究会」や「文芸部」「将棋部」「マン研」「映研」「SF研」といった場所の戸をたたく中、

 「ここでお別れだな。諸君、来世で会おう」

 とばかりに、チャラいサークルの飲み会に、何度か顔を出してみたのである。

 そういった会合は、だいたいパターンが決まっていた。

 まず、みんなで集まって、大学前通りにある居酒屋に行く。

 そこで、最初は飲んで食べて自己紹介なんかもして、わーっと盛り上がったところで、2次会はたいていカラオケかボーリング。

 そこからは終電で帰るもよし、仲良くなった女の子をお持ち帰りをするもよし。正体を失って道ばたで汚物まみれになって寝るも、各自の努力の結果と自己責任である。

 このなんの変哲もない飲み会のノリこそ、まさに「味あわないと損をするのでは」と懸念していたものだ。

 ドラマにもなった『部屋においでよ』そのまんまな世界。「リア充」な若者だ。探していたのはこれだ。

 嗚呼、父さん、ラピュタは本当にあったんだ!

 と、当初は大いなる満足を覚えていたのであるが、しばらくするうちに、どこか「おや?」と感じ始めた。

 普通なら楽しいだけの行程である。どこからどう見ても完全無欠に「明るい若者」だ。そこに足を止める要素などあるはずもない。

 にもかかわらず、酔った頭に「おや?」がよぎった。同時に「あれ?」も。そのうち心の中はクエスチョンマークで一杯になったのであり、私は困惑したのだった。


 (続く→こちら




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非モテ男子のリア充体験時代と、人はなぜリア充にあこがれてしまうのか問題について

2016年08月26日 | モテ活
 「リア充爆発しろ」。

 山本弘さんのホラー小説『妖魔夜行』を読んでいたら、そんなセリフが出ていた。

 リア充。

 と最初に聞かされたときには、なんの略かよくわからず、ヤプール人が送りこんでくるテリブルモンスター的な何かかと思ったものだが、今ではすっかり日常語になった感がある。

 ということで冒頭の言葉は、「リアルが充実していない人」が、「リアルが充実している人」に嫉妬して、

 「いっそ爆発しろ」

 とやつあたりをしているわけだ。その念が生んだ妖怪「バッドエンド」が暗躍するというのが、『妖魔夜行』のメインストーリーである。

 そう説明してみると、

 「なんだ、ただのイケてないヤツらのひがみかよ、しょうもね」

 などとあきれる向きもあるかも知れないが、なかなかどうして、この「リア充爆発しろ」というワードは、あなどれない威力を持っている。

 『妖魔夜行』でも、「バッドエンド」はラブラブなカップルや、幸せな家庭を築いている人を不幸にたたき落としていくのだが、そんなセコイところ以外でも、世界史の教科書をひもとけば、そこに様々な因果がある。

 聖書の黙示録にフランス革命やロシア革命、ヒトラーの台頭に、真珠湾奇襲。

 他にもポル・ポトに、文化大革命に、東欧の崩壊に、オウムに、9.11に、ISのテロなどなどあげていくとキリがないが、歴史上の大きな破壊行為の根幹にあるモチベーションというのは、この「リア充爆発しろ」なのである。

 「ただのひがみ」となめると、大けがをする。コロンバイン高校とか映画『シザーハンズ』みたいに。これらは歴史の大カタストロフの学校版だ。

 『シザーハンズ』で殺されたスポーツマンなんて、ジョニー・デップをいじめたのはひどいけど、そんな惨殺されるほど悪いことをしているとも思えない。

 それをハサミでグサリ。しかも、監督のティム・バートンは「あれはちょっとヒドイんでね?」の質問に、

 「そんなことないよ! あんなヤツは殺されて当然なんだ!」

 とノー反省のブチ切れ。

 まさにリアル「リア充爆発しろ!」。さすがは、

 「ボクはスポーツマンが嫌いだ。彼らは笑いながらボクをドブにたたき落とした」
 
 との名セリフを残したティムである。なにごとも、「やった」ほうは過去の記憶だが、「やられた」方は一生の傷なのだ。

 でもって、これってフランス人が貴族たちを次々ギロチン台に送ったのと、たぶん同じなんですよね。オスカル様には悪いけど。

 「あんなヤツは殺されて当然だ」と。

 それを、どう見てもリア充の女の子が観て泣いたりする。『シザーハンズ』とは不思議にねじれた映画なのですね。

 そんな、誰の心にも大なり小なり存在し、時にセコく、時には時代を揺るがすパワーボムにもなりうる「爆発しろ」であるが、では自分はどうなのかといえば、あまりこれがピンと来ないところがある。

 もちろん私にも妬みやそねみというものは存在するし、調子の悪いときは、楽しそうな人を見ると「ケ!」なんて思うことも当然あるが、さすがに「爆発しろ」とは思わないなあ。

 というと、

 「なんだ、もしかしてお前もリア充チームかよ」

 なんて怒られそうだが、もちろん全然そんなことはない。

 特にモテるわけでも、金や権力があるわけでもない。どこにでもいるボンクラ男子だ。

 それはそれなりに楽しく生きてはいるが、「爆発しろ」といわれるような、うらやましい人生でもあるまい。

 となると、見栄を張って強がっているのかといえば、これまたそういうわけでもなく、まあ中立というか、あんまり自分がリア充かそうでないかなんてことは気にせずに、日々をのほほんと過ごしている。

 ではなぜ私が「リア充」なるものにあまりこだわりがないのかと問うならば、それは、

 「リア充というものに、過大な評価を抱いていない」

 ぶっちゃけていえば、「リア充って、そんなに楽しいものなんかいな?」という疑問があるのだ。

 理由は簡単で、私がかつて「リア充」と自他共に認める時期があったからであり(それも2回も)。そのときのことを思い返すと、自然とそうなる。

 あのときって、楽しかったっけ? と。

 そうかなあ、と。

 そのときの体験が、この言葉に対するスタンスを決定づけたのであった。

 ということで、これから数回、過去を振り返ることにより、私の中にある、

 「リア充って、本当のところはどうなの?」

 という疑問に解答を出していきたいと思う。

 その過程で、世の「リア充爆発しろ」という暗い妄念に悩まされるヤング諸君の参考になる話もできれば、とも考えている。

 次回に続きます(→こちら)。 

 



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トホホ怪獣列伝 ヤメタランス(帰ってきたウルトラマン)は小山内美江子が生んだ最強怪獣か?

2016年08月23日 | オタク・サブカル

 実は最強とはヤメタランスなのではないか。

 というのは怪獣ファンの間でときおり語られる話題である。

 前回(→こちら)続いて怪獣の話。

特撮映画やドラマでは地球を蹂躙する怖ろしい存在として描かれるわけだが、時には「なんやこれ?」といいたくなるような、マヌケな怪獣というのが存在する。

 ここまで、パンダ大好きスチール星人を食うためにわざわざからやってきたグルメ怪獣モチロンを紹介したが、マヌケといえばこれにとどめをさす。

 そう、『帰ってきたウルトラマン』に登場したヤメタランス

地球侵略をねらう悪の宇宙人ササヒラーによって送りこまれてきた怪獣だが、こやつの使う技というのが、

 

 「人間のやる気を無くさせること」


 ヤメタランスにかかると、勤勉が売り物の日本人でも、みんな「やーめた」といって、なまけ者になってしまう。

 なんともスローライフな怪獣だ。おそらく、ギリシャとかイタリアあたりにも生息していると推測される。

 これには地球人だけでなく、なんとウルトラマンすらも「やーめた」と戦闘を放棄してしまうのだから、なにげにすごい能力である。

 それにしても、得意技よりすごいのは名前だ。

 人に「やーめた」といわせるからヤメタランス。

 なつかしの学研まんがひみつシリーズ(知ってる人は同世代くらい)『できるできないのひみつ』に出てきた、なんでもできっこないと否定するネガティブ外人

 「デキッコナイス

 これと並ぶ、ハイセンスなネーミングである。

  前回のモチロンもそうだが、ヤメタランスのフォルムもかなり破壊的だ。



                    

  古代怪獣グドン

 

 

   
      巨大魚怪獣ムルチ 





                    

ヤメタランス
              


 そんなある意味最強のヤメタランスを、どうやって退治できたのかといえば、そのからくりは、ある少年にあった。

 地球上の全人類が「働くのやーめた」「戦うのやーめた」と学業や職場を放棄するという、すばら……もとい絶体絶命のピンチだったが、その少年の、



「ウルトラマン、がんばれ!」



 との声に脱力モードから覚醒し、「少年よ、ありがとう!」と見事ヤメタランスをやっつけるのだ。

 地球の平和は守られた、メデタシメデタシ。

 といいたいところだが、ではなぜにてその少年は世界でただひとりだけ、やる気を失わなかったのかと問うならば、その少年が本来なら重度のなまけ者だったから。

 そんな周囲が、さじを投げるボンクラはヤメタランスの攻撃のおかげで、

 

 「なまけることを、なまける」


 ことになったというのが真相。

 つまりは、マイナスマイナスをかけるとプラスになるようなもので、なまけ者であることをやめたことによって、逆にやる気満々の超アグレッシブ少年になになったのだ! バンザーイ、バンザーイ!

 なんだか、はしを渡ってはいけないなら、真ん中を渡ればいいんですよと言い放った一休さんみたいだ。とんちかよ!

 これにはまだ小学生だった私も、感心するやらあきれるやらで、  



 「こんなもんが大人の世界で通用するか!」



 と子供心(!)にも思ったものだ。

 こんなアホな脚本書いて、このシナリオライターこそヤメタランスにをやられてしまったんじゃないのかとクレジットを見てみると、書いたのは小山内美江子さん。

 なんと、金八先生の脚本を書かれた、偉いお方なのであった。

 これには二重に、コケそうになった。

 金八と見せかけて、ヤメタランス。どんなフェイントだ。芸域広すぎではないのか。

 なんにしろ、このヤメタランスは、フォルム得意技脚本と、すべてのトホホぶりが備わった、かなりハイレベルな「なんやこれは怪獣」である。

 これを見つけてきたササヒラーのすぐれたプロデュース能力に脱帽だ。





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トホホ怪獣列伝 ウルトラマンタロウは満月に南夕子とモチロンで餅をつく

2016年08月22日 | オタク・サブカル

 モチロンという発想には脱帽させられたものだ。

 前回(→こちら)に続いて怪獣の話。

 特撮映画やドラマでは地球を蹂躙する怖ろしい存在として描かれるわけだが、時には「なんやこれ?」といいたくなるような、マヌケな怪獣というのが存在する。

 前回はパンダ大好きという、日本の「KAWAII」文化のあだ花(?)ともいえるスチール星人について語ったが、他にもスットコ怪獣というのは存在するもの。

 たとえば、『ウルトラマンタロウ』に出てきたモチロン

 から来た宇宙怪獣だが、そのフォルムがに手足がついているという、安易きわまりないもの。





                   

 大阪城を破壊した古代怪獣ゴモラ。



                                      怪獣無法地帯のボス、レッドキング





                                        モチロン



 どうだ、脱力だろう。

 ウスだよ、お前は怪獣じゃなくて、ただのウスだ!

 そんなモチロンが、地球に何をしにきたのかといえば、



 「餅を食べに来た」



 そのままだ。まあ、たしかに月にモチはないだろうけど。

 昨今、ラーメンを食べに福岡札幌まで行くという人もいるというし、グルメのために他の土地へ行くのはおかしなことではあるまい。

 しかし、いったいどこで餅情報を仕入れてきたのか。やはり「るるぶ地球」とか読んできたのであろうか。

 そんなモチロンは、モチ食べたさに月へ帰ろうとせず周囲を困らせるが(見ているこっちもリアクションに困るが)、ウルトラマンタロウとの相撲対決(なんでだ)に敗れ、しぶしぶながら帰ることに。

 その際、食べたモチを返すために、自分になって餅つきをする。

 臼の怪獣を使ってタロウがえっちらおっちらをたたきつけているのを見ていると、なにがどうということはないが、



 「とりあえず、成田亨先生にあやまって


 子供心にも、そう言いたくなったものであった。

 そんな、硬派な怪獣ファンから失笑されがちなウルトラマンタロウを象徴するような怪獣モチロンだが、愛嬌に関してはなかなかのものであろう。

 モチが名産の土地で、ゆるキャラにでも採用してもらうのはどうか。

 フードファイトのイベントとかにいたら、けっこう人気が出そうだが。



 (続く→こちら






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トホホ怪獣列伝 スチール星人(ウルトラマンA)はパンダのぬいぐるみが大好き

2016年08月21日 | オタク・サブカル

 『ウルトラマンA』に出てきたスチール星人はクールジャパンである。

 オタク的な趣味というのが、世間に認知されて久しい。

 アニメマンガゲームフィギュア鉄道アイドルミリタリーにと、その方向性は様々であるが、私の場合は特撮ものということになる。

 そんな、『GOZILLA』やスピルバーグの『宇宙戦争』に『パシフィックリム』などハリウッドもリスペクトする日本の怪獣文化だが、ゴモラレッドキングといったメジャーどころがいる一方で、「なんやこれ?」と首をかしげたくなるようなな怪獣というのも存在する。

 たとえば、『ウルトラマンA』に出てくるスチール星人。

 よく怪獣や宇宙人には



 「古代怪獣ゴモラ」


 「宇宙忍者バルタン星人」



 なんていうキャッチフレーズのようなものがつくが、このスチール星人のそれは、



 「宇宙超人」

 

 宇宙超人

 なんだか、すごそうではないか。

 そんな宇宙の超人たるスチール星人は、ある目的を持って地球へとやってくる。

 星人の目的は何か。地球侵略? それとも人類滅亡? 

 なんと怖ろしいことか、おい貴様、地球になにをしに来た! と、問うならばスチール星人の目的というのが、

 

 「パンダのぬいぐるみを盗みに来た」


 へ? なんでパンダ

 理由はよくわからないが、とにかくパンダなのである。

 劇中はっきりとは描かれていないが、どうも地球に来てみたら、



 「なに、このパンダとかいのう、マジかわいいんだけどー」



 てなことになったようだ。

 ネパールあたりで、現地の民芸品にはまるOLさんみたいである。乙女か!

 こうしてパンダに魅せられたスチール星人は地球上のパンダぬいぐるみを次々と盗みだし、超獣攻撃部隊TACの必死の追跡にもかかわらず、姿をくらまし、その行方は知れず……。

 ……て、いやいや、TACもそんなことで出動するなよ! ただのぬいぐるみ泥棒だ。警察にまかせとけばどうなのか。

 いわば、万引き犯を捕まえるのに自衛隊が出ていくようなものであるが、そうこうしているうちに、地球上からパンダのぬいぐるみが全部なくなってしまう。

 だからどうしたというか、宇宙人が不法入国してきたわりにはたいした被害ではない気もするが、止まらないのがパンダマニア(?)のスチール星人。

 が高じて、ついには本物のパンダまで盗み出そうとするが、今度こそウルトラマンAにつかまってしまう。

 ついに御用かというところで、巨大化して最後の抵抗をするも、メタリウム光線でやっつけられたのであった。めでたしめでたし……。

 ……て、だからなぜそんなにパンダを推すのか。『パンダコパンダ』でも見たのであろうか。謎である。

 つーか、そんなにほしいなら、トイザらスあたりで買えよ!
 
 なんだかもう、解説するのもアホらしい宇宙人だが、このスチール星人の登場する回のサブタイトルが、

 

 「パンダを返して!」

 

 



    

 

 



 緊迫感があるのかないのか、計りかねるタイトルである。

 まさに日本の「KAWAII」文化が宇宙レベルに達した瞬間と言えよう。クールジャパンもここに極まれりだ。

 



 
              
              KAWAII大好きスチール星人

            



 どうも、当時は日中国交回復によるパンダブームであったらしく、それに乗っかっただけというか、極めて安易な便乗商売であった。トホホのホである。

 ちなみに、スチール星人はパンダを盗むときに、そのままの姿だと目立つので、人間に化けていたのだが、その時の姿がこれ。

 

 

 

 




                   
                   
             


 これがパンダを盗みまくるって、怖すぎるだろ! 横溝正史原作の映画やないんやから。



 (タロウ編に続く→こちら




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キミは松岡修造を生で見たことがあるか? 「今日からおまえは富士山だ」編

2016年08月19日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 世界スーパージュニアテニス選手権という大会を見に行ったら、隣にどっかとすわったのが世界の松岡修造なのであった。

 これには腰が抜けそうになった。

 これまでも、海外の大会でニック・ボロテリーがテレビのインタビューを受けているのを見かけたり、グスタボ・クエルテンがすぐ横を通って行ってビックリしたことはあったけど、まさかあの松岡さんがいるとは。

 日本人テニスファンなら大リスペクトの修造がいる! しかも、すぐ隣に!

 おまけに、その距離がメチャメチャに近い。

 すわっていたベンチには、そのときたまたま私と松岡さんしかいなかったのだが、スペースは充分あったにもかかわらず、なぜか修造さんはすぐ隣に。

 いや、下手するとお互いの腰が触れ合いそうなくらいの近さ。ほぼ当たっているといっていい。

 昔、中島らもさんのエッセイで、「あったら怖いシチュエーション」というお題に、


 「電車の中で自分以外だれもいなくて空いているところはいくらでもあるのに、おじさんがなぜかピッタリと隣に座ってくる」



 というのがあったけど、まさにそれだ。いくらでも開けてすわれるのに、なぜか私と密着。

 ゼロ距離に修造。シュールだ。これはわりと真剣に、「オレを抱こうとしているのか?」といぶかったものだが、まあたぶん、選手の動きを見るのにそこが一番いい位置であり、私のことなど視界に入っていなかったのだろう。

 さて間近で見る松岡さんの印象はといえば、それはそれは「でっかー」というものであった。

 とにかく背が高い。しかも、引きしまっている。

 そのころはすでに現役は引退して、ずいぶん経っていたはずだが、肉体がちっとも崩れてないのがさすがだと感心した。

 思わず「ちょっとさわらせて」と、シュワちゃんを目の前にした淀川長治先生のようなことをいいそうになったほどだ。

 私は筋肉に興味はないが、そんな人でもふれたくなるくらいだから、そのすごさを感じてほしい。まさに肉体美。そら、スポーツマンはモテるはずやと。

 あと、やっぱりオーラはあったなあ。

 いるだけで威圧されるというか、「オレが松岡修造だ!」という熱量は確実に存在した。

 テレビの「おもしろキャラ」からは伝わりにくいけど、「この人は本物のアスリートなんや」と思わされたもの。そんな、「いつも応援とかばかりしてる人でしょ」みたいな安易なイジり方など、できない雰囲気。

 有名人からサインをもらったり握手してもらったりということには興味がないし、邪魔したくもなかったから声をかけたりはしなかったけど、横目でちらちら見ていて感じたのは、試合を見つめる松岡さんの目がスゴイこと。

 まさに真剣そのもの。松岡さんのキャラであり、テレビなどで見せる「熱い」視線がまさにそこに。

 その迫力には、もし私があつかましいミーハーファンだったとしても、そう簡単には声はかけられなかったろうとビビったもの。

 『空手バカ一代』でマス大山は「おお、バカよバカよ空手バカ」という名ゼリフを残したが、この人はきっと「テニスバカ」なんだな。

 そんな修造さんは試合が終わると、今度はジュニアの少年たちに、あのさわやかな笑顔で気さくに話しかけていた。その様子もまた、ずいぶんとさわやかで、ともかくも「絶対、ええ人やん」と好感度も上がりまくるのであった。

 ちなみに、そのときも着ていたのが、あの有名な「修造チャレンジ」のシャツ。胸や背中に、


 「できる!」

 「本気になれば自分が変わる、本気になればすべてが変わる」



 と大書してあり、思わず笑っ……とても前向きで明るい気分になれた。

 これには『空手バカ一代』がどうとかいう前に、なんがどうということもないが、

 「この人は、ただのバカなのかもしれない」

 とも、うっかり思いそうにもなったことは、ここだけの秘密である。




 ★おまけ 松岡さんの笑え……元気の出る映像は→こちらから

 ☆おまけ2 松岡修造ウィンブルドン、ベスト8進出の映像は→こちら



 

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キミは松岡修造を生で見たことがあるか? 「もっと熱くなれよ!」編

2016年08月18日 | テニス
 「松岡修造さんの隣でテニスを観戦したことがある」。

 というのは、ひそかな自慢である。

 「街で有名人を見かけた」という話は、渋谷や新宿でけっこうアイドルや女優とすれちがったりするらしい帝都東京とちがい、大阪ではそうあることではない。

 かくいう私が見かけた人といえば、シャンプーハットのこいちゃんとか、天竺鼠の川原君とかウーマンラッシュアワーの中川パラダイスさんとか、関西らしく、やはり芸人さんが多かった。

 あと、結局見ることはかなわなかったけど、通っていた高校の近くに中島らもさんの事務所があって、ファンだった私と友人数名がJR玉造駅近くのビルに日参していたこともあった。

 「ここが、らもさんの仕事場かあ」

 「この中で大麻とか吸ってはるんや」

 「睡眠薬もバリバリやで。カッコええなあ」

 「なあ、どうする? やっぱピンポンダッシュしとくか?」

 「エッセイのネタにしてくれるかもしれへんなあ」

 などと、そのあこがれを吐露していたもの。迷惑至極で、今なら下手すると炎上ものだ。

 やはり近所にあった大阪女学院のすっごいかわいい女の子たちに、「なに騒いでんの、コイツら」と汚物を見るような目で見られたことも、今となってはM的にステキな思い出だ。

 他にも、ラッキーぜんじろうとか、ちゃらんぽらんの冨好さんとか、めずらしいところでは将棋のプロ棋士である南芳一九段なんてのもあるけど、なかなか全国区で知られてそうな人との遭遇経験がなかったのだ。

 そんな田舎者が、思いもかけず「おお!」と思わず背筋を正してしまいそうなビッグマンに間近で接することになる。

 もう10年以上も前のことだが、大阪は本町にある靫公園テニスセンターで行われる、世界スーパージュニアテニス選手権という大会を見に行ったときのこと。

 文字通りジュニアの選手の大会だが、「なんだ、まだ子供かよ」とあなどってはいけない。

 彼らはまだ17、8歳くらいだが、これからトッププロを目指す精鋭ぞろいである。

 その証拠に、歴代優勝者およびファイナリストを見ても、男子ではマルセロ・リオス、セバスチャン・グロージャン、パラドン・スリチャパン、マルコス・バグダティス、 ジョー=ウィルフリード・ツォンガ、マリン・チリッチ、ダブルスで何気にアンディー・ロディックが優勝していたりする。

 女子でもアメリ・モレスモ、ダニエラ・ハンチュコバ、エレナ・ヤンコビッチ、ルーシー・サファロバ、キャロライン・ウォズニアッキ、ビクトリア・アザレンカなどなど。

 かの錦織圭も参戦しているが、ベスト4どまりだったといえば、そのレベルの高さもわかろうというものである。

 これはもう、玄人のテニスファンなら「買い」というか、将来、

 「まあな、アイツもがんばっとるみたいやけど、オレが育てたようなもんや」

 なんて自慢するためにも、ぜひとも押さえておきたい大会なのだ。

 で、その年もスケジュールのやりくりをつけて朝から観戦に出かけたのだが、グランドスタンドコートの試合をぼんやりとみていると、隣にどっかと、男の人がすわったのであった。

 印象としては、やたらとでかくて存在感がある。オレンジっぽいシャツを着て、オーラもバリバリだ。

 きっとコーチかなにかだろうな。もしかしたら、有名な元選手だったりして。

 と期待を胸にちらりと見てみると、それがなんと松岡修造さんなのであった。

 

 (続く→こちら







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終戦記念日に戦争小説を 大槻ケンヂ『ユーシューカンの桜子さん』『イマジン特攻隊』

2016年08月15日 | 

 今日は時節にちなんだ小説を紹介したい。

 8月15日敗戦……じゃなかった終戦記念日たということで、大槻ケンヂさんの『ユーシューカンの桜子さん』と『イマジン特攻隊』の2編。

 オーケンといえば、知らない人には

 

 「たまにテレビで見るマイナーなタレント」

 

 くらいの意識だろうが、本業はミュージシャン

 ロックバンド筋肉少女帯(数年前に再結成を果たした)のボーカルで、同時にエッセイスト小説家としても活躍中。

 プライドだけは人一倍高いが自分が何者か見いだせずモンモンとしているボンクラ少年必読の『グミチョコレートパイン』。

 バンドブームの悲喜こもごもを愛情を持って描いた自伝的小説『リンダリンダラバーソール』。

 他にも星雲賞を取った『くるぐる使い』や『のの子の復讐ジグジグ』など、作家としてもその評価は高い。

 中2病的悩みに煩悶する若者には、ぜひ手に取っていただきたいもの。

 以下、作品紹介。


 ■『ユーシューカンの桜子さん』

 ゴスロリ専門誌『ゴシック&ロリータバイブル』に連載されていた小説。

 小説のネタ探しに、なんとなく靖国神社に向かう作家である主人公の「」。

 そこに「彼氏にドタキャン食らって暇なんだもん!」という、ゴスロリ衣装の桜子がくっついてくる。

 併設された、戦没者や軍事関係の資料などを展示している遊就館を見学する二人。

 日清日露大東亜戦争にまつわる様々な展示物が並ぶ中、桜子が興味を示したのが「菊子」という名の花嫁人形だった。

 大戦末期、海軍は連合軍の本土上陸作戦に対抗するため、「伏龍特攻隊」を結成した。

 伏龍隊の任務とは水中で待機し『棒機雷』という竹槍機雷をくくりつけたシロモノで、敵艦の特攻するという絶望的な自爆戦術だ。

 その部隊でを落とした若き少年兵も知らずに死んでいった彼に



 「若くして天に召されたあなたのために、母は、日本一美しい花嫁の菊子さんを捧げます」


 奉納されたものだ。

 やらやらにしか興味のないはずの桜子は、その花嫁人形に魅入られるよう立ちつくしている。

 やがて彼女はいう、



 「私、帰らない」



 桜子に、なにが起こったのか。

 そこに心霊探偵である滝田が現れる。彼によって語られる真実とは……。

 オチの「これは……」が爆笑であるが、その後は「おもろうて、やがてかなしき」な掌編。




 ■『イマジン特攻隊』

 同じく、伏龍隊の話。

 訓練のために潜っていたある少年兵は、水中で眼鏡をかけた西洋人の姿を見る。

 彼は言う「歌を歌いなさい」。

 正体のわからぬまま訓練を続ける少年。ただひとり海の底で、棒機雷を持って待機する。

 呼吸のタイミングを間違えただけで即、が待っている発狂者さえ出る過酷な状況で、少年は正気を保つためにを歌う。

 軍歌を、童謡を、猥歌までも。

 それらの曲を『遅い』『楽しくないな』と感じた少年は、そこである発見をする。

 自分の呼吸音と、心臓音、それに自分ので鳴らすリズムを合わせると、『しっくりくる』ということに。



 スーハートンタントンタン。キサマトオーレートーハー・トン・ドーキノサークーラー・タン・トンタントンタンスーハースーハー……。



 自分が「発見」したものの正体がわかった瞬間、少年は親友にむかって叫ぶ。


 「待て吉森! 棒機雷を捨てろ。俺たちは武器よりずっと強いものを手に入れたんだ。この音楽だ。そしてその名は……」



 彼が何を見つけたのかは、ラスト一行に書いてある。
 
 特攻隊ゴスロリ音楽に結びつけて物語にできるなどオーケンの奇想には感心することしきり。

 この2編は『ゴスロリ幻想劇場』『ロコ!思うままに』で、それぞれ読むことができる。ちなみに、このふたつの短編はスピンオフしている。

 戦争話といえば思い出すのは、子供のころあの有名な『岸壁の母』という曲のことをずっと『完璧の母』だと思いこんでいた。

 中身がよくわからないなりに、



 「絶望的状況でもあきらめずに、子供の帰りを待ち続ける、このお母さんの愛情深さパーフェクト!」



 なんて、エドウッドのごとく考えていたのだろうか。 

 同じようなカン違いをしていた阿呆な子供はけっこういたと思うが、推測するに、私の場合は当時

 

 「パーフェクトガンダムのプラモデル」

 

 をほしがっていたことが原因だと考えられる。






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ブラッド・ギルバート『読めばテニスが強くなる ウィニング・アグリー』で勝率2割アップ!

2016年08月12日 | テニス
 ブラッドギルバート『読めばテニスが強くなる ウィニングアグリー』を読む。
 
 テニスの教本には様々あって、
 
 
 「サービス向上法」
 
 「バックハンド苦手克服術」
 
 
 といったものはよく見かけるが、これはずばり
 
 「試合の勝ち方」
 
 という、かなり即物的な内容の指南書。
 
 ブラッド・ギルバートといえば、かつてはアンドレアガシと連れ添った名コーチとして鳴らしたが、現役時代は世界ランキング最高4位までかけあがった名選手でもある。
 
 ただ、ブラッドはいわゆる「スター選手」ではなかった
 
 同時代に戦ったジョンマッケンローの天才的すぎるネットプレーや、イワンレンドルの壁をもぶち抜くような強烈なストロークボリスベッカーのようなビッグサーブとも無縁であった。
 
 そんな「天才ではなかった」彼が教える戦い方は徹頭徹尾、
 
 
 「実戦的に戦い、そして勝つこと」
 
 
 というシビアな現実主義
 
 本書のタイトルである「ウィニングアグリー」とは、和訳すると
 
 
 「かっこわるく勝つ」
 
 
 そこには理想主義や泥臭い精神論は存在しない。
 
 
 頭を使え。考えてテニスをせえよ。凡人のワシらはボーッとしてたら、ベッカーやマッケンローには勝てへんのや。
 
 データ心理戦、事前の準備、ありとあらゆる手を使って勝利を目指す。これにつきるんや。
 
 負けたくなかったら、徹底して冷静堅実、おもしろみがのうても、勝ったもんが勝ちなんや!
 
 
 なんともドライな哲学。
 
 本当に、この現実的な視点はどこまでも一貫しており、
 
 
 「トスで勝ったらレシーブを選べ。サーブが先の方が有利というのは、トッププロだけに当てはまる」

  「苦手なショットで無理をするな。バックハンドが苦手なら、ひたすら『ミスしなければOK』という姿勢でつなげ」
 
 
 などなど、とにかく「かっこよく」「プロのような戦い方」をすることを戒める
 
 
 「えー、オレはサービスゲームからはじめて、エースで相手の度肝を抜いてやりたいけどなあ」
 
 
 などといった、浅はかな考えは徹底的にダメが出される。
 
 
 「素人のアンタにできるわけないやん」
 
 
 オレらみたいな凡人(ブラッド本人もふくむ)は身の程を知れと。
 
 まさに「アグリー」な戦術で「ウィニング」を手に入れる。ブラッド先生はそういった「かっこつけない」哲学を
 
 

 「テニスのおもしろさは、やはり勝つことにある。いくら好きなようにプレーしても、それで負けてしまったら、果たしてそれは充実した時間といえるだろうか」

 
 
 どこまでもリアリズムで押してくる。
 
 「いえるだろうか」と言われれば、それは人それぞれだろうけど、これに関してブラッドは終始一貫ブレがない。
 
 またそれ以外にも、
 
 
 「レトリーバー(どんな球でも拾ってくる人)の攻略法」
 
 「サーブ&ボレーヤーの崩し方」
 
 「ピンチで冷静になる方法」
 
 「7分でできる簡単ウォームアップ法」
 
 
 といった、読んですぐ使える具体的な教えから、
 
 
 「試合前の練習では球を散らして相手の弱点を探れ」
 
 「気づいたことがあったら、とにかくその場でメモを取れ」
 
 
 といった「そこまでせなあかんの?」と苦笑いしたくなるようなメソッドもあり。
 
 はたまたグリップテープ汗止めなど「必勝グッズ」の効果的利用法など、ありとあらゆる
 
 「試合で絶対役立つこと」
 
 これをぎっちりと詰めこんでくれていて、しかもそのすべてが「素人の我々がからでもできること」なのだ
 
 ブラッドはこの本の中で、
 
 

 「これを通読すれば、テニスのレベル自体はそのままで、確実に勝率が2割はあがるだろう」

 
 
 そう自負しているが、たしかにこれにあることをすべて実践すれば、間違いなく今より勝てるようになるだろう。
 
 全部は大変でも、
 
 
 「ウォーミングアップの方法」
 
 「グッズの使い方」
 
 「ノートの活用法」
 
 
 という、簡単なとこだけピックアップしてやっても、たぶんライバルにをつけることができるはずだ。
 
 それくらい、とにかく実戦的なのだ。「練習はしてるのに結果が出ない」とお悩みの方には、ひとつの突破口になるやも。
 
 勝敗にさほどこだわらない人や「理想主義」的プレーヤーの中には「そこまでして勝ってもなあ」と疑問を呈する人というのもいるかもしれないが、それでも参考として一読の価値はあると思う。
 
 読み物としても、おもしろいし。
 
 あと、これを見ると、錦織圭がブラッドとコンビを組んでもサッパリだった理由もよくわかる。
 
 「プレーを楽しむ」タイプの錦織選手とは、そりゃ合わないよなあ。
 
 
 
 
 ☆おまけ 現役時代のブラッド・ギルバートの雄姿は→こちら
 
 
 
 
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中野貴雄監督の映画分類法&タランティーノと友近の共通性 その2

2016年08月09日 | 映画

 前回(→こちら)の続き。

 「日本映画はね、赤黒い映画と青白い映画に分けられるんです」。

 との、オリジナリティーあふれる邦画観を披露した中野貴雄監督。

 最初聴いたときは、「えらい偏ってるなあ」と笑ったのだが、まさかこのことが、

 「クエンティン・タランティーノと友近がおもしろいけどピンとこない」

 という個人的な謎を解いてくれるカギになるとは驚いた。

 そのカラクリはあとで話すとして、前回の復習をすると、赤黒青白うんぬんはパッケージの裏の色味のこと。

 赤黒は、

 『昇り龍の入れ墨を入れた姐さんが最強の女殺し屋になって日本刀とか鎖鎌を振る映画』

 青白は

 『白痴の妹がブランコをこぎながら、ほうけたように空を見上げて童謡を歌う』

 赤黒いほうは、まあわかりやすい。

 『極道の妻』をはじめとして、任侠系とかVシネは基本的にそうであろうし、『女囚さそり』『ナチ女収容所 悪魔の生体実験』といった、一部マニアを虜にする、いわゆる「女囚」モノなども典型であろう。

 メジャーなところでは、『チャーリーズ・エンジェル』や『トゥームレイダー』もこちら側。パッケージはオシャレですが、魂の本質は。

 だって、「タトゥー入れたドリューやジョリー姐さんがカンフーしまくり!」ですよ! 誰が見たって赤黒いですやん!

 一方、青白い映画といえば、ロマン・ポランスキーの『テス』なんかは青白いか。

 あの映画のナスターシャ・キンスキーは、いかにも空を見上げながら童謡とか歌いそうだ。あとは『なまいきシャルロット』とか。

 ちなみに、中野監督によると、「なんであんな映画見に行くの」と町山智浩さんにたずねられて柳下毅一郎さんが、

 「仕事だからだよ!」

 とブチ切れた映画『恋空』は「青白い方」だそうです。

 日本だと「少女が戦う」「試練に耐える」マンガやアニメが多いから、探せばたくさんありそう。そういや綾波レイのプラグスーツは青白い。なるほど、納得だ。

 傾向としてはわかりやすく、私自身は「赤黒」のほうはほとんど見ない。「青白」は特に好むわけではないけど、まあ選ぶならこっちか。

 なんて、レンタル屋の棚をあさりながら遊んでいたのだが、そこでふと思い至ったのである。

 「あー、そうか。クエンティンと友近は、どっちも『赤黒』なんや」。

 このふたりは「自分の好きなもの」へのオマージュを作品やネタに取りこむことで有名だ。

 で、そのチョイスがやたらと赤黒い。

 ざっくりいえば、赤黒とはガテン系で、青白とは文化系といえるわけだが、友近さんのものまねはそのまんま『極道の妻』とか「五社英雄が大好き」と公言したり、「姐さんと日本刀」だ。

 クエンティンもまんま同じ路線というか、『キル・ビル』なんてスタイリッシュな映画のように日本では売られてたけど、全編「赤黒い映画大好き!」な内容だったものなあ。

 黄色いトラックスーツ姿のパツキンねえちゃんが日本刀持って仁王立ち。

 どこがスタイリッシュや! ただのオタクの妄想やんけ!

 昨今、歴女、山ガール、眼鏡女子なんて流行ったりもしたが、「鎖鎌女子」は守備範囲外だ。

 そう、このふたりは基本的にオマージュを重んじる「オタク系」クリエイターであり、しかもその傾向が赤黒に偏っている。

 そこがピンとこなかったのだ。私も映画大好きなオタク系だけど、赤黒作品にはほとんど興味がない。だから、「すごい」のはわかるけど、「好き」にならないんだ。

 そうかそうか。私はオタク系オマージュなら『パシフィック・リム』になるものなあ。あるいはフランス映画の『アーティスト』とか。

 最初は「えらい変な分類やなあ」とあきれていた中野監督の解説だが、ここにひとつ自分の中にあったモヤモヤがとけた。なるほど、さすがプロの意見は聞いてみるものだ。

 みなさまも、「あれ? この人の作品、なんでやろ?」と違和感を感じたら、それが「赤黒」か「青白」かを、一度検討してみてはいかがだろうか。



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中野貴雄監督の映画分類法&タランティーノと友近の共通性

2016年08月08日 | 映画

 「そうか! タランティーノと友近は、どっちも『赤黒』やったからか!」

 そう大いに納得したのは、あるラジオ番組を聴いていたときだった。

 などとはじめても、読者諸兄には「いきなり、なんの話やねん」と意味不明だろうが、ここに説明すると、昔からクエンティン・タランティーノの映画と友近さんのコントがピンとこなかった。

 といっても別にふたりをつまらないと思っているわけではない。

 『フォー・ルームス』のロアルド・ダールを下敷きにした短編は好きだし、友近さんも『オールザッツ漫才』で披露していた「やたらとボケたがる地方局の女子アナ」には爆笑したものだ。

 クリエイターとしては「才能あるなあ」と一目も二目もおいているともいえる。

 ではなぜにて、そんな「すごい」と思いながらも、「なんか心にヒットせえへん」と首をかしげてしまうのか。不思議だったのだが、その謎が解けたのが、映画監督である中野貴雄さんの一言。


 『ザッツ変態テインメント』

 『サワリーマン金太郎VS痴女軍団』

 『花弁の忍者 桃影 忍法花ビラ大回転』



 などなど、タイトルを聞いただけでリスペクトせざるを得ない映画を撮り、奥様はキャットファイターという

 「男の中の男」

 としか表現しようのない中野監督が、深夜ラジオで映画論を語っていたのだが、その中でこういうのがあったのだ。


 「日本映画はね、赤黒い映画と青白い映画に分けられるんです」。



 赤黒と青白。一聴意味が分かりかねるが監督によると、


 「パッケージの裏の色のことです」


 続けて解説することには、


 「そこを見ればわかるんですが、赤黒い映画というのは《昇り龍の入れ墨を入れた姐さんが最強の女殺し屋になって日本刀とか鎖鎌を振る》映画で、青白い映画とは《白痴の妹がブランコをこぎながら、ほうけたように空を見上げて童謡を歌う》映画なんですよ」。


 ここで監督はきっぱりと、


 「日本映画はすべて、このどちらかに分けられます」


 イヤホンからこれを聴いたときは、「どんな偏った定義や」と真夜中なのに爆笑してしまった。

 「すべて、このどちらかに分けられます」という断言がナイスである。ホンマかいな。『キネマ旬報』とかには、絶対に載らないきわめて『映画秘宝』的なカテゴライズであるといえよう。

 もう一度おさらいしよう。

 赤黒は『昇り龍の入れ墨を入れた姐さんが最強の女殺し屋になって日本刀とか鎖鎌を振る映画』

 青白は『白痴の妹がブランコをこぎながら、ほうけたように空を見上げて童謡を歌う映画』

 この中野流の映画分類がおもしろすぎて、それ以降TSUTAYAに行くと

 「この映画は赤黒か、青白か」

 パッケージの裏をチェックするようになってしまったのだが、まさかここに私の中にあった様々な謎を瞬時に解き明かす大きな発見があったとは、このときは知るよしもなかったのである。



 (続く→こちら



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「人生とは何か」との問いに大槻ケンヂさんが答えます。

2016年08月05日 | 音楽

 「人生とはなんだ!」




 筋肉少女帯大槻ケンヂさんは『これでいいのだ』という曲の中で、こうシャウトした。

 人生とはなんぞや。

 

 「人生とは愛です」

 「人生とは戦いだ」

 「さよならだけが人生さ」

 

 などなど答えは様々だが、不肖この私は、この問いに対して明確な解答を持っている。

 それを伝授してくれたのは、曲の中でそれを問うたオーケンに他ならないのだが、それは一体なんなのかと問うならば、答えは彼のライブにかくされていた。

 オーケンは筋肉少女帯を脱退後、特撮というバンドで活動していた。

 何度かライブに足を運んだが、さすが銀杏BOYZ峯田君や、作家の辻村深月さんから、エヴァンゲリオンの綾波レイなどなど。

 あなどれない数のクリエイターに大きな影響を与えているオーケンのこと、ファンの熱狂度はそこいらのバンドの比ではない。

 その日も『文豪ボースカ』や『テレパシー』などの名曲を堪能したところ、曲間にオーケンがマイクパフォーマンスをはじめた。

 議題に上がったのは、マネージャーのことであった。

 なんでも、新しくついてくれたマネージャーさんは怪獣番組の、中でも『ウルトラセブン』の大ファンなのだそうである。

 その熱中ぶりは、酔っぱらうと仕事のことそっちのけで、ひたすら「エレキングが」「クール星人が」「おもちゃじいさんが」とセブンの話をするという入れこみよう。

 その日も楽屋で語っていたそうだ。




 「ボクはね、ワイアール星人が一番好きなんですよ、知ってますかワイアール星人!」




 ワイアール星人とは、第2話緑の恐怖』に登場する宇宙人である。

 ちなみに、こういうの。




 
 



 その熱いオタクっぷりに、若干もてあまし気味だったオーケンだが、そこで客席に叫んだ。



 「でもな、それでいいんじゃねえか。人がなんていおうと、ここまで熱くなれるくらい好きになれることがあるって、幸せなことじゃねえのか?」





 客席から「いいぞ!」「その通りだオーケン!」の声。



 人生ってそういうもんだよ、好きなこと見つけて、それまっとうできたら幸せなんだよ。マネージャーはそれがウルトラセブンで、オマエらはロックだ!」





 客席大拍手。これに興奮したオーケンは、締めの言葉を言おうと、


 「人生はな、人生ってのはなあ……」





 グングンとボルテージを上げていく。

 ステージ上で飲んだビールの酔いと、会場の雰囲気がないまぜになったオーケン。

 急にわけがわからなくなったのだろう、で息をしながら、人生とは、人生とはな、と数度繰り返し、こう叫んだのだ。

 


 「人生とは、ワイアール星人なんだよ!!!」


 


 人生はワイアール星人

 なにをいっとるのか、オーケンは。意味不明だ。

 だが、言葉の意味はよくわからんなりに、なんだか妙なインパクトはあった。

 たぶんオーケン的には、「人生とは」とぶち上げてみたものの、そこで頭がわちゃくちゃになってしまったよう。

 そこで、とにかく思いついた単語をシャウトしたら、「ワイアール星人」になってしまったのだろう。

 なんで、こんなことになってしまったのかだが、それも勢いであろう。

 胸を打たれた。よくはわからんけど

 この言葉に感銘を受けた私は、これ以降


 「人生とは何か」

 「生きる意味とはなんなのか」


 などと、悩める友人や後輩たちに問われるたびに、それを答えにしてきた。



 「人生とは、ワイアール星人である」と。



 みなさまも、人生が迷子になりそうなときは、この言葉を思い出して、明日への一歩を踏み出していただきたいものである。





 ☆おまけ 『ウルトラセブン』第2話「緑の恐怖」は→こちら

 ★おまけ2 筋肉少女帯と絶望先生のコラボは→こちら



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