外国人が発音しにくい日本語

2013年11月29日 | 海外旅行

 「わたし英語の名前なんて持ってません!」。

 そう空港でおばさんが叫んだ。

 というオチの小話を中島らもさんの本で読んだことがある。

 自身も英語が苦手であるらもさんが紹介した、いわゆる「日本人は英語が出来ない」ネタ。

 外国旅行の際、空港で出入国審査書を書いていたおばさんが、「名前はどこに書くんですか」とたずねると、連れの日本人が、

 「ここにローマ字で書いてください」

 というつもりが、

 「ここに英語で書いてください」

 ついうっかり(でも、なんとなくやりそうな)返答してしまう。

 「英語の名前」といわれて、「メアリー」とか「キャロライン」といったものをとっさに想像したおばさんは、あわてて、

 「どうしよう、英語の名前なんてないわあ!」

 と返して大笑いということだが、外国を旅行したり異国の友人が出来たりすると、英語かどうかはわからないが、よくわからないホーリーネームをつけられることがあるという。

 なぜ「よくわからない」のかといえば、日本人の名前というのは、外国人には発音がとても難しいらしい。

 日本語は母音が多いためだそうだが、外国人(特に欧米人)に自己紹介すると、かならず名前の発音でつっかかることになる。

 これが「健」とか「麻里」といった名前なら、異人さんでも「ケン」「マリ」と、比較的スムーズに発音可能で問題はない。

 だが、たとえば「ノブヒコ」という名前の人がいたとしても、異人さんは

 「ノ・ブ・ヒ・コ?」

 一字ずつはっきり発音するようにしかいうことができないのだ。

 まあ、たいていが「ノブ」とかいいやすくまとめて呼ばれることになる。

 旅先で知り合った竜一君という男の子はドイツ人ミヒャエルと仲良くなったとき、彼が「リュウイチ」というのが、どうしても発音できなくて

 「ルー・イ・チ」

 「ル・イー・チ」

 「ルー・イー・チー」

 何度もトライするも果たせず、ついには

 「今日からお前は『ルイージ』だ」

 などと七曲署のボスのようにネーミングされてしまい、彼とはミヒャエル、ルイージの似非日独伊三国同盟を結んだそうだ。

 まだドイツ人の場合はかつての同盟国のよしみか、なんとかでも原音に近い名前で呼ぼうと努力してくれたが、これがアメリカ人なんかになると豪快で、

 「名前が発音できない。お前のことは『テリー』と呼ぶ」

 などと、超絶アバウトに命名されることになる。さすが米国の人はおおざっぱである。

 オレのどこが「テリー」やねん! と、つっこみたいところは山々であるが、発音できないものはしょうがない。

 我々だってロジオン・ロマーノウィチ・ラスコーリニコフとか、グジェゴシュ・フィテルベルクとか大魔術師フィスタンダンティラスとかいわれても、覚えられないし舌だって回らない。

 なので、どうせ発音できないならと、最初から外国風の名前を決めておいて、

 「オレのことは『ハリケーン・スパルタカス』と呼んでくれ」

 などと自己申告するのが吉であろう。


 (続く【→こちら】)

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なぜファッションに興味がないのかについての考察 その3

2013年11月23日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続き。

 中島らもさんは、女子高生

 

 「なんで、そんな自由にしていられるのか」

 

 とのぶしつけな質問に、


 
 「それはたぶん、自分のことがあんまり好きでないからやろうね(中略)そやから、自分を可哀そうに思ったり、大事にしてあげたりせえへんから」



 私はここに、自らのファッション音痴を解き明かすが、あるような気がした。

 そう、私は自分にあまり興味がない。

 昔からそうだが、自分という存在に、あまり重きをおいていない。

 といっても「自分が嫌い」というわけでもない。

 自己嫌悪というのは自己愛の裏返しで、それだけ自分に深く、コミットしているということだから。

 そうではなく、の反対は「憎悪」ではなく「無関心」といわれるが、どうも私には「自分」というものが、この世界の中で、さほど重要なものとは感じられないのだ。

 もちろん、自意識や自己愛というものは皆無ではない。

 それなりに自分のことは興味深いし、つきあえば、そこそこには楽しめる人間ではないかとも思っている。

 が、まあその程度。

 思春期にありがちな

 

 「自分とはなんなのか」

 「なんのために生きているのか」

 

 といった煩悶には無縁だった。

 「自分探しの旅」など、どう考えても、たいしたものは見つからんだろうなあと、検討の余地すらない。

 私の場合はやや極端かもしれないが、だから、らもさんの言うことはよくわかるつもりだ。

 そもそも自分を飾って

 「より良く見せよう

 と考えるという発想が、根源的にないのだ。

 着飾ってほめられたら、そらうれしくないことはないが、たぶんそれは「おしゃれな人」の10分の1程度の感動だろう。

 そこまでのもんじゃないし。そんなことより、もっと楽しい話がしたい。

 ライターの吉田豪さんは自分のことを話さない理由に、プライベートをさらして、仕事に支障をきたしたくないというのの他に、



 「自分のことって、おもしろくないんですよ。それより、世に中にはみんなの知らない、すごいおもしろい人やモノがあるって言いたいんです」



 というようなことを、おっしゃっていた。

 同じだ。おそらく豪さんも、ファッションに関しては「こっちチーム」ではあるまいか。

 ということは、逆に考えればこうなる。

 ファッションが好きだったり、自分がどう見られるかにこだわったりする人というのは、これはもう

 「自分が好き

 「自分を大事にしている」

 という人に他ならない。

 というと、なんだかただのナルシストか自己中のようだが、そうではない。

 人間にとって、自分を愛し、自分を肯定し、自分をより良く見られるよう努力することは、きわめて健全なことである。

 だからファッションが好きな人というのは、きっともうちょっと人生についてポジティブであり、それはたぶん「良きこと」のような気はする。

 これは、ミュージシャンである大槻ケンヂさんも、似たようなことを言っていた。

 オーケンもまた、ファッションに興味がなく、自分に着るもののセンスがそなわっていないことを、自覚していたそうな。

 で、あるライブの時、ファンの女の子がヒラヒラのついたドレスみたいな服を着て、踊ったり跳んだりはねたりしているのを見て、天啓のようにひらめいたという。

 そうか、彼女たちは、自分を大事にしているんだ。

 だからきれいな服を着て、よりよく、美しく見せようとする。

 そういう風に思えるということは、これはもう

 「全面的な自己の肯定」

 であると。

 たぶんこの「自己の肯定感」の大小が、単に

 「うん、この服いけてる」

 「オレってマジかっけー」

 といったポジティブなものから、

 「自分を肯定してもらいたい」

 「自分こそ、まさに自分自身を肯定してあげたい」

 という切実な願いがまで、ファッションへの関心の度合いと比例しているのだと思う。

 私やらもさんや、オーケンみたいなタイプは、それが低い。

 そしておそらく、それはある意味「自由」でもあるのだ。

 「自分を大事にする」「自分自身を肯定する」という、努力失望から開放される「自由」。

 たしかに、人によっては「うらやまし」いものであり、「可哀想」かもしれない。

 そのことがわかったときに「なるほど」と腑に落ちたものだ。

 ファッション音痴全員がそうとはいわないけど、まあそこそこの数は、このことが理由の一端にもなっているのではなかろうか。

 

 「自己アピールより、【自分以外のおもしろいもの】に興味が深い」

 「自我という、重たくも愛すべきものから、良くも悪くも多少は自由である」

 

 だから、自分を飾るなどという「めんどくさい」ことはしたくない。

 以上が私の考えるところの、ファッション音痴な人の特徴だ。

 前回のお寺の子は、きっと「自己の肯定感」が強い。

 ゆえに「自由」が侵食され悩ましい、と。

 どちらがいいかは、もうその人次第です。

 自分の意思で選べるかどうかも、わかんないし。

 もちろんこれは個人的な考えで、中には



 「流行りのファッションなど、マスコミの情報操作だから乗りたくない」



 といった硬派な人とか、



 「オシャレしたいけどセンスがないから、あえて興味のないフリをしている」



 といった、すっぱいブドウ型の人なんてのもいるだろう。

 すべての人が、そうとは言わないけど、まあ私は少なくとも、このタイプに近い。

 ともかくも、我々チームはそのモチベーションに劣るところはあるから、今さら着るもののセンスをみがけというのも、たぶん無理

 せめてもの対策はこれくらいで、

 「なんとか、見た人が不快に思わない清潔感ある格好をする」

 そう、「ファッションに興味のない【自由】な人」にとって服装を選ぶというのは「不自由に遭遇」してしまったときに余儀なくされる「撤退戦」なのだ。

 「戦果」よりも、いかに「ダメージを軽減するか」が大事。

 その先に「勝ち」はなく、士気も低い戦いで大変だが、服は着ないといけないからなあ。

 同胞諸君、健闘を祈る。



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なぜファッションに興味がないのかについての考察 その2

2013年11月21日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続き。

 なぜ私はファッションに興味がないのか。

 その理由が多少わかったのは、中島らもさんのエッセイを読んでいるときであった。

 舞台は関西のテレビ番組に出演していたときのこと。

 そこでらもさんは、タイガーマスクがプリントされたヨレヨレのシャツを着て出たのであるが、それを見た上岡龍太郎さんに、



 「あんたは、自分によっぽど自信があるから、そんな格好でテレビに出られるんや」



 上岡師匠がそうツッコむのは、なんとなくわかる。

 ファッションというのは、自分をよく見せるためのアピールであり、一種の示威行為であるともいえるが、同時にそれはきわめて守備的なアイテムでもある。

 人というのは、「見た目が大事」であり、特に第一印象はその人のその後を決定づける、大きな要素となることもある。

 「人を見た目で判断するな」

 というのは一理ある意見だが、残念ながら人はそんなに他人の内面に興味はないし、たとえあったとしても、理解し合えることなんてめったにない。

 そもそもが「内面を見てくれ」という人に限って、案外内面もたいしたことがない、という意見もある。

 そう考えると、オシャレな服や高価なスーツというのは、

 「しょせん、人なんて外面しか見いへんのや」

 という大人の判断による防御服ともいえるのだ。

 「見た目みたいなしょうもないことで、安く見られたらかなわん」

 「なめんなよ」と。

 だから日本のサラリーマン政治家は、夏に死ぬほど暑くてもスーツを着たがる。

 クールビズでは「外見の軽さ」で判断されることを怖れるから。

 上岡師匠は、そういうことを気にしていなさそうな、らもさんに「よほど自信がある」と言い放ったわけだ。

 「外見のことなど、オレの中身の充実で、なんとでもカバーできるわい」

 なんて思ってる、おまえは自信満々かと。

 これにらもさんは反論した。そうじゃない。

 自分がヨレヨレの服で、人前に出ても平気なのは、理由がこれしかなくて、

 「単にめんどくさいだけ」。

 これにはページをめくりながら、深くうなずくこととなった。

 そうだよなあ。ファッションって、散髪とかと同じで、ものすごく「めんどくさい」ことだよなあ。

 別に、自信とか防御とか、そこまで考えてない。もう、ただただめんどいだけなのだ。

 ファッションを気にする人には、そこがわかってもらえない。

 これが、まずひとつ。

 それともうひとつ、これはファッションの話ではないが、らもさんがお寺で講演という、めずらしいイベントに出演したときに、女子高生にこんなことを訊かれたそうだ。



 「あのな、なんでそんな自由そうにしてられるの」



 いきなり、そんなことをたずねられて、困惑したらもさんだが、彼女は続けて、



 「なんにも執着がないみたいで、自由そうで、うらやましいねん。なんでそうなるの」



 それに対してらもさんは、



 「それはたぶん、自分のことがあんまり好きでないからやろうね(中略)そやから、自分を可哀そうに思ったり、大事にしてあげたりせえへんから」


 
 これに対して女子高生は



 「ふうん。それって、気の毒やね」



 と返答し、らもさんが



 「そうかもしらんけど、その《気の毒》やとも思わへんねん」



 と答えて会話は終わるのだが、このやりとりは、なかなか興味深い。

 たとえば、この一見失礼な女子高生は「うらやましい」の中に、おそらく同程度の嫉妬の感情もある。

 アドバイスをあおぐとともに、《気の毒》とか《可哀想》という

 「無条件で上に立てる単語」

 を使って、相手を傷つけようとしているといった心の動きなどに、それが表れているではないか。

 でだ、そんなことを考えているときに、ふと、ここにこそ、らもさんと私や、その他多くの

 「ファッションに無関心な人」

 これを表すキーワードがある気がしたのだ。


 (次回【→こちら】に続く)


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なぜファッションに興味がないのかについての考察

2013年11月17日 | ちょっとまじめな話

 私はファッションセンスがない。

 人にはそれぞれ、苦手なジャンルというものがあるものだが、自分の場合は着るの選び方とかが、よくわからない。

 そこで今回は、「浪速の小栗旬」と呼ばれたファッションリーダーの私が、そこら辺のことについて、深く掘り下げていきたいと考えている。

 というとおいおいちょっと待て、おまえのどこが小栗旬だという怒りの意見はあるかもしれないが、たしかに私は、彼のようなファッションリーダーではないかもしれない。

 ただ、言わせてもらえば、現在ロマノ・ヴルピッタムッソリーニ』を読んだところなので、ファッショのリーダーには多少くわしいつもりである。

 話を戻すと、私は自分の見た目に無頓着である。

 ヤングのころから、着るものを選ぶのが苦手であった。

 当然のごとく、ファッション誌など読んだこともなく、流行などどこ吹く風。

 そもそも、オシャレな服屋の雰囲気が、どこまでのアウェーな気がして、入る気にもならない。

 ヘアスタイルをいじるのもめんどくさいし、アクセサリーの類は腕時計でも邪魔に感じるほど。

 ド近眼なので眼鏡をかけているが、コンタクトは大学生のころチャレンジしてみて、あまりの痛さに挫折した。靴は年中サンダルである。

 そんなズボーっとした男であったが、一人暮らしをはじめたのを機に、こんなことも考えるようになった。

 「もうちょっと、ちゃんとした格好したほうが、ええんとちゃうかな」 

 ところが、これが困りものである。

 これまで着るものをガン無視してきた身にとっては、そのジャンルに関しては実践不足

 というか、決定的に腕をみがくヒマがないままに、大人になってしまったということだ。

 なので、自分にどういう服が似合うのかが、全然わからない。

 服屋に入っても、どれをどういう組み合わせで着れば「オシャレ」なのかが、まったくピンと来ない。

 店員さんが「上はこの色だと、今年の流行では下はこの色でまとめて」うんぬんといった解説など、まるで宇宙語でも話しているようなもんで、チンプンカンプン。

 この孤立感はハンパではない。

 それに人見知りなので、

 「なにかお探しですか」

 とか声をかけられるのもだし、試着したあとの

 「うわー、よくお似合いですねー」

 といった営業スマイルもダメである。

 もう全力で、どこかファッションという概念のない、裸族の国にでも亡命したくなるのだ。

 ……とまあ、ここまでファッションセンスに不自由している男子が、典型的に言いそうなことを並べているが、本当にそうで、服飾に関してはドがつく素人だ。

 とはいえ、一応は文明人をやっているので、なにかを身にまとわないことには、外には出られない。

 毎日毎日「何を着たらいいのか」に悩まされるわけで、興味のないことを常に強制されるめんどくささがあるわけだ。

 もういっそ、一昔前の中国みたいに「全員人民服着用」みたいな法律でもできないものだろうか。

 なぜそこまで自分は、着るものとかアクセサリーに頓着しないのかと、昔から不思議であったが、あるとき、ひょんなきっかけからその理由がわかることとなったのである。

 私のみならず全国の「見た目に無頓着な人」が、なぜいまひとつファッションに目が向かないのか。

 彼氏が、息子が、お父さんが、いつもダッサい格好をしても平気で、それが恥ずかしいという恋人や家族必見の、その詳細は次回(→こちら)に続きます。


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コミックマーケット=ガーデン作戦

2013年11月15日 | オタク・サブカル
 コミケに一度行ってみたい。

 冬のイベントといえば世間ではクリスマスであるが、マニアックな世界で冬といえば、ずばりコミケである。

 私は大阪在住なのでなかなか機会がないのだが、一度行ってみたい。私はクリスマスに予定がないことなど、なんとも思わないが、「今年はコミケに行きます」みたいなブログを読むと、うらやましいなあと思ってしまう。ぜひ一度参加してみて、「大東亜戦争中の化粧品広告集」とか「ナポレオン文庫全作レビュー」といったマニアックな本を買いまくりたいものだ。

 ただ、コミケとなると問題なのはその規模である。

 私がコミケ参加をためらうのは、遠いことと経済的問題(たぶん、変な本を買いまくって破産する)もさることながら、人が多いというのもある。私は人混みが苦手なのだ。総勢で60万人くらい集まるとか。

 60万人。どんだけ人来るのか。多すぎるだろ。自衛隊員が約15万人くらいだというのに。クーデター起こしたら、勝てるんとちゃうか。これだけすごいイベントが、テレビなどではまったくスルーされているのも変な話である。

 そんなスケールのでかいコミケの伝説もやはりスケールがでかい。

 私が好きなエピソードがこれ。ある日のこと、コミケの主催者である米澤嘉博氏のもとに電話がかかってきた。なんだろうかと受話器を取ると、通話相手はこういったという。

 「もしもし、こちらソ連軍です」

 ソ連軍
 
 ソ連軍。まだソ連があった時代の話である。しかしなぜソ連軍? なんだか気分は落合信彦である。いぶかしがりながら「どういったご用件でしょうか」と尋ねる米澤氏。すると相手は、

 「同志米澤、よかったらウチの空母を買いませんか?」

 空母。私もよく変な人に壺や仏壇を買えと誘われることがあるが、空母を勧められたことはまだない。しかも電話で。

 話によると、コミケはその規模の大きさゆえに開催場所の確保に困ることがあるのだそうだ。それをどこから聞きつけたのかは不明だがソ連軍が

 「ほう、そんなヤポンスキーがおるのか。ほしたらウチで余ってる空母売ったったらええんちゃうんけ。そこでやったらええのや。ほしたらあいつらは喜ぶしこっちは廃棄処分する金払わんでええから一石二鳥やないかハラショー!」

 ということだったらしい。その思いつきもすごいが、実際に電話するソ連軍もたいがいであるが、ウソのような本当の話らしい。

 空母でコミケ。ネタ的には相当に魅力的な話であるのだが、なんでも維持費が1日1億円(!)かかるらしく、米澤氏は悩みに悩んだ末断腸の思いで断ったのだとか。

 あー、なんてもったいない。男やったら、成功した暁には空母の一隻くらいは所持したいものだ。ベンツ? クルーザー? 小さい、小さい。男は黙ってソ連の空母やで!

 日本の常識だとどえらい話だが、ロシアではわりにあるのだという。

 なんでもソ連崩壊によって廃棄処分になることになった戦車や軍艦が「廃棄するのに金かかるから」とそこいらに放置されていて、それを売る連中というのがいるのだとか。戦車などキャッシュで500万円くらい出せば買えるらしい。

 実際アメリカ人など買って帰って地元の公道を「ヒャッホー!」などといいながら戦車でドライブしているそうである。さすがはアメリカ人、アホである。

 ちなみに日本だと違法。残念である。



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なぜ料理を注文した全員そろうまで食べないのかについて

2013年11月11日 | コラム
 料理をすぐに食べない人が理解できない。

 より正確にいうと、お店で自分が注文した食べ物が来ても、同席している友人らの注文したメニューが来なければハシを取らない人。これが、よくわからないのだ。

 彼ら彼女らは、なぜか食べない。

 同席者全員の注文した食事が来ない限り、決してハシを取らない。しつけのいい飼い犬のように、皿を前にしてじっとしている。「食べなよ」とうながしても、ニッコリ微笑んで「いいから」と首を振る。皆がそろうのを待ってくれているのだ。

 でもこれ、待たれている身からすると、全然うれしくないんですよね。

 むこうは気を使ってくれてるんだろうけど、逆の立場から見たら、目の前でその人の頼んだ皿が、どんどんさめていく様を見せられるのだ。

 たとえば「待つ人」とレストランに行ったとしよう。こちらはオムライス。「待つ人」はハンバーグステーキセットを注文したとする。

 談笑しながら待つこと数分。まずは鉄板にのったハンバーグステーキセットが登場。アツアツのゴハンと湯気の立つスープがついている。ドミグラス・ソースがたっぷりとかかっていて、思わずノドが鳴る。

 これが私だったら、「いただきまーす」と子供のようにはしゃいで、「さめないうちに」とすぐさまハシを取り、ハンバーグムグムグ、ゴハンハグハグの法悦にひたることだろう。

 ところが「待つ人」はそうしない。待っている。何を。私の注文したオムライスである。

 まだ料理の来ないコッチに気を使って、ハシを手に取らない。

 鉄板の上では、ソースたっぷりのおいしそうな焼きたてのハンバーグが

 「早くあたしを食べて」

 と情熱的に横たわっているのだが、無視だ。彼は食べるどころかそれを見ることすらしない。

「食べへんの」と尋ねると、おだやかな表情で、

「いいから」

 いいからといっても、目の前ではハンバーグがジュウジュウグツグツと音を立て、

 「さあ、早くそのおハシであたしのことをメチャクチャにして!」

 と激しくアピールしているのだ。なぜ食べないんだ、冷めるじゃないか。文字通り据え膳食わぬは男の恥だぞと言いたくなる。。

「はよ食べんと、さめてまうよ」といってもニッコリと、

「いいからいいから」

 いやいやだから、そっちはよくてもこっちはよくないんだよー(泣)。

 なんということだ。さっきまであれだけジュウジュウグツグツと盛大に熱を上げ、「あなたと早く一緒になりたいの」と伝えていたハンバーグたちが、その思いをどんどんと減らしているのがわかる。

 そして、その蜜月の時をうばったのは他ならぬ私なのだ。私のオムライスが来ないせいで、彼らの間の「熱い思い」は急激に冷え切っていく。

 耐えられない。目をおおいたくなる気持ちになる。

 あせりを覚え、忙しく立ち働くウェイトレスさんに「ちょっと、ここオムライスまだなんですけど」なんてイヤミっぽくいってしまって、穏やかな表情で待っている目の前の人とくらべて自分はなんと器の小さい男なんだと自己嫌悪におちいる。

 が、元はといえば、この人が素直にハンバーグをアツアツのまま食べてくれれば、オレはこんな目に会わなかったのに、とだんだんと錯乱してくる。一体、誰が悪いのか。どこに罪があるというのか。嗚呼、私は頭をかかえ、天に吠えたくなる。

 祭は終わった。いまやアツアツだったはずのハンバーグはジュウもグツもやめて

 「ずっと放っておくなんてヒドイ!あんたなんかもう知らない」

 とふてくされてしまっている。紳士的な態度が、必ずしも愛の成就に結びつくとは限らないという好例だろう。ときには人目もはばからず、ワイルドに攻めることも大切なのだ。

 やがて、機を逸した形でオムライスが登場。私の目の前に置かれると、彼はウェイトレスさんの「ご注文の品以上でよろしかったですか」との質問に「はい」と答え優雅にハシを取り、「いただきます」と、冷えてボソボソになったハンバーグを食べるのだった。

 以上、実体験に基づく悲劇である。

 にしても、今回はハンバーグだったからまだ被害は少なかったが、これがトンコツラーメンだったら、なべ焼きうどんだったら。ああ、なんと怖ろしいことだろう。考えただけで身震いする。

 いやホントに、鉄火丼とか冷や奴定食とかならともかく、せめて温かいものはすぐに手をつけてほしい。グラタンとかが目の前で冷えていくのを見るのは、こっちは本当につらいんです。

 ということなんで、私と一緒にゴハンを食べる方は、どうか気を使わないで料理が来たらすぐ食べてください。後輩でも全然OK。私は上下関係に超アバウトです。おいしいうちに、ハグハグ食べてほしい。

 日本人として、気づかいなのはわからなくもないけど、それはなんか、間違ってるような気がするんだよなあ。

 作ってくれた人も、きっとそうしてほしいと思うんですよ、ホントに。


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岡田斗司夫『東大オタキングゼミ』によるディズニーランドのこんな楽しみ方

2013年11月09日 | 海外旅行

 ディズニーランドに行ってみたい。

 などと、最近思うようになった。

 というと、おいおいお前がディズニーというガラか。

 ちっとも似合わない上に、以前パリのユーロ・ディズニーに行ったとき

 

 「全然おもろないやん」

 

 などと冷め切ったことを言っていたではないかとつっこまれそうだが、それは岡田斗司夫さんの

 『東大オタキングゼミ

 という本を読んだからである。

 これは岡田さんが東京大学で講師をされていたころの講義録をまとめたもの。

 ゲーム映画インターネットなどについて東大生と質疑応答などをまじえながら語るというもの。

 そこで「テーマパーク」という章があり、ディズニーランドを例にとって世界の遊園地などが、どういうコンセプトを持って作られているかなどを解説しているのだが、これがめっぽうおもしろい

 ディズニーランドが大好きな女の子になんかに

 

 「あんなん、どこがええの?」

 

 なんて、ガサツにたずねたりすると、たいていが、

 

 「理屈じゃないのよ、すべてが夢の国でうっとりするのよね」



 なんて答えが返ってくる。

 夢の国かー。

 まあ、そういわれたらそうかなあと、なんとなく納得したような気にはなるが、岡田さんによるとポイントはそこじゃないと。

 この本を読むと、ディズニーランドという世界は、そういった安易ドリームではなく徹頭徹尾「理屈」によって造りあげられているのが、よくわかる。

 いかに観客を「楽しく錯覚」させるかに血道を上げているということが、テーマパークのキモなのだ。

 例をあげれば、ディズニーランドでは、建物が1階は実物の8分の7の縮尺、2階5分の3の縮尺という比率で建てられているという。

 これは遠近法を強調した造りになっており、本当は2階分の高さしかないんだけど、ちゃんと3階あるように見えるのだ。

 なぜそう作ってあるかというと、建物の高さを低く(ただしそう感じさせないように)設定することによって、が高く感じ、空間も広がるのでお客さんには開放感が感じられる。

 そうすると当然、気分がいい。圧迫感がないわけだ。

 京都がぶらぶら歩きに耐えられる観光都市なのは、豊かな名所もさることながら、阿呆みたいに高いビルが林立していないというのも大きいが、それと同じだ。

 など何気ないところにも、すべて工夫がある。

 入口広くせまくして実際よりも長さを感じさせたり、直線で行けるところはわざとクネクネにして単調にならないようにすると同時に

 

 

 「やっぱ中は広いなあ」

 

 と距離感を出す。

 さらには

 

 「回り道させられた」

 

 と思わせないように、などを置いてそこを回りこませることによって道程にアクセントをつける。

 それができないときは、真ん中を少し高くして、錯覚により、向こうを見にくくすることによって奥行きを出す。

 気の狂うような量のカラーマニュアルを駆使して、によってのスケール感や観客の心地よさを演出する。

 ご苦労なことに、ディズニーランドでは場所によってミッキー全部違うのだそうな。

 入場口をわざとせまくして混雑感を出し

 

 「やっと入れた!」

 

 という快感を味わってもらう。

 1日7,8割しか歩けない大きさにして

 

 「もう一回来よう!」

 

 と思わせる。

 などなど、ざっと並べるだけでも、からまで、すべてが計算されて作り込まれている。

 そこいらの夢の国とは、かけてる手間知恵もちがうのだ。世界のディズニーをなめんなよ

 ついでにいえば、ディズニーシー臨場感を出すための、看板サビなどは、なんとゴジラを作った東宝特撮班による「ウェザリング」(汚し)だ。

 あれは、ただ汚いのではない。美術プロがサビを描くことによって、水辺の汐見のあるを感じさせる演出。

 そう、ディズニーランドというのは、いわば巨大な超絶精巧ジオラマなのだ。

 そんなことを説明されると、これはもう是が非でも行きたくなるではないか。

 私は映画でもスポーツでも絵画でもなんでもいいが、それが

 

 「なぜすばらしいのか」

 

 このからくりがわかった方が、ずっと物事を楽しめるタイプである。



 「そんな理屈っぽいこと言ってなにが楽しいの、もっと素直に、あるがままに楽しさを受けとめなよ」



 という人もいるけど、好きなものは「より知りたい」と思うのは自然の摂理であり、それはたとえば恋愛などだって同じではないか。

 私からすれば、好きなものを「あるがまま」しか接しようとしない方が、もったいない気がする。

 子供のころ絵画にまったく興味になかった私が美術の先生に、



 「この絵は、どんな意味があるんですか」



 と問うと先生は



 「そんな意味なんかより、ただ見て、素直になにかを感じればいいのよ」



 とおっしゃっていたが、今思うとこれって教育の怠慢なような。

 大人になって美術の本を読んだら、風景画でも人物画でも宗教画でも、そこに描かれたものを理解するには、様々な材料が必要となる。

 その時代の常識時代背景人物像や国の歴史聖書の知識、ギリシャバビロニアなど神話の数々。

 また描き手も、

 

 「そこを読み取れよ」

 「わからんやつは、ここで置いていくぞ」というメッセージも投げかけているのだ。それを「見たまま素直に」

 

 なんて、なんという手抜き、もしくは間の抜けた答えか。

 そんなもん、人間をがいいかどうかだけで評価するようなもんで、ちっともおもしろくないぞ!

 ちゃんと、「なぜ、すばらしく感じるのか」を教えてよ!

 もちろん、ガキ相手にそんなことしてられんだろうし、意味もわからないから、やっても無駄かもしれない。

 でも、たとえ理解はできなくても、少しはその知への「きっかけ」くらいはつかめるかむしれない、簡単な説明くらいは、あってもバチは当たらないんじゃない?

 「感じたまま」なんて、おためごかしに丸投げされてもなあ。

 こうして、岡田さんの本に触発された私としては、ディズニー好きがやたらと強調するアトラクションがどうとか、隠れミッキーとか。

 そういうんは全然どうでもいいけど、ディズニーが心血そそいで築き上げた「玄人の技」を教えられると、これはいっちょ行かないかんと思うのである。

 でも、デートとかでいちいちこういう理屈っぽい話をすると、絶対嫌がられるんだろうなあ。



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