ジェットコースターなんてこわくない! その2

2015年02月23日 | うだ話
 前回(→こちら)の続き。

 私はジェットコースターは苦手だが、それは日本国憲法の精神に反しているからである。

 さらにいうと、ジェットコースターは私の人間的権威を失意させる効力がある。

 私がジェットコースターに乗ると、たいてい搭乗後、周囲からのなめられ度が上がる。

 それまで私のことを「先輩」と呼んでいたかわいい後輩たちが、一様に「おい」に変わり、ついでにタメ口になる。

 女子の場合はもっとひどく、タメ口どころか、そもそも口をきいてくれなくなる。これはいかなる手のひら返しか。

 いったいなぜにてそのような株価大暴落が起こるのかと問うなら、まず私は一度乗ったマシンには二度と乗ろうとしないかららしい。

 くわえて、そのときのいいわけがいちいちダサいというのだ。

 たとえば、ある遊園地でコースターに乗った後私は、みながもう一度乗ろうと盛り上がる中、断固として再トライを拒否。
 
 その際、強く主張していたことが、

 「首が痛いねん。いや、別に怖いわけやないねんけどな。でも、首が痛いねん。乗ってるとき痛めたんかなあ。とにかく首が痛いから、もう乗られへんねん」

 あまりに何度も「怖くはないが、首が痛い」と繰り返す姿は、目撃者によると、

 「これほど情けない人の姿は人類の歴史上、見たことがない」

 と語りぐさになるほどのもの。まさに世界史レベルに残るみっともなさであった。

 首が痛いという軟弱さもさることながら、かならず枕詞に

 「別に怖いわけではないが」

 と入れるところに、ますます私の人間の卑小さがあらわれており、いよいよ男の威厳もへったくれもないようなのである。

 私から言わせれば、何度も「怖くはない」と主張する者がいたら、

 「それほど強く繰り返して言うのなら、きっとそれは本当のことに違いない」

 素直に解釈するところだが、周囲の声は、

 「あんなにしつこいくらい言うってことは……ブ! ブワッハッハッハ! こいつ超ダッセー!」

 ということになるらしい。発想が逆なのだ。

 なんというひねくれた考え方なのか! このように、人の言うことを信じられなくなるというのも、ジェットコースターの負の側面である。

 正直者が「怖くはない」といっているのに、それをゆがめて解釈し、その人間性をおとしめようと陰謀を巡らす。

 これこそが、まさにジェットコースターが人権に配慮せず、憲法にも背いているというなによりの証拠である。

 人が人を信じられない。

 我々は、そういう殺伐とした世界に生きているのだ。こんなことになってしまって、地球人類はこれからどうやって生きていけばいいのだろうか。

 やはりこれは、日本人をつなげる強固な結束力を破壊し、世界支配をねらうNASAかユダヤ人の陰謀であろう。

 その証拠にユダヤもジェットコースターも、ともに頭文字が「J」である。さらにいえば、あんな激しい動きにもかかわらず人が落下しないマシンなど、「NASAのすごい科学力」以外では製造不可能ではないか。

 アポロが月に行っていないのと同様、いくら巧妙に隠そうとも、私の灰色の脳細胞の前には無力なのだ。おのれイルミナティめ、どこまで私を責めさいなめば気が済むのか!

 ここまで説明すれば、私がジェットコースターのおもしろさがわからないことが、たいそうよく伝わったことと思う。

 人を重き拷問にかけ、ついには人間同士の信じる心さえ失わせる恐ろしい機械なのだ。

 こうして見事な論理によって私の

 「ジェットコースターは怖くはないが、いろいろと苦手」

 という説はあざやかに証明されたわけだが、最後に一つ問題なのは、こういったいいわけ……もとい説明をとうとうとしていると、どこかから誰にともなく声が聞こえてくるということ。

 それはたいていが、野球部のような通る声で、

 「ピッチャービビってる、ヘイヘイヘイ!」

 というものであり、それはどうにも、自分の心のどこかからも聞こえてくるような気がしてならず、いったい誰が出しているのか、謎は深まるばかりである。


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ジェットコースターなんてこわくない!

2015年02月21日 | うだ話

 ジェットコースターの楽しさがよくわからない。

 世の中にはジェットコースターや絶叫マシンが好きな人というのがいる。

 よく休みになると遊園地に出かけて、高いところから落ちたり、空中で飛んだり回ったり華麗なツイストを決めたりして遊んでいる。

 特に男子よりも女子の方が肝が据わっているのか、男が涙目で鼻をたらしながら「ヒイイイイ!」とか言うてる横で、女子たちはキャーキャーいいながら、なんとも楽しそうに乗っている。

 なんなら、乗り終えたあともう一度乗ったりしている。女というのはタフである。

 そんなジェットコースターであるが、どうもその魅力というのがよくわからない。

 あれの、なにが楽しいのか。

 まず、ジェットコースターというのは恐怖を味わうものである。

 それがよくわからない。私はそれほど怖がりというタイプではないが、恐怖が快感であるという感覚がない。だから、お化け屋敷の類も興味がない。

 人生には普通に生きていても、まだ給料日まで5日もあるのに財布に652円しかないとか、パソコンが壊れて5時間かけて集めた桃色遊技的動画がすべて消えてしまったとか、恐怖に凍りつくような事象が数え切れないほどある。

 なのになぜ、わざわざ自分の意志で、しかも金を払ってさらに恐怖の数を増やすのか。頭がおかしいのではないか。そこが疑問である。

 さらにいえば、ジェットコースターは基本的人権を無視している。

 日本国憲法によれば、日本人は最低限文化的な生活を送る権利があるはずである。

 にもかかわらず、ジェットコースターにしろフリーフォールにしろ、あとはバンジージャンプとかも、人を拘束し、逃げることをかなわぬようにしたうえ、上に行ったり下に行ったり、左右に揺さぶったり、果てははるか高みからつき落としたりする。

 これは人権無視を通り越して、ほとんど拷問である。もし、地球の文化をまったく知らない異星人が予備知識なくこれを見たら、

 「この地球と呼ばれるM240惑星の人々は、なんと野蛮な人種なのか」

 とおそれおののき、我々の宇宙とのコンタクト、銀河連邦への加入の夢はきっと1000年は遅れることであろう。無念である。

 それほどのリスクを犯してまで、人類は絶叫マシンに乗る必要があるのか。いま一度、我々は考えてみるべきではなかろうか。

 などと語っていると、無責任な外野からは、

 「で、結局のところビビってるってことだよね」

 などという声が聞こえてきそうであるが、それはもちろんのこと大いなる邪推であり、おそらくは私のことをおとしめようとするフリーメーソンの陰謀であると考えられる。

 (続く→こちら

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海外旅行のおいしい食べ物 マレーシア・インドカレー編 その2

2015年02月18日 | B級グルメ
 前回(→こちら)の続き。

 クアラルンプールでインド料理屋に入った私。

 カレーはうまそうだが、食べている間店員がひっきりなしに、頼んでもいない追加オーダーを運んでくるのが気になる。

 ここで、いかなボンヤリの私でも、頭の中にみーみー警戒音が鳴る。

 これは、ボッタクリではないか。

  頼んでないものをむりやり配膳して、あとで法外な料金を請求しようというのだ。キャバクラなどでもよくある手口である。
 
 これはいかなる手を打つべきか。警察を呼ぶか、ダッシュで逃げるか。

 まあ、それは食べてから考えればいいかと、とりあえず一口カレーをいただいたところ、私の脳内からそういった対抗策はいったん吹っ飛ぶこととなる。

 
 か、辛い~!


 チキンカレーえらいこと辛いのである。

 いや、辛いというより痛い。汗が全身から噴き出す。舌が麻痺する。胃に火がついたように体内が熱をおびているのがわかる。エマージェンシーだ。


 でも……でも、うまい!


 カレーうまい。辛いけどうまい。

 フィッシュカレーもニンニクがきいていてうまい。チャパティ焼きたてでうまい。


 つけ合わせの野菜各種もどれもうまい。やるぜインド人!


 辛さで食欲も増した私は、警戒態勢も忘れ、汗だくになってハグハグとカレーを食べまくった。

 完食し、すっかり満足してお勘定を頼んだ私はレシートを見てまたビックリ。

 やはりぼられているのか。

 いや、そうではなかった。

 なんと料金が飲み物こみでわずか7リンギット(約210円)だったのだ。

 おかしい。明らかに安すぎる。

 よく見ると、レシートにはチキンカレー(5リンギット)とチャパティ(1.5リンギット)と飲み物(0.5リンギット)の値段しか書いていない。

 他の客の食べているものを見ると、私と同じものを注文しているが、カレー1種類に米だけというシンプルなもの。値段もほぼ同じ。

 ……ということは、つけ合わせの野菜各種に3種類のカレーは、すべてサービスだったってことしか考えられないではないか。

 あの不機嫌なインド兄ちゃんはもしかして「これサービスやで」と言っていたのか。

 マレー語がわからないのでスルーしてしまったが、たぶんそうなのだ。

 おーい、待てい。サービスやったらサービスって言ってくれー。

 その場でお礼くらい言うのに。外国ではこういった

 「旅行者への仏頂面だけど超歓迎の大サービス」

 というのがままあり、あとでコケそうになることがある。

 それにしても、3種のカレーとライスと5種類のつけ合わせとはゆうに二人前の量があった。

 それがサービスとは、インド系マレー人太っ腹すぎる!

 そんなわけで、大変おいしいうえに人情もあったマレーインドカレーだったのだが、食べている間ぼられてるのかとドキドキするので、できれば笑顔と、あと

 「これ、サービスやで」

 とい一言いってくれれば、もっとうれしかったんですが。


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海外旅行のおいしい食べ物 マレーシア・インドカレー編

2015年02月16日 | B級グルメ
 マレーシアは中華もいいが、インド料理も行ける。

 旅のグルメ情報。前回(→こちら)は私のイチオシであるコタキナバルの中華料理を紹介したが、マレーシアではカレーも堪能したのである。

 KL(クアラルンプール)セントラル駅の向かいにある通りの裏路地に、インド料理ストリートとでもいう場所があったのを発見。

 カレーを中心に、サモサやチャパティを焼く屋台が並ぶ。といっても、そんなに大きなものでもなく、完全に地元向けの商店街なのであった。

 まあ、変に観光客向けの店に行くより、こういう現地の人が親しむ店の方がうまいというのは、バックパッカーの常識。

 色々と見て回った末、店内のこぎれいなカレー屋(といってもインド料理屋はすべてカレー屋なんだけど)に入ることにした。

 店主らしきインド人がメニューを持ってくる。一応英語メニューもあるが、「チキン」とか「フィッシュ」とかあるだけで、どういった料理なのか今ひとつわからない。

 こういうときは必殺の「指さし注文」である。店頭に並べられた、料理の入ったバットを指で示して、これこれと注文。

 できたてだったのか、アツアツでうまそうなにおいを発しているチキンカレー、それにチャパティがやってきた。

 まずテーブルの上に、バナナの葉を敷かれた。インド風である。

 そこにライスが盛られ、カレーがかけられる。どうもかけ放題みたいで、「もっとか、もっといるか」と何度も聞かれた。

 たっぷりのカレーは実にうまそうであった。いただきまーすとスプーンを取ると、そこに今度は大皿を持った若いインド兄ちゃんがやってきたのである。

 そして、世にも不機嫌な顔で何かブツブツいっている。

 どうしたんやろ、何かおかしなことでもやらかしたんやろうか。

 いぶかしんでると、インド兄ちゃんは大皿から野菜の煮付けやピクルスなどを5,6品、無造作にバナナの葉の上に盛りつけた。

 いきなりの追加オーダーにこちらは意表をつかれた。

 おいおい、こんなん頼んでへんでと言おうとするのを無視して、インド兄ちゃんは嫌そうに、さらに頼んでもいないカレーを3種類盛りつけたのだ。

 ん? なんか、おかしいぞ。

 ここで私はピンときた。ははーんこれはあれだ、よくあるボッタクリだ。

 頼んでないものをむりやり配膳して、あとで法外な料金を請求しようというのだ。

 そういえば、インド本国を旅行した人はみな一様に「インド人はぼる」というではないか。

 そういうことか。その手にはのらねえぜ、バックパッカーなめんなよと第一種警戒態勢に入ったが、一口カレーを食べてみて、いったんそれはふっとぶことになるのである。

 
 (続く→【こちら】)


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海外旅行のおいしい食べ物 マレーシア・コタキナバル編 その2

2015年02月14日 | B級グルメ
 前回(→こちら)の続き。

 グルメに興味のない私が推薦する旅先のグルメは、コタキナバルの安食堂で食べた中華料理。

 コタキナバルといえば、マレーシアにあるリゾート地。

 といっても、実際にはリゾートなどどこの国のクリームあんみつや! という田舎町なのだが、雰囲気はローカルでも、そこで食べた中華は、これがもう、もんのすごいうまかったのだ。

 大げさに言えば人生で三本の指に入る、少なくとも海外で食べたあらゆる料理の中でダントツでおいしいのである。

 マレー料理、インド料理も悪くないが(マレーシアはマレー、インド、中華の複合民族国家)、中華に比べると勝負にならない。

 大人と子供、それくらいの差がある。

 肉骨茶、野菜炒め、焼きそば、海鮮丼、貝の蒸し物、カニのから揚げ、どれも絶品であった。

 あれを味わったら、華僑が世界でブイブイいわしている理由がわかろうというものである。

 中華料理と英語は世界の共通語。「華僑がいないのは中国だけ」と言われるのもむべなるかなである。

 こんなうまいもんが食えるのかと、コタキナバルを出た後、クアラルンプール(略称KL)でも当然のごとくチャイナタウンに宿を取った。

 で、コタキナバルの夢ふたたびと、メインストリートにある中華の店に行ったのだが、これが今度はそんなにうまくなかった。

 いや、別にまずくはないんだけど、コタキナバルと比べたらはるかに見劣りする。

 やはり、しょせんは観光地のメシであるということか。

 海の家やスキー場でうまいものが食べられるなんて誰も思っていないのと同じく、観光地では期待してはいけないのだ。すっかりそれを忘れていた。

 のちに台湾に行ったときにも、「今度こそうまい中華」と意気込んだが、ここでもやはりそこそこにはうまかったが、コタキナバルにはまったくかなわなかった。

 おそらく、これはクアラルンプールや台北に罪はない。これらの街がおいしくないのではなく、コタキナバルがうますぎたのだ。

 あれはまさに奇跡的な味であった。グルメに興味のない私がここまで推すのだから、ホンマもんである。

 一度ダマされたと思って、食してみてほしい。コタキナバルなんていう辺境地に行く機会があればの話であるが。


 (続く→【こちら】)


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海外旅行のおいしい食べ物 マレーシア・コタキナバル編

2015年02月12日 | B級グルメ
 コタキナバルの中華はうまい。

 私は旅行好きである。休みとなるとザックを背中に世界を経めぐる、いわゆるバックパッカーというヤツだ。

 となるとよくたずねられるのが、「どの国がよかった」とか「安い宿や航空券を教えて」といったものとともにコレだ。

 「旅先のおいしいお店教えて」

 旅の楽しみといえば日本人の場合、観光、買い物、グルメが三本柱である。

 特に日本人はとにかく食べ物の話題が好きで、ガイドブックといえばとにかくメシの情報が多い。

 ただ、これが私のような貧乏人には困りものである。

 もともと食うことにさほどこだわりがないうえに、金もなければ鋭敏な舌も混んでる店を並ぶだけの根性もない。

 そんな私においしい店などわかるはずもなく、

 「イタリアの朝市で売ってるオレンジは安くてうまいゼ」

 「トルコは食材がいいから、マクドやケンタッキーが日本よりおいしいよ!」

 「ドイツはハムとソーセージとドネルケバブだけがうまいから、それだけ食べとけばOKさ」

 なんて教えても、ちっともよろこばれない。

 どうにも、内容が庶民的というか貧乏くさい。

 むこうが訊いているのは本場のフレンチとか、オシャレなイタリアンとか、女子好みのエスニックとか、そういうものだ。

 そこに「ハンガリーのお総菜屋で売ってる魚の酢漬け入りポテトサラダが最高だよ」

 なんて情報をぶっ込んでも、

 「いや、そういうんちゃうねん」

 スルーされてお終いである。

 でもしょうがないのだ。私の旅先における食料調達場所のほとんどが屋台かスーパーマーケットなのだ。

 そんな男に、どうやって本場のフレンチが語れるのか。

 けどまあ、そんなことをいっていてはせっかく旅行の話をしても盛り上がりがない。

 そこでせめてオシャレではなくとも安くてうまい店のひとつくらいは伝えねばなるまいと、頭の中の検索エンジンをガーッと走らせると、1位に出てくるのが冒頭のコタキナバルなのである。

 
 (続く【→こちら】)

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旅先のマクドナルドは和食です

2015年02月10日 | B級グルメ
 マクドナルドは日本の味である。

 などというと、

 「君はなに愚かなことをいってるんだね」

 そうあきれられるかもしれない。いやいや、マクドナルドはアメリカのもんやんと。

 しかし、私は断乎として、ここにマクドは日本の心と言いたい。これは、日本にいるとピンと来ないかもしれないが、私のような旅行好きはしみじみそう感じるときがあるのだ。

 みなさまも海外旅行中、こんなことを思うことがあるのではないか。

 「あーこの国のメシ飽きた!」

 イギリスの紙粘土みたいなサンドイッチ、イスラムの羊責め、タイのパクチーによる毒ガス攻撃。

 オリーブオイルが苦手な人は南欧ではつらいこととなり、アメリカは質もさることながら量もメガサイズで、間違いなく滞在日数分だけ寿命が縮まる。

 大味なうえに、カロリー多すぎや!

 そんなとき、我々はため息をつきながら、悲しみの表情で「日本食食べたい音頭」を踊ることとなる。

 私は比較的どの国のご飯でも平気で食べる方だが、食事が合わないと、つらい人はつらいらしい。

 じゃあジャパレス行けばいいじゃんというのは正しい意見だ。

 今や世界中にある日本食の店。だが、いかんせん日本食はうまいが高い。

 我々のような貧乏人がホイホイと入れるところではない。かくいう私も一度も行ったことがない。

 こういうとき救世主となるのが、中華のテイクアウトとマクドナルド。

 中華はまあわかるとして、ではなぜマクドナルドなのかといえば、これは味云々ではない。

 「どの国でも同じの、食べなれた味」

 というメンタル面が大きい。

 マクドナルドは世界にも山ほどある。

 そして、それはロンドンでもパリでも、マダガスカル島でも北極でもイスカンダルでも、東京や大阪と同じ味のものが出てくるのだ。これが、存外に感激なのである。

 あのアメリカ大嫌いのイランですら、マクドではないがなぜか「M」という看板をつけた、バッタハンバーガーショップがあるくらいである。ないところを探すのが難しいくらいだ。
 
 そのため、海外で「知っている味」にであうことによって、

 「あー、いつも食ってるこれやったら食べられるー」

 あの安いハンバーガーを手にうっとりとつぶやくことになる。これこそが、異国で出会った「故郷の味」。

 マクドナルドの「知った味」は、思った以上に疲れた心と胃に優しい。あんな安い肉と油のかたまりなのに、なぜか食べられるのだ。

 その意味ではマクドナルドはすでに「和食」ともいえるのである。

 私の妹など、海外でお腹をこわし、現地の食べ物を一切受けつけなくなったとき、

 「あのときは死ぬかと思ったけど、マクドナルドだけは食べられた」

 嗚呼、やはりマクドナルドは日本の味である。

 みなさんも海外で寝こんだときは、とりあえずMのマークを目指しましょう。


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人生において影響を受けた言葉  岸田秀先生の場合 

2015年02月06日 | 

 心に残る名言というのは、誰しもあると思う。

 ベートーベンやマザー・テレサ、映画や小説のワンフレーズなど様々だが、私が影響を受けたと言えば、岸田秀先生のそれ。

 岸田秀。名著『ものぐさ精神分析』をはじめ、著作の中でくり返し語られる、



 「人間とは本能の壊れた動物である」



 という説からはじまる「史的唯幻論」。

 これに感銘を受けた私はそこから岸田先生の本をあれこれ読んだのだが、そのせいで学説のみならず、生き様においても大きな影響を受けたものだ。

 岸田先生は、ある学生集会に出席していた。

 そこでは大学の学費値上げ問題をめぐって、学生たちが反対運動を行っていたそうな。

 彼ら彼女らが熱く熱く語っている中、岸田先生は退屈を覚え、半分眠っていたところ、それをめざとく見とがめた、ある学生が



 「岸田先生、あんたさっきから黙ったままじゃないか。なんか意見をいったらどうなんですか!」



 そう詰め寄ったところ、岸田先生はあくびまじりに、



 「まあまあ、そんなもん、どっちでもいいんじゃないですか」


 ヒドイ応えであるが、これには当然ながら、マジメな学生さんたちが大激怒



 「それがいい大人のいうことか! あんたも立場のある人間なら、そんなフニャフニャしてないでもうちょっと毅然とした、威厳を持った態度をとったらどうなんだ!!」


 そら怒るわなという話だが、それに対し、それまで静かにしていた岸田先生が、いきなりキレた



 「ふざけるな! 毅然とした態度などオレの趣味ではない フニャフニャするのがオレの趣味だ! 他人の趣味にまでケチをつけないでくれ!」



 言っていることは、ムチャクチャである。

 大事な話のときにあくびをして、あまつさえ逆ギレ

 うーむ、男とはこうありたいものだ。  

 学生を一喝した岸田先生、それでも怒りがおさまらないのか、帰るとやおらをとりだし半紙にをしたためた。

 次の日、それをどーんと学生課の掲示板に貼りだしたのだが、その紙には堂々と、書かれていたそうな。

 

 「我、無節操をつらぬく!」


 無節操をつらぬく! なんと、男らしい言葉であろうか。

 これこそ男子のホンネ……じゃなかった本懐。なーんてカッケーんや!

 このエピソードに感動して以来、私のモットーはこれなのである。

 嗚呼、富士には月見草がよく似合うが、ボンクラ男子には無節操がよく似合う。

 それ以来、というかそれ以前からだけど、まわりから、



 「お前みたいな節操のないヤツは見たことがない!」



 常にそう言われてきたが、もちろんこれは、私がダメな男というわけではなく、かの内田樹先生のおっしゃるように



 「師の言葉に学んでいる」



 ことに他ならない。

 一度殉じたモットーは誰に何を言われようと貫き通す。これが日本男児の生き様。



 「我、無節操をつらぬく!」



 何度読んでもいい言葉だ。まさにこれこそが、後世に残したい「美しい日本語」ではないか。



 「人生のほとんどのことは、どっちでもいいですませられる」



 という真理を教えてくれた岸田先生。

 私はあらゆる局面で、これに背いたことはない。常にだ。

 ブレない強靱な精神力。

 これぞまさに輝かしい「意志の勝利」であるといえよう。



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高橋秀実『弱くても勝てます 開成高校野球部のセオリー』 その2

2015年02月02日 | スポーツ

 前回(→こちら)の続き。

 高橋秀実弱くても勝てます 開成高校野球部のセオリー』によると、夏の都大会ベスト16の実績もある開成野球部が勝てたのは、



 「下手は下手なりの戦いかたでやる」



 という戦術があるから。

 たとえば、開成が勝つときはコールド勝ちが多い。

 というと、そんなド下手集団がと驚かれるかもしれないが、これは作戦ゆえのこと。

 逆にいえば開成は「コールドでしか勝てない」チームなのだ。

 


 「一般的な野球のセオリーは、拮抗する高いレベルのチーム同士が対戦する際に通用するもんなんです」


 


 と語る青木秀憲監督の取る戦術は、



 「大量点で、一気に持っていく」



 打順で2番強打者を持っていき、下位打線たまたま出塁した回に、相手の動揺につけこんで上位打線が打つ。

 「まさか、開成ごときに」と浮き足だってくれればしめたもの。

 勢いさえつけば、高校生レベルなら気がついたらビッグイニングになっていたりもする。

 そのドサクサに紛れて勝ってしまおう、という恐ろしいねらいがあるのだ。

 高校野球にもっとも必要とされそうな「確実性」などない、ほとんどギャンブルに近い戦術だが、一発勝負のトーナメントではハマると行けるらしい。

 そのためには、練習では徹底的に打撃をみがく。

 それも、ビッグイニング専用の打ち方だから、すべて大振り

 高校野球の基本である「短く持ってコツコツ」はNG。開成の力では、その程度の得点力は意味がないのだ。

 5点取られたらおおざっぱに10点取り返すのが開成野球。打ちまくってコールド勝ちか、ボロ負け

 接戦はすなわち負けで、それだとスクイズなどやってもムダにワンアウトをあげるだけ。

 1点なんて、開成の守備力の前には焼け石に水なのだから。

 ゆえに、守備練習もあまりしない。監督曰く、

 


 「1試合で処理する打球は3から8球」




 とのことなので、そこは試合が壊れない程度に止めてくれれば、多少のエラーは目をつぶる。そもそも、そんな練習時間はない。

 ピッチャーも大事なのは、「投げ方が安定している」これだけ。

 針穴を通すコントロールも、キレのいいストレートも七色の変化球も消える魔球も、なにもいりません。

 とりあえず、ストライクが入ればいい。

 しかも、そのストライクが必要な理由というのが、試合を作れるかとかではなく「礼儀の問題」だというのだ。

 勝つ負ける以前に、

 


 「ストライクが入らないと相手に失礼」




 だから、安定感が大事。もう、勝負とか甲子園とか以前の問題なのであった。

 ところが、こんな一見デタラメに見えるチームが5回戦まで勝ちあがったというのは、先ほど書いたとおりだ。

 このやりかたで「強いチーム」を作るのは、どう考えても無理だが、少なくとも



 「目指す大会で一つでも多く勝つ」



 という、しかもかぎられた練習時間でという意味では、一聴の価値はある気はする。

 少なくとも、なにも考えず、ノープランで強豪校のやることをそっくりそのままマネして、やたらと厳しいだけの練習したりするチームよりは、よほど意欲はそそられる。

 もちろん、彼らのやり方が「正解」とは決していえない。

 選手たちは「で考える」がゆえに肉体的反応にはどうしても後れをとるし、ハングリー精神希薄である。

 ブルース・リーの「考えるな、感じろ」やアントニオ猪木の「バカになれ!」の真逆であり、そこをつかれるともろい

 本書でも、次々と従来の野球部の常識がくつがえされて、めまぐるしい前半とちがって、中盤以降はなかなか結果が出ず、物語のテンションも中途半端になってしまったきらいもある。

 スポーツの世界は、そんなに甘くはない。

 だがしかし、全国の弱小チームや自らを凡人と自覚する選手たちは、参考にするしないは別にして、一回はこの本を読むべきかもしれない。

 とりあえず、今まで当たり前だと思いこんで盲従してきたあれこれを、再検討してみるきっかけにはなるのではなかろうか。

 それになんたって、ただ機械のようにノックを受けたり、わけのわからないまま声出しをするより、



 「自分で考えて、オリジナルな戦い方で相手を倒す」



 ことに挑戦する方が、ずっとエキサイティングなスポーツ体験ではないかと思うからだ。

 
 

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