日本を知るには外国旅行を! バックパッカーによる、絶対的相対主義者の愛国論 その2

2017年06月29日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 不肖この私が「愛国者」を自認するのは、旅行好きだからである。

 海外に出ると、いろんなカルチャーギャップから、自分が「日本」の価値観にいかに大きく縛られているかがわかる。

 好きなところもそうでないところも含めて、自分は日本人なのだと。そのことを実感できる。

 「日本人である自分」と、

 「他者の視点を多少なりとも内包し、それを少し離れたところから観察している自分」

 このふたつの視点を手に入れることができるのだ。

 これは私だけでなく、たとえば京都出身で、多くの京都モノの作品をものしている漫画家のグレゴリ青山さんは、


 「住んでいるときは気がつかなかったけど、京都から出てはじめて『京都って、こんなおもしろいとこやったんやー』と感じることができた」


 そうおっしゃっておられるし、『反社会学講座』のパオロ・マッツァリーノさんも、


 「『地元を愛そう』という教育をしたいなら、地元から出るようにうながすべきだ。ずっとそこにいて、外を知らないまま『地元を愛』したところで、それは単なるひとりよがりの自画自賛でしかない」


 といった意味のことをおっしゃられていた。

 「日本には四季がある」と自慢げに語って「いやいや、よその国にもふつうに四季はあるよ」とつっこまれたりするのはよくあるけど、そう、「自分のこと」というのは、「よそのこと」を知らない限り、決して知ることはできない。

 他者を鏡に自分を見る。「アイデンティティーの確立」とは、まさにそういうことなのだ。

 「旅は人を賢人にはしない」が、旅は自分を「自分」にしてくれる。

 これは「自分探しの旅」のような

 「自分は何者でもないけど、今は表れていないだけで、本当はどこかにあるはずの『才能』や『個性』といった言葉が似合うステキな自分」

 といった都合のいいファンタジーではなく、広い世界の中でポツンとたたずむ、なんてことなくて、いまさらそれは避けられないのだけど、それでもそれなりに、いろいろないこともない、等身大の自分だ。 

 バックパッカーとしてユーラシア大陸を横断した、漫画家である小田空さんの傑作『目のうろこ』からの言葉も借りてみよう(改行 引用者)。


 「1年の旅行を終えて帰ってきたとき、友人たちはおだが全然変わっていないのを見て、『1年間押し入れに隠れていたんじゃないの?』と笑いました。

 旅をして人生観や価値観が変わってしまうほど、おだは浅くないさ……と、偉そうにタカをくくっていたのですが、やっぱり知らず知らずのうちに、なにかが変化していたみたいです。

 それはおだにとって、日本が自分の世界のほんの一部になってしまったということ。おだが以前よりも《日本人》になれたということです。

 世の中の数ある価値観を体験することによって目からうろこが落ち、その結果一番よく見えるようになったのが『世界の中の自分』、というのはいささか格好よすぎるような気もしますが、《パンツを洗うおだ》に免じて許してやってください」



 やはり、グレゴリさんやパオロさんと同じことを言っている。

 さらにいえば、この作品を紹介してくれた雑誌『旅行人』の編集長である蔵前仁一さんも、

 「同じことを考えている人がいる」

 と語っていた。

 そう、外国に行くと、言葉やたとえの違いはあれ、みな似たようなことを考えるのだ。

 「嗚呼、自分はどっちにしたって日本人であって、そのことは我が身の一部で、良かれ悪しかれ、もはや避けようもないんだけど、広い世界ではそないにたいしたことでもない」

 で、そのうえで思うのだ。

 でもまあ、日本だって、うん、そんなに捨てたもんじゃないよ。

 けっこう悪くない。いいとこだって、いっぱいあるし。だから、遊びに来てよ。歓迎するよ。

 くらいには「愛国者」のつもりではある。

 世間の「愛国」の定義や温度とははなれているかもしれないけど、私にとって「国」を意識するのは、そういうプロセスの先にあるものであって、だから、声高にさけぶエライ人の「愛国」は押しつけがましくて違和感がある。

 そんな根拠も自己検証もない愛や誇りなんて、「そら、アンタに都合いいだけやろ」と滑稽だし、今の時代に肌の色やルーツや国籍が二重かどうかで「日本人じゃない」とか疎外するなんてあほらしいし、そもそも国にかぎらず、なにかを好きか嫌いかは、オレが自分で考えて決めるよ。

 日本はいい国だけど、問題点もあって、世界にもまた、それぞれいいところも、そうでないかもしれないところもある、多様な人々がいる。

 北村薫先生の言葉のように、「そこに違いはあるが、間違いはない」。

 そのうえで、木村元彦さんの『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』を読んで、ピクシーが「日本が大好きだ」と言ってくれているのにうれしくなり、どこかのだれかが「日本」の名のもとに外国人や異国の文化につばを吐きかけるのを憂う。

 それくらいの湯かげんが、私が「自分で手に入れた」日本人の自覚だ。



 (プロ野球「助っ人外国人」編に続く→こちら

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本を知るには外国旅行を! バックパッカーによる、絶対的相対主義者の愛国論

2017年06月28日 | ちょっとまじめな話
 不肖この私は愛国者である。

 などとはじめると、

 「日本はやっぱり、世界に冠たる美しい国だよね! 隣国になめられないため、憲法改正サイコー!」

 などと肩を抱かれたり、夏休みの課題図書に夏目漱石や太宰治と並んで、マルクス&エンゲルス『共産党宣言』が入っていた我が母校大阪府立S高校の恩師たちに、

 「あなたはファシストに魂を売ったんですか? 自己批判してください!」

 なんて総括されたりするかもしれないが、もちろんのこと、政治などまったく無知であるスーパーノンポリ野郎の私が、そんなめんどくさい議論に発展しそうなことなど言い出すはずはない。

 ここに「愛国」というのは、そういった暑苦しい話ではなく、自分が「旅行好き」であることから生まれた思想だ。

 「旅は人を賢人にしない」という言葉がある通り、人はちょこっと海外に出たくらいではたいして利口にもならないし、人生観も変わらないもの。

 なので「OLの語学留学」とか「自分探しの旅」とか「ワーキングホリデー」に過大な期待は禁物だが、私の場合、阿呆なりにひとつ学べたかなと思えることろもないことはなく、それが、

 「自分は日本人である」

 という自覚だ。

 などというと、ずいぶんと殊勝なようだが、実際のところはもう少しフワッとしているというか、

 「あーそっかー、オレって日本人なんやなー」
 
 くらいのやわい温度というか、ともかくも、ふだんはほとんど気にすることもない、

 「自分の中にある日本人性」

 みたいなものに、なーんとなくではあるけど、向き合うこととなるわけだ。

 「なんとなく」なんていうとますます阿呆のようだが、でもこの当たり前のことが実感できるようになったのは、本当にバックパック背負って世界を旅するようになってからのこと。

 外国に出ると、異国の文化や言語など、さまざまなカルチャーギャップに接することになる。

 それは時として感激することもあったり、時としては幻滅を味わされることもあるわけだが、その過程でそれを、どうしても日本とくらべることが多くなる。

 そうすると、日本のいいところが見えてくる。

 やはり日本人はまじめで勤勉だし、街はきれいだし、人もシャイだから伝わりにくいときもあるけど、おおむね親切である。

 日本製品は信頼性も高いし、教育レベルも高いし、特に治安の良さはすばらしいものがあるではないか。

 なぜかテレビのワイドショーなどでは、

 「日本の治安は悪化している」

 なんてデマゴーグもいて、なんでウソをついてまで自国をおとしめようとするのか、それこそ「愛国」的に憤ったりもするけど、女性や子供が夜でも一人で歩いて安心というのは、これは世界的に見てもすごいことであり、どれだけ誇っても誇り足りない。

 と同時に、日本人の悪いところ、とまではいわないが、まあ改善点らしきものも見えることもある。

 清潔だったり、時間に正確なのはいいけど、ちょっとこだわりすぎでしんどいときもあったり、勤勉や自分にきびしいことも、その意図はなくても「結果的に」ブラック企業に加担するハメになっていたり。

 人間関係は村社会で時に窮屈だし、西欧ものに迎合しすぎるし、女性の社会進出もまだまだだし、ネット上での人種差別発言には暗澹たる気持ちにさせられることもあるし、大学は学費高い割にはたいして行く意味ないし……。

 などなど、「だよねえ」と苦笑する点も多いわけである。

 こういうことについては、

 「そんなん、日本におってもわかるやん」

 と思われる方もおられるだろうが、それが案外そうでもない。

 人間、その中にいるとどうしても独りよがりになりやすいし、身びいき、もしくは身内ゆえの「近親憎悪」なんて入ったりして、なかなか「公平な視点」(にできるだけ近いもの)で自分たちを見ることは難しいのだ。

 いわゆる日本はなんでもダメだ的な「自虐史観」や、逆に最近はやりの「日本は世界に誇れるすばらしい国だ」的なテレビ番組が、なんとなくうさんくさいのも、

 「自分たちの目線と言葉でしか、自分たちを語っていない」

 この片手落ち感があるからだろう。

 その意味では、この件に関してはわれわれよりもハーフ(今は「ミックス」なのかな?)や肌の色などが違ったり、あと外国から移住してきた「日本人」の方が深く考察されているのかもしれない。

 常に差別や、マイルドな疎外感にさらされる彼ら彼女らは、「それが当たり前」の私たちより、もう少しばかり「自分と日本」の問題に敏感だろうから。

 そこを、こちらも一回外国に行って、そこの国の文化や言語に触れて、外国人から日本のことに興味を持たれたり逆に批判されたりして、今まで「当たり前」だった日本の文化風習が、

 「別に普遍性があるわけでもない、しょせんは広い世界の中のワン・オブ・ゼム」

 であることを自覚する。

 そうすると、もうちょっとばかし客観的に、自分の姿を見られるものなのだ。

 外国には、本当に多様な文化が存在する。

 「断食をする月が存在する」

 「多民族、多言語文化が共存している」

 「中央政府に対抗して武装することが憲法で認められている」

 みたいなこちらでは考えにくいシチュエーションを様々観ることによって、マイルドにとはいえ「絶対的」だった自分にとっての日本が、一度「相対化」を余儀なくされる。

 「ウチとはぜんぜん違うけど、ここではそれが当たり前。ということは、逆もまたしかり」

 という感覚を体感する。

 外国に出ると、この作業が自然にできるようになる。

 そこではじめて、本当の意味で自覚するわけだ。
 
 「そっかー、オレってなんのかのいうても、日本人なんやなー」



 (続く→こちら



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マストロヤンニ&ソフィア・ロレーン『ひまわり』は超弩級のホラー映画 その2

2017年06月25日 | 映画
  前回(→こちら)の続き。
 
 ヴィットリオ・デ・シーカの『ひまわり』は超弩級のホラー映画である。
 
 嫁のソフィア・ローレンを残して東部戦線に出征するも、「ヘタリア軍」のお約束通りソ連軍にボロ負けして、零下40度の地獄の中で死にかけたマルチェロ・マストロヤンニ
 
 落ち武者狩りに来たマーシャに助けられ、かろうじて一命をとりとめるどころか、記憶喪失なのをいいことに(?)ちゃっかり彼女と結婚して、子供まで作るたくましさ。
 
 ところがどっこい、彼にはナポリに残してきたがいる。
 
 しかもそれが、ある朝目を覚ましたら、どーんと目の前に立っていたのだからビックリである。
 
 私はここで、顔面からサーッと血の気が引く音がした。
 
 まっ青になって、あせりまくるマルチェロに、当然のことソフィア姐さんは怒髪天を衝く大怒り
 
 「アンタ! 死んだって聞かされて、信じられへんから、はるばるこんなド田舎まで来たのに、生きてるんはええけど、なんやのこのロシア女子供は! ウチのことバカにしとるんかい!」
 
 鉄火姉ちゃん丸出しで、キレまくる。コ、コワイ、コワすぎる。
 
 ナポリ女は情が深く、怒らせるとコワイというのはビリー・ワイルダーも『お熱い夜をあなたに』でギャグにしてたけど、その激しさがよくわかる。
 
 死の淵から生還して、かわいい嫁も新しくもらいなおして娘もできて、さあこれからというところに、どーんと元嫁が鬼の形相で立っている。
 
 それも、当時鉄のカーテンで阻まれているはずのソ連にまで侵入しての大捕物(どうやって行ったんだろう)。
 
 どうやら冷戦うんぬんなど、悋気した嫁には関係ないらしい。
 
 独身貴族の私が「あわわわわわ!」となったのだから、既婚者ながら別のところでもよろしくやっているような不逞の輩が見れば、これはもう恐怖のあまり、尿をちびるのではないか。
 
 いやはや、こんときのソフィア姐さんの目はホントに怖いのなんの。グーパンチや蹴りくらいでは、すまない勢い。
 
 冗談抜きで、阿部定のごとく股間の「秘剣電光丸」を切り取られそうなくらいの勢いなのである。ひええ、おゆるしを!
 
 まあ、この件に関しては、完全無欠にマルチェロが問題だらけだ。もともと、
 
 
 「新婚やから、戦場行きたないですわ」
 
 
 そんなこという主人公もスゴイけど(まあ気持ちは全然わかるけどね)、そこで徴兵審査に通らないための作戦というのが、
 
 「気ちがいのフリをする」
 
 だから、私が上司でもトホホであろう。
 
 せめて、醤油を一気飲みするガッツくらいは、見せてほしいものだ。東部戦線に送りつけた上官も、責められんところであろう。
 
 それでも生きていた、というしぶとさはさすがイタリア人だと感心するが、じゃあそこからどうしたかといえば、現地妻もろうて、
 
 
 「色々あったけど、今じゃそこそこ幸せッス」
 
 
 なんておさまってたら、残されたソフィア姐さんも、そら怒りもするであろう。「アンタ、ちょっとそこへ座りなさい」ってなもんだ。
 
 なんてわけで、私にとってこれは「感動の悲恋」などではなく、ほとんどボンクラ男がボケ担当の夫婦コントなのであるが、とにかく全編ソフィア姐さんの悋気が怖ろしいのなんの。
 
 若い恋人とちちくりあってるときに、あんな奥さんに踏みこまれる。なにかもうドタバタ喜劇の基本中の基本です。
 
 下品な言葉なので使用ははばかられるのだが、この表現があまりにもピッタリすぎるので、あえて言いましょう、キンタマもちぢみ上がるのである。おーコワ。
 
 でもって、ラストはあの美しい音楽とともに、ウクライナの大地に咲き誇るひまわりの群れ。
 
 これはもう、息を呑むくらいに美しく、圧倒的な迫力があるのだが、劇中でも説明されるように、その下にはおびただしい数のイタリア兵の死体が埋まっているのだ。
 
 つまり、あざやかなひまわりはすべて戦死者のであり、あんなにも美しいのは、死者たちの養分をたっぷりと吸っているという理由なんである。
 
 マルチェロ・マストロヤンニが、しょうもない痴話ゲンカをしている横で、戦場で無念にも犬死にした仲間たちが眠っている。
 
 それを想像すると、これまたコワすぎる。
 
 そんなわけで、この映画は名作かもしらんが、私にとっては浮気現場をソフィア姐さんに踏みこまれた恐怖と、あのとどめの物言わぬ、ひまわりのド迫力に、
 
 「アカン、これはアカンて、ヴィットリオ!」
 
 頭をかかえたくなるような、超弩級のホラー映画なのである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マストロヤンニ&ソフィア・ロレーン『ひまわり』は超弩級のホラー映画

2017年06月24日 | 映画
 ヴィットリオ・デ・シーカ監督『ひまわり』は極上のホラー映画だ。
 
 世間には、三度の飯より怖い話が好きな人というのは、たくさんいるものだが、私はそんなに好みではない。
 
 というと、
 
 「ビビリの国のビビリ王子さまですね、お待ちしておりました」
 
 なんて接見されそうだが、そういうことではなく、むしろ逆で、世間的に言われる「怖い映画」にどうも反応が悪いのである。全然ゾゾッとしない。
 
 そんな『リング』も『エクソシスト』も『サイコ』もサッパリな怖い映画冷感症な私だが、中にはいくつか
 
 「こ、こえー……」
 
 腹の底から、心肝寒からしめる映画というのがなくもなくて、そのひとつが『ひまわり』。
 
 というと、おいおいちょっと待て、『ひまわり』といえば、あのヘンリー・マンシーニの音楽が美しい名作ではないか。
 
 戦争が生んだ哀しいの物語をホラーとは、頭がイカれているのではないかという意見はあるかもしれないが、名作だろうがなんだろうが、コワイものはコワイのである。
 
 主人公は、マルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレンという、イタリアを代表する2大スター。
 
 南イタリアのナポリで出会った2人は、美男美女ということで当然のごとく恋に落ち、すぐさま結婚
 
 だが、2人をひき裂くのは戦争であった。
 
 
 「ウチらラブラブだから、そんなんで別れたくないよねー」
 
 
 という人生をナメ……じゃなかった恋の情熱に押されたマルチェロは、策をこらして徴兵を逃れようとするも果たせず、懲罰として対ソ東部戦線に送られることとなる。
 
 常夏のナポリから、厳寒のロシアへ。
 
 それだけでもつらいのに、イタリア軍は冬将軍に飲みこまれて敗走につぐ敗走。
 
 零下40度の白い地獄の中、全滅の危機におちいるのだ。
 
 我らがマストロヤンニも、あわれここで力尽きるのだが、おそらく落ち武者狩りに来たのであろうロシア娘マーシャに運良く見初められて、命だけは助かることになる。
 
 一時は記憶もなく、混乱したマルチェロだが、やがて回復し、ほだされるようにマーシャと結婚
 
 一女にもめぐまれ、遠きロシアの地で第二の人生を生きることを決意する。
 
 望郷の念はたえがたいが、恩人であるマーシャを見捨てることはできない。
 
 ということで、
 
 「あー、死ぬか思うたけど、人生なんとかなるもんや。ま、生きてるだけで丸もうけやなマンマミーヤ!」
 
 とばかりに、新しい家庭でそれなりに楽しくやっていたところに、ある日帰宅すると、そこにはイタリアに残してきたはずのソフィア・ローレンが。
 
 なんと、彼女はマルチェロを追って、イタリアからソ連まではるばるやってきたのである。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

WOWOWのウィンブルドン予選放送と、1998全豪オープン予選観戦の思い出

2017年06月21日 | テニス

 全豪オープン予選を、現地で生観戦したことがある。

 などと、唐突に「玄人テニスファン」アピールをしてみたのは、WOWOWウィンブルドン予選を放送すると聞いたからである。

 昨今、錦織圭選手を筆頭に、日本人選手の活躍いちじるしい男子テニス界。

 こういった盛り上がりを見せると、ありがたいのが、テレビなどで試合をたくさん放送してくれることだ。

 グランドスラムのみならず、マスターズ1000ATP500ツアーファイナルデビスカップなど、実に多彩なチョイス。

 もう見る方も大変だが、そこについには「予選」まで参入とあっては、本当にビックラこいた。

 いや、ふつう、いくらウィンブルドンといったって、予選は放送しないッスよ。錦織圭も出ないのに。

 いよいよディープというか、さすがテニスWOWOWとおそれいったもの。

 こんなもん、だれが見るねんとつっこみたいところだが、まあ私が見るというか、無料放送ありがとう超楽しみと目がハートというか、そういや昔、予選見にオーストラリアまで行ったなあ、とか思い出したのだ。

 1998年1月、私はオーストラリアンオープンを観戦しに、メルボルンに飛んだ。

 大会ではピートサンプラスや、アンドレアガシといったスター選手を押さえるのは当然として、もうひとつ、ひそかな楽しみを用意していた。

 それが、予選の観戦である。

 グランドスラム大会の予選。カタギの世界では存在すら知られていないが、日本人男子を追いかけるには、デ杯と並ぶ、はずせない大イベント。

 なので、常日ごろから興味はあったんだけど、まあさすがにマニアックすぎるかと逡巡していた。

 が、『テニスマガジン』で連載していた、とうこくりえさんのマンガで、



 「貯金をおろして、デ杯の日本対ウズベキスタンを観にタシケントに飛ぶか、日本男子の応援にUSオープンの予選を選ぶべきか」

 という、ディープなうえにもディープすぎる悩みを読んで、「こら負けてられん!」と腹をくくったのだった。

 なんの勝ち負けかは不明だが、ともかくも決め手にはなったのだ。

 ちなみに、とうこく先生はタシケントを選択。

 最終シングルス金子英樹選手が、ケイレンをおしての勝利で、見事ウズベキスタンを破ったのであった。

 話を戻して、予選会場は本戦と同じく、メルボルンナショナルテニスセンター

 主にグラウンドスタンドのコートで、本戦の座をかけて、夢いっぱいの若手が、再起をかけるベテランが、必死でボールを追っている。

 本戦出場には3連勝が必要。

 表には出ないが、選手それぞれにとっては、もちろんのこと大勝負だ。

 本戦と予選は天国地獄の差。いわば、甲子園国立をかけた地区予選決勝だ。

 これが無料で見られるのだから、なにげにオトクではないか。

 まずは日本人選手をチェックするが、ドロー表を見て、ちょっとガッカリすることとなった。

 そのころ、『テニスマガジン』で連載していた縁もあって、本村剛一選手を応援していたのだが、残念ながらケガかなにかで今年はエントリーせず

 ならばと、1995年全日本選手権チャンピオン金子英樹選手にシフトすると、なんと初戦鈴木貴男選手と痛すぎる同士討ち。

 これには思わず天をあおぐ。なんてもったいない……。

 しかも、勝った貴男も2回戦で、第1シードジェロームゴルマールに敗れて予選突破はならず。

 ちなみに、ジェロームは本戦1回戦で、ティムヘンマンを倒す金星をあげているから、予選の層の厚さがわかろうというもの。

 この試合は現地で見たけど、ファイナル11-9の激戦であった。

 日本人選手は、さらに2人山本育史選手、茶圓鉄也選手もいたが、ともに1回戦敗退

 まあ、このころの日本男子は、予選抜けることなんてほとんどなかったけどさ……。

 日本人選手は残念だったが、予選のいいところは、これからという若手選手や、アジア期待の選手、なかなかテレビ放送されない渋い実力者、なども観ることができること。

 特に大阪では、世界スーパージュニアテニスが開催されるので、そこで活躍した選手がエントリーしていたりすると、うれしいもの。

 まだジュニア上がりの、セバスチャングロージャンパラドンスリチャパンがプレーしていた。

 他にも、思い出せるところでは、元世界ランキング13位アンドレイチェルカソフがいたかな。

 平木理化さんや杉山愛さんといった、日本女子とミックスダブルスで、ビッグタイトルを取るマヘシュブパシ。

 前年度本戦ベスト16ジャンフィリップフルーリアン、オランダの巨人ディックノーマンに、両サイド両手打ちのジャンマイケルギャンビル

 ダブルスのスペシャリストである、セバスチャンラルーとか、サービスエース王のウェインアーサーズ。

 ネットで当時のドロー表見たら、そのときは目に入ってなかったけど、最高世界3位まで行ったイワンリュビチッチなんかもいて、こう見るとなかなかなメンツ。

 まあそうだよなあ。どんな選手だって、最初は予選からだもんなあ。

 思い返してみて、やはり本戦もいいけど、予選だって楽しい。

 みなさまも、ぜひウィンブルドンの予選を観戦して将来有望な若手をチェックし、数年後には、



 「まあな、あいつも今はがんばってるみたいやけど、オレが育てたようなもんや」



 通ぶれるよう、目を凝らしていただきたいものだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本でもっとも値打ちのない「断食道場」体験記

2017年06月17日 | コラム
 今日は「断食道場」なる場所を体験してきた友の話をしたい。
 
 友人サクラ君は悩んでいた。仕事プライベートも、いまひとつ調子が上がらず冴えない日々が続いていたせいだ。
 
 このままではイカン! 一念発起して、彼は「デトックス」をすることにした。
 
 一度体を空っぽにして不純物を取りのぞき、すみきった心身で新しくやり直そうと。
 
 そんな彼が「護摩業」「に打たれる」など数あるデトックス候補から選んだのが断食道場
 
 日帰りから、がっつり一月コースまである中から、サクラ君は10日間の日程を組んだ。
 
 最初聞いたときは遊び半分かと思ってものだが、どうやら結構マジにやるつもりらしい。
 
 友を送り出してから約2週間後、無事おつとめを終えたサクラ君と再会することに。
 
 さて、断食の成果やいかに。
 
 久しぶりに我が家に遊びに来たサクラ君は、まず単純にやせていた。
 
 そらまあ、そうだろう。本当に10日間も、しか飲まずにすごしたのだから、やせなきゃおかしい。
 
 5キロ以上はやせたというか、やつれたようだ。
 
 でも、意外と見た感じは健康そうではある。下山して、簡単な検査を受けたら特に異常もない。
 
 こちらが心配していた
 
 
 「無理な断食で体調を壊す」
 
 
 といったことはない模様。そこは、道場側もしっかりとケアしてくれていたようで、とりあえずは、安心した。
 
 で、やせた以外に何かもっと御利益があったのか。
 
 断食をすると、が鋭敏になったり、五感が研ぎすまされたりするというが、そういうことはあったのか。もしかしたら、チャクラでも開いて、空中浮遊でも出来るんとちがうか、と。
 
 そんな期待にたいしてサクラ君の回答というのが、
 
 
 「うん、最大の発見はアレやな日本のテレビはおかしいっちゅうこっちゃな」
 
 
 へ? それ、なんですのん。
 
 
 「日本のテレビは食べもんの番組が多すぎる。あれは変やで」
 
 
 サクラ君によると、断食中は頭がボーッとして、とにかく何もやる気が出ないのが困りものだそう。
 
 なもんで、ひたすらテレビでも見るしかすることがないらしく、寝ているとき以外はずーっと釘付けになっていたそうだけど、そこで皆が見るのが「グルメ番組」。
 
 お腹がすいたから、食べ物の番組。
 
 というのは、自然な欲求としてわかるような気もするがが、それだとよけいに空腹がこたえるのでは。
 
 素朴な疑問だが、サクラ君が言うには、
 
 
 「いや、一回やってみたらわかる。あれだけ腹が減ると、とにかく食べ物が見たくなるんや」
 
 
 友は続けて、
 
 
 「参加した人、皆見てたもん。ほんで、うらめしそうに《食べたいなあ》ってつぶやくねん」
 
 
 断食道場には、皆それぞれに目的があってやってくる。
 
 デトックスしたいもの、自分を高める「修行」だとやってきた人、それなりに崇高だったりするらしい。
 
 そんな人たちが日がな一日やることが、テレビの食べ物の映像に一喜一憂。
 
 朝起きると、ニュースで「地元のおいしい店」「田舎の新鮮な食材」みたいな特集をやる。
 
 午前中の「街ロケ」番組では、芸人やタレントが食べ歩き、昼の情報バラエティーでもまた「おすすめスイーツ」「デパ地下特集」。
 
 番組のコーナーでもシェフが出てきて、「今晩のおかず」みたいな料理コーナーが。
 
 もちろん、夕方以降もグルメ食べ歩き芸能人がすすめるお店と、山のように食べ物の話が。
 
 番組が終わると、次までのつなぎに、「3分クッキング」。
 
 そこから深夜まで、とにかく食べ物、食べ物、食べ物
 
 
 「もうな、とにかくチャンネルまわすと、24時間休みなく、どっかで食べ物のことやってるねん。どんだけ食うの好きなんや日本人。おかしいんちゃうか」
 
 
 まあ、おかしいといえばおかしいが、
 
 
 「断食道場で参加者全員が24時間グルメ番組ばかり見ている」
 
 
 というのも、相当にシュールな光景だ。 
 
 
 「断食の一番の成果は、日本のテレビは偏りすぎてるとわかったことや!」
 
 
 そう息巻くサクラ君。こちらからすれば、
 
 
 「いや、鋭敏な舌は? 研ぎすまされた五感は? おチャクラ全開悟りでGO! は、どないなったんや?」
 
 
 そういった話を待っていたのだが、
 
 
 「あー、そういうの、たしかにあるで。断食すると、コンビニ弁当に入ってるケミカルなもんの味とか、ジュースの砂糖とかがキツすぎて、しみるねん」
 
 
 そうそう、そういうのが聞きたいのよ。
 
 
 「五感も鋭くなるなあ。音楽とか音の一粒一粒が鮮明に聞こえるし、目も良くなった気がする。光が強すぎて、ネオン街とか歩かれへん」
 
 
 やっぱりそうなんや。
 
 イスラムの人が、
 
 
 「断食すると心身が研ぎすまされる」
 
 
 ていうのは、ホンマやったんや(ムスリムには「ラマダーン」という断食のイベントがある)。
 
 
 「でもなあ、たしかにそうなるけど。だいたい3日で終わるな」
 
 
 へ? あ、そうなの?
 
 
 「スーパーマリオのスターと一緒。一瞬チカチカして無敵になるけど、1分したら元のチビなマリオに戻るやろ。イメージはあれですわ」
 
 
 あれ? そうなん? なんか……それは甲斐ないなあ。
 
 サクラ君曰く、断食道場10日間でわかったことは。
 
 
 1.とりあえず、やせることは間違いがない

 2.断食すると、ものすごくテンションが下がる。
   その分、五感は鋭くなる。
   その「無敵効果」は継続時間3日。

 3.断食参加者は皆、24時間グルメ番組ジャンキー。

  4.日本のテレビ局は、食いもんばっかりに頼るな!
 
 
 最後に友はまとめて曰く、
 
 
 「まあ、あれやな、ちょっとメシ食わんかったくらいでは、人間、煩悩は断ち切られへん、いうこっちゃな」
 
 
 それをいっちゃあお終いよ、な結論であった。
 
 以上、友人サクラ君の「日本でもっとも値打ちのない10日間断食体験」でした。また来週。
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柴田元幸『翻訳教室』は「日本語力」向上におススメです

2017年06月14日 | 

 柴田元幸『翻訳教室』を読む。

 2004年10月から2005年1月にかけて、東大文学部で行われた柴田氏の翻訳の授業を、ほぼそのまま採録したもの。

 私は外国語の話が好きなので、こういう翻訳関係の本もよく読むのだが、さすがは名訳者として誉れ高い柴田先生、実に読ませる(聞かせる)講義を行うものである。

 これを読むと「翻訳」というのが、われわれのイメージする「英文和訳」とは、かなりちがうものであるということがわかる。

 ふつうなら英語の本など読むとなれば、意味をざっとつかむのだけでも苦労するが、ここではその先の、そのまた、さらに先まで進んだ話をすることとなる。



 「意味を取った文章を、そこから、どう料理するか」

 

 これこそが本題。

 ポイントは、

 「英語力よりも日本語力」。

 特に文芸翻訳は、単にタテのものをヨコにするだけではつとまらないが、ここで大事になるのが日本語の力と、言葉に対するアンテナの張り方。

 助詞のひとつも、あだやおろそかにしない、繊細な、言葉へのこだわりが、読んでいて実に心地よい。

 「listen」は「聞く」なのか、それとも「聴く」なのか。

 英語独特の反復表現によるリズムを、日本語でも踏襲して訳すべきなのか。

 作者が意図する悪文は、読者に

 「読みにくい」

 「訳が下手

 と思わせる危険があっても、それにならうべきか。

 英語の「you」は人間一般を指すために訳さないのか、それとも、あえて「」とすべきか……。

 などなど、漫然と読んでいるだけではなかなか伝わってこない、訳者たちの苦労の後が、これでもかとかいま見える。

 もう、先生と生徒のキャッチボール、その一投のたびに、

 「なるほどー」

 思わず感嘆すること請けあい。

 これを読むと、外国の本を読むときに、「厚み」というものが出るようになるはず。

 一行一行を、あたらおろそかにはできなくなる。

 また、翻訳に興味はなくても、この本は「日本語教室」としても、たいそう質の高い内容となっている。



 「助詞の反復をいかに避けるか」

 「気付きにくい重複表現」

 「句読点の使い方による、文章のリズム」



 などなど、それこそブログツイッターをやっている人でも、読んでいてためになること間違いなし。

 これまでよりも、少しばかり自分の文章を大切にあつかおう、という気になります。

 ものすごく高度なんだけど、文は平易で読みやすい。しかし、中身はズッシリ詰まっている。

 読了後は、ちょっと頭が良くなった気がする、すぐれものの一冊。

 そんなに高度な英語力はいりません、良質な知的興奮を味わいたいときに、ぜひどうぞ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

博多大吉先生、TBSラジオ『たまむすび』で若者のテレビ離れついて語る その3

2017年06月11日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 「今の若い子はね、テレビがおもしろくないんじゃなくて、わからないらしいんですよ」

 昨今の「若者のテレビ離れ」を、「世代間のギャップにある」と分析した博多大吉先生。

 私は後輩相手に説教したりする趣味はないから、まだそうでもないと思うけど(いや、これだって気づいてないだけかもな)、たしかに各所で、そろそろ我々世代が発言権を持ったり、「権力者」になつつある気配はある。

 10年後にはバブル世代の代わりに、まちがいなくそうなるのだ。これには、ついに

 「自分たちもそういう歳になったのか」

 ということと、

 「なるほど人間というのは同じあやまちを、こうして、くり返していくのだなあ」

 なんていう二重の意味でしみじみしたものだ。

 そっかあ。オレら、そろそろ煙たがられ出してるんだあ。だからみんな、テレビを見ない。自分を客観視するのは、むずかしいもんだなあ。

 人のふり見てわがふり直せと言いますが、なかなかそうはいかないもの。

 たとえば今、私の少し上くらいの世代が、さかんに「ゆとり世代はなあ」とカマしてますが、彼ら彼女らの言う、


 「上昇志向がない」
 
 「先輩と飲みに行かない」

 「性欲が弱まっている」

 「仕事に覇気がなく、定時に帰りたがる」



 って決まり文句は、まさに彼らが上の世代から「新人類」のレッテルを貼られて、これでもかと説教されたことと、まったく同じ。

 似たようなところでは「バブル世代」も、


 「教養でなく情報しか持ってない」

 「売り手市場で就職したから使い物にならない」

 「消費するだけで自分から生み出すことがない」



 なんか、どっかで聞いたことあるような決まり文句が並びます。
 
 私はそうして、先輩たちが説教されてるのを聞いてきたし、当時の雑誌の記事や作家のエッセイには、やはり同じことが書いてある。

 というか、パオロ・マッツァリーノさんの本によると、そもそも戦前、大正、明治から江戸から、おそらくはそれ以上前の人類開闢の時以来、大人というのは下の世代を、相も変らぬ「クリシェ」でもってディスってきたのだ。

 そら、「大人の説教」が若者の耳に入らないのも当然であろう。もう何十年、下手したら何百年何千年も同じことをくり返すなど、まさに「最近の大人は上昇志向がない」「想像力を失っている」と言われても仕方ないのではないか。日本はもうおしまいかもしれない。

 だから私は、「元若者」たちの鬼の首でも取ったかのような「ゆとり世代はなあ」という言葉を聞くと、なんだか絶望的な気分になる。

 いや、みんな同じこといわれてましたやん。で、しおらしく聞くふりして、陰では「オッサンて、バカばっかりやな」ってあきれてましたやん。

 それと、アンタ同じことしてまっせ、と。しかも、「ゆとり世代は学力低下したから」というのを、錦の御旗に思っているのか、妙に強気だ。

 もしかしたら、

 「オレたちは『いわれなき説教』だったけど、奴らは『本当に質が低下した』から、なにを言ってもいい」

 とでも思ってるのかしらん。だとしたら、思い上がりとカン違いもはなはだしいだろう。

 仮にあったとして、差なんて、おそらく誤差の範囲内だ。だって、みんな同じこと言われてきたんだから。なのに、「オレたちの若いころとくらべて」とか、あほらしいよ。

 いわゆる「ゆとり教育」の最大の弊害は、学力うんぬんではなく、大人に「ゆとり世代にはキツくカマしてやってもいい」という言質をあたえてしまったことであろう。

 思いっきりそれを目の当たりにしてたもんだから、私自身は勝手に、

 「自分たちの世代はそのことを記憶しているから、人生の先輩たちと同じ轍は踏まないはず」

 と思いこんでいたんだけど、どうもアヤしいようだ。というか私だって気づいてないだけで、きっと「やってる」な。10年後がおそろしい。

 まあ、別に無理して若者に合わせる必要はないし、ノスタルジーはある意味年長者の特権だけど、それを知らないからといって若者を笑うのは、まったくもって迷惑なだけであろう。

 そもそも、いばる根拠もないし。

 これには大吉先生のみならず自覚的な人もいて、たとえばマツコ・デラックスさんも『月曜から夜ふかし』で、「ティラミス」や「ナタデココ」の思い出を語ったあと、


 「このコーナー、もうやめない?」

 「どうせ客も、『知らねーよ!』って思ってんだろ!」



 なんて照れかくしで語調を荒らげていたけど、こうした多少なりとも客観性がないと、ついおちいりやすい同世代トーク。まったく、油断できない罠である。

 言うまでもなく、私は若者にこびろと言っているわけではない。

 「若者というのはわれわれもその先輩たちもふくめ、いつの時代も同じように未熟なところや先人と価値観の違うところがあるのだから、自分が《そこをすでに通過したから》といって、その過去を忘れたり棚にあげたりして、あたかも《自分はそうではなかったが》という態度で偉そうにするのは、フェアではない」

 というだけのことだ。 

 とにかくヤング諸君の言いたいのは、「オレらにわからん話を押しつけるな」と。でも、これはもう、おそらくは人類が永遠に悟ることのできない不治の病なのであろう。

 できることは、せいぜいマツコさんみたいに、「こんな話、知らないよなあ」と気をつけておくくらいか。

 ただひとついえることは、今うちら世代に「キン消し」や「ビックリマンシール」について語られてウザがっているヤング諸君も、20年くらいたったら、まちがいなく同じことをします。
 
 新たに出てきた「新・新人類」だか「団塊ジュニアジュニア」だか「ゆとり世代リターンズ」だかたち相手に、


 「オレらんときはスマホが全盛で、Siriとか使ってて」

 「AKBって知ってるやろ? あの子ら、今はおばちゃんなったけど、昔はかわいかってんで」

 「『ONEPIECE』読んでないの? マジで? うわー、人生半分損してるわあ」



 とか語りまくって嫌がられます。

 でもって、「最近の若いやつは、先輩の誘いを断りやがる」「上昇志向ってものがないんだよ」ってボヤきます。つい昨日、キミたちが食らった「ウザ!」という説教を、一言一句変わらず、下の世代に継承していきます。

 え? オマエらと一緒にするな? オレたちはそんなことしないって?

 いやいやいやいや! 絶対にするんですな、これは。なぜなら、これは人類の持つ「癖(へき)」だから。たぶん、治らないんです。

 いやホント、賭けてもいい。でもって、悲しことに対策もない。なんとかするにはもう、不可能を可能にする、増田未亜ちゃんの「オネガイパワー」に頼むくらいしかないかも。

 え? なんですかそれ、って? 河崎実の『地球防衛少女イコちゃん』のこと知らんの?

 これやから、今どきの若いヤツは!(←いや、それは知ってなくてもいいんでは?)
 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

博多大吉先生、TBSラジオ『たまむすび』で若者のテレビ離れについて語る その2

2017年06月10日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 「今の若い子はね、テレビがおもしろくないんじゃなくて、わからないらしいんですよ」

 「若者のテレビ離れ」をそう分析したのは、博多大吉先生であった。

 つまり、今のテレビは内容うんぬん以前に、「世代情報がかたよっている」ため、若者が知らないことが話題に上りやすく、興味がわきにくいというのだ。

 私もそのことを実感したのが、ある日、なにげなく聴いていたラジオ番組。

 そこでは、私と同世代くらいだと思われる芸人さんかDJが、やはりいつものごとくというか、


 「それ、『ドラゴンボール』でいったら、ピッコロの立場だよね」

 「『北斗の拳』だったらどうだろ」

 「『ストリートファイター2』でたとえたほうが、わかりやすいんじゃない?」



 みたいな「よくあるノリ」で盛り上がっていた。

 私などは聴きながら「同世代くらいのタレント、ホンマに多いなあ」なんて思っていたんだけど、ひとつ気になったのが、この手の話題やたとえが出ると、かならずといっていいほど、アシスタントの女の子やゲストが黙りだすこと。

 別に、不機嫌だったりするわけではなさそうで、そこに気づいたあるパーソナリティが、「なんでしゃべらないの?」と振ってみると、彼女らは、


 「会話に参加はしたいけど、全然わかんないんです」。


 これには私も「やっぱり」と苦笑いを禁じ得なかった。

 そらそうだよなあ。我々世代の男子なら、ジャンプやスーパーファミコンはだれでも知ってる必修科目だったけど、今の、それも女の子に言うてもわからんわな。

 そら、置いてけぼりにした男どもが悪い。

 そう納得しかけたのだが、ラジオの男性陣はそうはいかなかったらしく、


 「えー? なんで知らないの?」

 「こんなの、常識でしょ」

 「『北斗の拳』とか、この程度のことわからないって、それおかしいよ」



 などと、ガンガンにそのアイドルだったか女子アナだったかを、イジり出すのである。

 これにはさすがに、苦笑を通りこして「おいおい」となってしまった。

 そら、世代的に知らんもんは知らんであろう。われわれだって、自分が生まれる前、それこそ1970年代の大阪万博やオイルショックの熱狂とか言われても、ついていけない。

 そりゃ知識としてないことはないけど、「同時代感」の温度は共有できないのだ。

 ところが、同世代男性陣は女の子たちの「無知」にイラッときたのか、それとも優越感を刺激されたのか、はたまた「この流れはおもしろい」と思ったのか、


 「このへんのマンガ、パチンコとかにもなってるじゃん」

 「女の子でも、ゲームくらい、やったことあるでしょ? スト2なんか、基礎中の基礎だよ」

 「これくらいのことは知っておこうよ。常識として」



 なんて、相当にしつこくかぶせるのである。

 私はここで、背筋にザワザワしたものを感じはじめた。

 あれ? これなんか、見たことある光景に似てるぞ。それも、あんまし愉快でないタイプの。

 そう、この流れって、

 「『自分たちには青春の輝きだけど、若者にとっては古びて接したことのないモノ』を、まつりあげて相手をポカーンとさせ、あまつさえ『その同時代を生きてきただけ』のことにすぎないのに、なぜかそのことを根拠に『今』を生きている者たちのことをあれこれ言う」。  

 つまるところ、我々が若いときにウザがっていた、「説教好きな、語りたがりオジサン」のしていたことではないか!

 まだ10代のころ、野球を見ていたら


 「ONはすごかった」

 「金やんは160キロを常時出していた」



 などと語って、野茂やイチローを鼻で笑い、ことあるごとに、


 「今の若者はギラギラしたものを感じない」

 「学生運動をやってたころのオレたちは骨があった」


 などと《武勇伝》を語りたがる。

 テレビで雑誌で、学校でバイト先で、皆様それはそれはビッグな態度であり、まさに「知らんがな」の嵐であった。

 で、そのえらそうだった一部の「大人サマ」がやっていたことといえば、バブルで踊って浮かれまくった末、盛大にはじけるというトホホぶりで、

 「説得力ないなあ」

 なんて思ったもんだけど、ちょっとそれをトレースしているのだ。同じ穴のムジナっぽいぞ。

 なるほど、「歴史はくり返す」というやつだ。

 われわれ世代は、すでに豊かになった日本でゆるく育ってきたから、上の方々のような「年功序列的マウンティング」はあまり好まないとは思うけど(たぶん)、それにしたってきっと、さんざん「常識でしょ」と、つっこまれた若い女の子たちは、顔では笑みを浮かべながら、

 「くわあ! オッサン、ウッザ!」

 心の中で、あきれまくっていたことだろう。20数年前の我々のように。

 なるほど、大吉先生の言うことは正しい。彼ら彼女らは、テレビでわれわれ世代のタレントが、


 「ネットなんてないから、音楽はカセットとかCDで聴いてて」

 「ケータイやなくてポケベル使っててんで。裕木奈江のドラマがメッチャ流行ってて」



 みたいな話をキャッキャしているのが、理解不能なうえに興味もなく、めんどくさいとも思っているのだ。

 そう、20数年前の我々のように、だ。

 あまつさえ、場合によってはそんな連中に「知らないのはおかしなことだ」くらいの勢いで、いわれなき説教を受けるのだから、そら敬遠したくなる気持ちもわかる。

 むしろ、「わからない」という穏便なところだけを主張してくれる、(それこそ私たちも昔やってきた)「大人の態度」に感謝すべきなくらいかもしれない。

 そんな記憶があったもので、大吉先生の「テレビ離れ」分析には、たいそううなずけるところがあるのだが、今のヤングたちからすると、

 「え? オッサンって、そんなことにも気づいてないの?」

 おどろかれるかもしれないが、そう、きっと私らみんな、自らの行為に気づいてないのだ。



 (続く→こちら




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

博多大吉先生、TBSラジオ『たまむすび』で若者のテレビ離れについて語る

2017年06月09日 | ちょっとまじめな話
 「今の若い子はね、テレビがおもしろくないんじゃなくて、わからないらしいんですよ」

 水曜日の昼下がり、TBSラジオ「赤江珠緒のたまむすび」で、そんなことをおっしゃったのは、お笑い芸人の博多大吉さんであった。

 昨今、若者のテレビ離れが進んでいると言われている。

 その理由として、ネットの普及や、不況による制作費の低下、過剰な自主規制や、単純に面白くなくなったなど様々な原因が語られているが、大吉先生はそこにもうひとつ、上記の理由をあげたのである。

 きっかけは、先生が若い子と話す機会があった際、「なんでテレビ見んの?」みたいな流れになり、やはり「見るものがない」「動画サイトで見る」などの答えとともに、

 「出てるタレントさんの話していることが、いまいちよくわからないんです」。

 言うまでもなく、この場合の「わからない」は理解力云々のことではない。そもそも、彼ら彼女らが今のテレビが「わからない」のは番組の内容や質でなく、ましてや若者の教養不足でもなく、

 「単純な世代間のギャップ」。

 ということらしいのだ。

 大吉先生の分析では、今のテレビ界、特にお笑いの分野に関しては、アラフォー世代の中堅組が席巻している。

 なれば自然と、番組内の話題なども、そういった人が語りやすく、また同じくらいの世代の共感を呼ぶ内容に偏ってしまい、テレビ番組や流行り言葉、子供のころの遊び、好きなアイドルやファッションなども、だいたいが、

 「昭和40年代後半から、50年代前半生まれ」

 の、それも男の知識や趣味が、如実に表れるものとなってしまう。

 で、若い子からしたら、そもそも昔のことだからわからないし、そこから生まれるノリにもついていけない。

 平たく言えば「オッサンの話とか、知らんがな」ということなのだ。

 なるほど、そういわれると、うなずけることはある。

 以前、漫画家の山田玲司先生が、

 「テレビってさ、今の子見ないじゃん。だから、アメトークってキン肉マンとかガンダムとか、《40歳くらいの男が昔をなつかしむ番組》になってるよね」

 とおっしゃられて、元ヤンキースの松井秀喜さんと同期生のまさに「アラフォー」の私には「たしかに」とうなずけるところはあった。

 私も以前から、テレビで漫才やコントなど見ていて、マンガのネタのとき判で押したように、『ドラゴンボール』や『北斗の拳』をベースにし、スポーツや恋愛がテーマのトーク番組では

 「『タッチ』の南ちゃんみたいなマネージャーが」

 とお約束のように語りだし、ゲームはマリオかドラクエ、アイドルといえばおニャン子、お笑いのスターは今でもダウンタウンやとんねるずであり、そのチョイスが「ベタ」なのはテレビという媒体上しょうがないのかもしれないけど、

 「それって、オレらの世代以下の子らに、ニュアンスちゃんと伝わってるの?」

 そこを危惧するところはあった。

 しかしまあ、そうはいってもモノがモノである。いくら「古い」ものとはいえ、バブル時代のノリや、「宮沢りえのヘアヌード写真集」といった話題は、美空ひばりや『サザエさん』のような、

 「世代を超えてだれでも知ってる教養」

 だと思ってもいたものだ。

 どっこい、これがまったくの我田引水というか、勝手な思いこみであったことを知らされたのは、やはりあるラジオ番組であったのだ。



 (続く→こちら



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読み終えて「なんじゃこりゃあ!」 『北村薫のミステリー館』の稲垣足穂『本が怒つた話』

2017年06月05日 | 

 松田優作小説というのがある。

 これは私が、勝手に考えた個人的ジャンルで、名優松田優作が出てくるというわけではなく、読み終えたときにジーパン刑事のごとく

 

 「なんじゃこりゃあ!」

 

 思わず叫んでしまうような、おかしな小説のことである。

 前回(→こちら)はフレドリックブラウンの快作『さあ、気ちがいになりなさい』を紹介したが、今回は『北村薫のミステリー館』。

 北村先生といえば、『空飛ぶ馬』でデビューして

 

 「日常の謎」

 

 というミステリの新ジャンルを開き、その後も幅広い作風で活躍。

 あれこれとややこしいこともあった末、直木賞をなんとか受賞されて周囲をホッとさせたときには、ただただ拍手が出ました。高き先生なのである。

 私もミステリ野郎として、先生の著作は多く手に取っているが、かの傑作『ニッポン硬貨の謎』がすばらしい。

 これがまた、ラストがものすごい「なんじゃこりゃあ」な驚天動地のシロモノで。

 その遊び心というか、あえてこの言葉を敬意をこめて使わせていただくと、「大バカミス」な発想には、心底シビれたもの。

 あの北村先生が、そのあふれくる教養をもってして、こんな底抜けなことをやる。

 人生とはなんと美しいのかとマジ泣きした、会心の「松田優作小説」だ。

 そんな北村先生は、執筆だけでなく、アンソロジーの達人としても知られている。

 新潮社の『謎のギャラリー』や、宮部みゆきさんとコンビを組んだ、ちくま文庫の『名短編、ここにあり』シリーズなどなど。

 洋の東西ジャンルを問わず、様々な名作で「ドリームチーム」を編んでいらっしゃる。

 この『ミステリー館』もおもしろ小説(マンガ戯曲もあり)せいぞろいで、なんとも楽しい。

 不眠対策の「寝床での、一人しりとり」から話が広がり「わっかるなあ」と、うならせる岸本佐知子夜枕合戦』。

 南米文学を思わせる幻想的雰囲気と、そこはかとない不気味さをたたえた、西洋版江戸川乱歩ともいえそうなジャンフェリー虎紳士』。

 短編の名手といえばこの人。私も大好きなヘンリイスレッサーが、ここでもやってくれました。

 ラストで悲鳴が上がること必至の、切れ味鋭い恐怖小説『二世の契り』。

 トリにこれを持ってくるのが、また絶妙。

 ラストの一行がしっとりとした深い余韻を残す、村上春樹訳、ジェーンマーティンバトントゥワラー』。

 もう、どれもこれもハズレなしのラインアップなのだが、中でもインパクトがあるのが、稲垣足穂の『本が怒つた話』。

 数行の短い話なので、ここに引用してみたい。



 或る日、三階で読んでゐた本をポンととじたハヅミに耳のそばで

「面白いか?」と云ふ声がしたので

「面白くない」と云ふと

「何が面白くない! 何が! 何が! 何が!……」と肩をこづきまはされて、窓ぎはに押し行かれて、おまけに足をはね上げられたので、アツといふ間に明いてゐた窓から真逆様に落ちた。




 これでお終い。見事な「なんじゃこりゃあ!」。

 世の中には、おもしろい物語が、まだまだ山ほどあるなあと思わされましたです、ハイ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読み終えて「なんじゃこりゃあ!」 フレドリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』

2017年06月04日 | 

 「松田優作小説」というものが、この世には存在する。

 それは小鷹信光先生の『探偵物語』のような、優作関係の書物ではなく、そのアクロバティックな内容ゆえに、ジーパン刑事のごとく、



 「なんじゃこりゃあ!」



 さけびたくなるようなシロモノのこと。

 前回(→こちら)は江戸川乱歩の傑作『孤島の鬼』などを紹介したが、今回は、私の大好きなフレドリック・ブラウンさあ、気ちがいになりなさい』。

 フレドリックといえば、まさにその発想がすばらしく、どれをとっても、

 

 「なんじゃこりゃあ!」

 

 なステキな作家だが、中でもホームラン級の怪作が、これであろう。タイトル最高だ。

 これまでは、読者のをそいではいけないのと、あとは手品タネと一緒で、説明しちゃうとミもフタもないところからオチはふせてたけど、今回は全部語っちゃいますので、未読の方は飛ばしてください。

 

 



 新聞記者ジョージは、ある日、編集長から精神病院への潜入取材を命じられる。

 その内容は秘密にされ、また事故で3年前からの記憶をなくしているジョージはやや不安を覚えるが、ともかくも「妄想にとりつかれた男」として入院することになる。

 だが、ジョージにはもうひとつ不安材料があった。仕事に際して、



 「自分をナポレオンだと思いこんだ男」



 のふりをして病院に入りこんだが、実のところそれは妄想ではなく、彼は本当にナポレオンなのだ。

 ヨーロッパでの戦争中、何者かに意識を抜き取られて、アメリカの新聞記者ジョージに精神を移植されていたのだ。

 そのことを隠して取材を続けるが、患者仲間に忠告を受けることになる。

 もし君が、ただ自分をナポレオンだと思いこんでいる病人だったら、すぐにでも退院できる。

 だが、もし本物のナポレオンだった場合「治療」は不可能だから、死ぬまで閉じこめられることになる。

 ジョージはこれを聞いて疑心暗鬼におちいる。

 これはどういうことなのか。自分はどんな仕事をさせられているのか。もしかしたら、これは巧妙なか? 失われた記憶は?

 やがて明かされる、「何者」かの正体。すべてのが解けたとき、ジョージに身をやつしているナポレオンは、その衝撃に耐えきれず発狂する。

 そうして気が狂い、

 

 「自分のことを、新聞記者ジョージという妄想に憑りつかれたナポレオン



 は「完治」したとして退院し、そのままジョージとして、健やかな一生を送るのだった。

 もうね、読み終えたとき「えええええ!」と声をあげて、ひっくり返りそうになりましたよ。

 よう、こんな話思いつきますなあ、と。

 現実と妄想が、二転三転のメリーゴーラウンド。そら、星新一藤子不二雄心酔するはずや、と。

 いやホンマ、頭おかしくなりそうでしたよ。フレドリック、カッケー!

 まったくSF作家の奇想はぶっ飛びまくっているが、これをもしのぐであろう、さらなる「なんじゃこりゃあ!」もこの世界には存在し、ダグラスアダムズ銀河ヒッチハイクガイド』の一説。



 「銀河ハイウェイの建設工事を行うため」

 

 という理由から、たった2分宇宙人に滅ぼされる地球

 地上げ(!)により故郷を失ったアーサーデントは、人類最後の一人として様々なトラブルを乗り越えながら宇宙をするのだが、そのエピソードのひとつに、



 『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』



 を、スーパーコンピューター「ディープソート」に計算させるというものがある。

 750万年かかってはじき出した答えというのが、なんと「42」。

 これをはじめて読んだときは、心底シビれました。

 生命宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えが、なんの味もそっけもない「42」という数字であると。

 「」とか「666」とか「」といった思わせぶりな数字ではなく、素数ですらない「42」とは……。

 その発想力には言葉も出ません。

 SFってすごいなあと、ただただ感動しました。

 最上級の「なんじゃこりゃあ!」です。ありがとうございました。



 (北村薫編に続く→こちら




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読み終えて「なんじゃこりゃあ!」 江戸川乱歩『孤島の鬼』&ヴィクター・コントスキー『必殺の新戦法』

2017年06月03日 | 

 『松田優作小説』に出会うと、小躍りしたくなるほどうれしい。

 といっても、これは伝説の俳優には関係なく、あまりの奇想に、読み終えたとき、



 「なんじゃこりゃあ!」



 そう叫んでしまう小説のことである。

 前回(→こちら)はアルゼンチンの作家コルタサルや、ウィリアムブリテンジョンディクスンカーを読んだ男』を紹介したが、今回もそんな変わり種を。

 たとえば、ヴィクターコントスキー必殺の新戦法』。

 主人公は、あるチェスプレーヤー

 成績的にはさえない地味な男だったが、あるころから連勝街道を走りだす。

 どうやらその秘密は、彼の発見した画期的な新戦法にあるらしいのだが、はたしてその正体とは……。

 チェス小説のアンソロジー『モーフィー時計の午前零時』に収録されている短編だが、これが実にイカれている。

 物語のキモは、彼の編み出した新戦法がどういうものかだが、その正体というのが、ぶっ飛んでいるなんてもんではない。

 書いてしまったら、おしまいだから自粛するが、あまりの内容に茫然自失抱腹絶倒、そして大爆笑

 なんというのか、



 「チェスを題材に小説を書いてみよう」



 という出発点からは、絶対に出てこない発想なのだ。

 ようこんなん思いつくなあと、心底感心しました。

 こんな素敵に阿呆な小説は大好きだ。

 ファルス(と勝手にジャンル分け)としてのお気に入り度は、坂口安吾風博士』と並ぶかも。

 シェリイスミス午後の死』を読んだ小泉喜美子さんのごとく


 


 「こんな小説、書いてみたいねえ」



 思わず、つぶやく一品。

 たとえば、江戸川乱歩孤島の鬼』。

 乱歩先生といえば、探偵小説界の巨人であり、われわれミステリファンなら足を向けて寝られない、それはそれは偉大な人。

 そんな先生のすばらしいところは、そんなビッグマンでありながら、同時にそれはそれは



 「なんじゃこりゃあ!」



 な作品を、たくさんものしていること。

 乱歩チルドレンの一人である大槻ケンヂさんは、



 「乱歩をあつかった映画がつまらないのは、彼を『アーティスティック』ととらえているから。

 そうじゃなくて、乱歩は開いた口がふさがらなくなる駄作や、奇想としかいいようのない『バカ』なものも書いてて、むしろそっちこそが本質なのだ。





 これには、やはり子供のころ、乱歩先生から読書のすばらしさを教えてもらった私も大賛成だ。

 かの大乱歩を「アート」など、まったくしゃらくさい

 たしかにビッグ乱歩はSМ趣味や少年愛エログロナンセンスな要素を小説に取り入れてはいるが、それはどこか、「B級」テイストなのが持ち味だ。

 『人間椅子』『鏡地獄』『D坂の殺人事件』『パノラマ島奇譚』などなど代表作は、ときに「芸術的」に解釈されるけど、その中身は読んでみるとどこか「?」というか、腰くだけなところがポイント。

 たしかに美しくはあるけど、それはどこか駄菓子屋的というか、ジャンク安いところに味があるのだ。

 そのトホホというか、「バカ」なところが、グレート乱歩の妙味ではあるまいか。

 だから、子供向け作品も上手なのだとも思う。

 そんな数ある奇想の中でも、さらによりすぐりのものに、この『孤島の鬼』がある(以下ネタバレはしてないけど、カンのいい人はわかっちゃうかもしれないから飛ばしてください)。

 密室殺人同性愛フリークス洞窟での大冒険と、乱歩テイストをこれでもかと詰めこんだ、著者自身も認める代表作であるが、この結末がすばらしかった。

 いや、ミステリのクライマックスのキモといえば「犯行の動機」であり、世の中には、



 が欲しかったから盗んでやった」

 「オレを愛さなかったから殺してやった」



 とかとか、激しいのになると、



 「この腐った世界など、一度滅びてしまえばいい!」



 なんていう人もいるけど、まさか、




 「この腐った世界など、一度滅びてしまえばいい! そして、地球を〇〇の世界に作り変えてやるのだ!」




 とは、恐れ入りました

 それって、今流行りの〇〇〇ものの走りというか、ある意味ディズニーならぬ、〇〇〇〇〇ランドを作りたいってことでは(笑)。

 これには恐ろしさに背筋が凍るやら、あきれて爆笑するやら、「やっぱ先生は天才や!」と感心するやら。

 ともかくも、傑作なのは間違いなし。みんなも読んで、その奇想にぶっ飛びましょう。




 (フレドリック・ブラウン編に続く→こちら




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読み終えて「なんじゃこりゃあ!」 フリオ・コルタサル&『ジョン・ディクスン・カーを読んだ男』

2017年06月02日 | 
 「こいつは極上の『松田優作小説』だぞ」。

 そう欣喜雀躍したくなる本というのはあるもの。

 というと、「松田優作の小説? そんなのあるっけ?」と首をひねられる方もおられるかもしれないが、そういうことでは、もちろんない。

 私がいう松田優作小説とは、彼が出てくるのではなく、読み終えたときに、その内容のぶっ飛び方ゆえ、思わずジーパン刑事のように、

 「なんじゃこりゃあ!」

 そう叫んでしまう小説のことである。

 その発想、内容、特にオチの部分で思わず「なんじゃこりゃあ!」。ハズレで思わずということもあるけど、感心したりバカだったり、いい意味のところで出会えると、それはそれは極上の読書体験。

 たとえば、アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサル。

 南米文学といえば、一時期ブームになったこともあったが(あったんです)、私が初めて読んだのが、コルタサルの『悪魔の涎・追い求める男』。

 ラテンアメリカ文学初体験のこの作品に、私はぐわわんと魂を打ち抜かれ、脳みそを揺さぶられた。それはまさに、私の知っている従来の「小説」というもののイメージを、ポーンと飛び越えたところにある異空間であった。

 俗にマジック・リアリズムと呼ばれるその独特の文体は、まるで麻薬を飲まされ酔わされたかのごとく、幻覚と幻視で目まいにおそわれる。

 訳者の木村榮一さんは「メビウスの輪」と表現しておられるが、フリオの作品は「幻想的」だが、どこまでがリアルで、どこからが幻想の入口かが判然とせず、呆然として立ちすくむ。

 その意味では、彼の小説は「樹海探検」のようでも「かたむいた家での生活」のようでもあり、まっすぐ歩いているはずなのに、いつのまにか崖から転がり落ちている。

 コンパスが効かず、ともかくも足元がふらつく感じ、そこがたまらない。

 文学とは、こんなにも自由なものなのかと感嘆。まさに「なんじゃこりゃあ!」な一冊。大げさでなく、読書人生オールタイムベストのナンバーワン候補だ。

 もう一冊はミステリで、ウィリアム・ブリテン『ジョン・ディクスン・カーを読んだ男』。

 カーといえば、ミステリ界きってのトリックスター。

 けれん味たっぷりのその作風は、絶賛する信者がいる反面、「ふざけとんのかボケ!」と本をたたきつける、まじめな人もいるという二者択一。

 平たくいえば「バカミス」キングなのだが、「王者」と呼ぶ人もいれば、からっきしな人もいて、賛否両論大きく分かれるドリアンのようなお人。

 また、そんな侃々諤々を高みから、いたずらっぽく見下ろしているのがカー先生という存在なのだ。

 そんなカー先生リスペクトの本作は、彼のミステリといえばコレということで密室殺人もの。

 カーを読んだ主人公が、カーにあこがれて(!)密室殺人を決行。

 その完璧なトリックに温泉気分でいた主人公だが、たったひとつ、彼は大きなミスを犯してしまった。その致命的な見落としとは……。

 基本的にミステリというのは、アイデア勝負だが、本作のラストは密室ものワンアイデアの極北にある、とんでもないもの。もう、これ一回こっきり。

 まさに本家カーのごとく「こうきたか」と爆笑するか、本を投げつけるか。というか、こう書いたら、カンのいいミステリファンはもうわかっちゃったかも。

 賛の人も非の人も、もれなく最後で「なんじゃこりゃあ!」な気分を存分に楽しめる小品。バカだなあ。


 (江戸川乱歩編に続く→こちら





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする