不肖この私が「愛国者」を自認するのは、旅行好きだからである。
海外に出ると、いろんなカルチャーギャップから、自分が「日本」の価値観にいかに大きく縛られているかがわかる。
好きなところもそうでないところも含めて、自分は日本人なのだと。そのことを実感できる。
「日本人である自分」と、
「他者の視点を多少なりとも内包し、それを少し離れたところから観察している自分」
このふたつの視点を手に入れることができるのだ。
これは私だけでなく、たとえば京都出身で、多くの京都モノの作品をものしている漫画家のグレゴリ青山さんは、
「住んでいるときは気がつかなかったけど、京都から出てはじめて『京都って、こんなおもしろいとこやったんやー』と感じることができた」
そうおっしゃっておられるし、『反社会学講座』のパオロ・マッツァリーノさんも、
「『地元を愛そう』という教育をしたいなら、地元から出るようにうながすべきだ。ずっとそこにいて、外を知らないまま『地元を愛』したところで、それは単なるひとりよがりの自画自賛でしかない」
といった意味のことをおっしゃられていた。
「日本には四季がある」と自慢げに語って「いやいや、よその国にもふつうに四季はあるよ」とつっこまれたりするのはよくあるけど、そう、「自分のこと」というのは、「よそのこと」を知らない限り、決して知ることはできない。
他者を鏡に自分を見る。「アイデンティティーの確立」とは、まさにそういうことなのだ。
「旅は人を賢人にはしない」が、旅は自分を「自分」にしてくれる。
これは「自分探しの旅」のような
「自分は何者でもないけど、今は表れていないだけで、本当はどこかにあるはずの『才能』や『個性』といった言葉が似合うステキな自分」
といった都合のいいファンタジーではなく、広い世界の中でポツンとたたずむ、なんてことなくて、いまさらそれは避けられないのだけど、それでもそれなりに、いろいろないこともない、等身大の自分だ。
バックパッカーとしてユーラシア大陸を横断した、漫画家である小田空さんの傑作『目のうろこ』からの言葉も借りてみよう(改行 引用者)。
「1年の旅行を終えて帰ってきたとき、友人たちはおだが全然変わっていないのを見て、『1年間押し入れに隠れていたんじゃないの?』と笑いました。
旅をして人生観や価値観が変わってしまうほど、おだは浅くないさ……と、偉そうにタカをくくっていたのですが、やっぱり知らず知らずのうちに、なにかが変化していたみたいです。
それはおだにとって、日本が自分の世界のほんの一部になってしまったということ。おだが以前よりも《日本人》になれたということです。
世の中の数ある価値観を体験することによって目からうろこが落ち、その結果一番よく見えるようになったのが『世界の中の自分』、というのはいささか格好よすぎるような気もしますが、《パンツを洗うおだ》に免じて許してやってください」
やはり、グレゴリさんやパオロさんと同じことを言っている。
さらにいえば、この作品を紹介してくれた雑誌『旅行人』の編集長である蔵前仁一さんも、
「同じことを考えている人がいる」
と語っていた。
そう、外国に行くと、言葉やたとえの違いはあれ、みな似たようなことを考えるのだ。
「嗚呼、自分はどっちにしたって日本人であって、そのことは我が身の一部で、良かれ悪しかれ、もはや避けようもないんだけど、広い世界ではそないにたいしたことでもない」
で、そのうえで思うのだ。
でもまあ、日本だって、うん、そんなに捨てたもんじゃないよ。
けっこう悪くない。いいとこだって、いっぱいあるし。だから、遊びに来てよ。歓迎するよ。
くらいには「愛国者」のつもりではある。
世間の「愛国」の定義や温度とははなれているかもしれないけど、私にとって「国」を意識するのは、そういうプロセスの先にあるものであって、だから、声高にさけぶエライ人の「愛国」は押しつけがましくて違和感がある。
そんな根拠も自己検証もない愛や誇りなんて、「そら、アンタに都合いいだけやろ」と滑稽だし、今の時代に肌の色やルーツや国籍が二重かどうかで「日本人じゃない」とか疎外するなんてあほらしいし、そもそも国にかぎらず、なにかを好きか嫌いかは、オレが自分で考えて決めるよ。
日本はいい国だけど、問題点もあって、世界にもまた、それぞれいいところも、そうでないかもしれないところもある、多様な人々がいる。
北村薫先生の言葉のように、「そこに違いはあるが、間違いはない」。
そのうえで、木村元彦さんの『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』を読んで、ピクシーが「日本が大好きだ」と言ってくれているのにうれしくなり、どこかのだれかが「日本」の名のもとに外国人や異国の文化につばを吐きかけるのを憂う。
それくらいの湯かげんが、私が「自分で手に入れた」日本人の自覚だ。
(プロ野球「助っ人外国人」編に続く→こちら)