「旅に出たい病」は不治の病である その3

2016年09月29日 | 海外旅行
 「旅に出たい病」は不治の病である。

 そこで前回(→こちら)、旅に出る動機は「相対主義という絶対主義」を満たすためという話をしたが、今回はもうちょっと具体的な旅行の魅力について話したい。

 旅をしていて楽しいと思うときがいくつかある。

 魅力的な街をただぶらぶらと歩くことや、気さくな、私と同じ能天気な旅行者たちと仲良くなること。そしてもうひとつ、移動を終えて、明け方に新しい街へ着くとき。
 
 旅に出ると、朝起きるのが楽しみになる。

 ふだんは陽が落ちてから元気の出る宵っ張りだが、外国ではちがう。朝、目を覚まして

 「あ、今自分はいつもとちがう場所にいるのだ」

 と確認する瞬間が至福のとき。

 それは特に、目を覚ますと新しい街に入っているというケースに顕著で、夜行バスや夜行列車に乗って、まだ薄暗いころから起き出して、目をしょぼしょぼさせながら、まだ動き出してない街を車窓からながめるのがいい。

 まだ眠いにもかかわらず、生気がみなぎってくる。

 新しい街なのだから。

 その心の動きを見事にあらわした一文が、沢木耕太郎さんの名著『深夜特急』にある。

 主人公の「私」が、イランの首都テヘランをめざしてバスに乗っているときのこと。長くなるが、ここに引用する。


 「バスはまた走り出す。夜も更けていき、午前零時を過ぎ、ついにアフガニスタンとイランの国境を抜けてから三日目に突入してしまった。誰しも疲れ果て、ひとりずつ横になっていく。私も寝袋にくるまっているうちに、いつしか眠り込んでいた。


 (中略)


 後部の窓ガラスからは、もうもうたる土埃に霞んで前夜のような星空は見えなかった。だがしばらくして体を起こし、前方を見て驚いた。運転席のガラス越しに、とてつもない広い光の海が見えたのだ」


 その光景は、私にも見覚えがある。

 夜行列車などで次の街へ着くとき、なぜか不思議と到着の1時間前くらいに目が覚めてしまう。

 そこで、2度寝しようとしてうまくいかなかったり、それをあきらめて歯をみがきにいったり、たいていは固いシートなどで熟睡できていないから、何度も大あくびをしながら、窓の外からぼんやりと外の景色をながめていたりする。

 その光景が大好きだ。

 薄暗い、まだ朝ぼらけの中、半分眠っている頭が、新しい街を想像して少しずつ興奮していく。その感覚。

 その様子を、沢木さんはこう続ける。


 「ここは小高い丘の上らしく、一直線に下がっていく坂道の向こうに町の灯があったのだ。私がこれまでに通過してきたどこの町よりも広大であざやかなネオンが、秋の夜気を通してキラキラと輝いていた。その煌きに、私は心が震えた。

 何人かがまだ寝ずに起きていた。彼らの、喚声にうながされて、眠っていた者たちもひとりずつ起きはじめた。そして、息を呑んだ。

 それが光の海テヘランだった。」



 この文章を読んだとき、わかった。

 そうか、たまに突然おとずれる「旅に出たい病」の正体は、ここにあったのだ。

 私が時に熱望する旅への想いは、「バックパッカーとの交流」「相対化の快感」とともに、朝目を覚ましたときにそこにあらわれる、ここでないどこかの「光の海」が見たくなること。

 それこそが、一番の理由だったのだと。

 リブリャーナ、オラン、ドブロブニク、イスファハン、カルカッタ、グラスゴー、カトマンズ、メキシコシティー、ウルムチ、ヘルシンキ、サマルカンド、エレバン……。

 来年の夏あたりにそなえて、せっせと候補地をノートに書き出す。

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「旅に出たい病」は不治の病である その2

2016年09月28日 | 海外旅行
 「旅に出たい病」は不治の病である。

 そこで前回(→こちら)は「旅に出たくなったら観光映像がわりにファンタジー映画を見る」というしのぎ方を紹介したが、そもそものところ、なぜそんなにも外国へ行きたいのかといえば、病の根は人それぞれだろう。

 観光やグルメが楽しいという人もいれば、現地の人との交流が目的の人もいる。中には現実逃避とかいやしとか自分探しなんてケースもあろう。

 私の場合は、もちろんそれらの要素もあるけど、一番大きいと感じるのはこれかもしれない。

 「価値観の相対化の快感」

 人はどんな自由人であれ、自らの生まれた土地の文化に引きずられるもの。

 私の場合はもちろんのこと日本のそれであって、「和の心」をはじめとする「日本固有の文化」にどっぷりつかって暮らしている。

 まあ私も日本人の端くれなので、常時はそれに対してなんとも思わないのだが、根が安田均先生おっしゃられるところの「相対主義という絶対主義」の信望者なので、ふだん生活していてよく使われる、

 「当たり前だ」「常識だろ」「みんな言ってるよ」

 みたいな言葉を、ときおりどうにも、うさん臭く感じてしまうことがある。

 「当たり前とか常識とか、そりゃせいぜいがアンタの半径数メートルのもんやないんかいな。たまたま年上とか先輩とか上司とか『権力』があってそれを押しつけることができる立場か、周囲が大人で合わせてくれてるだけで、ホンマにみなが信じてるとはかぎらんぜ」

 みたいな気分になってしまうのだ。

 こういうとき、旅に出ると爽快である。

 世界には様々な国や民族があり、数え切れないほどの言語や文化があって、生活が営まれ、歴史や神話、芸術が存在する。

 そういった「半径数メートルのなにか」から完全にはく離した場所に立つと、「自分の中の相対主義」が、もうメチャクチャに満たされる。

 「世の中には『自分と違うもの』『理解できないもの』が山ほどあって、それにくらべたら私の信じる価値観なんてワン・オブ・ゼムにすぎない、いやそうですらない風の前の塵に同じ」

 この気分は、海外で感じるカルチャーショックの、もっとも根源的な部分であろう。

 「自分のなかで『絶対』と思いこんでるものなんて、外の世界に出たらへーこいてプー」

 その程度のものでしかない。

 その真理が、いかにも私を楽にさせてくれる。今ここで自分が死んでも、世界は何も変わらない。その身軽さといったら!

 こういう「相対化」というものを、けっこう嫌がるという人がいて、日本社会のキーワードである「同調圧力」こそが、まさにその「相対化への忌避感」のあらわれであろうけど、私にとっては快感だ。

 「当たり前だ」「常識だろ」「みんな言ってるよ」

 いや、そうでもないよ。

 案外と、そうでもない。

 「規則」「伝統」「しきたり」「慣習」なんていう「みんなやってる」系和の心な言葉に若干の息苦しさを感じている人は、ぜひ一度旅に出てみることをおススメする。

 自分たちとまったく違うことを「常識」として生きている人を山盛り観ると、そういう閉塞感を笑い飛ばせるようになるものですよ。


 
 (続く→こちら




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「旅に出たい病」は不治の病である

2016年09月27日 | 海外旅行
 ファンタジー映画は『旅に出たい病』になかなか効果があると最近知った。
 
 「旅に出たい病」は不治の病である。
 
 今でこそ若いころのような
 
 「世界の果てまで行きたいぜ!」
 
 といったギラギラ感こそなくなったが、自分でも「病気やなあ」と思うのが、他人の旅行話を聞くとき。
 
 私は子供のころからあまり欲というものがなく、そのせいか人をねたんだりすることも比較的ない方だと思うが、この話題だけはダメだ。
 
 「夏休みに台湾に行く」 
 
 「お正月はローマで過ごすんだ」
 
 なんて言われると、もういけない。
 
 ふだん「彼女とディズニーランドに行く」とか「競馬でもうかっちゃった」なんて自慢されてもなんとも思わないが、このときばかりは、
 
 「ふざけるな! 飛行機落ちろ! とまでいうとヒドイし他の乗客に迷惑だから言わないけど、入国審査で手間取って、乗り継ぎの飛行機に乗り遅れかけてちょっとドキドキせえ! ついでに『フィッシュ、オア、チキン』って訊かれたから『チキン』って答えたのに、CAさんに笑顔で魚を出されろ!」
 
 くらいの呪いは心の中でかけることとなる。
 
 こんなことばっかりやってるせいで、『にけつッ!!』という深夜番組がまともに見られない。
 
 いや、千原ジュニアさんとケンドーコバヤシさんのトーク自体は絶妙で、もともとは好きな番組だったんだけど、この二人がやたらと
 
 「こないだ後輩と沖縄行ってさー」
 
 「先日、日村さんとシンガポールに行ってきたんすよ」
 
 などと自慢……もとい旅を題材にしたフリートークを展開するため、
 
 「オレの許可もなく、海外行っとるとはどんな了見や!」
 
 なんて、理不尽な怒りに燃えることとなるのだ。お二人からすれば、全力で「知らんがな」であろう。
 
 こんな悩める旅人は最近ちょっとした、なぐさめを見出すこととなる。
 
 それは「異世界ファンタジー」をあつかった映画だ。
 
 私はもともと、ファンタジー映画がそんなに好きではない。
 
 いや、もちろん世代的にドラクエはやってたし、ファンタジーブームのきっかけとなった『ロードス島戦記』も読んだ。
 
 その流れで『D&D』や『ソードワールドRPG』なんかもかなり遊び倒したけど、映像作品にはさほどのれないところはあった。
 
 特に旅行好きになってからはファンタジーといえば、
 
 「なんでどれもこれも、中世ヨーロッパ風ばっかなんや? インドは? イスラムは? チャイナは?」
 
 「封建制バリバリで住みにくそう。共和制も議会制民主主義もたぶん憲法もない世界だし、われわれ健全な市民の権利は守られた世界なんかいな」
  
 などとイヤなヤカラなど入れるようになって、ますます足が遠のいたが、先日『ホビットの冒険』をテレビで鑑賞し、
 
 「あれ? ファンタジーも悪くないや」
 
 ふいに見直す気になったのだ。
 
 今見るファンタジーのなにがいいといって、私の場合はストーリーよりも画面である。
 
 これを「異世界観光案内ビデオ」として楽しむのだ。
 
 この発想は、これまではなかった。昔なら、ただの書き割りとして見ていた「エルフの森」や「ミノタウロスの迷宮」「ホグワーツ魔法魔術学校」なんかを「まだ見ぬ観光地」として鑑賞するのだ。
 
 これがなかなか楽しい。なべても最近の映画は技術も進んで、画だけ見ていても引きこまれる。食事のシーンがあると、なおそれっぽい。
 
 私は映画に関しては脚本が命で、俳優とか派手なCGといったビジュアル面はあまり重視してこなかったが(特撮系はのぞく)、ここにきて
 
 「幻想国の本当は存在しない背景」
 
 の味に目覚めることとなった。
 
 もはや映画というより、『世界の車窓から』とか『世界遺産』を観る感覚。
 
 こうして、だれかの旅話を聞いてやさぐれているときには、『アリス・イン・ワンダーランド』や『ナルニア国』シリーズなど、これまでだと「ストーリーがねえ」と観なかったであろう作品を「環境ビデオ」として流して心を癒している。
 
 ただ問題は、これでも「旅に出たい」という衝動がおさえられないほど高ぶっているとき。
 
 これは困りものだ。だって『世界の車窓から』とちがって、こればっかりは「実際に行く」ことはできないものなあ。
 
 嗚呼、だれか私を中つ国に連れてって!
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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斎藤美奈子『男性誌探訪』でわかる、「男って、ホントは女にこう思われてるよ」の恐怖 その4 

2016年09月23日 | 
 前回(→こちら)に続き、斎藤美奈子『男性誌探訪』を読む。

 斎藤さんの理知的な分析力とシャープなつっこみのファンである私は、彼女の本はほとんど読んでいる。

 前回も書いたとおり、この『男性誌探訪』でも彼女の持ち味が存分に発揮されており、私も大いに楽しませていただいたが、読み終わって、ふと思い至ったことがあった。

 あれ? オレ、ここであつかわれてる雑誌、一誌も読んだことないや。

 この本で取り扱われている雑誌の多くは、読んだことがない人でも、タイトルくらいは知っているものがほとんどである。

 それはそうであろう。「これからある雑誌を取り上げて分析します」といっても、それが聞いたこともないマニアックなものだったら、「それ、なんですのん?」とシラケてしまう。

 なので、ラインアップは必然的に売れているか、すでに名のある老舗かそういった有名なものが多いはずなのだが、これがものの見事にひとつも開いたことがないのだ。

 百聞は一見にしかずということで、ここで目次を拾ってみると、

 ★世の中を読む

 『週刊ポスト』『プレジデント』『日経トレンディ』『文藝春秋』『週刊新潮』『週刊東洋経済』『ダカーポ』


 ★余暇を楽しむ

 『ナンバー』『週刊ゴルフダイジェスト』『サライ』『日経おとなのOFF』『ダンチュウ』『ニュートン』


 ★センスを磨く

 『メンズクラブ』『エスクァイア』『ブリオ』『ナビ』『ブルータス』『レオン』


 ★趣味に生きる

 『ヤングオート』『月刊へら』『ターザン』『バサー』『鉄道ジャーナル』『丸』『山と渓谷』


 ★若さをことほぐ

 『ホットドッグ・プレス』『東京ウォーカー』『週刊プレイボーイ』『週刊スパ』『メンズノンノ』


 あらためて数えてみて、やはり愕然とすることとなった。

 読んでない、ちっともお世話になったことないものばかりである。こんだけぎょうさんあるのに。ひとつもだ。

 もちろん、その多くは名前くらいは聞いたことあるし、『週刊新潮』は銀行の『ホットドッグ・プレス』は散髪屋の待ち時間にパラパラやることもなくはない。

 『ナンバー』は友人が定期購読していたので、家に遊びに行ったとき、ちょっと読んだことはある。『東京ウォーカー』(こっちでは『関西ウォーカー』)も、コンビニで立ち読みもした記憶もある。

 だがまあ、その程度である。まともに熟読したことはないので、雰囲気くらいしか知らない。

 どんな記事が載っていたかとか、名物コラムの執筆陣もなじみがない。まして買ったことなど一度もない。

 それどころか、『ダンチュウ』『エスクァイア』『ブリオ』『ナビ』といった「センスを磨く」系の雑誌など、名前すら知らなかった。道理で私はセンスが悪いわけだ。

 つまりは、私の雑誌ライフはことごとくが王道をはずしているということだろう。

 百歩譲って釣りや鉄道といった趣味系雑誌は、そのジャンルに興味がない人は買わないから仕方がないとはいえ、ナンパや政治経済、エロ系ゴシップといった「男の王道」的誌面をまったくスルーしているのは問題である。

 最近読んだ雑誌といえば、ドイツ文学紹介誌『DeLi』だもんなあ。知らねえよ、そんなの。

 というわけで、もし斎藤さんが『男性誌探訪2』を書く機会があったら、ぜひとも私の読んできた雑誌を取り上げてもらいたい。

 ラインアップは『将棋世界』『ファミコン通信』『テニスマガジン』『スマッシュ』『オフィシャルD&Dマガジン』『月刊基礎ドイツ語』『旅行人』『バックパック・トラベラー』『宇宙船』。

 あと、定期購読してた友人に借りてときどき読んでいたのに、『月刊ムー』『アニメック』『BEEP!メガドライブ』『映画秘宝』があります。

 どうぞ、切れ味鋭いつっこみをお願いします。



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斎藤美奈子『男性誌探訪』でわかる、「男って、ホントは女にこう思われてるよ」の恐怖 その3

2016年09月22日 | 
 前回(→こちら)の続き。

 斎藤美奈子さんのファンであり、その著作である『男性誌探訪』はたいそうおもしろい。

 これまで斎藤さんのすぐれた「悪口力」について語ってきたが、彼女のさらなる魅力は「自己の相対化」をうながす鐘の音だ。

 ここでは「男性誌」限定だが、斎藤さんは他にも「女性誌」(『あほらし屋の鐘が鳴る』)「ベストセラー」(『誤読日記』)「国語教育」(『文章読本さん江』)などなどにもキビしいつっこみを入れておられる。

 彼女のボキャブラリーを借りれば、
 
 「しょうもな。あほらし屋の鐘が鳴るわ、カーン!」

 である。

 斎藤本のキモは、まさにこの「カーン!」にある。

 彼女の本を読んでいると、下品なオヤジや頭の軽い女などとともに、我々読者自身もその批評により相対化される。

 斎藤流のつっこみに、「こいつらアホやなあ」「どんだけ勘違いしてるねん」と笑いながらも、時折ふと思うわけだ、

 「けど……もしかしたら、端から見たらオレかって……」

 なんとも恐ろしい疑問が頭をもたげてくるのだ。

 こうなると、思わず姿勢を正してしまう。果たして、自分に彼女が遡上にあげた対象を笑う資格があるのか。

 それはただの「目くそ鼻くそ」ではないのか。もしくは、あえて笑うことによって

 「こいつらとオレとは違うのだ。現にオレは今、客観的な視点でこいつらを嘲笑できているではないか。一緒にしないでくれ」

 と差別化をはかる、「近親憎悪」というやつではないのか。

 男が苦手なフェミニズム的言動も、斎藤さんにかかるとその巧みな文章力で、キツいけど興味深く読める。で、勉強になる。

 異論反論はあれど、「あー、こっちは当たり前と思って言うてることが、女側にはそう見えるのやー」という、言われてみれば当たり前のことに気づかされる。

 フェミ的言論に賛成反対は個人の考えだが、少なくとも「敵の情報」は知っておくべきだろう。そういった「よそさんの目」の役割をしてくれるのが、斎藤的つっこみのすぐれたところなのだ。

 かつて民俗学者の大月隆寛さんは、ナンシー関さんとの対談で、

 「こころにひとりのナンシーを」

 との名言を残した。

 野暮を承知で言語化すれば、自分がおごりたかぶったり勘違いしたりと「裸の王様」になりかかったときに、ふと出てくる

 「もうひとりの自分による冷静なつっこみ」

 でもって、それを抑制する働きのこと。

 この自分が「痛い」ことになりかけたときこそ、まさに大事なのが「あほらし屋の鐘」である。自意識過剰には、まさにあの「カーン!」の音が一番利くのだ。

 その意味では、男は(いや、女性でもいいけどさ)トチ狂いそうになったら斎藤美奈子を読んでいったんクールダウンするのがいいし、周囲でなにかに舞い上がっている人がいたら、彼女の本をそっとカバンに入れてあげるのが親切というもの。

 まさに「ガマの油」並に、鏡に映った自らの姿に大量の脂汗を流すこと請け合い。

 ナンシー関亡き後は、

 「心にひとりの斎藤美奈子を」。

 ともすれば、ただのネクタイのことを「センツァ・クラバッタ」とか言いたがる我々への、見事なセーフティ・ブレーキになってくれます。カーン!



 (続く→こちら



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斎藤美奈子『男性誌探訪』でわかる、「男って、ホントは女にこう思われてるよ」の恐怖 その2

2016年09月21日 | 

 前回(→こちら)の続き。

 斎藤美奈子さんのファンであり、その著作である『男性誌探訪』はたいそうおもしろい。

 『エスクァイア』『ダンチュウ』といった、男の自己陶酔的カン違い渦巻く雑誌に次々とスルドイ蹴りを入れていく様は、痛快なような、はたまた男としては桜玉吉さん言うところの「きんたまキュー」な気分にさせられるような、SとМ両モードが満足させられる快感がある。

 とにかく斎藤さんのすごみは、その「悪口力」の高さ。

 世の「毒舌」「辛口」「皮肉屋」を売りにする本やツイッターなどは、たいてい「ただの悪口」なのであまり読むに値しないが、中にはそのレベルが高次元すぎて、思わず笑ってしまう才能の持ち主もいる。

 その「悪口力」の持ち主といえば、西原理恵子さん、ナンシー関さんが双璧だったが、3人目に堂々斎藤美奈子さんが就任だ。

 『もてない男―恋愛論を超えて』で有名になった、学者の小谷野敦さんが、

 「斎藤の本はオヤジいじりがうまいだけ」

 みたいな「悪口」を言っていたものだが、世の中には「絶妙の悪口」というのもありまして、それを繰り出されると、こちらは「ひええ」と恐れ入りながらも笑うしかない。

 斎藤流のイヤごとで有名なのに、


 「ハードボイルド小説は男のハーレクインロマンスである」


 というのがある。

 これにはハードボイルドの伝道師である小鷹信光先生も、

 「なんか、ちょっとちゃう気もするねんけど……」

 と、たいそう困ったような苦笑いをされてましたけど、これこそが「絶妙の悪口」なのだ。

 男だが、ハードボイルドにさほど思い入れのない「中立派」の私から言わせても、小鷹先生のおっしゃるように、「男のハーレクインロマンス」というのは、ハードボイルドの本質をあらわしているとはいいがたいとは思う。

 けど、なんだろう。言われたほうは、「絶妙に嫌な気分になる」ところがすごい(笑)。

 おそらく、この「悪口」のすぐれたところは、「本質をついていない」ところなのだ。

 だからこそ、「論理的な反論」や「毅然とした怒り」を受けつけないところがある。

 「巧妙に設置されたズレ」により、ロジックを無効化させる上に、「マジなんなや」と失笑されそうでもあるのがおそろしい。

 それでいて、「ハーレクインロマンス」という硬派な男性がもっとも軽く見るであろうジャンルを出して、

 「アンタも、これと似たようなもんや」

 と鼻で笑う。
 
 イヤな気分にはなるけど、マジメに反論するのはバカバカしいうえに、それなりに手間がかかってめんどくさく、怒るとそれはそれで笑われそう。だから、ゴニョゴニョ言いながら受け入れるか聞き流すしかない。

 その「なぐって、なぐりっぱなし」なところが、このフレーズの破壊力なのだ。あー、なんて意地悪。

 斎藤さんの「悪口」は、あたかも映画『スターリングラード』に出てきたヴァシリ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェフのごとき一撃必殺のスナイプなのだ。

 ターゲットの急所を一撃で射抜き、そのあまりのあざやかさのため、反撃する機会も気力も奪ってしまう言葉のチョイスのうまさ。

 もう読みながら、「ひやあ! 美奈子、かっこええけどコワー!」と感嘆しながら縮み上がることしきり。

 なんて書いていると、斎藤さんを知らない人には、なんだか彼女がただの性格が悪いだけのの女とか、「悪口芸人」みたいに取られてしまうかもしれないが、そんなことはない。

 斎藤美奈子の魅力は、ただ厳しいだけでなく、それを通じて読み手に、

 「自己を見つめなおす相対化」
 
 をうながす知性にあふれているのだ。



 (続く→こちら
 


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斎藤美奈子『男性誌探訪』でわかる、「男って、ホントは女にこう思われてるよ」の恐怖

2016年09月20日 | 
 斎藤美奈子『男性誌探訪』を読む。

 斎藤さんといえば、『文章読本さん江』で第1回小林秀雄賞を受賞し一気に名をあげたが、私は彼女のファンであり、出ている本はこれまでだいたい読んでいる。

 その理知的な分析力でもって、ときには切れ味鋭く、ときにはぐうの音も出なくなるほどのミもフタもないボキャブラリーで「急所に蹴りを入れる」技術は見事の一言。

 その「つっこみ力」には舌を巻くほかなく、コラム類はもう読むたびに爆笑し、ジェンダー論などは男として逃げ出し……もとい考えさせられるところも多いのである。

 この『男性誌探訪』も、彼女必殺の「男(特にオヤジと呼ばれる人種)に対する冷徹なつっこみ」がさえまくっている。

 たとえばキャッチフレーズが

 「Art of Living」

 という、しゃらくさい雑誌『エスクァイア』を取り上げるとどうなるか。

 私は不勉強にも知らなかったが、アメリカで出されていたカルチャー雑誌だとかで、具体的に目次を取り出してみると、


「バリへ

 王子が語り、詩人が詠い、画家が描く悠久の島、バリ。お前に会いに行く。

 シチリアより愛をこめてワインと太陽に魅せられたファッショントラベローグ。

 ゲイ・タリーズ「父から受け継いだイタリアンスタイル」



 まあ、こういう内容らしい。

 これだけでも、すでにしてトホホ感がただよっているが、このようなスットコ、じゃなかったスコット・フィツジェラルドか片岡義男のごとき陶酔にひたっていると、


 「こんな特集を夫がソファに寝っ転がって読む横で「ちょっとどいて」とかいいながら妻がガーガー掃除機をかけている情景が目に浮かぶようである」


 けんもほろろに一蹴されてしまう。

 まさにミもフタもない一撃だが、笑ってしまうのもたしかだ。そりゃ、家に「ファッショントラベローグ」を語る男がいたら、めんどくさそうだもんなあ。

 「男の料理」を売りにする雑誌『ダンチュウ』では、


 「船上の漁師めし。(中略)夏の炎天が照りつける船上で、滝のように流れる汗をかきながらハフ、ハフッと食べる食事もまた格別の味である。ちょっとばかりカッコつけていうと、それは海の男の労働の味、とでもいえばいいのだろうか」



 などとワイルドなスタイルを語ってみると、


 「よくいうよ。あなたは労働しないで食べたいだけじゃん」


 バッサリだ。それをいっちゃあだが、やはり爆笑である。

 たしかに、「言うてるだけ」だもんなあ。ぐうの音も出ない。

 我々が自慢げに語る「男の○○」が、女性陣に(世間に)どう失笑されているか、この一発で白日の下にさらされるわけだ。おー、ハズカシ。

 また、「反オヤジ」を標榜し、あたかもヤングたちの意見を代弁しているかのような『週刊プレイボーイ』も、スポーツといえば巨人、ドラマといえば『スクール★ウォーズ』、宮崎駿を語るのに「学生運動の敗北」を例に挙げるところなどから、


 「大人になりそこねた団塊雑誌」


 と鼻であしらい、ナンパ雑誌『ホットドッグ・プレス』には、


 「(出会い、口説き、セックス」の三位一体行為がHDで定義する「ナンパ」だが、)「ホットドッグ」のナンパ作法は出会い(出発点)とセックス(到達点)だけが詳細で、その間をつなぐプロセスがない。ところが、女の子雑誌の作法は逆である。重要なのはプロセス(「恋愛」)なのだ」。


 的を射すぎている分析を披露し、不倫のガイドブックともいえる『日経おとなのOFF』に対しては、


 「釣った魚か釣りたい魚かでエサ(引用者注・雑誌で紹介される料理のこと)のランクが決まるのだ。「夫婦向け」とは「たいしたことない」の婉曲表現ですかね」


 との手厳しい意見も。これは読者も編集者も、苦笑するしかあるまい。

 斎藤本の魅力のひとつが、こういったつっこみによる「よう言うてくれた」感。

 私自身、ここでさらされている「昭和のおじさん的センス」が皆無なので、なに言われてもさほどダメージはなく、ただおもしろいだけだが、言われた「愛読者」たちはそうもいくまい。

 おそらくは怒りで顔を真っ赤にしながらも、心の中では震えていることであろう。

 だって、ページの向こうから斎藤さんの、いや世間の大半の女性や若者からの冷たい声が、するどく突きつけられているのだもの。

 「おまえら、カッコつけてるけど、ホンマはこう思われてんぞ」と。


 (続く→こちら





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「ヨーロッパでもっとも危険な男」オットー・スコルツェニー少佐 その2

2016年09月18日 | コラム
 前回(→こちら)の続き。

 オシャレなイタリアンレストランでランチを楽しみ、「仕事ができる男って、ステキよね」と語り合うOLさんたちに、

 「それなら、ドイツ軍で活躍した、オットー・スコルツェニー少佐がおススメですよ」

 そう教えてあげたくなった、さわやかな9月の午後。

 前回は少佐のハンガリーでのはなれわざを紹介したが、大戦末期、敗色濃厚となったドイツはあの手この手で連合軍を攪乱しようと策を打っている。

 最大の同盟国であるイタリアで盟友ムッソリーニが失脚し、どこかに幽閉されこづき回されているという情報が入ると、少佐はすぐさま、

 「ワシにまかせんかい!」

 と、コマンド部隊の精鋭を集結。

 ベニトが閉じこめられていたグラン・サッソにグライダーで降り立ち、見事に救出。そのまま再びグライダーで風にのって空へと消えたという。

 まさに「疾風のように現れて、疾風のように去っていく」。ルパンか怪人二十面相みたいである。かーっこいい!
 
 またバルカンで友軍が苦戦していると聞けば、

 「おえ! チトーのタマ取ってこんかえ!」

 との声にすぐさま立ち上がり、「レッセルシュプルング(桂馬跳び)作戦」を発動。

 ドイツ軍と赤色パルチザンが血みどろの殺し合いをしているユーゴスラビアへ出動すると、パルチザン本部に降下。なんと、チトー誘拐を試みる。

 ユーゴのパルチザンといえば山にこもり、捕まえたドイツ兵から身ぐるみはいだうえ、目をえぐり、耳と鼻と性器をそぎ落としてから射殺するとかメチャクチャやっていた、歴戦の兵士たちもビビリまくる連中である。

 そこに乗りこんで、ボス中の大ボスのチトーを拉致とは、えげつないくらいに危険な作戦だ。私だったら100億円もらっても断る。パウル・カレルの『捕虜』を読んだことあるから、よけいだよ。

 おそらくは、ジャック・ヒギンズの名作『鷲は舞い降りた』のモデルになった、この大胆不敵なオペレーション。

 スコルツェニーの部隊は敵のアジトにまで到達したが、チトーはわずか数分(!)の差で脱出に成功。

 まさにタッチの差。もしここでチトーが捕縛されていたら、ユーゴの、いや世界の歴史が変わっていたことであろう。まさに「歴史を動かした」数分であった。

 そしてスコルツェニー少佐を最も有名にしたのがこれ。

 ドイツ軍西部戦線最後の大攻勢であるアルデンヌ進撃、「バルジ大作戦」として映画にもなったこの大決戦で、ドイツ戦車部隊の後押しをしたのがスコルツェニー少佐率いる特殊部隊であった。

 スコルツェニーは英語がしゃべれるドイツ兵に米軍の軍服を着せ敵地に潜入させたうえで、こんな情報を流すのだ。

 「連合軍の中に、完璧に偽装したドイツのスパイがいる」。

 「グライフ作戦」と名づけられたこれには、アメリカも大パニックにおちいった。

 そりゃそうだ、まったく見分けのつかない敵兵が自軍にいたらえらいことである。

 自衛隊の幹部や防衛省のえらいさんの中に中国や北朝鮮のスパイがまぎれこんでいたと考えたら、そらさすがの米軍もビビるはず。
 
 実際現場は大混乱におちいり、兵士どころか幹部クラスの面々すらスパイ容疑で取り調べを受けたりしたそうだから、さぞや溜飲も下がったことだろう。見事な「ドッキリ大成功」だ。

 こうして負け戦にもかかわらず、一矢どころか二矢も三矢もむくいたスコルツェニーについたあだ名というのが

 「ヨーロッパで最も危険な男」

 シブイ! シブすぎるのである。かっこええなあ。

 こうして数々の、ほとんど無理難題といったミッションをこなしてきたスコルツェニー少佐。戦後はスパイ罪に問われ、捕虜収容所にぶちこまれることに。

 戦場で敵軍の軍服を着るのは国際法違反なので(まあ、これは連合軍をはじめ、どこの国でも大なり小なりやってるらしいですが)かなりシメられたらしいが、ところがどっこい、少佐はそんなことで反省するタマではない。

 2年後しれーっと収容所から脱走。そのまま、どういうルートでかフランコ政権下にあったスペインに脱出してしまう。

 そこで事業を興し、またあれこれあやしい活動に手を染めその地で大富豪となり、悠々自適の余生を送ったそうである。

 すごい。よくスポーツやビジネスの世界で成功した人に、

 「彼はどの世界でも一流になれる男です」

 なんていうが、スコルツェニーこそまさにこの言葉が当てはまる人物であろう。ホンマ、なんでもできる人やなあ。セカンドキャリアも完璧や。

 このように、私にとって「できる男」とはスコルツェニー中佐(最終階級)である。

 世の女性のみなさんも、男性選びの参考になさってほしいものだ。



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「ヨーロッパでもっとも危険な男」オットー・スコルツェニー少佐

2016年09月17日 | コラム
 「『できる男』といったら、オットー・スコルツェニーしかいないだろうが!」

 などと声を荒らげそうになったのは、ある昼下がりのランチタイムのことであった。

 こじゃれたイタリアンの店にいて、ロバート・シェクリィ『無限がいっぱい』など読みながらボンゴレスパゲティーをずるずる音を立てて食べていたところ、横のテーブルからこんな声が聞こえてきたのだ。

 「やっぱ、恋人にするなら仕事ができる男よね」

 見てみると、OLさん4人連れが仲良くランチをしていた。

 「恋人にするならどんな人がいい」という話題からの流れで、そこでは例として、嵐の櫻井翔君やくりぃむしちゅーの上田さん、ロザンの宇治原さんなんかがあがっていたが、私としてはひとつ大事な人物が抜けているような気がしてならなかったのだ。

 もしもしお嬢さんたち、オットー・スコルツェニー少佐をお忘れではないですか、と。

 オットー・スコルツェニー。

 第二次大戦中のドイツ軍にはエルヴィン・ロンメル、エーリヒ・フォン・マンシュタインなどなど世に聞こえた名将が多いが、中でもスコルツェニー少佐は「特務作戦のスペシャリスト」として鳴らしたのが異色だ。

 この人はまさにスパイ小説を地でいく、皆がド胆を抜くようなエピソードを数々残していて、それがいちいちおもしろい。

 大戦末期。ソ連の物量に押されっぱなしのドイツ軍は敗走につぐ敗走で、とうとう占領していたロシア本土から東ヨーロッパまで押し戻されてしまった。

 こうなると枢軸側についていたはずのルーマニアなど東欧諸国は、

 「こらあかん。ちょび髭の伍長殿もいよいよ終わりやで。このままやったら、ワシらも負ければ賊軍でどんな目に合うか……」。

 いよいよ足元がぐらつきだし、「パンがなければケーキを食べればいいのよ」と言い放ったアントワネットのごとく、

 「どうせ負けなら、とっとと裏切ればええんや」

 恥も外聞もなく反転してドイツに宣戦布告。それを見て同じく同盟国ハンガリーも

 「どないしたらええんや……どう考えてもドイツは負けるし、そうなったらワシらも敗戦国や……」。

 もうビビリまくりで、負けチームに居残るか、それともスターリンを選ぶかという古い言葉でいえば「究極の選択」を強いられるハメに。

 そこにあらわれたのが、我らがスコルツェニー少佐。

 ただでさえ負け戦なのに、たいした戦力ではないといえ同盟国にまで寝返られたら泣き面に蜂。

 「おっしゃ、ワシにまかせたらんかえ! パプリカ野郎ども、なんとかしてくるわ!」

 とばかりに、ヒトラー総統の命令を受けて「ミッキーマウス作戦」を発動。ハンガリーに極秘潜入し、独裁者であったホルティ提督の息子を誘拐。

 「オラオラ第三帝国裏切ったら、かわいい息子がどうなるかわかっとるのやろうなオラオラ」

 首根っこひっつかんで脅迫を敢行しようとする。

 そこから紆余曲折あった末、続けて始動した「パンツァーファウスト作戦」では極右勢力「矢十字党」をあおってクーデターを起こさせることに成功。

 寝返る直前だったハンガリーに、親独政権を樹立させ、見事味方につなぎとめたのであった。

 すんげー話だ。

 いわば自衛隊のレンジャー部隊が北朝鮮に極秘潜入し金正恩を誘拐した上、韓国の反政府ゲリラを指揮して朝鮮半島に親日政権国家を作るようなもんである。

 とんでもない、まさにクリスチアナ・ブランド級のはなれわざである。

 これこそまさに、真の「仕事ができる男」ではないか。

 こじゃれたイタリアンの店でOLさんたちに、そんなステキな男性を紹介してあげたい。

 そんな気分になった、さわやかな9月の昼下がりであった。




 (続く→こちら



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ムベンベ 対 ウモッカ 対 高野秀行 in ビルマ ゴールデントライアングル その2

2016年09月14日 | 
 前回(→こちら)の続き。

 「文化系の探検」(蔵前仁一さん談)で、おもしろ本を次々世に出してくる「辺境ライター」こと高野秀行さんは、のほほんとしているようでムチャのようで、どこかおかしい。

 『怪魚ウモッカ格闘記』では、幻の魚を探しにインドへ行くが、かつて密入国したことがばれて、強制送還になってしまう。

 どうしてもインド入国をあきらめきれない高野さんは

 「そうだ、《高野秀行》のパスポートの記録が残っているんなら、何らかの方法で姓を変えて、高野じゃない別人になりすませばいいんだ!」。

 で、検討した作戦というのが、奥さんといったん離婚して、もう一度結婚する。

 その際、今度は自分の方が奥さんの方に婿入りする。そうすれば、自分は「高野」ではなく奥さんの方の名字のパスポートを作れるのだ。

 これならインド入国管理官にもわかるまい!

 どんなやり方や。違法スレスレというか、いくら姓を変えても本人はブラックリストに載っている「高野秀行」なんだから、これは違法ではないのか。ようそんなこと思いつくわ。

 この意見は奥さんの「姓名変更がめんどくさい」との反対により却下されるが、そこは粘りに粘って交渉し、最後は同意をもらうことができるも、日本の法律では女性は離婚してから半年間は再婚できないらしく、この案は頓挫。

 半年も待てるかい! ということで、インド行きは残念かといえば、高野さんはここで起死回生の案を出す。

 そうだ、妻とすぐに結婚できないなら、他の女性と偽装結婚して、姓だけ一時的に貸してもらえばいいではないか!

 なるほど、その手があったか、これぞまさにコロンブスの卵ではないか。では早速、離婚届に判を押して、別の女性と……。

 て、そんなことできるわけはないではないか。なにをとんでもないことをいっとるのかねという話だが、高野さんはいたって大まじめである(この間、「インド探検記はブログで、リアルタイムで報告します」と宣言しながら、いまだ日本を出られず居留守を使ってひそんでいる高野さんの様子は抱腹絶倒のおもしろさだ)。

 とにかく、終始こんな調子なのだが、これが不思議と読んでるときは無茶苦茶と感じないというか、

 「おお、そうやってパスポートを手に入れればええのか、冴えてるなあヒデちゃん!」

 とページをくりそうになったところで、はたと気づいて、

 「いやいや、それはアカンやろ高野さん!」

 つっこんで爆笑することとなる。

 いったんスルーしそうになって、「え?」。舞台劇でいうところの「二度見」というやつであろうか。そのとぼけたところが味である。

 『アヘン王国』でも、取材を追えたあと拠点としていたタイに帰るのだが、そこで記念といってアヘンを持ち帰って、コーディネーターの人に「あんた、なにやってんの!」と怒鳴られたという。

 本人は天然というか、「おみやげ」みたいな感覚で持ち帰ったのだが、怒られてみてはじめて

 「そういえば、ここまでにも何度も国境などで荷物チェックがあった。幸運にも見つからなかったが、もし見つかっていたらと思うと頭が真っ白になった」

 そう振り返るが、いやいや、その前に気づけよ! 

 高野さんは取材の際は事前に現地語を学習したり、本文のおとぼけはけっこう意識的な「ボケ」の部分もあったり、対談などを読むと実はかなりのインテリだったりもするんだけど、それでいてどこかスコンと抜けているところが独特の文体を生むのだろうか。

 かくのごとく、破天荒なような、能天気なような、天然のような、計算のような、その境目がよくわからないところが高野本の魅力。

 軽くつきぬけていて、落ちこんでいるときなどに読むと、ケラケラ笑えてなんだか気楽な気持ちになれる。鬱に悩む人にオススメ。たぶん、一発で治ります。

 ちなみに、前回の冒頭一文は『幻獣ムベンベを追え』の、はじまりの一行。

 世にあまたの書物あれど、これくらい魅力的な旅行記の書き出しを私は他に知らない。
 


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ムベンベ 対 ウモッカ 対 高野秀行 in ビルマ ゴールデントライアングル

2016年09月13日 | 
 「えーと、それではぼくたちは怪獣を探しに行こうと思ってます」。

 なんて語りはじめる高野秀行さんがおもしろい。

 高野秀行といえば、読書好きの間では知る人ぞ知る「すべり知らず」の人で、とにかく出る本出る本ハズレなしの実力者。

 その力量とくらべてややマイナーな存在であったのは不思議であったが、『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞受賞するなど、ようやっと世間にも評価され出してファンにはうれしい限り。これからも活躍が期待されるところだ。

 そんなアベレージの高い作家である高野さんでおすすめといえば、まず『アヘン王国潜入記』。

 ビルマ北部に、俗に「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれるアジア、いやさ世界最大規模ともいえる麻薬生産地が存在する。

 「辺境ライター」である高野さんは、その中枢を担うワ州に潜入。麻薬ビジネスの知られざる世界の実態をレポートする。という、著者の代表作ともいえる作品である。

 というと、ずいぶんハードというか、「闇の世界にメスを入れる」的ドキュメンタリーを想像するかもしれないが、そこはあっさりとそうならないところが高野秀行のいいところ。

 麻薬ビジネスの暗部どころか、居候(!)から取材を展開した高野さんは現地の人たちと一緒にケシの実を栽培し、アヘンを作り、自分も吸ってみて、そのままアヘン中毒になったそうだ。

 なったそうだ、と言い切られても困るだろうが、これが本当になったのだから仕方がない。

 麻薬地帯に取材に行って、自らがアヘン中毒。ミイラ取りがミイラというか、そんなんでええんかいというか、無茶苦茶な話ではないかといえば、そう、無茶苦茶な話なのである。

 私は高野さんのファンで、出ている本はほぼほぼ読んでいるが、この人のやることはたいていがおかしいのである。

 『幻獣ムベンベを追え』では、早稲田大学探検部を引き連れてコンゴの山奥に怪獣モケーレ・ムベンベを探しに行くし、アマゾン川を川下りすれば、出てくる人物は怪しい呪術師やコカインの密売人、コロンビアでは幻の幻覚剤を試してラリラリになり、ときには野人を捜しに中国へ。

 はちゃめちゃな冒険で世界を駆けめぐり、さぞや行動的で破天荒かと思いきや、日本にいるときは三畳一間のアパートで「動くと腹が減るので」と、ひたすらゴロゴロ眠る日々。

 そこでもヒマにあかしてUFOを探しに行ったり、自家製ドラッグでトリップしたり、野球ファンの盲目のスーダン人(!)と野球観戦したり、アルバイトで

 「三味線を弾きながらタロットをする」

 という意味不明の占い師になったりと、もう百花繚乱というか、全体的に「無茶が渋滞している」状態。

 いったいどんなポリシーでもって、こんなにもハチャメチャなのかといえば、おそらくは大槻ケンヂさんがあとがきで言っている通り、

 「きっと、この人はなにも考えていないのだろう」

 高野さんの本は、このようにそこかしこぶっ飛んでいるのであるが、氏のすごいところは、そんなパワフルな冒険に出かけながらも、ちっともそれがパワフルに見えないところ。

 どんな危険でムチャとも思えるようなことも、高野さんの飄々たる文体にかかると、ちっともそう感じない。

 あたかも、我々が日常で何となく、ちょっと駅前のコンビニ行ってくるわ、というのと同じくらいの温度で、

 「ちょっと、西南シルクロード通ってインドに密入国してくるわ」

 と旅立ってしまうのである。なんてすばらしい。

 高野さんは、かの船戸与一も在籍していたという、泣く子も黙る早稲田大学探検部であるが、そのワイルドさと裏腹であるはずのボンクラさが絶妙にブレンドして、実にいい味を出しているのだ。

 ライターの前川健一氏は、雑誌『旅行人』の対談で、高野本を薦められて、

 「オレ、探検部とかのノリって苦手なんだよね……」

 とあまり乗り気でなかったが、そこで対談相手の蔵前仁一編集長がフォローを入れることには、

 「いや、それはわかるよ。でもね、高野さんの本は全然違うんだ。もっと肩の力が抜けた、文化系の探検なんだよ」。

 私の高野評と同じであろう。そう、体育会系でなく、文化系の探検。ハードなんだけど、のほほんとしてて、押しつけがましくない。

 そんな軽やかに、やはり高野さんはムチャである。


 (続く→こちら



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男子禁制! イスラム女性専用車両には絶対乗ってはいけません inエジプト その2

2016年09月10日 | 海外旅行

 前回(→こちら)の続き。

女性専用車両に乗りかけて、あやうく逮捕されるところであった。

 なんていうと「大げさな」と笑われそうだが、これがイスラム圏だと話が変わってくる。

 前回も説明したが、むこうは日本と違って女性の貞操観念にメチャクチャに厳格

結婚を前提としない男女交際は基本禁止電車バスの席も男女を並べてブッキングなども、絶対にありえないのだ。

 そんな宗教的ガチエジプトの首都カイロで、なんとはなしに地下鉄に乗って、たまたま目の前に停まったのが、女性専用車両。

 それも、が決めたという。

 それに乗ろうとした。そら空気も凍ります

 ここにいくつか言い訳させていただければ、まず私は観光客であり、現地の文化風習には疎いこと。

 いわれなくては、そんなタブーのことなどわからないわけだ。

 ふたつめは、駅に注意書きのようなものがなかった。

 いや、あったのかもしれないが、アラビア語では素人が読めるはずもない。英語でもなかった気がする。

 まあ、観光客がカイロっ子のふだん使う地下鉄とか、あんまり乗らないのかもしれないけど、それにしたって、そんな大事なことはちゃんとよそ者でもわかるように、英語表記をしておいてほしい。

 まあ、むこうからしたら、「いわんでも、わかるやろ」ということなんだろうけど。

 しかも、そのときガイドブックを熱心に読みふけっていて、本当に目の前のドアが開く瞬間まで事態に気づいていなかった。

 あの、なーんにも考えず乗車しようとしたときの、車内から感じた恐ろしいほどの異様な空気だけは、今でもあざやかに思い出せる。

 目をに落とした状態でも、ビンビンに感じられたのだから、人の持つオーラというか切迫した空気感はすごい。

 ビックリして顔を上げると、そこには車内一杯に乗り込んでおられるイスラム女性のみなさま。

ムスリムらしく、厚い布で全身をかくすイスラムスタイル。皆が皆彫りの深い美人ぞろいである。嗚呼、眼福、眼福。

 なんておさまっている場合ではない。異様なのは、その表情である。

全員女性。それだけでも、男子には結構なこと威圧感があるのに、それに加えてその顔に張りついた表情がものすごかった。

 それらは一様に、驚愕憤怒困惑恐怖混乱

 そういった感情がない交ぜになって、一斉にこちらを見ているのだ。

 クトゥルフ神話に出てくる探検家や学者は、きっとあのような顔をして発狂していたのにちがいない。

 おかしなことになっているのは、さすがのトロクサい私でも気がついた。

 あ、これ、アカンやつや。

 人間の反射神経というのはたいしたもので、私はそのままマイケルジャクソンばりのあざやかなバックステップを決めると、きびすを返してかけだした。

 しまったあ、ここはイスラムの国やったんやあ! ダッシュしながら、ようやっとそこに気づいた。

 去り際にチラッと振り返ると、そこには今にも暴徒と化してなぐりかかってでもきそうな、オットロシイ顔をしたイスラムお姉さまたちが、こっちをにらみつけていたのである。

 冷静になって思い返すと、自分のやってしまいそうになった大ポカに戦慄する。

 なんという国辱ものの大阿呆なのか。



 「家族以外の男とは目も合わせるのもダメ」



 くらいの文化圏で、見も知らぬ、しかも異教徒の男性が、女性だけが集まる場所にずかずかと踏みこんでいくとは、礼儀知らずどころか、ほとんど蛮族の行いである。

 日本でいえば女湯とか女子トイレに男が素っ裸で入っていくとか、それくらいにありえないことなのだ。

 いや、それよりヒドい。国によっては、大げさでなく死刑になりうるし、たぶんエジプトでも十分犯罪になる可能性大だ。

 嗚呼、あれだけは本当に危なかった。

 このときはたまたまカンが働いたし、たまたまイスラム文化についてちょっと学んでいたから、とっさに「やばい!」となったものの、もしそういったことを全然知らないまま旅してたらと思うと、これはもう尿をちびるほどコワイ

日本チカン防止とくらべても、イスラム女性専用車両ガチです。

冗談ではすみません。絶対に乗りこまないように。「隣、いい?」なんて強引なナンパもご法度。とんでもないことになる可能性も。

 外国を旅行するときは、多少は現地文化も知っておかないといけないなあと、勉強になりました。

 あのとき驚いたエジプト女性の方々、本当にご迷惑をおかけしました。無知だなあ。


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男子禁制! イスラム女性専用車両には絶対乗ってはいけません inエジプト 

2016年09月09日 | 海外旅行

 女性専用車両で、あやうくお縄を頂戴するところであった。

 といったはじめ方をすると、



 「おまわりさん、この人が犯人です。いつかやると思ってました」



 などなど、マーシー的あらぬ誤解を受けそうだが、そういうことではなく、女性専用車両と知らずに、うっかり乗ろうとしてしまったのである。

 そう説明してみると今度は、「そんなことか。また大げさな」と笑われてしまうかもしれないが、これがたしかに日本ならそうであろう。

 多少白い目で見られたり、駅員さんに怒られたりするかもしれないが、いくらなんでも犯罪者あつかいされるほどでもあるまい。

 ではこれが、イスラム圏における女性専用車両ならどうであろうか。

 エジプトを旅行した際、カイロ地下鉄を利用したのだが、そのときウッカリして女性専用車両ホームで電車を待ってしまっていたのだ。

 エジプトはご存じの通り、イスラム教の国である。

 サウジアラビアイランほどゴリゴリではないが、それでも一般に熱心にお祈りをし、豚肉アルコールもたしなまず、年に一度は断食をするという、真面目なイスラム信徒が多い。

 そんなイスラム文化には、お祈りや断食のほかにも有名なものに、こういうのもある。



 「婚前交渉は絶対禁止」


 そこいらに関してはかなりゆるい日本人には、なかなかきびしく聞こえるが、これはトルコのような比較的リベラルなイスラム国でも、わりとかっちりと守られている

 砂漠の民にとって、女は大変貴重な存在であった。

 それゆえに、男からすれば過度に騎士道的なノリがあるらしい。

 ちょうど、女性が希少価値の高かったアメリカ西部開拓時代に、レディーファーストが発達したようなものだ。

 一部で「女性差別的」といわれる、をかくす習慣も



 「大事なオレの女(などもふくむ)を、他の男のいやらしい視線から守るため」



 というところからきているし、女性の一人歩きなど

 

 「そんなん、ワシは認めんぞ!」

 

 絶対にゆるされないのだ。

 出かけるには家族が一緒でないとならず、未婚女性デート家族同伴が自然。

 国によっては、男女の健全な自由恋愛ですら犯罪あつかいで、場合によっては死刑(おいおい……)になったりするんだから、これはもう文化がちがうとしかいいようがない。

 なもんで、生活の場でも家族以外の男女は、くっきりとわけられるケースがほとんどで、我々のような旅行者がそれを実感するのが、バス列車

 イスラム圏では、バスに乗ると、女性女性をあてがうか、もしくは空席にすることになっている。

 これは、たとえ満席で切符が取れずで、

 

 「その女の隣、空いてるやん!」

 

 主張したところで、男は絶対に乗せてくれない。

 なので「偶然、隣の席になって……」なんていう映画みたいなロマンスも存在しないわけだが、それはしゃあない、そういうルールなのである。

 これはイスラムの国を旅行する女性にすこぶる好評だが、男子は釈然としない。

 イスラムは男尊女卑と批判する人もいるが、こういったところは、

 

 「男子って、差別されてるわよね」

 

 なぜか、オネエ口調になって文句も言いたくなるわけなのだ。

 となれば、当然のこと電車の車両でも同じルールが適用されることとなり、地下鉄でも長距離列車でも、かっちりと男女がわけられる。

 これは日本のようなチカン対策とか、そういったレベルの問題ではない。

 なんちゅうても、宗教で決まっているというか、いわば神レベルの判断における女性専用車両なのである。

 男がいくら「下心なんてないよ!」と主張しても、アラーがお許しにならない。そら、絶対に乗ったらダメですわね。

 ここまで解説したところで、ようやっと私がやらかしかけたヘマの全容が、おぼろげながら、わかっていただけるのではなかろうか。

 神が決めた「禁制」の場所に阿呆なよそ者が、なにも知らずに入ろうとすると……。


  (続く→こちら


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グレゴリ青山と沢木耕太郎 バックパッカー「さわやか」対「もっさい」決戦

2016年09月03日 | 
 リア充じゃない女子はグレゴリ青山を読め。

 前回(→こちら)は「花札にハマる『もっさい』(京都弁で「あかぬけない」くらいの意味)女子高生、清里のペンションでリア充女子大生やオーナーに囲まれて大爆死」

 というグレゴリさんの体験談に爆笑したが、グレゴリさんの「イケてない」話で大好きなのが、その夫「ヨコチン」さんのこと。

 ある日のこと、グレゴリさんが旦那さんとふたりで何気なくテレビを見ていると、作家の沢木耕太郎さんが出演されていたそうな。

 沢木耕太郎といえば『深夜特急』という日本の旅文学史に残る大名著でもって、バックパッカーのカリスマともいえる存在になったお人。

 旅をテーマにインタビューに応える沢木さんは、


 「一人旅というのは、話す相手がいないから体験が自分の中で深くなっていくんですね」

 「モハメッド・アリの試合を観に行ったら、たまたま彼と同じホテルで、しかもエレベーターの中で偶然会ったんです。旅というのは、そういう奇跡みたいなことが起こることもあるんです」



 このようなことを語っておられたそうな。

 その様子を見ていたヨコチンさん(こちらもバックパッカー出身)は突然頭を抱えながら、

 「なんでこのお人は、こんなにもさわやかなんだー!」

 と絶叫。

 キラキラした少年のような目で旅のすばらしさを語る沢木さんを見ながら、

 「ごめんよー、どうせオレはヨゴれてるよー」。

 もう悶絶しまくるのであった。

 ここを読みながら、グレゴリファンであると同時に『深夜特急』をボロボロになるまで読み返しまくったほどの沢木ファンである私は、もう

 「わっかるわあー!」

 と爆笑に次ぐ爆笑。

 『深夜特急』というニヒルでハードな旅をした沢木耕太郎。一方、グレゴリ青山といえばバックパッカー専門誌という因果なジャンルの雑誌『旅行人』からデビューした人。

 「貧乏旅行」「バックパッカー」という大きな共通点のある二人にもかかわらず、実のところそのレールは交わることはないのであった。

 だろうなあ。いわばこれって、リア充とそうじゃない人。野球でいえば「セリーグ」と「パリーグ」のちがいみたいなものだ。それも昭和の。

 沢木耕太郎はギリシャからイタリアへ向かう船の上で、金髪美女相手に


 「なにをしてるの?」

 「フ、海に酒をすすめているのさ」



 とか夢想(想像しただけ!)しちゃったりするけど、グレゴリさんは


 「広大な遺跡に行くとトイレに行きたくなるバックパッカーあるある」

 「おすすめ映画は小林旭の『渡り鳥』シリーズ」

 「拘置所に入れられた友人のマイタケさん」



 みたいなマンガを描いているお方。そら、交わりようもない。

 私は当然のこと「パリーグ」の人間なんで、このときのヨコチンさんの、

 「ごめんよー!」

 という魂の叫びには、大いにうなずけるところがあるのである。

 なんで、天に向かってあやまんなきゃならないんだろう(笑)。でも、実感だよなあ。どうせオレはヨゴレ側だよと。ごめんよ、と。

 このときのグレゴリさんの反応も良くて、「おまえは平気なの?」というヨコチンさんの言葉に、

 「別に。だって、グ(グレゴリさんの略称)ってさわやかやん! 沢木ィ、コーク飲もうぜ!」

 と返すのだが、おおうちそのよさんの『歩くはやさで旅したい』(やはり『旅行人』で連載されていた、とってもさわやかなマンガ)を「ホレ」と見せられて、

 「ゴメン、グもヨゴレてるわ……。どろソースみたいにドロドロにな……

 真っ青になって落ちこむというオチ。ダッハッハ! そら、おおうちさんとくらべたらあきませんよ!

 ちなみに、グレゴリさんはその後、森優子さんと「どっちがよりヨゴレか対決」をしておられて、これまた死ぬほど笑ったんだけど、沢木さんは沢木さんで、ある女優さんに、

 「あの人って、コカ・コーラみたい人ね」

 などと言われて、てっきりいい意味でかと舞い上がり、「それ、どういうこと?」と重ねて訊くと、

 「スカッとさわやかっ、てね。でも、それだけの人ね」

 そうディスられてガッカリしたり、井上陽水さんとの対談でも、「沢木さんって、ストレートな人だよね」と言われて、

 「やっぱ、まっすぐだけじゃダメかな」

 なんてこともおっしゃっていたから、セリーグはセリーグなりの悩みもありそう。

 そういえば、私の友人連中にも、あきらかに「さわやかなリア充系」なのに、やたらと

 「自分はオタクだ」

 「ボクって、実は変なヤツなんだよ」

 とかアピールする子らがいたり、中には実直な公務員の先輩から、

 「オレって、アウトローやん」

 などと飲み屋で語られ反応に困ったりして、あれってよくわからなかったけど、今思うと沢木的「コカ・コーラって思われちゃってるよ……」っていうことなんだろうなあ。

 まあ、セリーグでもパリーグでも、こういうのは「種族」だからたぶん生まれつきのもんで、結論としては、

 『生まれた国』で、楽しく生きていくのが吉。

 ということなのであろう。沢木ィ、オレとどろソース飲もうぜ!
 

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グレゴリ青山女史による女子流非リア充は、清里のペンションでどっこい大作

2016年09月02日 | 海外旅行

 「リア充は、自分には合わない」。

 という、なにを今さらな事実を、ここ数回(それについては→こちら)語っている。

 実際にリア充を体験してみて、そのうえで

 「あー、あんまし楽しくないなあ」

 と実感したため、そのことについてのコンプレックスみたいなものはほとんどないが、時折自分と同じような苦戦を強いられた「同志」を発見すると笑ってしまうこともある。

 グレゴリ青山さんのファンである。

 グレゴリさんと言えば、『もっさい中学生』(「もっさい」とは、京都弁で「野暮ったい」「あか抜けない」くらいの意味)という作品があることから、いわゆるオシャレとか流行といった概念とは無縁の、やはり私と同じくマイナー街道を粛々と歩いておられる方。

 本日取り上げるのは、そんなもっさい画伯の『旅のグ2 月は知っていた』という本。

 今は休刊してしまった、『旅行人』という雑誌に連載されていた、旅を題材にしたエッセイマンガである。

 そこでグレゴリさんは、高校生のころ友達とペンションに遊びに行った体験を描かれている。

 場所は清里。グレゴリさんを筆頭に、ペンションなど、どこの国のおからせんべいやという京都の「もっさい」女子高生たちは、それぞれに


 「メルヘンなとこらしいで」

 「ユーミンの曲に出てくるようなところかなあ」



 などと、当時マイブームだった花札をしながら、大いに盛り上がっていた。

 そんなこんなで到着したのは、まさにメルヘンなペンションだった。

 優しそうなオーナー夫婦になぜか緊張し、神奈川からきた女子大生の、

 「今夜一緒にトランプしない?」「やったね」

 という生の関東弁に、これまたなぜかビビりまくる京都の仏教系女子高生。

 「ザッツ・清里のペンション」という、さわやかなシチュエーション。

 そこに違和感しか感じない一行は、ミッキーマウスのクッションのあるかわいい部屋でのトランプを終え、自分たちの部屋に戻ると、とりあえず


 「ふうー」


 という、なんともいえない深いため息をつく。


 「なあ…明日もトランプ大会あるんかな」

 「やならアカンのかな?」



 このコマの台詞を読んで、私はもう腹をかかえて爆笑してしまった。

 もう、机をバンバン叩きながら、

 「わっかるわあ~」

 清里のペンション、明るいオーナー夫婦、関東弁の女子大生。

 もうこの時点で完璧にアウェーなのに(なぜ? と思ったあなたは、おめでとうございます。あなたはきっと「リア充」チームです)、そこにトランプ大会では「ババぬき」!

 でもって、罰ゲームは「歌を歌う」。

 そら、つらいですわなあ。

 なんといってもグレゴリさんらはトランプでなく花札で、罰ゲームも新幹線の中で「どっこい大作」「ドリル」(詳細はこの回の次のエピソードに載ってます)。

 そらもう、部族がちがう。

 そして次の夜。食事をしながらコソコソと、


 「これ食べたら……」

 「わかってる。とっと部屋に帰るんやろ」



 と、打ち合わせ、光の速さで自室に消える。

 そこで行われるのは、もちろん花札

 いつものペースを取り戻したもっさい女子高生たちは、リラックスしまくり、


 「ハー! ババぬきなんてやってられんわなー」

 「やっぱ花札やで!」

 「いやー、それにしても関東弁ってホンマ寒いなあ」

 「私なんか、こごえそうになったで」

 「クーラー消しそうになったわ!」



 などと、言いたい放題。

 よほどストレスがたまっていたのであろう。ここでも大爆笑。

 アハハハハ! わかるよ、私も似たような戦場をくぐり抜けてきたもんよ(笑)。

 そうして、楽しくペンションの夜はふけると思われたが、グレゴリさんが、

 「よっしゃあ! いのしかちょー!」

 絶叫したところに、オーナーの奥さんが部屋に入ってきて、その瞬間部屋の空気はまっ白に。

 そらそうだ。仲良くトランプをしようと思ったら、「オシャレな古都」から来た京都の女子高生たちは

 「よっしゃ、そろった赤タンッ!」

 とか絶叫していたのだ。

 そら、ジーパン刑事みたいに「なんじゃこりゃあ!」と叫びたくもなりますわな。意味がまったくわからなかったろう。

 そうしてその夜も、清里のさわやかペンションババぬき大会に参加させられたグレゴリさんは、


 「私達にはペンションは似合わない……。なぜ行く前に気付かなかったのかと、今でもこっぱずかしいグであった」



 としめくくっており、もう笑いすぎて苦しいくらいの七転八倒。

 まったく見事なまでの「非リア」ぶりだ。

 我が軍の同志たちには、「ご愁傷様」といいながら「ようこそ」の握手の手を差し伸べたい。

 グレゴリさんはその後「昭和レトロ」「古本屋アルバイト」「バックパッカー」と着実に楽しそうな「非リア」生活を送っておられる。

 ひそかな人生の「女師匠」として、尊敬申し上げている。


 (続く→こちら




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