ランドセルが今も生き残っている謎について、大いに邪推 その2

2016年02月26日 | うだ話

  前回(→こちら)の続き。

 「いまだに、なんでランドセルなんていう、ダサくて値段の高いものが売れてるんやろう」

 という素朴な疑問に、私とともに

 

 「森羅万象、世の中のことを下世話に邪推する」

 

 ことを旨とする「邪推会」という組織を結成した友人マツムシ君は、



 「学校に【男らしいヤツ】がいてるに決まってるやんけ!」



 バシッと決め打ちしてきた。

 といわれてピンときた。

 なるほど、そうかそういうことか。不肖この私、邪推会ナンバー2の男として、そこはぬかった。

 そんな「商売上手の陰謀」なる、つまらない結論に飛びつくとは。

 うっかり太平の世に流されて、「よこしまに世界を解釈しよう」という熱い心を失うところであった。

 といわれても、読者諸兄にはピンと来ないかもしれないので、ここに説明すると、我々の言う「男らしい」の定義は以下のエピソードに集約されている。

 これまた現在はどうか知らないが、私が中学生くらいの時(昭和から平成に切り替わるくらい)、女子の体操服といえば男子のような短パンではなく、ブルマが主流であった。

 ところがこのブルマ、女子生徒からは相当に不評であった。

 できれば別の、それこそ男子と同じような、短パンのようなものにしてほしいという意見が、大勢を占めていたのである。

 これは、うちの学校だけではなく、けっこう全国的に女子の総意であったらしく、その後日本中の学校で「ブルマ廃止」を求める運動が起こったらしいのだ。

 テレビのニュースか新聞で見た程度なので、くわしいことはわからないが、教育委員会に嘆願書が提出されたり、女性議員がそのことを問題視したりと、それなりに大きな話であったらしい。

 私は男子なので関係ないといえばないのだが、そこまで嫌がってるんだったら、廃止したらええやん別に。

 くらいに思っていたものだが、後にある新聞だったか雑誌だったかの記事を読んで、そう簡単に割り切れるような問題ではないことを知ることとなる。

 ある県の学校でも、ご多分にもれず「ブルマをやめてほしい」という女性側からの意見書のようなものが、提出されたそうだ。

 普通ならそこまでされたら「じゃあ、そうしましょか」となりそうだが、その学校の校長先生はそうではなかった。彼は男らしかった。

 その校長は机をドンと強く叩くと、意見書を持ってきた人に


 「ブルマ廃止だと! ふざけるな。そんなことをいってるのはどこのどいつだ! ここに連れてこい、俺が話をつけてやる!


 大激怒したそうである。

 オレが直接話をつけてやる! 熱い、実に熱い先生である。

 校長自らが直談判。昨今、役人や大企業のトップが、組織の失態において責任逃れに汲々とする中、自ら出て行こうとするこの校長はまさにである。

 ブルマ廃止。それは、よほど校長氏の教育理念に反する態度だったのだ。

 そして、その理念というのは、まあごく自然に考えたところで、おそらくは


 「オレはブルマが好きだ」


 ということであろう。他に、特に納得のいく合理的結論というのも思いつかないし。

 オレの趣味を邪魔するなと。この校長先生はきっと「正直は美徳」をモットーに生きておられるのだ。

 戦後民主主義教育において我々は、画一化ではなく「自分らしく生きる」ということが大事だと教えられた。

 そこからいえば、この先生はまさに身をもって「自分らしさ」を体現したともいえる。

 世間の声に屈することなく、また他人にどう思われようとも、自らのを貫き通す。まさに男の中の男ではないか。

 もうおわかりであろう。いまだランドセルが現役でいられるのは、ブルマと同じく、



 「ランドセル廃止だと! 誰がそんなことを言ってるのだ! オレが直接話をつけてやる!」



 といった、「男らしい」先生とか権力者だとかが、どこかにいるせいなのだ。

 まったく、わが友は大したヤツだ。そんな根拠もない下世話な邪推を、こんなにも堂々さわやかに披露するとは、まさにエースの仕事。

 やられたぜ、相棒! ランドセルのCMに出演して、さわやかな笑顔を振りまいてギャラをもらっていた体操のお兄さんは、日本の教育者のアブノーマルな性癖に感謝すべきであろう。

 こうして私は、またもや一つの真理を得た。

 このように我々は、今日も世界にあまねく広がっているさまざまな謎を、ややこしく解釈しては悦に入っている。

 みなさんも、根拠なき妄想を求める問いがあれば、ぜひ邪推会までご連絡いただきたい。



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ランドセルが今も生き残っている謎について、大いに邪推

2016年02月25日 | うだ話

 「ランドセルが生き残ってるのは、《男気》のおかげやろうな」

 唐突に、そんな意味不明なことを言い出したのは、友人マツムシ君である。

 なぜマツムシ君が、そのような話を切り出したのかと問うならば、なにげなくつけていたテレビから、ランドセルCMが流れたからであった。

 それを見て私が、

 「ふーん、今どき、ランドセルしょってる子供もおるんや」

 なにげなく、口にしたわけだ。

 ランドセル。なんであんな前時代的なものが、今でも幅を利かしているのかなのである。

 私が小学生だった昭和の終わりごろでも、ランドセルといえば子供には不評であった。

 低学年ならともかく、物心ついてくるとデザインは画一的でダサイし、重いし、それほど機能的とも思えない。

 おまけに、なにげに高い。だから女の子などは5年生くらいになると、ランドセルではなく、おしゃれなマイバッグで登校していたものであり、先生も特にとがめだてもしなかった。

 まあ、こういうのは

 「大人の事情

 「癒着

 「既得権

 といったものが、からんでいるのだろうが、少なくとも私の周囲で「ランドセル、サイコー!」という声は、まず聞いたことがなかった

 そんなんだから、昔ともかく、今ではとっくに駆逐されてるものだと思っていたが、そうではないようだ。

 それどころか、子供のいる友人に連絡して聞いてみると、



 「最近はランドセルによって、親の所得がはかられるんや。安物を背負っていったら、子供がいじめられたりすることもあるんやて」



 たかがランドセルで、格差をうんぬんされるのも業腹だが、それにつけこんで、

 

 「いじめられたくなかったら、高い品を買え!」

 

 とかカツアゲする業界も、なんだか生臭くてイヤである。

 ただまあ、実際に子供がいる家ではそう脅されると、安易に「あんなん、安モンでええねん」とは言いにくいのだろう。

 独身貴族にはわからないが、子育てというのは大変なことであるなあ。

 ということで、結論としてはランドセル業界の恫喝、もとい企業努力のおかげであろう、と結論がいったんは出そうになったわけだが、そこでマツムシ君は柔らかい笑みを浮かべながら

 「シャロン君、そこで終わらせるとはキミらしくないな。ちょっと思慮が浅いんとちゃうか」。

 らしくない、といわれても「商売人の事情」以外、特に他の理由も思い浮かばないわけだけど、なにかあるのかいと問うてみるならば友は、



 「オレにはわかったで、このカラクリが」



 ずいぶんと自信満々である。

 とここで、私は巻いたフンドシをしめ直し、気合を入れることとする。

 どうやら、友は本当にひらめいたらしい。目がよこしまに光っているのだ。

 ここに伝えておくと、私とマツムシ君は



 「森羅万象、世の中のことを下世話に邪推する」



 ことを旨とする「邪推会」という組織を結成しており、そこではそんな通り一辺倒の結論などゆるされないのである。

 世の中を楽しむには、「ゆがんだ発想で世界と対峙する」ことが大切なのだ。

 そんな邪推のエース、ことマツムシ君がビシッと断言することには、



 「ランドセルが今でも現役なんて、そんなもん学校に【男らしいヤツ】が、いてるからに決まってるやんけ!」




 (続く→こちら




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げに深きはフェチの世界 穴埋めマニア&バーブ佐竹のゴム草履 編

2016年02月17日 | 音楽

 世の中には、フェティシズムというものがある。

 前回(→こちら)は、大槻ケンヂさんの紹介する

 

 昆布ふんどしマニア」

 

 について語ったが、オーケンがふんどしの次に出してきたのが、これで「穴埋めマニア」。

穴埋めマニア。

 ふんどしパブなど光速で振り切って、心の底から意味不明だが、世の中にはそういう人もいるのだそうな。

 穴埋めマニアは、なんでも、

 

 「女性を首だけ残して穴に埋めたい」

 

 という欲望を持っているそうな。

だけ残して穴埋め。

 ビジュアルだけだと、なんだかスイカ割りみたいだが、それがいいと。

 私のような素人は「そうでっか……」としか言いようがないが、そういう趣味なんである。

 さらには、女性を埋めるだけではあきたらず、



 「自分を埋めてほしい」


 という人もいるのだとか。

 首だけ出して埋めてほしい。なかなかに濃い話ではないか。

 気になるのは、埋められたあと、どうやってさらに楽しむのか。

 やはり、首だけになった状態で、でつつかれたり放尿されたりする、わかりやすい「」を嗜好するのか。

 それとも浜辺に、ひとりポツンと取り残される「放置プレイ」がいいのか。

 その際、が満ちてきて「たすけてー」とかなると、ますますマゾ的に燃えるのか。そこらあたりは、すこぶる興味深い。

 濃いなあと感心していると、オーケンはさらに、こんなものもくり出してきた。

 


 「ゴム草履マニア。結構これも多いらしい」


 

ゴム草履マニア

 これまた聞いたことがないが、オーケン曰く、



 「ゴム草履を履きたい履かれたい」



 というマニアのことだ。

 履きたい履かれたい

 またもや意味不明である。まさにパワーワード。

 これを「結構これも多いらしい」と言い切るオーケンも、ナイスではないか。

 ホンマかいな。どこにおるねん。オレが知らんだけか?

 そんな謎が謎を呼ぶゴム草履マニアだが、オーケン曰く、

 


 「バーブ佐竹が『青いゴム草履』っていうゴム草履を讃える歌を歌っていたんですよ」




 バーブ佐竹

 ゴム草履マニアだけでも、なかなかぶっ飛んでるのに、そこにさらにバーブ佐竹。

 こうなると、二重にも三重にもラビリンスだが、そこからオーケンは

 


「子供のころは、これなんだって不思議だったんですけど、あれはゴム草履マニアの歌だったんですね。感動しました」




 いや、よくはわからんけど、たぶん違うんとちゃう?

 そんなオーケンが、さらに識者に強くうったえたいことというのは、

 


 バーブ佐竹自身は、ゴム草履マニアではない。あれは、歌詞を書いた先生がゴム草履マニアで、

 《バーブ佐竹にゴム草履の歌を歌わせたい!》

 という情熱のたまものですよ!




 フェティシズムの中には、「あの人に○○させてみたい」という願望がある。それは、

 「アイドルコスプレさせてみたい」

 とか、

 「元ヒーロー役のこの人に、あえて悪役をやってもらいたい」

 といったものだが、

 「バーブ佐竹ゴム草履の歌を歌わせたい」

 とは、どんな願望なのか。

 世の中には、バーブ佐竹のファンがいる。それは、わかる。

 そして、世の中には、ゴム草履マニアがいる。

 私はよくわからないが、まあいるとしよう。

 けど、それを合わせ技

 

 「バーブ佐竹にゴム草履の歌を歌わせたい」

 

 マニアがいるという説には、さすがに、まいりましたと頭を下げる他はない。

西原理恵子さんいうところの「勝ち負けでいえば負け」である。

 バーブ佐竹とゴム草履。

 このテーマで熱く語れるのは、日本広しといえどもオーケンだけだろう。芸域広いなあ。

 「ふんどしマニア」には、

 

 「ボクはふんどしパブに行ったことがある」

 

 対抗意識を燃やした中島らもさんだが、この「ゴム草履マニア」には、言葉を失っていた。そらそうやろうなあ。

 それにしても、オーケンの話は濃い。

 他にも、ライブのパフォーマンスとして、ライブハウスをショベルカー破壊したバンドとか。

 ルパンに憧れて、金属バットに「斬鉄剣」と書いて公園で素振りをしていた女性の話とか(1万パーセント不審者である)、どれもステキではないか。

 こういった話を聞いていると、わけもなく

 「私も、まだまだ修行が足りない」

 という気になるが、そんな修行は果たして人生において必要なのかと悩ましいところであり、マニアの道の謎は深まるばかりである。




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げに深きはフェチの世界 鼻フック&昆布ふんどし 編

2016年02月16日 | 音楽

 世の中には、フェティシズムというものがある。

 女性のうなじがいいという「うなじフェチ」。

 靴にリビドーを感じる「フェチ」。

 マッチョな男性の胸板にときめく「筋肉フェチ」。

 こういうものは極めて個人的な嗜好であり、他人に理解されることは少なかったりするが、理解されがたいからこそ、こういう話というのは、おもしろいもので聞いてて、

 「そんなん、思いつかへんなあ」

 感心することが多いからだ。

 たとえばミュージシャンで作家の大槻ケンヂさんは、中島らもさんとの対談でこんなことをおっしゃっていた。

 


 「ボクね、顔面崩壊フェチなんですよ」




顔面崩壊フェチ。

 それは一体なんだ、マイケルジャクソンのことなのかと問うならば、そうではなく、

 


 「鼻フックとか好きなんですよ」




鼻フック

 よくバラエティー番組の罰ゲームなどで出る、鼻の穴にかぎ爪を突っこんで、後ろから引っぱるというもの。

 鼻フックといえば、ダウンタウン松っちゃんも若いころ、

 

 「鼻フックされてる女の子って、いいよね」

 

 私にはよくわからないが、才能のある人にとって鼻フックというのは、なにかしらの魅力があるプレイなのかもしれない。まこと、フェティシズムの世界は奥が深い。

 そういえば、オーケンは「姉さんはフェティシストだった」って歌ってたなあ。

 そんなオーケンは、さらなるマニアックな性癖としてあげたのが、

 「昆布ふんどしマニア」



昆布ふんどし。

 まったくの意味不明だが、文字通りで昆布ふんどしのようにはいて、それでよろこぶというマニア。

 すごい嗜好である。

 「ふんどしが好き」というのなら、まだなんとなく、わからなくもない気もするが、



「ふんどしが好き! ただし昆布限定



 とは、どんな縛りなのか。

 深すぎるぞ、昆布ふんどし。

 ヨーロッパなどのアブノーマルな性癖を様々紹介していた、かの澁澤龍彦氏も、ここには目をつけなかったに違いない。

 なにやら業が深い話だが、ここでオーケンの濃い話に対抗心を燃やしたのか、らもさんも、

 


 「ボクは、ふんどしパブに行ったことあるで」




ふんどしパブ

 らもさんによると、店にはいると「ドドーン!」と和太鼓の音が鳴って、そこに現れたふんどし姿の女の子が、接待してくれる店らしい。

 どんな店やという話だが、らもさんいわく「ええ店やで」とのこと。

 ふんどし女子。

 そんなにひねらなくても、私は普通に水着とか制服とか、そういうのがかわいいと思うが、マニアの心は複雑怪奇である。

 そういえば、これまた松っちゃん情報だが、かつて大阪ではトップレス姿の女性が牛丼を運んでくれる「ちち之屋」という店があって、大阪時代の彼もよく通っていたという。

 同じコンセプトのラーメン屋「めん道楽」というのもあったとか。

 こういった店に関しては、ライムスター宇多丸さんをはじめ、

 

 「食欲と性欲は共存できるのか?」

 

 みたいな議論になりがちだが、「女体盛」とか、あと「ノーパンしゃぶしゃぶ」とかもそうだけど、こういうのって食がどうとか、性がどうとかよりも、

 

 「こんなくだらないこと、やってるオレってバカやなあ!」

 

 という、そういう遊びではないだろうか。

 ある意味「」みたいな。まあ、行ったことないけどね。

 ふんどしといえば昔、友人コノハナ君に「おもろい店、見つけたんや」と、なぜかわからないが、

 

 「男色専用のレンタルビデオ屋」

 

 に連れていかれたことがあった。

 そこでは「ふんどし」と、「だんじり」が大人気であり、

 

 「男が好きな人は、ふんどしが好きなんか、知らんかったなあ」

 

 というとコノハナ君は、



 「なんやキミ、そんなことも知らんかったんか。常識やで」



 あきれたように、言ったものである。

 不肖この私も、仕事で失敗したときなど

 

 「常識がないぞ!」

 

 なんて怒られたりするが、まさかこういう店で常識の無さを注意されるとは思わなかった。

 そうか、男色界では「ふんどし」は常識であったか。

 まだまだ、私の知らない世界はたくさんあり、まったくもって人生は勉強の連続だ、としかいいようがないのであった。


 (続く→こちら


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石村博子『たった独りの引き揚げ隊』

2016年02月12日 | 
 石村博子たった独りの引き揚げ隊』を読む。

 タイトルからわかるように、大日本帝国敗戦後満州から内地への引き揚げをあつかったノンフィクション。

 満州や朝鮮からの引き揚げ体験については、多くの人が本や証言を残しており、文庫版の解説で佐野眞一氏がいうように、たいていは重いものだ。

 ソ連軍進入後の略奪強姦、かろうじて命は助かった人も着の身着のままの脱出行をよぎなくされ、そこでも野盗の恐怖、飢え疲れにさいなまれ、16万人以上が道なかばで力つきたという。

 なもんで、佐野さん同様私も「そんな暗い内容だったらイヤだなあ」と、外地で苦労された方に若干失礼なことなど思いながら読みはじめたのだが、あにはからんや。

 これが、えらいことおもしろくて一気読みしてしまったのである。
  
 この本が普通の引き揚げものと違うのは、主人公がまだ小さな子供であること。


 『10歳の少年、満州1000キロを征く』

 
 というサブタイトル通り、主人公ビクトル少年は、なんとあの広大な満州を、ひとりで走破。

 帝国崩壊の混乱いちじるしい大陸から内地帰還に成功するというのだから、なんともスケールのでかすぎる冒険物語ではないか。

 まずなにが目を引くといって、主人公「ビーチャ」ことビクトル古賀少年のとんでもないタフさ。

 日露ハーフで比較的頑健な体を持っていたことと、コサックの血が流れていることも関係しているのか、とにかく彼は元気である。

 なんたって、親とはぐれて、途中、同胞である日本人からも見捨てられる(ヒドイ!)。

 そんな極限状態にも関わらず、この10歳の少年は満州西部の街ハイラルから、日本行きの船が出る東部まで歩き通すのだ。

 食料着替えさえもロクに持たない逃避行だが、ビーチャには独特の生命力とコッサクの修行で身につけた様々なサバイバル術といった、生きるための鋭すぎる嗅覚技術があり、それらをフルに駆使して旅をするのだ。

 寝るときは体を冷やさないことが大切。小川があれば、そこにはがある。

 ということは、湿地帯があって流れてきた木の実が拾え、食べられるも生えている。キノコもある。パチンコでクルミを撃ち落として口に入れる。

 動物性タンパク質がほしくなったら、こっそりとニワトリのを拝借する。

 ロシア人の家を見つけたときはチャンスだ。ハーフであることを生かして助けを求めると、白系ロシア人はたいてい親切にしてくれる。

 中国人は日本人を恨んでいることがあるから絶対にさけなければならない……。

 などなど、とても11歳(道中は同情を買うため10歳と申告していた)の子供とは思えない「生きるための」にあふれているのである。

 いったい、まだ小さな子供のどこにこんな知恵胆力がつまっているのかと感心することしきりだが、当のビーチャはといえば、この極限状態でも悲壮感などどこ吹く風。

 死体から食料、果てはクツまで拝借し、どんどん歩く

 その際、ロシア正教徒らしく十字を切り、死者の顔がハエにたかられないように、うつぶせにしてあげるやさしさも忘れない。

 こういう、なにげない余裕のようなものが、この命がけのロングウォークのさりげない見所になっている。

 なんという落ち着きなのか。普通なら自分のことだけに必死で、他者の(しかももう死んでいる)ために、そんなことはできなさそうなもんだが。

 佐野氏はこのビーチャのたくましさを、



 「『トム・ソーヤーの冒険』を彷彿させる」



 と書いておられるが、単独行になってからの姿は、どちらかといえば同じマークトゥウェインの創造したハックルベリーフィンに近いのではないか。

 基本的には口八丁の「の悪ガキ」であるトムとくらべて、ビーチャとハックに共通しているのは、どこまでも野生児であること、良くも悪くも安気であること。

 そしてなにより、まっとうな社会生活になじめないがゆえに、「まっとうでない」状況に抵抗なくフィットできること。

 そんなタフすぎる11歳は、過酷な試練に打ちひしがれた日本人を見て、




 「日本人はとても弱い民族ですよ。打たれ弱い、自由に弱い、独りに弱い。誰かが助けてくれるのを待っていて、そのあげくに気落ちしてパニックになる」



 
 そう述懐するんだけど、まあ普通は住んでる国が一夜で消滅して、野蛮すぎる敵軍に攻め込まれたら、そうなりますって!

 こっちが弱いんやない、アンタ強すぎるんや。 

 世の中には「スポーツの才能」や「努力する才能」なんてものが存在するが、ビーチャ少年はまさしく、


 「崩壊した満州帝国からたったひとりで引き揚げてくる才能


 にめぐまれてしたとしかいいようがない。

 すごい本ですわ、コレは。



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ベッキー騒動を見て、私も謝罪したくなりました その2

2016年02月09日 | 時事ネタ

 前回(→こちら)の続き。

 ベッキーさんの不倫報道を見て「私も彼に謝罪したい」と思うようになったのは、昔遊んだプレステのゲームから。

 世界を滅ぼす悪のボスと対峙した主人公とヒロイン。

 かつて親友だった男が、なぜこんな恐ろしいことをするのかと問うならばその答えというのが、

 「それは、わたしがそこにいる女を愛していたのに、彼女がキサマを選んでしまったからだ! こんな世界など生きる価値はない。だから滅ぼしてやるのだ!」

 これを聞いたときの私の反応はといえば、ダウンタウンの松ちゃんのごとく「ええええええええ!」であった。

 世界の危機。そんな恐ろしいことに彼を向かわせた動機というのが、

 「好きな女をよそに取られた」

 これなのである。

 これには心底驚愕した。私はミステリファンなので、多少はサプライズエンディングにはなれていたつもりだったが、それにしても驚きました。

 まさに、『アクロイド殺し』も『Xの悲劇』もかなわない、強烈すぎる、ある意味見事な「最後の一撃」。

 いやもうですね、コントローラーを手にしながら思わず声に出して、

 「頼むから、そんなことくらいで世界滅ぼさんとって……

 そう、しみじみとつっこんでしまいましたね。
 
 女にフラれたから世界を滅ぼす。

 そんなんでいいのか、ハードな設定のゲームよ。

 そりゃ、気持ちはわからんでもない。私だって人並みに女性にフラれた経験もあるし、なんだったら好きだった女の子が知ってる男とつきあいだして、会うたびにジェラシー爆発だったりとかもありました。それなりに、愛が成就しない気持ちは共感できるつもりだ。

 にしてもだ、やはり「だから世界を滅ぼ」したらいかんだろう。ええ大人のすることやないよ、それは。

 このボスキャラは、それを告白したとたん、

 「うわー、オレって超カッコ悪い! ダッサダサやあ!」

 なんて、頭をかかえそうにならなかったのだろうか。

 そんな、ある意味「根性のある太宰治」みたいなストーリーを見せられて、

 「ようこんなシナリオ書くなあ。愛やいうたら、なんでも通ると思ってからに。リアリティーなさすぎて、全然、感情移入できへんわあ」

 なんてあきれていたわけだが、続けて遊んだ『ファイアーエムブレム 紋章の謎』でも、最初は頼れる味方であったはずの「草原の狼」ことハーディン隊長がアカネイア神聖帝国を率いて世界を滅ぼそうとする理由というのが、

 「妻となったニーナ姫が、かつての敵である黒騎士カミュに想いを寄せているから」

 2作続けて同じオチだったのにはコケそうになりました。

 ハーディンといえば「暗黒皇帝」を名乗り、主人公マルスを何度も絶体絶命の危機に追い詰めるおそろしい敵だが、その内実が、

 「嫁が元カレのことばっか考えて、オレにふりむいてくれへん!」

 では、こっちも腰砕けなことはなはだしい。

 いくら無敵の武器である王家の槍「グラディウス」で攻撃されたところで、ダメージとか以前に、

 「あんたの嫁のグチとか、知らんがな」

 と言いそうになる。痴話げんかに、世界を巻き込むなよと。

 まあ、これは世界終わりかけてるのに、空気も読めず、相変わらず昔の男にポーッとなっとるニーナ様も問題あるけどさ。

 あと、そういや『伝説巨人イデオン』もそんな話だったっけとか、あれこれ思い出しもするんだけど、ともかくも私はどうにもこの、

 「恋愛が理由で世界をどうにかしようとするヤツ」

 というのが理解不能だったのだ。

 いやいや、気持ちはわからんでもないけど、そんなことで世界を滅ぼさんとってと。フラれて悲しいなら、中島みゆき聴いて泣くとか、ほかにやりようあるやん!

 なんてつっこんでいたものだが、今回のベッキーさん事件を見て、20年ぶりにその考えが少しくつがえされることとなったのだ。

 いや、人は恋愛感情が絡むと、こんなにもうまく立ち回れなくなるんだと。そら、恋して舞い上がってて、しかもそれなりの力を持ってたら、世界くらい滅ぼすかもなあと。

 ベッキーさんの事件は、モラルとかそういったところはとりあえず置いて見ると、驚かされるのがその損失額である。

 CM打ち切りの違約金が4億とか報道されてたけど、もしこの騒動がなくてふつうに仕事をしていたらどれだけ稼いでいたかということも計算に入れると、ちょっとのけぞるような額になるのでは。

 「生涯賃金」でいえば、たったひとつの恋愛のために、あまりにも多くのものを犠牲にしてしまったことになる(まあ、すぐに復帰はするんでしょうけど)。

 もちろん、こうして世間に最悪な形でさらされることは計算に入れていなかったであろうけど、それでもバレたときのリスクを考えたら、とても「聡明でやり手」なイメージのベッキーさんらしからぬ選択である。

 タレントとしてのイメージを考えれば、ほかにやりようはいくらでもあったはずだ。

 その意味でいうと、その可能性をどれだけ危機に感じていたかは別にして、それこそ何億単位のお金と自分のキャリアを棒に振ってしまうリスクを背負ったうえで、一時の激情で足をすべらすというのは……。

 もう、理屈やないんですね、きっと。

 なるほど「嫁に嫉妬して世界滅亡」「恋する黒騎士のためなら、王国くらい失ってもOK」くらいの勢いというのも、あながち大げさな話でもないのかもしれぬ。

 特に恋愛になれてない人にとっては、相当にリアルな発想なのだろう。

 かつて中島らもさんは、

 「恋は病気の一種だ。治療法はない。ただしそれは世界で一番美しい病気だ」

 と書いたが、きっとそういうことなんだろう。

 だとしたら、ベッキーさん同様に恋でわけがわからなくなったハーディン皇帝のことも、決しておかしなことではない。

 結果的には億の金と自分のキャリアを失う恋をした女性もいるのだ、そら大帝国のドンが恋したら、それくらいスケールの大きいしくじりくらいするよね。

 というわけで、とりあえずここに謝罪したい。

 うん、そら愛し合ってるときとかに彼女が遠い目で元カレのこと思い出してたりしたらつらいですよ。

 抱こうとしたら、泣かれたりしたんでしょうしねえ……。

 あのときはdisってすいません。

 でもやっぱり、さすがに世界は滅ぼさないでほしいですけど。

 そこは男の子なんやからグッと気持ちを押さえて、なんとか「世間体の悪いLINEで炎上」くらいで手を打っていただけないでしょうか、暗黒皇帝。


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ベッキー騒動を見て、私も謝罪したくなりました

2016年02月08日 | 時事ネタ

 世間を騒がしているベッキー騒動を見ていて思ったことは、

 「ハーディン皇帝には、あやまらなければいかんな」

 ということであった。

 2016年芸能ニュースのまず開口一番を飾ったのは、人気タレントであるベッキーさんの不倫問題であった。

 これに関しては

 「不倫はよくない! ベッキーは謝罪しろ!」

 という怒りの声から、

 「そんな膠着したモラルで人をリンチするなんて、ただの魔女狩りではないか。ベッキーがんばれ!」

 なんていう擁護の声までさまざまであるが、基本、芸能スキャンダルに興味がなく、ベッキーといえばタレントよりも別宮運転手が思い浮かぶ私からすると、「ベッキーのCM打ち切り」なんていう報道に思うことは、

 「ハーディン皇帝、昔disってすいません」

 という謝罪の意なのである。

 なぜにて私がこの爆弾級のスキャンダルにそんなスットコな感想を抱いたのかというと、これがもう今からずいぶん前になるが、プレステであるゲームを遊んでいたときのことにさかのぼる。

 ネタばれになるといけないのでタイトルは伏せるが、そのゲームはハードな設定や練りこまれたストーリーなどで、たいそう評価の高い作品。ご多分にもれず私もやはりハマってしまい、昼夜を問わずやりこんだものであった。

 徹夜プレイで眠い目をこすりながら、いよいよクライマックスに突入。すべての謎が解き明かされ、ラスボスとの大決戦は間近。

 こちらのテンションも最高潮に達し、よっしゃ、いよいよ大団円や! といきり立ったところで、驚愕の展開が待っていた。

 最後の場面、世界を滅ぼそうとする悪の黒幕と対面した主人公とヒロイン。

 正義のヒーローは詰め寄る、おまえはなぜそんなことをしたのか。信じられないと。

 なぜなら、敵の正体は主人公の親友だったからだ。物心をついたときからすべてを分かち合い、青春期をすごし、理解しあっていた友だった。

 そんなおまえがなぜ……オレはだまされていたのか、それともなにかの間違いなのか、教えてくれ!

 主人公の悲痛な声がこだまする。横では同じく「どうしてこんなことになったの? もう楽しかったあのころには戻れないの……」と嘆くヒロイン。

 いったいなにが親友を悪の道へと走らせたのか。どうしても理解できない二人に悪のボスはおもむろに口を開く。

 「教えてやろう、なぜわたしがこれほど世界を憎むようになったか……」

 そこから明かされた、思いもかけない真相とは……。



 (続く→こちら


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