イップスというものの怖ろしさを教えてくれたのは、ウィンブルドンのある試合であった。
前回(→こちら)語ったが、「イップス」というのは単に「メンタルが弱い」からなるものではない。
これは中村計さんの『歓声から遠く離れて―悲運のアスリートたち―』という本でも書かれていることである。
イップスの原因は様々あって今だ「これ」という対策がないというのが現状らしいが、そのことを痛感させられた試合があった。
それが、1996年のウィンブルドン準決勝。
この年のウィンブルドンは度重なる雨と、トップシードの早期敗退で、大荒れになった大会で記憶される。
アンドレ・アガシ、マイケル・チャン、エフゲニー・カフェルニコフ、ジム・クーリエといった強豪が1回戦で不覚を取り、優勝経験のあるミヒャエル・シュティヒは4回戦で消えた。
過去2回決勝進出のゴーラン・イバニセビッチ、ウィンブルドン連覇中で、芝の絶対王者であるピート・サンプラスすらも準々決勝で敗れるという波乱の連続。
なんといっても、ベスト4に残ったトップ選手が第14シードのトッド・マーチンだけだったというのだから、その荒れっぷりがわかろうというもの。
ちなみに残る3人はリカルド・クライチェク、マラビーヤ・ワシントン、ジェイソン・ストルテンバーグ。
玄人のテニスファンとしては、ここでストルテンバーグの名前が出てくるのが味である。
渋すぎる。もし優勝してたら、申し訳ないけど笑っちゃったろうなあ。
ちなみに実力者のはずのクライチェクがノーシードだったのは
「芝で実績がないから」
という大会側の独自判断。
ウィンブルドンは昔、こういう手前勝手なことをやっていたのです。
伝統を楯に、自分たちの好みでなかったり集客力のない選手をハブしてたわけだ。老舗のイヤなところ。
先に結果を言ってしまうと、クライチェクはこの大会で見事に優勝。
ディフェンディング・チャンピオンのサンプラスを破っての栄冠だから、文句のつけようもない。
ざまあみろウィンブルドンと、リカルドは知らんが、私は思ったものだ。
それはともかく、このような流れになれば、ノーシードの選手たちにも「もしかしたら」との色気が出てくるのは想像に難くない。
特にオーストラリアン・オープンで準優勝の経験もあるマーチンは、ねらっていただろう。
むかえた準決勝、マーチン対ワシントン戦。
この試合もまた、ご多分にもれず雨に悩まされる。
いいところで何度も降雨サスペンデッドに見舞われてイライラしたが、試合の方はフルセットにもつれこむ熱戦となった。
1991年優勝のシュティヒを破る大殊勲をあげたワシントンだったが、ここは地力で勝るマーチンが抜け出した。
最終セットは一気の加速で、5-1とリードを奪う。
男子のテニスで、芝のコートで、サービスを2ブレークアップ。
普通に考えれば、試合はお終いである。
ましてや、そこにいるのはビッグサーバーのマーチンだ。
なら、あとはチャチャッとエースを何本か決めれば、夢のウィンブルドン決勝である。
波乱はあったが、クライチェク対マーチンなら、それなりにファイナルの形になったかな、なんて考えていたところ事件が起こった。
マーチンのサービング・フォー・ザ・マッチ。
たしかスコアは30-15かなんかで、あとひとつでマッチポイントというイーシャンテンの状態。
どう見ても、勝利へあと一歩のトッド・マーチン。
だれもが、あと数分で試合が終わると確信していたが、ここからマーチンの運命は大きく揺れ動くことになるのである。
(続く→こちら)