(前回)に続いてアレックス・ベロス『フチボウ 美しきブラジルの蹴球』を読む。
優勝を逃した1950年ブラジルW杯の結果を受け、その悲しみのあまり、
「こんなん、ホンマのワールドカップとちがう!」
とばかりに、映像を勝手に編集し、あたかもブラジルがウルグアイを破って優勝したかのように作りかえてしまったジャーナリストのジョアン・ルイス。
というと、「なにやってんだか」と失笑する人もいるかもしれないが、日本でも、いわゆる「架空戦記モノ」の定番といえば、
「大東亜戦争で、日本がアメリカをこてんぱんにやっつける」
こんな「言いたいことあるんやったら、口で言えよ」とつっこみたくなるような小説が、それこそ星の数ほど売られているのだから、我々にブラジル人のことを、とやかくいう資格などありはしない。
かくのごとく、「マラカナンの悲劇」は創作関係にも大いなる刺激を与えるようで、中にはタイムトラベルもののSF小説まであるらしい。
内容的には、「マラカナンの悲劇」を防ごうとタイムマシンで過去に戻った男が主人公のもの。
マラカナンで、まさにギジャの決勝ゴールを防ごうと声を出したら、それに気を取られたキーパーの横をすり抜けてボールがゴールに。
そう、まさにあの悲劇の本当の原因は、悲劇を防ごうとした主人公だったのだ。
まあ、タイムトラベルものとしてはよくある展開だが、きっとブラジル人はまともに読めないんだろう。
こうして様々な物語でもって、悲劇の傷をなだめようとするブラジル人だが、ひとつ拍子抜けなのは「加害者」であるウルグアイの態度。
ブラジル人からすれば、100年は癒えないトラウマを食らわされた宿敵であり、ウルグアイ人にもよく、
「おい、あのときは、よくもやってくれたものだな!」
そんな風にからむのだという。
どっこい、そのときのウルグアイ人の反応というのが、
「え? なんスか、それ?」
キョトンとした目で、なんのこっちゃわかってない。
そこでブラジル人が、これこれこういうわけや! と説明すると、ようやっと理解できたウルグアイ人は、あきれたように「あー」というと、続けて出てくる言葉が、
「そんな昔の話、覚えてへんがな」
ここでブラジル人はスココーンと、コケそうになるのだという。
お、お、お、おぼえてないやとおおおおおお!!!!!
こっちは国が滅ぶか、というくらいのダメージを受けたあの悲劇が、おどれらにとっては「おぼえてない」の一言かい! どういうこっちゃあああ!!!!
もう、ブラジル人大暴れ。
そらまあ、彼らからしたら「なんでやあ!」といいたくもなるが、ウルグアイ人からすると
「いつの話やねん」
となる気持ちもわかる。というか、それが普通だよな。
嗚呼、そうなのである。師匠と弟子、先生と生徒、宗主国と植民地、いじめっ子といじめられっ子、先輩と後輩、金持ちと貧乏人。
なんでもいいけど、おおよそ上下関係がある中での心のしこりというのは、勝者と敗者、加害者と被害者、支配者と被支配者などなど「下位者」にとってはぬぐいされない記憶だが、「上位者」にとっては数多い過去の一つ、ワン・オブ・ゼムにすぎないのだ。
勝ったウルグアイからしたら、昔の栄光はそれはそれであり、ブラジル人の気持ちなど理解できるはずもない。
日米関係を見れば分かりやすいが、片方はもう、言いたいことは山ほどあれど、勝ったほうはどこまでいっても「知らんがな」なのである。
人生というのは、すれちがいの連続。
まあ、そんなもんだよねえ、とも思うが、きっと次のブラジル大会でも、この話はさんざんぱら蒸し返されるんであろう。
たかがサッカーだが、されどサッカーなんであるなあ。
選手は、プレッシャーに耐えられるんだろうか。大変そうである。